「……お母さんに、会ったんですか」
「ああ」
エリナは扉のそばに立ったまま、封筒を見ていた。封筒が、男の指の間で小さく動いた。宛名には、勇者様とも、王国の名も書かれていない。ただ、エリナへ、とあった。
「人違いじゃねえな」
頷こうとして、顎を動かしたところが痛んだ。エリナは唇を結んだ。男の目が腫れた頬へ向き、それから、襟の上に覗いた黒い筋を通った。追い出される前に言わなければと思った。
「そこに、置いてください」
男が、庇の下の木箱を見た。
「近づかないで。これ、魔王の呪いだって……私がいると、魔物が……」
「そういう噂は聞いた、自分でもそう思ってるのか?」
「それは……」
「じゃあ、気にしねえ、どうせ噂だろ」
男は扉の近くに置いてあった木箱へ封筒を置いた。手が離れてから、エリナは右手でそれを取り上げた。手にした封筒を見る。封は擦れていたが、破られた跡はなかった。母が渡したままの形で、自分の手へ届いたのだと分かった。
「返事を、持って帰るんですか」
「頼まれちゃいねえよ、必要なら持って行くぞ、金はもらうが」
「……そうですか」
ほっとしたあとで、胸が痛んだ。すぐ返事を書けと言われずに済んだことで、安心してしまった。母は、知っているのだろうか。負けたことも、腕のことも、町で何と言われているのかも。封を切れば、知りたくなかったことまで書かれているかもしれなかった。
右手で持った封筒の端に指をかけ、やめた。小さく鳴った紙を、もう一度撫でる。男は見ていても、読まないのかとは言わなかった。
「届いたとだけ……もし、また会ったら」
「俺みたいな怪しいおっさんより、自分で伝えた方が母親は喜ぶだろ」
本当にその通りだ、エリナは少し笑って答えた。
「帰れませんよ」
男が黙ったので、エリナは続けようとした。けれど、何から説明すればよいのか分からない。指の力が緩んで封筒が傾き、下に封筒が落ちた。つい、左腕で取ろうとしたが、布の中に収まったままだった。
男が少し身をかがめた。伸びてきた手にエリナが身構えると、その手は途中で止まった。エリナが右腕で封筒を拾った。
「そっちの腕は?」
「……動きません」
「魔王にやられてからか」
頷くと、男の目が、腕を支える布の結び目へ落ちた。擦り切れたところを重ねて結んである。ほどけたら、また歯で端を押さえて結び直さなければならない。
「右は、使えますから」
それだけは先に言った。男は何も言わず、腰の水筒を木箱へ置いた。栓を外し、倒れないところへ寄せる。
「飲めるか」
エリナは手紙を木箱の上へ置き、水筒を取った。口をつけると、切れたところへ水が触れた。顔を顰めたのを見て、男の眉が動いた。男が周りを見ながら、話しかける。
「お前、こんなところで寝泊まりしてんのか」
「いつもは違います」
「いつもはどうしてんだ」
「……誰かの家を借りてます」
「貸してくれるとこなんてあるのか?」
「……勝手に」
「……寝心地いいだろうな」
「……少しスッとしますね」
エリナは久しぶりに軽口ができて、心を軽くできた。しかし、その男はどこか遠くを見て何かを思い出すように呟いていた。
「今――――か」
「? 何ですか?」
途切れ途切れで、よく聞こえなかった。どうやらエリナに話しかけたと言うより、つい出てしまった言葉のようだった。エリナは気にしないことにした。
「気にすんな。遠い昔のことを思い出しただけだ」
「……今、かっこつけました?」
「お前、そういうのは黙って流せよ」
「『お前』も、流したほうがいいですか?」
「……すまんかった」
つい、冗談を口にしてしまった。男を怒らせなかっただろうか。エリナは相手の顔を確かめていた。
会話をしてくれる相手と会えて嬉しかったからか、初対面だが、少し距離感を間違えたと思った。
男は気にしていないようで、エリナは安心した。男は身を起こすと、通りのほうへ目を向けた。
「さっき、向こうでお前のことを聞いた。行き先なら知ってるって奴が何人もいたよ」
エリナは水筒から口を離した。エリナの行き先を皆が知っている。そのことをどう説明しようかと迷っていると、男が息を吐いた。
「人気者だな」
「……全然、嬉しくないし、面白くないし、お前って言った」
「……すまんかった」
通りの向こうで、店じまいの戸板が立てられた。乾いた木の音が続き、薄暗い道を、荷車が一台、音を立てて通り過ぎた。
いつもはその音で誰か来たかもしれないと怯えていたが、今は目の前の男の方が気になった。
「ちょっと……」
「なんだ」
「名前……知らない人怖いから……」
「やどかり」
エリナは思わず男の横顔を見た。
「……何それ」
「名前だよ」
「本名……?」
「さあな、どっちでもいいだろ」
「……怪しい」
「でもこの名前で十年ぐらいは生きてるぞ」
「やっぱり本名じゃないじゃん……」
エリナはほんの少し、笑ってしまった。切れた唇が痛んだが、まあどうでもいいか、とそれ以上は聞かなかった。
久しぶりに笑ったからか、少しふらついてしまった。
「きつそうだな、座っとけ」
ふらついていたエリナをやどかりは壁際へ座らせ、聖剣をすぐ隣へ置いた。外に残した荷物と、木箱に置いていた手紙を運び入れてから扉を閉め、荷箱を引き寄せてつっかえにする。それから大きな布をエリナの肩へかけ、余る端を膝へ広げた。その上へ手紙を載せると、やどかりも向かいに腰を下ろした。
「ありがとう、手紙は受け取ったけど帰らないの?」
「もともと手紙はついでだ、お前に用があってな」
「やどかりさんが、私に用?」
やどかりは、濡れた袖口を絞っていた手を止めた。
「俺は魔王を殺しに行く。話を聞かせてくれ」
エリナは水筒を見下ろした。
エリナの指が、水筒の胴を強く押した。倉庫の床が、魔王城の石床に似ていることに気づいた。冷たさも、湿った匂いもまるで違うのに、手をついた場所から、あのときの感覚が這い上がってくる。
「……無理だよ」
「そうか」
「私、戦ったんだよ」
「ああ」
「本当に、何もできなかった。練習したことも、旅の途中で覚えたことも……全部、役に立たなくて」
やどかりは遮らなかった。その沈黙に促されるように、エリナは脇に置かれた聖剣へ目を落とした。
「聖剣にもヒビが入っちゃった。みんな、私ならできるって言ったのに……私も、少しは、できると思ってたのに」
何度も、修理できないかと頼んだ。答えを聞く前から、相手の顔で分かるようになっていた。
「……勇者なのに」
エリナは水筒を握ったまま、男を見た。
「魔王を倒すのは諦めたのか?」
エリナは水を一口飲んだ。ぬるくなっていたが、乾いていた喉を通ると、少し息がしやすくなった。
脇には聖剣がある。刃を抜かなくても、どこに亀裂があるか覚えている。諦めたのなら、持ち歩く必要もなかった。宿を出るたびに腰へ戻して、右手だけで振れるようになりたくて、誰もいない道端で練習した朝もあった。
「……諦めたくは、ないよ」
男の顔が、こちらへ向いた。
「でも、負けた。何もできなかった」
「ああ」
「だから、やどかりさんは諦めた方がいいと思う。やどかりさんは勇者じゃないから、無理しなくていいの」
やどかりは、すぐには答えなかった。
「勝てるかは、分からねえ」
「だったら……」
「けど、エリナから話を聞いて対策すれば、勝てるかもしれねえだろ。俺は、行くつもりだ」
次は、勝てるかもしれない。
その考えが浮かんだ途端、エリナは水筒を握り締めた。勝てるなら、頑張らなければ。まだ終わっていないのなら、もう一度、あそこへ行かなければ。
やどかりは自分が行くと言った。それでも、その言葉を聞いた自分だけが、ここに座っていていいとは思えなかった。
「やめて」
思っていたより強い声が出た。やどかりが顔を上げる。
「そういうの……やめてよ」
「そういうの?」
「まだできるとか、次は勝てるとか……期待させるようなこと、言わないで」
やどかりは口を閉じた。
エリナは水筒を膝の脇へ置き、代わりに布を握り締めた。言いたいことを飲み込まずにいようとした。
「最初は、みんなそうだった。頑張れって、あなたなら世界を救えるって……だから私、頑張ったよ」
喉の奥が熱くなった。
「怖かったけど、剣も持った。怪我しても、治ったらまた行った。負けたあとだって……ずっと……」
やどかりの顔が滲んだ。
「なのに、できなかったら、勇者のくせにって。今度は、私が魔物を呼んでるって……私のせいなの……?」
言葉を吐くたびに、胸の奥に引っかかっていたものが裂けていく。
「やどかりさんも、そうなの? もう一回戦わせて、駄目だったら……」
「お前を、もう一度戦わせに来たんじゃねえよ、元々俺一人で行くつもりだ」
エリナは言葉を止めた。やどかりは、まっすぐこちらを見ていた。
「それに、勝てなかったからって、お前を責める気もねえ」
「……勇者なのに、負けたんだよ」
「負けたら、そこまでやってきたことが全部なくなるのか」
「……でも」
「物語の勇者は、途中で一度も負けねえのか?」
エリナは答えなかった。
「逃げたり、泣いたり、間違えたりしたら、その頁から勇者じゃなくなるのかよ」
「……物語なら、最後には勝つから」
「読んでるほうはな」
やどかりは片膝に腕を乗せた。
「中にいる奴には、まだ分かんねえだろ」
通りを行く荷車が、一度止まった。軸の軋みがやむと、倉庫の中は急に静かになった。
「勝った奴しか勇者じゃねえなら、最後の頁まで勇者なんか一人もいないことになる」
エリナは布から指を離した。握っていた部分だけが、深く皺になっていた。
慰められたのかどうか、よく分からなかった。魔王に負けたことは変わらない。それでも、その一度の敗北で、それまで必死に剣を握っていた自分まで消えてしまうわけではないのかもしれなかった。
「……戦うのを辞めても?」
「ああ、休んだっていいし、家に帰ってもいい」
「勇者なのに?」
「勇者は飯食っちゃいけねえのか?」
「そんなこと……」
「寝るのは?」
「……いいと思う」
「親に会うのは?」
エリナは顔を伏せた。膝へかけた布の端を握ると、首の下で服が擦れた。
「……会いたい。でも、傷が治っても、村に噂が届いてたら……」
父と母の顔を思い浮かべようとして、街道で向けられた顔が先に浮かんだ。口にしかけた言葉を飲み込み、布の皺へ目を落とす。
やどかりはエリナの手元を見た。少し間を置いてから、口を開いた。
「なあ、エリナ、お前は何がしたい?」