十日目の夕方、エリナは三枚の紙を並べた。
中庭を訪ねてきた人の名前は、最初の一枚に収まらなくなっていた。書き足すたびに嬉しかったその紙を、今日はミアと一緒に、役目ごとに分け直している。
「こちらは、王都で準備を手伝ってくださる方ですね」
ミアが、一枚目を少し離した。
天幕を縫う女、食材を届ける商人、城まで荷を運ぶ男。ここにいる人たちがいなければ、出発の支度はできなかった。
けれど、その名前を遠征に行く者の欄へ写すことはできない。
「途中の町まで運んでくださる方は、こっちに」
「うん」
エリナは別の紙を寄せた。
最後に残った名簿を、テオが上から確かめた。
「魔王城まで同行を希望している人は、二十七人です。返事を待っている人は含めていません」
エリナは頷いた。
それでも、数え間違いではないかと、目で名前を追った。
ベルタがいる。店の相談がついて、ここに名前を置いてくれた。荷を運ぶ人と治療を手伝う人の名が、その下へ続く。
「この中で、戦える人は」
「前に出られると言ったのは、十一人です」
テオが答え、本人から聞いたことを書き留めた欄を示した。
エリナは、頷くまでに少し時間がかかった。
中庭は賑やかになった。毎日誰かが来て、皆が何かをしてくれた。だから、前へ進んでいると思っていた。
実際に、進んでいるのだと思う。
それなのに、魔物の群れへ向かって置ける名前は、これだけだった。
「……手伝ってくれる人は、こんなにいるのに」
言いかけて、エリナはベルタの名前を見た。隣には、炊事を引き受けると書いてある。その人に食べさせてもらった夕食の温かさを、まだ覚えていた。
ここに並んだ仕事は、どれも必要だった。前へ立つ者が足りないからといって、その欄から名前を移すことはできなかった。
「軍の方の返事も、聞いてみましょう」
ミアが紙を重ねず、三枚のまま揃えた。
エリナは十一人の名を見た。ようやく来てくれた人たちなのに、足りないと思ってしまうことが、申し訳なかった。
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軍の申し出も、エリナが想像していたほどは増えていなかった。
翌日、城で渡された紙には、希望を届け出た者が三十六名とあった。しかも、全員を動かせると決まったわけではない。交代する者のいない持ち場もあるという。
「現状では、遠征は認められぬ」
国王は言った。
エリナは、卓の下で手を握った。
「……はい」
「必要な役目を減らして数を合わせれば、前に話した備えが崩れる。ここは変えられぬ」
国王の指が地図へ触れた。
エリナも、その場所を知っていた。敵が来たとき、正面で受ける者と、横を守る者が必要になる。少数で押し込めば、そのどちらかがいなくなる。
「もう少し、募集を続けてもいいですか」
「続ける場は残そう。だが、待てば集まると決まったわけではない」
エリナは顔を上げた。
「兵士の方たちは、何て……」
聞きかけて、止まった。
断る理由を一人ずつ調べてもらいたいわけではなかった。それでは、断りにくくしないでほしいと頼んだ意味がなくなる。
「私たちの説明で、分からないことがあるんでしょうか」
国王は、軍の指揮官を見た。
男は少し考え、卓へ手を置いた。
「危険な遠征です。家族と離れたくない者も、ここを守りたい者もおります。説明を増やせば変わる話ばかりではありません」
「はい」
「それと、勇者殿についていくことに、不安を口にする者もおります」
エリナは、喉が狭くなるのを感じた。
弱いからだろうか。一度負けたからだろうか。
尋ねるより先に、その二つが浮かんだ。
「……どういう、不安ですか」
「私からまとめて伝えるより、本人と話す方がよいでしょう。話してもよいと言っている者に、声をかけます」
エリナは頷いた。
椅子を引く音が、いつもより大きく聞こえた。
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午後、城の一室に、数人の兵士が集まった。
遠征について話を聞いてもよいと答えた者たちだった。国王は、今日は参加の返事を求める場ではないと告げた。
最初に口を開いた兵士は、レオンと名乗った。
普段は数人の兵をまとめていると、指揮官が紹介した。三十歳にはまだ届かないくらいに見えた。右手に古い傷がある。
「勇者殿が帰ってきたときの姿を、私も見ています」
エリナの右手が、剣帯の端に結んだ紐へ触れた。
痩せた腰に合わせて、何度も締め直した帯だった。
「……ひどかったですよね」
「立っているのが不思議なくらいでした」
レオンは、すぐには言葉を続けなかった。
「自分も、あのようになって戻るかもしれません。元の務めができなくなったとき、どうなるのでしょうか」
エリナは口を開きかけた。
治療してもらえると答えようとして、国王を見た。治療が終わっても、元どおりになるとは限らない。自分の腕も、長く動かなかった。
「それには、私が答える」
国王は、卓の上の紙を手元へ寄せた。
「負傷して戻った者の治療は、国で引き受ける。ただ、以前と同じ務めに戻れるか、そのあとの仕事を何にするかは、今、全員へ同じ答えを出せぬ」
レオンは黙って聞いていた。
「治療のあとも、暮らしの相談を受ける者を定める。私にも、その記録を届けさせる」
国王は、担当する者の名を指揮官へ確かめた。
給金を家族へ渡す手続きについては、脇にいた男が紙を配った。受け取った兵士が、届け先の欄について尋ねた。
エリナは、そのやり取りを聞いた。自分が来てほしいと頼んだあとにも、決めなければならないことがある。その問いに、頑張りますとは答えられなかった。
「前の持ち場は、誰が守るのですか」
別の兵士が尋ねた。
「交代を置く。引き継ぐ者が決まらぬうちに、持ち場を離れさせることはない」
指揮官が答えた。
国王は、兵士たちへ顔を向けた。
「食料も、治療を受ける場所も、帰る道も、揃わぬまま出発はさせぬ。人が集まっただけで、遠征を認めるつもりはない」
紙へ目を落としていたレオンが、顔を上げた。
「魔王を倒せなかった場合も、戻るのですね」
「そうだ。軍を出す以上、進ませるか、退かせるかを判断する責任もある」
レオンは小さく頷いた。
それから、配られた紙を折って、懐へ入れた。
「持ち帰って、考えさせてください」
エリナも頷いた。
来てくれるのかと、続けて聞くことはしなかった。
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質問が途切れたあと、端に座っていた男が、エリナへ声をかけた。
「勇者殿に、聞いてもよろしいでしょうか」
「はい」
「なぜ、今、もう一度行くのですか」
エリナは背を伸ばした。
「父と母のところへ帰って、また一緒に暮らしたいからです」
男は少し眉を寄せた。
「今なら、帰れるのではありませんか。傷も、ようやく治ったと聞きました」
「はい。でも、帰ってからも、魔物が来るのを怖がって暮らすのは嫌なんです」
「私も、魔王がいなくなればよいと思っています」
男は答えた。
「ただ、遠征で死ぬかもしれないと考えると、今の持ち場を離れる決心がつきません。残れば、家族の近くにいられますから」
「……そうですよね」
エリナは頷いた。
父と母のそばにいたいと思うときには、食堂の匂いや、食器を洗う音まで浮かんでくる。この人にも、離れたくない毎日がある。
「それでも、私は……」
来てほしい。
そう続けようとして、息が詰まった。
家族のそばにいたいと言った人に、そこを離れて、自分と一緒に来てほしいと頼もうとしている。
男は、エリナを見て待っていた。エリナは口を開きかけ、また閉じた。
「……すみません。もう少し、話したいことがあるんです。でも、今は、うまく言えなくて」
エリナは、膝の上で握っていた手をほどいた。
「また、話を聞いてもらえますか」
「はい。私も、もう少し考えます」
エリナは頭を下げた。
もう一度話せると分かって、少し息ができた。それでも、男の言った家族という言葉は、部屋を出てからも離れなかった。