宿へ戻る道で、やどかりは何も聞かなかった。
エリナも黙って歩いた。隣のテオが、道端の壊れた手押し車に目を向け、ミアが日陰へ寄って水を飲むよう勧めた。
店先では、夕食の支度が始まっていた。窓から炒め物の匂いが流れ、母親に呼ばれた子供が、まだ遊びたいと足を止めている。
エリナは、その声の方へ顔を向けた。
帰って、それからも暮らしたい。テオの工房で話した気持ちは、今も変わっていなかった。けれど、今日の兵士にも、ここで続けたい暮らしがある。その人へ遠征に来てほしいと頼む言葉を、帰り道でも探していた。
「……帰ったら、何する?」
突然尋ねたので、テオがこちらを見た。
「どこへですか」
「魔王を倒して、帰ったら」
テオは少し考えた。
「工房を開けます。留守の間に壊れた物が、溜まっているでしょうから」
「働くんだ」
「それはそうでしょう」
言ってから、テオは眉を寄せた。
「その前に、掃除ですね。誰がどこへ何を置いたか、分かりませんし」
「置き場所、すごく気にするもんね」
「必要な物が必要なときに出てこないのは困ります」
いつもの返事だった。
エリナは少し笑い、ミアを見た。
「私は、町へ顔を出したいです。引き継いでもらった患者さんたちが、どうしているか」
ミアは、水筒の蓋を閉めた。
「それから、休みたいですね。朝、起こされるまで寝てみたいです」
「起こされるんだ」
「誰か、来ると思うので」
二人で笑った。
やどかりへ顔を向けると、男は先に口を開いた。
「俺は、うまい酒」
「それ、帰る前も飲むよね」
「帰ったあとも飲む」
エリナは呆れて、少し笑った。
工房を開け、患者の顔を見て、酒を飲む。そのどれもが、遠征に来れば失うかもしれないものだった。三人は、それを知って一緒に歩いてくれている。
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中庭へ寄ると、ベルタが翌日の仕入れについて相談していた。
エリナたちを見るなり、食べていくのかと尋ねる。テオが人数を数え始めるより先に、やどかりが食うと答えた。
「じゃあ、そこの布を畳んでから座りな」
誰も、勇者様にはさせられないとは言わなかった。
エリナは椅子の上の布を取り、ミアと端を合わせた。隣では鍛冶屋が、昨日届けた金具の数を確かめている。ダンは荷車の縄を締め直し、運び先を聞いていた。
顔を知っている人が増えていた。
その中には、遠征へ来ない人もいた。
「ベルタさん、帰ってきたら、またお店ですか」
エリナが聞くと、女は匙を持ったまま振り返った。
「そうだよ。留守を頼んだままにはできないからね」
鍋へ視線を戻し、味を確かめる。
「戻ったら、最初の一日は客の方に座るつもりだけど。あいつが、私のいない間に何を覚えたか、食べてやらないと」
その顔が楽しそうで、エリナは笑った。
「私は、お父さんの料理が食べたいです」
言葉は、考えるより先に出た。
「うちのお父さん、話しながら作るから、ときどき焦がすんです。でも、おいしくて。私がつまみ食いすると、お母さんに見つかって」
包丁を持つ父の背中が浮かんだ。
窓際の席を拭く母が、こちらを見なくても、また食べたでしょうと言う。
そのときは、どうして分かるのかと、いつも不思議だった。
「……また、怒られたいです」
笑おうとして、声が少し揺れた。
ベルタは、何も言わずに器を置いた。
「それから、店を手伝って。雨の日はお客さんが少ないから、明日の仕込みをして」
エリナは、言葉を続けた。
「一日だけじゃなくて。その次の日も、そうしていたいです」
エリナは、中庭の方を見た。天幕を畳む人と、金具を箱へしまう人がいた。工房で話したときには、まだ知らなかった顔だった。
「皆にも、そうしていてほしい。ミアが治した人にも、テオの町の人にも、ここの人にも。明日も、ちゃんと仕事へ行ってほしい」
やどかりが杯を卓へ置いた。
「じゃあ、それをあいつにも話せばいいだろ」
「……そのあとで、来てほしいって頼むことになる」
エリナは昼間の兵士を思い出した。家族と離れたくないと言った人だった。
「あの人も、帰る場所を守りたいんだよね。ここに残って守る方を選ぶかもしれない。それなのに、私の行きたい方へ来てって、頼むんだよ」
断られても、その人を責めるつもりはなかった。それでも、お願いを聞いたあとで迷う顔を、自分の言葉で作ることになる。
テオが匙を置いた。
「来てほしいのでしょう」
「来てほしい」
エリナは顔を上げた。
「工房を出るかどうかは、僕が決めました。今日の人にも、その人の返事があります。でも、あなたが何を頼みたいのかは、あなたにしか話せません」
昼間の兵士は、エリナの返事を待っていた。来られるとも、来られないとも決めずに、話を聞こうとしていた。
「……一緒に、戦ってほしい」
言うと、怖かった。
その言葉で、誰かが危険な場所へ来るかもしれない。
けれど、何をしてほしいのか隠したまま、手を差し伸べてもらうこともできなかった。
「私たち四人では、届かないから」
ミアが頷いた。
「そのお願いを聞いてから、皆さんが決められるようにしましょう」
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翌朝、エリナは国王へ面会を求めた。
城で質問した兵士へ、返事をしたい。それだけでなく、町の人にも、自分がなぜ行こうとしているのかを話したいと伝えた。
「人を集めて、話すのか」
国王が尋ねた。
「はい。聞きたい人に、来てもらえたら」
国王は、少し考えた。
「その場で名を書かせることはせぬ。話を聞いて帰ったあと、考える時間を置く。それでよいな」
「はい」
エリナは頷いた。
国王は彼女を見たまま、続けた。
「お前の言葉を聞いても、来ぬ者はいる」
「分かっています」
怖くないと言えば嘘だった。
話し終えたあと、誰も何も言わずに帰ってしまうかもしれない。その光景を思い浮かべると、手が冷たくなった。
「でも、集まってくれた人たちには、私が何をしたいのか、まだちゃんと話していませんでした。どうやって行くかと、断っても大丈夫だってことばかりで」
国王は、机の紙へ一度目をやった。
「私からは、遠征の条件と、国として引き受けることを話す。お前は、お前が頼むことを話せ」
エリナは頭を下げた。
部屋を出るとき、前に閉じられた門のことを思い出した。
あのときは、聞いてもらうことさえできなかった。
今は、その先で何を話すかを、自分が決めなければならなかった。
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その夜、エリナは宿の卓へ紙を広げた。
『皆さんのお力を』と書き、しばらく見つめたあとで線を引いた。
「お城の人みたいですね」
テオが横から言った。
「変かな」
「普段、言わないでしょう」
エリナは鉛筆を置いた。
立派に話そうとすると、どこかで聞いた言葉になる。そこには、自分の父が焦がした料理も、ミアの眠りたい朝も、テオの散らかった工房も入ってこなかった。
「……何から言えばいいんだろう」
やどかりが、紙の端を指で叩いた。
「一番、言いたくねえことは、隠したまま頼むつもりか」
言ってから、やどかりの指が紙の端で止まった。エリナが見上げると、男は口を結び、先に目を逸らした。
エリナは少し考えた。
怖いということは、もう話した。負けたことも、皆が知っている。
それでも、まだ口にすると胸が痛むことがあった。
エリナは紙へ顔を戻した。
テオは覗き込まず、灯りを少し彼女の側へ寄せた。
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話をする場所には、中庭の外の広場が選ばれた。
出入りする道を塞がないよう、机を端へ寄せる。聞きに来た者が遠征に参加すると受け取られないよう、名簿を置く机は出さなかった。
人は、少しずつ集まった。
城で質問した兵士がいた。少し離れたところに、レオンもいる。ベルタは仕事の合間に来たらしく、袖に粉がついていた。
知らない顔も多かった。
腕を組んだ者、離れた壁際に立つ者。こちらを見て何か囁く人がいて、エリナは一度だけ目を伏せた。
「少し、待ってもらいますか」
隣でテオが尋ねた。
エリナは、手の中の杯へ目を落とした。まだ水が少し残っていた。飲み干してから、顔を上げた。
「……ううん。大丈夫」
一度、ゆっくり息を吸った。
「いってくる」
テオは頷いた。
ミアが、飲み終えた杯を受け取った。やどかりは先へ行かず、彼女が歩き出すのを待った。
先に前へ出た国王は、遠征に必要な備えと、国が引き受けることを話した。問いが上がればその人を見て答え、まだ定まらぬことは指揮官に確かめさせた。後ろの人にも声が届くよう、途中で立つ位置を変えた。
「かつて私は、討伐への復帰が難しいと判断してエリナへの支援を止め、その後の暮らしを確かめぬまま、面会も断った。あの判断をしたのは私だ」
国王の視線が、前に並ぶ兵士から、広場の端に立つ町の者へ移った。腕を組んだままの人も、黙って聞いていた。
「町の守りと暮らしを保ち、行く者の支度を整える。兵を出す以上、その備えは私の務めだ。戦えなくなって戻った者も、そこで責任を終わらせることはしない」
国王は、踏み台の脇にいるエリナを見た。
「そのうえで、もう一度魔王へ挑みたいと願う者がいる。ここからは、この娘の話を聞いてほしい」
やがて、エリナの名が呼ばれた。
踏み台へ上がると、思っていたより人の顔がよく見えた。
用意した紙を開いたが、指が震えて文字が揺れた。
読み上げようとして、やめた。
ベルタがいた。レオンがいた。
食事を用意してくれた人も、まだ返事を待っている人も、こちらを見ていた。
初めて見る人にも、帰る家があるのだろうと思った。
エリナは紙を下ろした。
格好よく始めるための言葉は、とうとう見つからなかった。
だから、昨日、一番言いたくないと思ったことから話した。
「……私には、魔王を倒せませんでした」
広場の話し声が止まった。
エリナは顔を上げたまま、続けた。
「今も、一人では倒せません。仲間が三人できたけれど、四人では魔物の群れと戦い続けることも、できません」
誰かが姿勢を変えた。
エリナは、その人から目を逸らさなかった。
「それでも、私は、もう一度行きたいです」
自分の声が、今度は足元へ落ちなかった。
「今日は、そのために――皆さんに、お願いをしに来ました」