お願いをしに来ました、と言ったあと、エリナは息を吸った。
レオンが聞いていた。少し離れたところに、家族のそばに残りたいと話した兵士もいた。エリナはその人たちを見てから、口を開いた。
「私の家は、食堂をやっています。」
「父が料理を作って、母がお客さんの相手をして、私も、お皿を運んだり、洗ったりしていました。忙しい日は、洗っても洗っても、次のお皿が来るんです」
水を吸った袖口が、手首へ貼りつく感触を覚えていた。
「お客さんが来てくれるのは嬉しいのに、母と二人で、まだあるねって。明日は、もう少し少なくてもいいのにって、思ったこともありました」
前の方で、ベルタの口元がわずかに緩んだ。
「そのときは、次の日も、同じように店を開けるんだと思っていました」
手の中の紙が、風で鳴った。
エリナは端を押さえた。そこに書いた言葉を探す代わりに、続きを話した。
「勇者に選ばれて、王都で剣を教わって、旅に出ました。仲間を探していいことも、知っていました。でも、一緒に来てくださいとは、なかなか言えませんでした」
助けてもらい、礼を言って別れた人たちの顔が浮かんだ。
「皆が、私ならできると言ってくれました。聖剣も光ったから選ばれたんだって。だから、できないことがあっても、もっと頑張ればいいんだと思っていました。私がもっと強くなれば、何とかなるって」
剣を握っていた右手で、紙の角を挟み直した。
「でも、負けました。帰ってきたときには、左腕が動かなくなっていました」
レオンが聞いていた。あの姿を見たと言った人だった。
「左腕に黒い痕が出て、呪われていると言われました。私がいると魔物が来るから、出ていけって。何度も言われるうちに、父と母のところへ帰るのも、怖くなりました」
家の戸を思い浮かべるだけなら、何度でもできた。
その前に立つ自分を思い浮かべると、そこで足が止まっていた。
「あんなに帰りたかったのに。私が帰ったせいで何かあったらと思うと、帰れませんでした」
広場の後ろで、話していた声が止んだ。
「そんな私に、母の手紙を届けてくれた人がいました」
やどかりは、広場の端に立っていた。
目が合うと、いつものように顎を少し上げた。
紙から片手を離した。
母の手紙は、今日は開いていなかった。けれど、その言葉を思い出すのに、紙を見る必要はなかった。
「手紙には、ちゃんと食べていますか、寒いときには上着を着てくださいねって」
あの丸い字が浮かんだ。
「それから……『魔王を倒せなくてもいいです。勇者じゃなくてもいいから、生きて帰ってきてください』って」
最後のところで、声が掠れた。
エリナは口を閉じた。広場の人たちは待っていた。
「父の料理が、食べたくなりました。母に会いたくなりました。帰って、いつもの椅子に座って、今日あったことを話したかった」
目元を拭った。次の言葉が出るまで、少しかかった。
「私は、帰っていいんです。今からでも、帰れます」
息を吐いて、少し吸った。
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「この前、兵士の方にも聞かれました。なぜもう一度行くのかって」
壁際に、その人がいた。
家族のそばにいたいと話したときと同じ顔で、こちらを見ていた。
「帰ったら、次の日も、父や母と暮らしたいからです」
エリナは、男の顔を見たまま話した。
「朝になったら店を開けて、お客さんが来て。忙しかったねって言いながら、ご飯を食べたいです。明日の仕込みをして、明後日のことも考えていたいです」
言うほどに、その場所へ帰りたくなった。
けれど、父が仕入れに出ていく道の先には、旅で見てきた景色が続いていた。
「旅の途中で、畑が小さくなっているのを見ました。去年までは人が住んでいたという家の屋根に、魔物が巣を作っていたこともあります」
窓の奥に、誰もいなかった家だった。
「そこにいた人も、次の日は帰ってくるつもりで、戸を閉めたのかもしれません」
誰が住んでいたのかは、知らなかった。
自分の家ならどうするかと考えたことだけは、今も覚えていた。
「私は、魔物が来なかった日だけ、よかったって眠るのは嫌です。来たら追い払って、怪我をした人を治して、また次の魔物が来るのを待つ。そうしている間に、帰れる家が減っていくのを、もう見ていたくありません」
ミアのそばで治療を待っていた人たち。テオの工房へ道具を持ってきた人たち。名前を聞いた人も、聞けなかった人もいた。
「魔王を倒して、この先も、家で暮らしたいです。旅で会った人たちにも、そうしていてほしいです」
兵士の顔から、その隣の人へ目を移した。
「でも、そのために私たち四人が行くだけでは、足りません。ここまで来る間にも、何度も、ほかの人に助けてもらいました」
エリナは、前に並ぶ兵士たちを見た。
「私たちが魔物と戦っている間に、人を逃がしてくれた衛兵の方がいました。怪我をしたときには、町の人が手当てを手伝ってくれました」
「今度の旅でも、そうした助けが必要なんです。皆さんに、力を貸してほしいです」
言い終えて、エリナは息をついた。
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広場の中ほどで、兵士が片手を上げた。エリナはその人へ顔を向け、頷いた。
「人手が必要なのは、分かった。ただ……俺たちが行けば、魔王に勝てるのか」
「必ず勝てるとは、言えません。でも、私たち四人で魔物の群れと戦い続けたら、魔王のところへ行く前に、力を使い果たしてしまいます」
エリナはその人を見たまま、続けた。
「皆さんが横から来る魔物を止めてくれたら、私は目の前の敵と戦えます。疲れたら、代わってもらえます。皆さんが疲れたときには、私も代われます」
兵士たちの後ろには、荷を運ぶと申し出てくれた人もいた。
「怪我した人を運ぶ人がいれば、その人を守りながら戦えます。食べるものを運んでくれる人がいれば、元気になれます。怪我した時に見てくれる人がいれば、明日も剣を持てます」
「皆さんに、任せたいことがあります。私にも、任せてもらいたいです。どうしたら勝てるかを、一緒に考えて、一緒に戦ってほしいです」
問いをくれた兵士は、黙って聞いていた。
エリナは、少し間を置いて続けた。
「家族のそばにいたいと聞いたとき、私は、来てほしいと言えませんでした」
壁際の兵士へ、もう一度顔を向けた。
「私も、父と母のところへ帰りたいからです。離れるのが嫌だという人に、それでも一緒に来てほしいって、言えませんでした」
兵士は黙って聞いていた。
あの部屋で飲み込んだ言葉が、また喉のところまで上がってきた。
「来てくれた人が、怪我をするかもしれません。前と同じ仕事ができなくなるかもしれない。帰ってこられないかもしれません」
レオンの右手に、古い傷が見えた。
自分の左手も、長い間、皿を持つことさえできなかった。
「それを知っていて、私は、来てほしいと思っています」
紙を握る手に力が入った。
そのまま、顔を上げていた。
言い終えたあと、ようやく息を吐いた。
エリナは、広場に集まった顔を見た。
「魔王を倒して、安心して暮らせるようになったら、皆さんは何をしたいですか」
「私は、父の料理を食べたいです。母と、たくさん話したい。それから、また店を手伝いたいです。ベルタさんのお店にも、食べに行きたい」
ベルタは、目元を指で押さえていた。
「テオには、帰って工房を開けてほしいです。ミアには、治した人が元気になったところを見てほしい。そのあとには、ちゃんと寝てほしいです」
ミアが、困ったように笑った。
「やどかりさんには……お酒を飲みすぎないでほしいです」
男が片眉を上げた。
すぐそばで、小さく笑う声がした。
「でも、帰ってからも、一緒にご飯を食べたいです」
やどかりは、何も言わずに頷いていた。
すぐに答える人はいなかった。
隣に立つ人へ顔を向けた者がいた。俯いていた兵士が、何か思い出したように目を上げた。
「会いたい人や、やってみたいこと、これからも続けたい仕事があると思います。私は、皆さんのことを、まだほとんど知りません」
その顔を、一人ずつ見た。
「終わったら、うちの食堂にも来てください。父の料理を食べながら、今度は皆さんの話を聞かせてください。私が、お皿を運びます」
父が料理を作り、母が客と話している。その間を、皿を持って歩く自分が浮かんだ。
「忙しくなって、洗い物がたくさん溜まったら、母と、また二人で溜息をつくと思います」
エリナは、少し笑った。
「今は、それがしたいです」
「私や皆の帰れる場所が来年も再来年もずっと残っていてほしい。そこへ帰る人も、待っている人も、笑って美味しいご飯が食べれるようにしたい」
目が熱くなった。
広場が滲む前に、一度だけ瞬きをした。
「皆さんと、魔王を倒して、帰りたいです」
紙を持ったまま、頭を下げた。
「どうか、一緒に来てください」
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しばらく、何も聞こえなかった。
顔を上げると、レオンがこちらを見ていた。
彼は両手を胸の前へ上げ、一度、打ち合わせた。
隣の兵士が続いた。
ベルタが手を打ち始めた。その後ろから、広場の奥からも、少しずつ音が重なった。
壁際の兵士は、まだ手を上げていなかった。
考え込んだままの人も、隣の人と何かを話している人もいた。エリナは、その人たちの方へも顔を向け、もう一度、頭を下げた。
ミアが拍手をしていた。テオは、こちらを見てゆっくり頷いた。
やどかりと目が合った。
男は笑っていた。
けれど、その口元は一度、何かを堪えるように歪んだ。エリナが見直す前に、やどかりは、ほかの人たちと同じように、音を重ねた。