踏み台を下りると、喉がからからだった。
ミアが杯を渡してくれた。両手で受け取った水が少し揺れ、エリナはこぼさないよう胸元へ寄せた。
「……喋った」
「聞いていました」
ミアが答えた。
テオは、くしゃくしゃになった紙を見た。
「ほとんど読まなかったですね」
「どこに何を書いたか、分からなくなって」
「昨日、あれだけ直したのに」
エリナは笑った。
笑ったら、涙が一つ落ちた。慌てて袖を上げると、ミアが布を差し出した。
「……来てほしいって、言っちゃった」
広場では、人々がそれぞれに動き始めていた。
すぐ帰る人も、知り合いと話す人もいる。今日その場で名を集める机は、置いていなかった。
「言いましたね」
テオが答えた。
「工房の話まで、するとは思いませんでした」
「……嫌だった?」
「いいえ」
テオは一度、広場へ目をやった。
「閉めたままには、しません」
ミアが、エリナの手から空いた杯を受け取った。
「私も、帰って眠ります。起こされるまでは」
やどかりは踏み台を壁際へ戻していた。エリナは布を下ろし、その手が空くのを待った。
「やどかりさん。さっき、どうしたの?」
「さっき?」
「最後に目が合ったとき。笑ってたけど、泣きそうにも見えたから」
男は台の脚を揃えた。すぐには答えなかった。
「……一緒に飯を食いたいって、お前が言っただろ」
「うん」
「昔も、そう言ってくれた奴がいたんだ」
エリナは聞いていた。町の食卓で、帰る場所は今はないと言った声を覚えていた。
「大事な人?」
「ああ」
やどかりは台から手を離し、少しだけ笑った。
「飯を食うときは必ず俺を待ってたんだ。先に食えって言っても、俺が来るまで待ってやがる」
エリナは、すぐに返事ができなかった。
母の手紙を読んで、また皆でご飯を食べたいと泣いたとき、この人は黙ってそばにいてくれた。あのときも、今話している人のことを思い出していたのだろうか。
「……一緒に食べたかったんだね」
「そう言われたよ」
エリナは、今どこにいるのかを聞きかけ、口を閉じた。
どんな人なのか、もっと知りたかった。でも、やどかりの笑みが消えた横顔を見ていると、すぐには尋ねられなかった。
握っていた布を緩め、少し待ってから声をかけた。
「……帰ったら、うちに来てくれる?」
やどかりが、彼女へ顔を戻した。
「私も、何か作るから」
男は頷いた。
「ああ。何を作ってくれるんだ?」
「……まだ、決めてない」
自分から誘っておいて、と少し恥ずかしくなった。けれど、男の口元が緩むのを見て、エリナも笑った。
エリナは布を畳んだ。
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広場の出口で、家族のそばに残りたいと話していた兵士が待っていた。
エリナが近づくと、彼は軽く頭を下げた。
「返事を、ありがとうございました」
エリナも頭を下げた。
「うまく、答えられたか……」
「なぜ行くのかも、私たちに何をしてほしいのかも、分かりました」
男はそこで言葉を切った。
「私は、まだ決められません」
エリナは頷いた。
残念ではあった。けれど、その返事を間違いにするために話したのではなかった。
「はい」
「家へ帰って、話します。今日聞いたことも」
男は少し迷い、それから尋ねた。
「家族を連れて、説明を聞きに来ても構いませんか。私だけでは、答えられないこともあると思うので」
「もちろんです。分からないことは、私も国王様たちに聞きます」
男の肩が少し下がった。
彼は礼をして、広場を出ていった。
エリナは、その背中を見送った。
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翌朝、エリナが中庭へ着くと、入口に人がいた。
一人ではなかった。二人で告知を読んでいる者と、少し離れて待っている者がいる。昨日見た顔もあれば、初めて見る顔もあった。
まだ机を出していない。
エリナが足を速めると、先頭にいた若い男が、こちらへ顔を向けた。
「あの、昨日の話を、兄から聞いて」
エリナは立ち止まった。
「俺、魔物と戦ったことはないんです。でも、荷車なら扱えます。何日くらい家を空けることになるのか、聞きたくて」
その後ろで、別の男が口を開いた。
「俺は、魔物と戦った経験がある。話が聞きたい」
エリナは、二人の顔を見た。
まだ、来ると決めた人たちではなかった。
けれど、昨日までここにいなかった人たちが、自分の話を聞きに来ていた。
「……はい。順番に、お話しさせてください」
中庭へ入り、テオと机を運んだ。
ミアが椅子を出し、やどかりが入口の人たちへ少し待ってくれと声をかけた。
エリナは紙を広げた。
千人と書いた紙ではなかった。
目の前の人が何をできるのか、何を確かめたいのかを書き留めるための、まだ白い紙だった。
「お待たせしました」
最初の椅子へ座った人に、顔を上げた。
「お名前を、教えてください」
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レオンが中庭へ来たのは、その数日後だった。
エリナが椅子を出すと、彼は礼をして座った。
「遠征への参加を、申し出ました」
エリナは、紙を押さえたまま手を止めた。
レオンは最初に会ったときと同じ、まっすぐな姿勢だった。
「持ち場の引き継ぎが済めば、同行します」
「……来てくれるんですか」
「はい」
それだけ答えてから、レオンは卓へ目を落とした。
「家に帰ってからも、あなたの話を考えていました。魔物を恐れて暮らすのは、私も嫌です」
紙の隅が、風で浮いた。
エリナは押さえ直した。
「怖さがなくなったわけではありません。ただ、帰るための備えも、戻ったあとの治療や相談先も聞けました。そのうえで、自分も力を貸したいと思いました」
レオンは顔を上げた。
エリナは頭を下げた。
ありがとうございますと言う声が、少し詰まった。
「まだ一人、増えるだけですよ」
レオンが言った。
エリナは顔を上げた。
「一人、来てくれるんです」
向かいの椅子を見た。
ここで断られるかもしれないと思っていた人が、今、自分の返事を持って座っている。
「……すごく、嬉しいです」
レオンは目を伏せ、そうですか、と小さく答えた。
立ち上がる前に、次は城の担当者と持ち場の引き継ぎを詰めると告げた。エリナは礼を言い、彼を見送った。
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まだ決められないと言った兵士も、中庭へ来た。
隣には、籠を腕に掛けた女がいた。入口で二人が小さく言葉を交わしてから、兵士がエリナへ顔を向けた。
「先日、家族と来てもよいかと聞いた者です」
「はい。覚えています」
エリナは椅子を二つ出した。
女は腰を下ろしても、籠を膝から離さなかった。中には包まれたパンが見えた。ここで話したあとにも、帰ってすることがあるのだろう。
「妻です」
兵士が紹介すると、女は軽く頭を下げた。
「……あの人、帰ってきてから、ずっと同じ話をするんです」
エリナは兵士を見た。
彼は少し困ったように、目を下げた。
「勇者様も、お父さんとお母さんのところへ帰りたいんだと。食堂の話を、何度も」
女は、籠の持ち手を撫でた。
「私は、行ってほしくありません」
兵士が顔を上げた。
女は彼ではなく、エリナを見ていた。
「魔王がいなくなればいいとは思います。でも、この人が帰らなくなるかもしれないと思うと、行っておいでとは、言えません」
エリナは頷いた。
兵士が口を開きかけたが、女は小さく首を振った。
「止めに来たんじゃないの。昨日、話したでしょう」
そう言ってから、エリナへ向き直った。
「この人が、行きたいと言うから。何を聞いて、そう思ったのか、私も、あなたと話して知りたかったんです」
エリナは、机の上の紙を寄せた。
出発までの準備、決まっている役目、帰るために考えていること。女は一つずつ聞き、ときどき夫の方を見た。
給金を受け取る手続きについては、城の担当者にも来てもらった。エリナが答えられないことがあると、女は急かさず、返事が来るまで椅子で待った。
最後に、兵士がエリナを見た。
「参加を、申し出ようと思います」
その声は、演説を聞いた直後の声より落ち着いていた。
「家族から離れるのは、今も怖いです。でも、あなたが食堂で皿を運んでいるところを、家に帰ってからも、何度も思い浮かべました。私も、妻といつもどおりに暮らしたいんです」
兵士は、一度、隣に座る妻を見た。
「前に出る役目を、私も引き受けたいです」
エリナは胸の前で、一度手を握った。
「……ありがとうございます」
女は、喜んだ顔はしなかった。
けれど立ち上がるとき、夫の肩についた糸屑を取り、籠を持ち直した。
「帰ってきたら、戸棚を直してもらいます。ずっと、後でって言われているので」
兵士が、今週直す、と答えた。
「帰ってきてからでいいのよ」
女が言うと、男は黙った。
それから、分かった、と頷いた。
エリナは二人を見送り、名を聞いて書いた紙へ目を戻した。
まだ決められないと言った人には、帰って直す戸棚があった。
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軍の窓口へも、返事が届き始めていた。
新しい報告にあった希望者は、四十三名。七人増えていたが、その隣には、まだ動かせぬ者がいると書かれていた。
指揮官は、元の持ち場と引き継ぐ者を確かめてから、遠征の名簿へ移すと言った。
話を聞いたうえで、残ると決めた者もいた。
その一人が中庭へ来て、レオンと留守の巡回について話した。遠征へ行く者が増えれば、残る者の仕事も変わる。誰がどの道を知っているか、誰に倉庫の鍵を預けるか。二人は紙を挟んで、何度も確かめていた。
「こっちは、こっちでやっておきます」
帰り際、男はエリナへ言った。
エリナは頭を下げた。
「お願いします」
男を見送ったあと、名簿へ目を戻した。
その人の名前は、遠征へ行く者の欄にはなかった。
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中庭へ来る人は、日ごとに増えていった。
初めは演説を聞いた本人が来た。やがて、話を聞いた家族が来て、仕事仲間が来た。荷を届けに来た商人が帰り道で話したらしく、王都の外から来た者もいた。
エリナは同じ説明を何度もした。
人数だけを聞いて喜ぶことは、もうできなかった。何ができて、どこまで行けて、何を心配しているのか。その話を聞くと、紙の上の一行が、少しずつ長くなった。
ベルタが連れてきた料理人は、到着してすぐ台所を見に行った。
テオの作った金具を持ってきた鍛冶屋は、見習いに持たせた箱を机へ置き、扱い方を説明し始めた。ミアの隣には、別の治療師が座るようになった。やり方の違うところを相談し、使う薬を確かめ合っていた。
「こちらの人は、私がお話を聞きます」
そう言われて、エリナは別の椅子へ向かった。
自分が席を離れても、話は続いた。
演説から二週間が過ぎた午後、城の担当者が、兵士を一人連れてきた。
男の靴には、乾いた泥が残っていた。担当者が机に広げた名簿は、王都の外に駐留する二つの隊から届いたものだった。
「百二十六名が、参加を申し出ています」
エリナは、紙と男の顔を交互に見た。
「そちらでも、話を聞いてくださったんですか」
「城から、遠征の役目と備えについて知らせが来ました。隊でも説明を受けて、家へ持ち帰って考えた者が、申し出ています」
男は、名簿の途中へ指を置いた。
「私も、申し出ました。ここです」
エリナはその名前を読んでから、顔を上げた。
「ありがとうございます」
「ただ、交代する兵が着くまで、持ち場を離れられない者もいます。皆でこちらへ来るのは、もう少し先になります」
担当者が、紙の脇に書かれた日付を確かめた。隣の隊から交代が着く日と、王都へ向かう日が分けて書かれていた。荷車と食料の手配も、その日に合わせているという。
エリナは、もう一度名簿を見た。ここへ来るために待っている人たちと、その人たちを送り出すために動いている人たちがいた。
「残る方にも、ありがとうございますって、伝えてください」
男は頷き、帰ったら皆に話します、と答えた。
その夕方、顔を上げると、中庭の端まで机が並んでいた。
それぞれの机で、誰かが誰かの話を聞いている。
最初の朝、置く場所を何度も変えた水差しは、今は誰かが空になる前に満たしてくれていた。
「エリナさん」
呼ばれて振り向くと、ダンが空いた木箱を持って立っていた。
以前のように、すぐ近くまでは来なかった。
「紙、こっちにも置くか。机が足りねえって」
エリナは箱を見た。
「……はい。お願いします」
男は頷き、ミアの示す場所へ運んだ。
そのあとでミアが、ダンも正式に同行を希望していると教えてくれた。荷を扱う者たちと一緒に、準備を進めているという。
エリナは、男の働いている方を見た。
昔のことが消えたわけではなかった。それでも、今日運んでくれた木箱を、なかったことにはできなかった。
「分かった。ありがとう」
ミアに答え、次の人のための紙を取った。