丘を越えた晩、久しぶりに風が止んだ。
火の粉がまっすぐ上がり、鍋の湯気もあまり流れなかった。エリナはベルタの隣で、固いパンを薄く切っていた。
「もう少し、薄くできるかい」
「できます。濡らした布、借りてもいいですか」
刃を拭き、乾いた皮を割らないように少しずつ動かす。切ったパンを鍋の縁へ並べると、ベルタが感心したように鼻を鳴らした。
「剣を持つより、ずっと慣れた手だね」
「こっちのほうが、得意なんです」
ベルタは大きな匙で鍋を混ぜながら、切れ端を一つエリナの口元へ差し出した。
「なら、味も見とくれ」
熱い汁を吸ったパンは、噛まなくても崩れた。喉へ落ちる前に、干した肉の塩気と、根菜の甘みが広がった。
「おいしいです」
「塩は?」
「あ、ちょうどいいです」
「よし」
器を四つ持って戻ると、やどかりが荷箱に座り、長 脚を投げ出していた。ミアはその前にしゃがみ、男の靴を睨んでいる。
「脱いでください」
「飯の前だぞ」
「歩くときに右を庇っていました」
「小石が入っただけだって」
「では、出してください」
エリナが器を置く間に、やどかりは観念して靴を脱いだ。踵の皮が擦りむけていた。ミアが水を取りに立つと、やどかりは情けない顔で靴をつまみ上げた。
「こいつ、長い付き合いなんだけどなあ」
「靴にも、寿命はありますから」
テオがパンを汁へ沈めながら言った。
「少なくとも、その靴であと何日も歩くのは、かなり無理のあるお願いを靴にしていることになります」
「もう少し頑張ってもらえるだろ」
「自分がおじいちゃんになっても、働きたいならどうぞ」
「それは嫌だな」
エリナは笑い、疲れた腹の筋肉まで痛む。何か言い返そうとしたやどかりも、ミアが戻ってきた途端に口を閉じたので、ますますおかしかった。
少し離れた焚き火では、妻に戸棚の修理を頼まれていた兵士が、別の兵士に、戸が傾いたときの直し方を聞いていた。
蝶番を替えろという者と、家そのものが傾いているのではないかという者がいて、話はなかなかまとまらない。最後には大工を呼べという結論になり、最初からそう言ってくれと男が嘆いた。
「やどかりさんは、家の修理とかできる?」
「できるぞ」
即答だった。
エリナが感心しかけると、テオが器から顔を上げた。
「仕上がりの話も聞いた方がいいですよ」
「俺の信用、低すぎねえか」
「この前、荷箱の蓋を裏返してつけていました」
「あれは開けばよかったんだよ」
「開かなかったので、問題だったんです」
ミアまで笑った。やどかりは匙を持ち上げ、それ以上何も聞こえないという顔で食べ始めた。
火の明かりが、やどかりの頬を照らしていた。無精髭の間に、見慣れた笑い皺がある。倉庫で初めて見たときには、大きくて、何を考えているのか分からない顔だと思った。
今は、少ししょんぼりしているようだった。
「帰ったらさ」
エリナは、匙の先で柔らかくなったパンを崩した。
「やどかりさんに、うちへ来てもらう約束したんだ。ミアもテオも、一緒に来てくれる?」
ミアが顔を上げた。テオも、食べる手を止めた。
「お店へ、ですか」
「うん。お父さんとお母さんに、会ってほしい」
言葉にした途端、台所の狭さを思い出した。四人一緒に入れば、父が鍋を持って振り向くたび、誰かが避けなければならない。母はきっと、手伝うと言うミアを席へ押し戻すだろう。テオの道具を見れば、父は触っていいか聞く前に触るかもしれない。
「……壊されたくないものは、しまっておいてね」
「誰への注意ですか」
「テオさん」
「ご家族の紹介として、かなり不安な始まりですね。」
エリナは笑い、やどかりへ顔を向けた。
「やどかりさんにも、食べてほしいものがあるんだ。肉を煮たやつ。すごく柔らかくて、汁が残るから、最後にパンで」
「ああ」
返事が、少し遠かった。
やどかりの目は器の中へ落ちていた。匙の背で、浮いた小さなパンを押している。エリナは途中で言葉を止めた。
「……嫌い?」
「いや。好きだよ」
男は顔を上げ、いつものように笑った。
「そういうのは、酒にも合う」
「じゃあ、お父さんに頼んでおくね」
火の中で薪が崩れた。
やどかりはそちらを見てから、膝の上の器を持ち直した。
「ああ。楽しみにしとく」
エリナは頷いた。胸の中へ、火のそばとは違う温かさが広がった。
頭の中では、もう家の食卓に皆が座っていた。父が大鍋を置く場所をなくして困り、母が「詰めれば座れるでしょう」と椅子を寄せ、テオが触るなと言われた棚を気にし、ミアが結局は台所へ立ってしまう。その隅で、やどかりが父に酒を勧められて、調子よく何かを言っている。
そんな光景を想像しても、もう「もし帰れたら」とは思わなかった。帰って、そうするのだと自然に考えていた。。
ミアが、何か持っていくなら何がいいでしょう、と聞いた。エリナは慌てて首を振り、母は甘いものが好きだと答えた。
話が焼き菓子へ移ってからも、やどかりの器には、しばらく同じ量の夕食が残っていた。
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魔王城が見えたのは、翌々日の昼だった。
山の切れ目に、黒い塔が立っていた。初めは遠くの岩だと思ったが、道を曲がると、その両側に別の塔が現れた。雲へ突き刺さるような尖塔の下で、幾重にも重なった壁が、斜面そのものを押さえつけている。
エリナは歩きながら息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
左腕に、あのときの痛みがよみがえった。服の上から、傷のあった場所を押さえる。あのとき自分が落とした血は、まだ床に残っているだろうか。
指を動かしてみた。動いた。それでも、何度力を込めても左腕が上がらなかったときの感覚が、肩から離れなかった。
「エリナ」
ミアの手が、肘へ触れた。
振り向くと、彼女は先へ行こうとは言わず、道の脇へ半歩寄った。エリナもそこへ足を移し、列が通る場所を空けた。
盾を背負った兵士が二人の横を通り過ぎる。荷を運ぶ人の靴が土を踏み、その後ろから車輪の軋む音が続いた。
「……ここまで来たんだね」
ミアの顔を見て言うと、ようやく息が吐けた。
テオが立ち止まり、城を眺めたまま口を開いた。
「あの距離だと、今日中に中へ入るのは難しいでしょうね」
遠くから見るより、まだ道は長い。偵察が先へ向かい、後方からは今夜の宿営地を確かめる指示が届いていた。
今すぐあの扉を開ける必要はないのだと分かると、柄を握っていた指から少し力が抜けた。
エリナはもう一度城を見上げた。
「明日も、パン、切れるかな」
「ベルタさんに聞いてみましょう」
ミアが答えた。
テオは少し考えてから、付け加えた。
「僕の分は、厚めでお願いします。汁を吸いすぎる前の方が好きなので」
エリナは笑った。
それから、やどかりの姿を探した。
男は数歩先で、道の真ん中に立っていた。
声をかけると、振り返った。目が合うまでに、ほんの少し時間がかかった。
「行こう」
エリナが言った。
やどかりは城へ目を戻し、それから短く頷いた。
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翌朝、宿営地を発った。城へ近づくほど、魔物は増えた。
外側の壊れた柵の向こうを、幾つもの影が横切った。城門までの道に広がっていた群れを退けるのに、日が傾くまでかかった。使った矢を集める者の後ろで、新しい束が荷車から下ろされた。
エリナたちも一度下がり、次の合図で戻った。
前回は、魔物の姿が消えるのを待ち続けた場所だった。今日は、交代する兵士と肩を触れ合わせながら、その場所を越えた。
城の外壁には、エリナの背丈の何倍もある傷が走っていた。
大きな門扉は片側が傾き、その隙間から中庭が見えた。先に入った隊が左右を確かめ、外と中を行き来する通路を押さえた。その報告を待ってから、エリナたちは門をくぐった。
靴の下で、音が変わった。
土から、石へ。
その響きだけで、エリナの肩が強張った。正面の階段を見た途端、視界の中の人影が消え、そこを一人で上ったときの自分が浮かんだ。
あの階段へ行けば、大きな広間がある。
柱の陰で息を整え、扉の隙間から奥を覗いた。戻る道を確かめたのは、扉を開ける直前だった。
「正面の奥です。前に私が行ったのは」
声に出すと、隣のレオンが頷いた。
前方を調べる兵士が階段へ目を向けた、そのときだった。
「右だ」
やどかりが言った。
エリナは男を見た。
「右の回廊から上がれる。あの階段じゃ、上から来た奴にまとめて押さえられる」
指揮官が足を止め、正面と右側を見比べた。まず両方を確認する、と兵士を分ける。そのやり取りを聞きながら、エリナは右側の壁へ目を凝らした。
崩れた石と、黒ずんだ彫刻が並んでいる。奥へ通じる回廊はあるが、その先は曲がっていて見えなかった。
「そっちに、階段があるの?」
「ああ」
やどかりは、もう右へ身体を向けていた。
テオが、その前へ半歩出た。
「待ってください」
男が足を止めた。
「丘の道も、知っていましたね」
「……それがどうした」
「今の階段は、ここからでは見えません」
中庭に風が吹き込んだ。崩れた壁のどこかで、小石が転がった。
エリナは二人を見比べ、それからもう一度、やどかりの横顔を見た。
「ここにも、来たことがあるの?」
旅をしていた男なのだから、来たことがあってもおかしくはない。そう考えようとした。
けれど、魔王城へ来たことがあるのなら、どうして今まで一度も話してくれなかったのだろう。自分があの扉の向こうで何をされたのか、知っているのに。
やどかりは答えなかった。
右へ調べに行っていた兵士が戻り、回廊の先に上り階段があると報告した。その声が途切れたあとも、男の沈黙は続いた。
「やどかりさん」
エリナが呼ぶと、ようやく目が合った。
焚き火のそばで、父の料理の話をしたときと同じように、男の唇が僅かに動いた。
けれど今度は、笑わなかった。
「……ある」
かすれた声だった。
「俺は、ここに来たことがある」
エリナは次の言葉を待った。
やどかりは、彼女の向こうにある階段を見ていた。剣を握る手の節が、白くなっていた。
「誰と……?」
自分でも、なぜそう聞いたのか分からなかった。
ただ、目の前の男が見ているのは、この城だけではない気がした。
やどかりが、ゆっくりと息を吸った。
その答えが聞こえる前に、城の奥で、何かが笑った。
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笑い声は、階段の上から聞こえた。
大きな声ではなかった。それなのに、石の壁を伝って落ちてくる響きは、鎧の擦れる音や兵士たちの短い応答の間をすり抜け、エリナの耳へはっきり届いた。
胸元へ伸ばしかけた手を、剣の柄へ戻す。隣でレオンが盾を上げ、右の回廊へ向かっていた兵士が足を止めた。
『随分、大勢で来たな』
エリナは息を呑んだ。
初めて聞く声だった。前の時は口を開いていなかった。
『お前が誰かを連れてくるとは、思わなかったよ』
やどかりの肩が、僅かに動いた。
エリナはその動きを見た。自分へ向けられた言葉だと思っていたものが、隣にいる男へ届いたのだと、遅れて分かった。
『久しぶりだな。やどかり』
誰も、すぐには口を開かなかった。
エリナの耳に、後ろから走ってくる伝令の足音だけが大きく聞こえた。指揮官が手を上げ、各隊へその場を保つよう伝える。城の外にも敵がいる。盾を下ろす者はおらず、正面の階段へ向けられた槍も、動かなかった。
「……知ってるの?」
エリナはやどかりを見た。
男の目は階段の上へ向いていた。聞こえていないのかと思って、もう一度呼びかけようとしたとき、その喉が動いた。
「知ってる」
昨日まで何度も聞いた声なのに、ひどく低かった。
「俺が、ここへ一緒に来た奴だ」