正面の広間へ入るまで、やどかりはそれ以上話さなかった。
先行した兵士たちが入口と左右の柱を確かめ、後続の隊が廊下との間に立った。全員が一度に入れる場所ではない。中庭を押さえる隊と、外の荷車まで連絡をつなぐ者が残り、エリナはその声を背中に聞きながら、扉を越えた。
入口へ戻った伝令が、外の隊は交代しながら通路を守っていると告げた。指揮官は扉の両脇へ盾を寄せさせ、広間の奥から目を離すなと命じた。
高い窓には、ほとんどガラスがなかった。
細長く切り取られた空から灰色の明かりが入り、床に倒れた燭台を照らしている。剣を握る手が滑らないように、指に力を入れた。
「遅かったな」
広間の奥で、女が言った。
玉座に腰を下ろしていた。肘掛けへ片腕を置き、こちらを見ている。角も、獣の牙もない。頬には血の通っているような色があり、口元には薄い笑みさえあった。
ただ、足元に落ちた影だけが、位置と合っていなかった。
黒いものが衣服の下から滲み、床をゆっくり這っている。柱の陰へ触れたそれが、呼吸するように膨らんだ。
エリナの指が冷たくなった。
魔王に傷つけられた左腕の痛みを、身体が覚えていた。あのときは、柄から滑り落ちた左手で、もう一度剣を握ろうとしても、指一本動かなかった。
「……アルト」
やどかりが言った。
玉座の女は、少し目を細めた。
「やっと呼んだ」
親しい人を待ちくたびれたような声音だった。
エリナはやどかりを見たが、その横顔から何も読み取れなかった。いつもなら何か言う口が、固く閉じている。
「やどかりさん。この人は……」
「昔の仲間だ」
答えたのはやどかりだった。
奥で、アルトが小さく笑った。
「それだけか。私は恋人だと思っていたんだけどな」
「……大切な人だ」
肘掛けから、黒いものに覆われた手を少しだけ引いた。
「ふふ、私にだけ言わせるつもりかと思った」
「恥ずかしいだろ……」
「恥ずかしがり屋なのは、相変わらずで良かったよ、ふふ」
エリナは広場で聞いた話を思い出した。食事のたびに、彼が来るまで待っていた人。どこにいるのかを、あのときは聞かなかった。
今、その人が自分たちの前にいた。
「どういうことなの……?」
隣の男と、玉座にいる女を、何度も見比べた。片方には助けてもらい、もう片方には殺されかけた。その二人の間に、自分の知らない時間がある。
背後で、誰かの鎧が鳴った。
「待て、アルト、だと」
報告を受けて広間へ来た国王が、入口近くで足を止めていた。王はやどかりへ目を向け、それから玉座の女を見た。
「……先代の勇者の名だ」
その言葉が意味を持つまで、エリナは少しかかった。
勇者なら、知っている。誰より強く、魔王を倒すために選ばれる人。神殿の壁に肖像が残り、子供が物語で名前を覚え、人々が次の時代まで語り継ぐ側の人間だ。自分もそうなるのだと、かつて皆が信じていた。
けれど、玉座にいる女は魔王だった。自分を壁へ叩きつけ、左腕を動かなくし、世界を苦しめ続けた相手だった。
勇者と魔王という二つの言葉が、エリナの中でうまく重ならない。重ねたくないのに、目の前では同じ一人の女を指していた。
エリナは、確かめるように玉座の女をもう一度見た。
「……勇者?」
アルトは頷いた。
「前は、そう呼ばれていたね」
アルトの足元で、黒いものが膨らんだ。
レオンが盾を持ち上げる。指揮官の短い命令とともに、柱の脇で弦が鳴った。
矢は、アルトの喉元へ飛んだ。
女の手は肘掛けに残ったままだった。
衣服から滲んでいた黒いものが顎の下へ盛り上がり、矢を受け止めた。矢柄が震え、折れた先が床へ落ちる。アルトの顔は動かなかったが、肘掛けを握る指が白くなった。
「今は、斬りかからずにいるので精いっぱいだ」
アルトは、足元へ落ちた矢を見た。
「私が死のうとしても、こいつは身体を守る。私の意思で退かせることまではできない」
エリナは剣を構え直した。話せることと、抵抗せずにいてくれることは同じではなかった。
テオは柱の脇へ移り、杖を向けた。矢を止めた黒いものが衣服の下へ戻るのを、目で追っていた。
「勇者だったお前が、なぜそうなった」
国王が尋ねた。
「王城には、討伐を果たしたという報告も届いていない」
「勝ったんだ」
答えたのは、やどかりだった。
「俺たちは、ここにいた魔王と戦った。俺が立てなくなったあとも、こいつは戦って、倒した」
エリナは玉座を見た。
それなら、なぜ。
「倒せば終わると思っていたんだ」
アルトは言った。
「剣は届いた。魔王も倒れた。けれど、魔王に取り憑いていた力が、今度は私に取り憑いたんだ。知らないはずの記憶と一緒にね」
アルトの目が、肘掛けを握った自分の手へ落ちた。
「おかしいと思ったんだ。歴代の魔王は必ず特殊な力を持っていた。魔王は強かったけど、特殊な力を持っていなかったんだ。気づけば良かったのにその違和感を無視してしまった。ようやく、この旅を終えられると思ってね」
「魔王の記憶で知った。この魔王は身体を失っても人へ乗り移って生き延びるという力だったんだ。魔王を一人で倒せるほど強い人間だけが、この力を収められる。私は、その器にされた」
次の矢をつがえた兵士が、弓を上げかけた。
「待て」
国王は片手を上げた。アルトの顔を見つめてから、足元の黒いものへ目を落とした。
「……お前が死ねば、また誰かに移るのか」
「器になれる者がいればね。私の意思では止められないんだ」
国王は指揮官へ目を向けた。
「もう少し待て、情報が必要だ」
指揮官が頷き、兵士を左右の柱へ広げた。弓は下げさせず、盾の後ろに置く。入口から治療班へ担架を通す隙間が空けられ、負傷者を運ぶ者たちが床の欠片を退け始めた。
その向こうで、アルトの肘掛けを握る手が、小さく震えた。
「……やどかり」
呼ばれた男が顔を上げた。
「あのとき、やどかりには伝えたよね」
男は頷いた。
その名をもらってから、十年ほどが過ぎていた。初めてそう呼んだ声が、今も同じように耳へ届いた。戸口に立つ若い日の顔が、ふいに浮かんだ。
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初めて「やどかり」と呼ばれた朝を思い出す。
男は他人の倉庫で寝ていた。母屋から離れた建物の、荷物のない隅だった。戸口から呼ばれ、片目を開けると、アルトが立っていた。
男は、何軒かの家の倉庫を勝手に寝床にしていた。困った持ち主たちに頼まれ、アルトは話をつけに来たのだった。その後ろには、この倉庫の持ち主もいた。
『起きろ。あちこちから苦情が来てるぞ』
『一晩、宿を借りてるだけだ』
『借りるなら、先に断れ』
「……名前は?」
「無い、親の顔知らねえからな」
男は身体を起こし、枕にしていた荷袋を引き寄せた。
『……悪かった。もう出る』
『謝る相手が違うぞ、宿借り』
『もっといい呼び方があるだろ』
『自分で言ったんだろ。宿を借りてるだけだって』
アルトが示した倉庫の持ち主へ、男は頭を下げた。荷袋を抱え、靴を履いて外へ出ると、背後で戸が閉まった。
翌朝、町の門をくぐろうとしたところで、後ろから声がした。
『おい、やどかり』
つい振り返ると、アルトが笑った。
『ほら。もう自分の名前だって分かってるじゃないか』
アルトは、荷を積んだ馬を連れていた。やどかりはその背の毛布と鍋を見てから、アルトへ目を戻した。
『次の町まで、馬の世話と荷の番をする。飯と宿代を出してくれねえか』
『魔物が出たときも、馬を連れて逃げられるなら、いいよ』
『それくらいならな』
『じゃあ、次の町まで頼むよ』
やどかりは差し出された手綱を受け取った。
その日の野営では、アルトが周囲を見回る間に、やどかりが馬に水をやり、火を起こした。次の町に着くと、アルトはもう一つ先まで頼みたいと言った。やどかりは、同じ条件ならと答えた。
何回かこの条件が繰り返された時、宿の前で、アルトはやどかりへ宿代を渡した。
『ここまででいい。明日からは、私一人で行くよ』
『そうか……、次も同じ条件で構わねえんだが』
『勇者は供を連れてはいけない。神殿で、そう言われた。一人で旅をしてこそ、強くなれるんだと』
アルトは、男が運んでいた荷へ手を伸ばした。
荷袋の紐に触れた指が、そのまま止まった。
『……明日から、また一人だ』
独り言のような声だった。アルトはやどかりへ目を戻し、何か言いかけて口を閉じた。荷を受け取るはずの手が、ゆっくり下がった。
『俺は、明日もお前と行きてえよ』
『でも、決まりがある。君まで何か言われたら……』
『神殿に何か言われたら、俺も隣に立つ。お前だけに頭は下げさせねえよ』
伸ばされた手が止まった。アルトは男を見て、何か言いかけた。けれど声にならず、唇を結び直した。
『……一緒に来てほしい』
顔を伏せたまま、小さく続けた。
『もう、一人で歩くのは嫌だ』
『じゃあ、行く』
『勇者は供を連れてはいけないって決まってるんだ、バレたら面倒なことになるかもしれないよ』
『じゃあ、俺も勇者になる。勇者が2人いてもいいだろ』
男は、ずり落ちかけていた荷を肩へ担ぎ直した。
アルトはしばらく黙っていた。やがて、詰めていた息を吐き、口元を緩めた。
『……今、かっこつけた?』
『お前、そういうのは黙って流せよ』
アルトが笑った。男が宿の戸へ目を向けると、袖を軽く引かれた。
『ありがとう、やどかり』
『おう』
振り向くと、すぐ近くに顔があった。アルトはもう笑っていなかった。何かを確かめるように男を見つめ、目が合ってから、ようやく袖を離した。頬が赤くなっているのを見て、男は戸の方へ向き直った。
さらに旅が進み、雨に追われて入った宿で、アルトが椀を二つ並べたことがあった。やどかりが馬の様子を見て部屋へ戻ると、どちらもまだ手つかずだった。
『先に食っとけって言ったろ』
『聞いたよ。私が待ちたかったんだ』
向かいへ座ると、アルトはようやく匙を取った。そんなふうに待たれること自体が、どうにも落ち着かなかった。
それから、いくつも町を越えた。一緒に歩くことが当たり前になった頃、やどかりは、この旅が終わっても一緒にいたいと伝えた。アルトは、私もだよ、と答えた。
『帰る宿がないなら、私のところへ帰ってくればいい』
アルトはそう言って、椀を置いた。
『宿代、高そうだな』
『食事の文句を一つ減らせばいい』
それからは、馬を見に出た帰りにも、食料を探して戻ったときにも、同じ声が迎えてくれた。おかえり、と。借りた部屋がどれほど変わっても、帰りたいと思う先に、その声があった。
魔王を倒した日も、やどかりは、そこへ戻るつもりだった。
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崩れた柱の向こうで、アルトが膝をついていた。
やどかりは重くなった足を引きずり、アルトの背中へ近づいた。笑おうとすると脇腹が痛んだが、それでも笑った。倒れた魔王は動かない。もう、誰も剣を振らなくてよかった。
『終わったな。帰ろうぜ』
アルトは返事をしなかった。
床についていた手が、石を掴むように曲がった。爪の下から黒いものが滲み、手首を這い上がる。やどかりが肩へ触れようとすると、その腕を強く掴まれた。
『来るな』
痛いほどの力だった。
次の瞬間、アルトは自分のしたことに気づいたように手を離した。見上げてきた顔には、怯えがあった。
やどかりは、それまでアルトのそんな顔を見たことがなかった。
『入ってくるんだ』
アルトは頭を押さえた。
『あいつの記憶だ。私を見てる。剣を振り上げた、私を』
呼吸の間に、途切れた言葉が落ちた。アルトは、見えているものを話し続けた。
『身体が死んでも、この力を収められる奴に乗り移ればいい。そう考えてた……』
黒く染まった指へ、目が落ちた。
『私の身体で、生き延びるつもりだったんだ』
やどかりはアルトの前へ膝をついた。意味が分からなかった。勝ったのだ。帰れるはずだった。
口を開くより早く、剣の柄を差し出された。
『私を殺してくれ』
やどかりは動かなかった。
アルトがもう一度、剣を押し出した。
『今なら、まだ抵抗できる。お前が近づいても、斬らずにいられる』
『……嫌だね、俺が、次になるんじゃねえのか』
アルトは首を振った。
『やどかりには移れない。私並みに強くないとこの力を収められないみたいだ』
黒いものが、喉元へ達していた。アルトは片手で胸を押さえ、深く息を吸おうとした。その指の間から漏れた黒い靄が、空中で薄れ、消えた。
『身体が、つなぎ止めてるんだ。器を失えば、こいつは形を保てない。私を殺せば、ここで終わる』
剣の柄が、やどかりの胸へ触れた。
受け取らなければ落ちる。そう思って掴んだ手を、アルトが離さなかった。
『頼むよ。君を襲いたくない。殺されるなら君がいい』
やどかりは剣を持ち上げた。
刃の向こうに、よく知っている顔があった。昨日も同じ火のそばで食事をした。味が薄いと言えば、文句を言うなら自分で作れと笑った。その前の日も、その前も、次の町まで一緒に歩くつもりで、ここまで来た。
『目を……』
閉じてくれ、と言いかけた。
アルトが従おうとしたので、言えなくなった。あまりにも、こちらを信じていた。
『……無理だ』
アルトの顔が歪んだ。
『やどかり!』
叫びの途中で、声に別の響きが混じった。やどかりは肩へ力を入れ、腕を振ろうとした。それでも、顔と首の間へ刃を下ろすことだけができなかった。
床を打った剣の音を、今も覚えていた。