「俺は、殺せなかった」
やどかりが言った。
玉座の肘掛けが、乾いた音を立てた。アルトの指が食い込み、石の欠片が床へ落ちた。
「剣を落として、ここから逃げた」
エリナはやどかりの手を見た。その指は強張っていた。
大切な人に殺してくれと言われて、できなかった。その痛みを想像しようとしただけで、胸が苦しくなった。
それなのに、別のものも込み上げてきた。
「……知ってたんだ」
やどかりがこちらを見た。
「私が、誰を殺しに行くのか」
男は、頷いた。
倉庫の床に敷かれた布が浮かんだ。何がしたいのか。答えられずにいると、男は問いを引っ込め、自分の言葉が出るまで待ってくれた。
「私には、選べって言ったのに」
帰るか、戦うか。自分で決めていいと言われた。その言葉を頼りに、ここまで歩いてきた。けれど、その道の先に誰がいるかを、この人は知っていた。
「選ぶ前に、教えてほしかった」
やどかりが口を開きかけた。
その横を、盾を持った兵士が通った。指揮官の指した柱へ走り、まだ構えの整っていない仲間の前へ入った。
エリナは剣の柄を握り直した。今、答えを待っている間にも、皆は戦う支度をしている。
「……あとで、聞かせて」
男は口を閉じた。
ミアがエリナの腕へ一度触れ、治療班のいる柱の後ろへ向かった。
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「とどめを刺した人へ移るわけではないんですね」
テオが、アルトを見たまま尋ねた。
「そうだ」
「大勢に分かれて宿ることは?」
「できない。この力を保つには、一つの身体が要る」
アルトの指の間から、細い靄が漏れた。身体を離れると輪郭を失い、窓から入る光の中へ溶けた。
「次の器がなければ、私の身体を失ったときに消える」
「僕たちの中に、器になれる者は?」
「いない。君は強いけれど、この力を丸ごと収められるほどじゃない。ここにいる誰も、そうだ」
テオは、やどかりへ顔を向けた。
「あなたも、知っていたんですか」
「ああ。あの日、俺にも移れねえと聞いた。お前たちも、言い方は悪いがアルトよりは弱い、器になるほどの強さじゃねえ」
やどかりの目が、エリナへ向いた。
「お前が町の奴らに、助けてくれと頼んだときに考えたんだ」
エリナは顔を上げた。
「一人じゃ勝てなくても、隣の奴が手を貸す。誰かが下がっても、戦いが続く。それなら、誰か1人に押し付けずに倒せる」
「……だから、この人数?」
「ああ。全員で戦う」
エリナは細く息を吐いた。倒しても、仲間を次の魔王にするわけではない。それは、聞けてよかった。
けれど、やどかりへ頷き返すことはできなかった。
その望みを、自分に聞かせてくれなかったことが、頭を重くしていた。
「陛下」
指揮官が低く呼んだ。
前の盾が揃っていた。左右の柱の脇に弓兵が立ち、魔術師たちはその後ろから杖を向けている。入口へ続く道は、担架が通れる幅を空けてあった。
国王が頷くと、指揮官は片手を上げた。
「合図で、左右から――」
石を擦る音がした。
アルトが立ち上がっていた。床の影が足へ集まり、裾を持ち上げるように渦を巻いた。右手は胸の前で固く閉じ、指を開きかけるたび、手首を這う黒い筋が濃くなった。
「戻ってきたんだな、君も」
エリナは剣を構えた。
やどかりの大切な人で勇者だった。その人に、自分は殺されかけた。
まだ、どう受け止めればいいのか分からない。
入口の向こうで、負傷者を中庭へ運ぶ声がした。
「……止めに来ました。外で起きていることを」
アルトが、僅かに頷いた。
「なら、止めてくれ。もう、抑えきれない」
黒いものが肩から噴き出した。
窓から入っていた光が薄くなり、床に散った石の欠片が浮いた。
「構えろ!」
指揮官が叫んだ。
エリナはレオンの盾の隣へ入った。やどかりが、その横に立つ。
男の顔は見られなかった。それでも、剣を握る手へ向かって言った。
「今度は、知ってることを教えて」
「……ああ」
固く閉じていた右手が、アルトの身体より先に前へ出た。
黒い魔力の中に、剣の形が現れた。大きくも、禍々しくもない。人が両手で握り、振るうための形をしていた。
やどかりの呼吸が止まるのを、エリナは隣で聞いた。
アルトの目が、その男へ向いた。
口元から笑みが消えた。
「今度こそ」
黒い風の中で、その声だけが届いた。
「私を殺してくれ」
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アルトが剣を下げた。
切っ先が床へ近づく。構えを解いたように見えたその動きに、エリナの足が半歩、前へ出かけた。
「右へ跳べ!」
やどかりの声に、身体が動いた。
レオンの肩へぶつかりながら横へ跳ぶ。その直後、さっきまで立っていた場所を黒い線が走った。床石が割れ、背後の壁へ細長い傷が刻まれる。遅れて降ってきた石の粉が、エリナの髪を白くした。
剣を振ったところが、見えなかった。
アルトは既に次の一歩を踏み出していた。レオンが盾を向ける。その前へやどかりが入り、下から剣を合わせた。
甲高い音がして、男の膝が折れた。
「正面で受けるな、流せ!」
叫びながら、自分も身体を捻った。黒い刃が肩の横を抜け、上着が裂ける。エリナが剣を出すより早く、横の兵士が槍を突いた。
アルトは槍の柄を斬り、その切れ端が落ちきる前に、後ろへ退いた。
「距離を取れ! 列を詰めるな!」
指揮官の声が広間を走った。
エリナは息を吸った。喉の奥に粉が貼りつき、咳が出た。目の前の床に、長く黒い溝がある。一人で来たときには、あの攻撃を身体で受けた。
今日は、避けるように言ってくれる人がいた。
「今の、どうして……」
「刃を下げたあと、左足に体重を乗せる。踏み込んで、下から斬り上げる癖がある」
やどかりは肩を押さえず、剣を構え直した。
「次は足を見ろ」
エリナは頷いた。
まだ、この人へ向ける気持ちはまとまっていなかった。けれど、倒すための方法を男は答えた。エリナはその声を聞き、アルト足へ目を向けた。