考える余裕があったのは、最初のうちだけだった。
左右へ広がった兵士たちの足元を、影が這った。エリナが気づいて声を上げたとき、黒いものは既に盾の縁へ絡みついていた。
兵士が腕を振って外そうとする。動かない。アルトがそちらへ掌を向け、指を閉じた。
「盾を捨てて!」
テオの声と同時に、風が吹きつけた。
兵士の身体が後ろへ押される。腕を抜かれた盾が、黒いものに巻き込まれて潰れた。金具の軋む音に、誰かが息を呑んだ。
テオは杖を下ろさず、床へ風を叩きつけた。影が裂け、兵士が這ってそこから離れる。
切り離された黒い靄が、細くほどけて消えた。
だが、アルトの足元からは、また別の影が伸びていた。
「床も見てください! 身体から離せば消えますが、つながっている間は動きます!」
声が後ろへ伝わった。
槍を持つ者の隣で、兵士が床を指した。影の先を踏まないようにずれ、近づかれた者へ声をかける。それだけでも、剣へ向けられる注意は削られた。
アルトが前へ出た。
盾を失った兵士を狙っている。エリナはそちらへ向き直ったが、間に合う距離ではなかった。
「左から突け!」
やどかりが近くの槍兵へ叫んだ。
穂先がアルトの脇腹へ向かう。アルトは一歩を短くし、剣を返して槍を払った。その間に、倒れていた兵士が仲間に引き起こされた。
「下がります!」
アルトから、横薙ぎの刃が来る。レオンが盾を構えたが、受けた瞬間、革の留め具が弾けた。
盾が跳ね、彼の腕が外へ開いた。
エリナは剣を突き出した。
アルトの胸へ届く前に、黒いものが刃へ絡んだ。硬い。押しても、まるで厚い革を何枚も重ねたものへ突き立てたように、先が進まなかった。
「引け!」
やどかりがアルトの剣を横から叩いた。
エリナは体重を後ろへかけ、ようやく刃を抜いた。弾かれた黒い塊が床へ落ち、一部は薄れて消えたが、身体につながったものは胸元へ戻っていった。
裂け目が、塞がった。
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「前列、交代!」
合図が来たとき、レオンは左腕を上げられなくなっていた。
エリナが背へ手を添えようとすると、彼は歩けますと答えた。しかし、柱の後ろまで下がる間に、唇から血の気が引いていった。
ミアが待っていた敷布へ座らせると、彼女はすぐに袖の留め紐を外した。
「指は動かせますか」
「……動きます」
「そのまま。無理に上げないでください」
ミアの手から光が広がった。
レオンの腕は、肘の少し上で腫れ始めていた。エリナはそこを見つめ、何か言おうとしたが、彼の方が先に口を開いた。
「次の兵士は来ていますか」
エリナは振り返った。
新しい盾を持った兵士が前へ入っている。隣の槍も替わっていた。
「来てます」
「よかった」
レオンは目を閉じた。
ミアが彼の肩へ手を添え、横になれる位置へ身体を移した。その向こうでは別の治療師が、額を切った男を診ていた。担架を持った二人が入口へ向かい、道を空けてくれと声を上げる。
外から金属を打つ音が聞こえた。
魔物が、まだ中庭へ来ている。誰かがここへ運ばれてくるために、別の誰かが入口を守っていた。
「西側の隊を回せ。負傷者を運ぶ道は狭めるな」
指揮官が伝令へ命じていた。続けて、盾の残数を尋ね、壊れたものを退けるよう指示を出す。
エリナの目の前へ、水の器が差し出された。
「飲んで。口をゆすぐだけでも」
受け取った器の縁が、歯に当たった。手が震えていた。
エリナは両手で持ち直し、水を含んだ。吐き出すと、石の粉で濁っていた。
「エリナ」
ミアがこちらを向いた。
「次に出る前に、右手を見せてください」
言われて初めて、柄を握る指の間が切れていることに気づいた。
エリナは手を差し出した。広間の中央では、また黒い剣が閃いていた。自分がここで手当てを受けている間も、誰かがその前にいる。
ミアが傷を確かめる手を、引っ込めたかった。
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二度目に前へ出るとき、やどかりはテオの隣にいた。
頬に細い傷が増えている。テオは肩で息をしながら、アルトの胸元を見つめていた。
「胸の前だけ、戻りが速いですね」
「ああ。前に斬ったときも、そこへ集まった」
やどかりの返事に、エリナは顔を向けた。
「斬ったの?」
「お前が下がってる間にな。胸の塊の縁までは届いた。浅かったがな」
男の剣の先から、黒い滴が落ちた。床へつく前にほどけて消える。
テオは、自分の胸の中央を指した。
「あそこに、力の集まっている場所があります。身体を守る黒いものも、そこから動いている。外だけ削っても、塞がれる方が速い」
「どけられるか」
「剣を受けながらでは無理です。僕が攻撃を続けている間、こちらへ来させないでください」
やどかりが頷き、近くの指揮官へ話を伝えた。
エリナはアルトを見た。兵士の槍を払い、近づいた剣を返し、足元から影を伸ばしている。その動きは速く、疲れているようには見えなかった。
けれど、全てを同時に同じ強さで行っているわけではなかった。槍へ剣を向けたとき、影の先が止まる。影が盾へ絡むときには、踏み込みが浅くなる。
「一緒に、攻めるんだね」
テオが頷いた。
「一人ずつ順番に挑んだら、向こうも一つずつ防げますから」
エリナは周りを見た。交代してきた兵士が位置を確かめ、弓を持つ者が柱の間へ移動している。やどかりは剣を構える前に、もう一度こちらへ顔を向けた。
「右肩を引いたら、三歩下がれ。剣より先に、左手が来る」
エリナは、男の目を見た。
「分かった」
短い返事を聞いてから、やどかりは前へ出た。
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矢が、アルトの顔の横を抜けた。
避けた先へ槍が伸びる。黒い剣が穂先を払ったところへ、やどかりが斜めから斬り込んだ。
アルトの剣が戻った。刃と刃が触れるより早く、やどかりは引いた。空を切った黒い剣の反対側で、兵士の穂先が腕をかすめた。
血は、少しだけだった。
すぐに黒いものが傷を覆った。
それでも、アルトの足が半歩、後ろへ動いた。
「左、来るぞ!」
やどかりが叫んだ。
エリナは足を引いた。アルトの左手が開き、空気が押し潰されるように鳴る。黒い塊が、目の前を抜けていった。
三歩目で足を止めたところへ、風が吹いた。
テオの杖の先が白く光っていた。
風はアルトの正面へぶつかり、衣服を引き裂くように巻き上がった。胸元を覆っていた黒いものが浮き、身体から引き剥がされる。
アルトが足を踏みしめ、テオへ向いた。
「行かせるかよ!」
やどかりが剣を振った。
アルトが受ける。男の腕が押し戻される前に、左右の兵士が槍を突き出した。片方を剣で払い、もう片方へ身体を捻ったアルトの胸で、黒いものが大きく裂けた。
その下に、光沢のある硬いものが見えた。縁には、ごく浅い白い傷が一本残っていた。やどかりがつけた傷だと分かる。
肋骨の間へ埋まるように、黒い塊が脈打っている。表面を流れる筋が、床の影と同じ速さで動いていた。
「見えました!」
テオの声がした。
エリナは踏み込んだ。
あと一歩というところで、アルトの剣が戻った。
避けようとした足が床の欠片へ乗る。滑った膝をつくより先に、エリナは剣を横へ立てた。
衝撃で手首が折れそうになった。
横から槍が黒い刃を押した。
エリナはその下をくぐるようにして後ろへ転がった。耳のすぐ横を、風が抜けた。
「下がって!」
兵士の声に、這うように離れた。
テオの風が途切れた。黒いものが一斉に胸へ寄り、露出した塊を覆っていく。
ほんの一呼吸で、見えなくなった。
エリナは床へ手をついたまま、荒く息をした。
やどかりが前に立ち、追ってくる剣を牽制している。その背中へ向かって、無理だったとは言えなかった。
代わりに、見えたことを叫んだ。
「胸、届く前に剣が戻ってくる!」
やどかりが、僅かに頷いた。
「分かった!」
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アルトの膝へ、矢が刺さった。
深くは入らなかった。けれど、踏み込もうとした足が止まった。その一瞬に、左の隊が前へ出た。
盾が身体へ当たる直前、黒い影が持ち上がった。兵士の一人が弾き飛ばされ、後ろの仲間へぶつかった。
「左、二人下がる!」
「入る!」
返事が重なった。
エリナは剣を握り直した。掌の布に血が滲んでいたが、指は動いた。
やどかりは、さっきからアルトの正面に近い場所を離れなかった。攻め切ろうとはせず、アルトがほかの者へ剣を向けるたび、脇腹を狙って斬りかかった。
「まだ、覚えているんだな」
剣が合わさった瞬間、アルトが言った。
やどかりの顔が歪んだ。
「嫌になるくらいにな」
次の刃をかわしながら、男は叫んだ。
「左手、来るぞ!」
兵士たちが下がった。
黒い塊が通り過ぎる。その間に、別の隊が反対側から前へ出た。
エリナも走った。今度は正面へ向かわず、やどかりが空けた場所へ足を入れた。アルトが目を向けたところへ、矢が飛んだ。
黒い剣が矢を払った。
その戻り際を、やどかりの剣が叩いた。
「今だ!」
テオが杖を前へ突き出した。
風が広間を走った。床の粉塵が持ち上がり、アルトの胸から黒いものが剥がれた。
エリナの前に、さっきと同じ黒い塊が見えた。
アルトの剣が動く。
エリナは足を止めなかった。
やどかりが剣を下から合わせ、アルトの刃を受け止めた。男の踵が床を滑る。さらに横から、槍の柄が重なった。
「押さえる!」
兵士が叫んだ。
アルトが剣を引こうとする。その腕へ別の穂先が突き出され、身体が僅かに傾いた。
傷ついた膝が、床についた。
黒い塊が、エリナの胸より低い位置へ来た。
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届く。
そう思った瞬間、エリナの視界から広間の奥が消えた。目の前の一点と、そこへ運ぶ剣だけが、はっきり見えた。
右から風が吹いている。テオが、黒いものを剥がし続けている。
左には、やどかりの剣がある。兵士の槍と重なって、アルトの刃を外へ押しやっている。
後ろからは、誰かが自分の名前を呼んだ。
一人でここまで来たときには、剣を握るだけで手が震えていた。傷ついた足では踏み込めず、落とした聖剣へ、動く右手を伸ばすことしかできなかった。
今は、足が動く。
ここまで交代してくれた人がいた。剣を直した人がいて、手を治した人がいた。自分の知らないところでも、帰る道を守っている人がいる。
エリナは前へ出た。
剣先を、黒い塊の中央へ向ける。
アルトが顔を上げた。
目が合った。
怖かった。人の顔だった。さっき聞いたばかりの、やどかりの大切な人の顔だった。
それでも、エリナは剣を引かなかった。
「……やれ」
その唇が動いた。
エリナは奥歯を噛み、最後の一歩へ体重を移した。
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やどかりは、アルトの剣を押さえていた。
腕の筋が軋み、肩の傷から血が流れている。横で槍兵が歯を食いしばっていた。こいつがいてくれてよかった、と考えるだけの余裕は、まだあった。
エリナの足が、視界へ入った。
その剣が、アルトへ向いていた。
やどかりは、押し返してくる刃へ力を込めた。離してはいけない。ここまで、皆がつないだ。
アルトが顔を上げた。
エリナへ何かを言い、ほんの僅か、肩の力を抜いた。
あの日と同じだった。
剣を渡してきた手。自分を見上げた顔。目を閉じてくれと言いかけたとき、従おうとした、あの一瞬。
エリナが、あの胸を貫こうとしている。
この顔が、もうこちらを向かなくなる。食事が冷めると文句を言いながら、それでも待ってくれた人へ、今度こそ自分の手で別れを決めなければならなかった。
「待て!」
声が広間に響いた。
叫んだのが自分だと気づいたときには、もう遅かった。
エリナの踏み込みが鈍った。
黒い塊へ向かっていた剣先が、届く寸前で止まった。彼女の目が、やどかりへ向いた。
右へ跳べ。三歩下がれ。今だ。ここまで何度も、自分が叫ぶたび、彼女は動いた。今も、その声に従ったのだ。
アルトの目が、やどかりへ動いた。
「……また、できないのか」
責めるほどの力もない声だった。
その静かな一言の方が、やどかりには刃より深く入った。
腕にかかっていた重みが、僅かに緩んだ。アルトは目を逸らさなかった。唇が開き、何も言わずに閉じられた。
言わなければならなかった。
エリナに、続けろと。今度こそ終わらせてくれと。それだけでよかった。
やどかりは口を開いた。
喉の奥まで言葉は上がってきたのに、声にならなかった。
「エリナ、突いて!」
テオの叫びが飛んだ。
エリナが腕を伸ばした。風はまだ黒いものを剥がし続け、横の槍兵も歯を食いしばっている。やどかりは剣を押す腕へ力を込めた。間に合え。
けれど、止まった一歩の間に、アルトの胸を這う影が幾重にも折り重なっていた。
剣先が触れたのは、もう剥き出しの塊ではなかった。
硬い音がした。その音だけで、やどかりには何を失ったのか分かった。
「違う、俺は――」
言いかけたやどかりを、アルトが見ていた。
その口元を、黒いものが覆っていく。
止めたかったのは何だったのか。アルトが死ぬことか。自分の目の前から、いなくなることか。
分からないままでも、一つだけは分かった。
友が頼んだことを、自分はまた止めた。
やどかりの声が、途中で切れた。
押さえていた黒い剣が、内側から崩れた。抵抗が消え、やどかりと槍兵が前へつんのめる。
その二人の間で、アルトがやどかりを見た。
「離れて!」
テオが叫んだ。
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エリナは剣を引こうとした。抜けなかった。力を込めた次の瞬間、黒いものが一斉に外へ広がった。
足が床を離れた。
誰かの盾が視界へ入り、それごと遠ざかった。背中から何かへぶつかり、肺の中の空気が全部押し出された。音が消えた。口を開いても、息が入らなかった。
床の冷たさが頬へ触れた。
エリナは肘を動かそうとした。身体が上がらない。代わりに咳が出て、ようやく少しだけ空気を吸えた。
剣は、手の先に落ちていた。
さっきまで声をかけ合っていた場所に、人が倒れていた。
ついさっきまで返事をしていた兵士が、盾の下で動かない。別の男は仲間の肩を揺すり、返事を確かめている。柱の陰からミアが走り出しかけ、まだ前へ出るなと引き止められていた。テオは片膝をつき、杖を床へ突いたまま、立ち上がろうとして一度身体を沈ませた。
皆で作った状況が、一度の衝撃で床の上へばらばらに散っていた。
広間の中央で、アルトが立ち上がった。
胸の前には黒いものが幾重にも重なり、その下の塊は見えなくなっていた。肩を覆う影が、人の輪郭より大きく揺れている。
「……アルト」
やどかりの声がした。
男は中央に近い場所で、片手を床についていた。呼ばれた魔王が、ゆっくり顔を向ける。
口元に、笑みはなかった。
エリナは剣へ手を伸ばした。
あと少しで指が届く。その向こうで、やどかりが立とうとしていた。魔王の右手に、再び黒い刃が形を取り始めた。
やどかりは、それを見ていた。
何度も攻撃を教えてくれた人の口が、今は開かなかった。
エリナは床を掻き、剣の柄を掴んだ。
「やどかりさん、下がって!」
今度は、自分が叫ぶ番だった。