エリナは膝の布を掴み直した。
何がしたいのか。男はそう聞いた。自分の気持ちだけで決めていいなら、とっくに帰っている。胸の奥に、小さな怒りが生まれた。
「やどかりさんには、分からないよ」
「何が」
「私、魔王を倒すって言ったんだよ。みんなと約束したのに、帰りたいからって帰れないよ」
言葉にすると、布を握る指にいっそう力が入った。
「私が言ったんだから。私が、何とかしなきゃ」
「なんで、お前だけで果たさなきゃならねえんだ」
エリナは顔を上げた。やどかりは、答えを聞くまで先へ進まないつもりなのか、片膝に置いた腕を動かさなかった。
「……神様に、選ばれたから」
「お前が戦うことになった理由は、それかもしれねえな。ほかの奴が戦っちゃいけねえ理由は?」
「そんな決まりは……ないよ。仲間を探してもいいって、王都でも言われた」
最初の街道で、自分を起こしてくれた冒険者の手を思い出した。一緒に来てほしいと言えないまま見送った背中は、覚えている。
「でも、私じゃできないから、あなたも一緒に戦ってって言って。……それで、その人が死んだら、どうするの」
やどかりは、すぐには答えなかった。エリナは布を握り直した。自分が頼まなければ、その人は明日も自分の行くはずだった道を歩ける。そう考えるたび、喉まで来ていた言葉を飲み込んだ。
「頼んだら、必ずついてこなきゃならねえのか」
「……違うけど」
「だったら、まず聞けよ。断るかどうかも、どう手を貸すかも、相手に考える余地があるだろ」
エリナは男を見た。
「そうかもしれないけど、言うのも、難しいよ……」
「そうだな」
やどかりは頷いた。その返事が意外で、エリナは続けようとしていた言葉を失った。
「でも、言わねえまま、お前一人が倒れるまでやるしかないのか」
答えられなかった。頼めることを知らなかったのではない。助けてほしいと言ったあと、期待してくれた人たちからどう見えるのかが怖かった、それを確かめるのが怖かった。
「……じゃあ!どうすればよかったの……!」
周りの期待に頷いているうちは隠せたものが、倉庫の暗がりで、少しずつ形になっていた。
「私、玉ねぎを剥いてたんだよ」
やどかりが眉を上げた。
「神官の人が来たとき。夕飯の仕込みをしていて……剣なんて持ったこともなかった」
「ああ」
今までこんなこと聞かれたことなかったから、話す内容を整理しないまま話してしまう。
「どうして私なのか、何度も聞いた。でも、神託だからって……それ以上は、誰も教えてくれなかった」
銀の鞘を指でなぞる。
「やりたいかどうかも、聞かれなかった」
やどかりは少しの間、黙っていた。
「……勇気がある者と書いて勇者なんだから、そんな奴、ほかにもいるだろうにな」
「……神様が選んだ人のことだよ」
「じゃあ、その名前、もっと配ればいいのにな」
エリナは思わず男を見た。
「そんなこと、勝手に……」
「勇気出して誰かを助けた奴が、自分も勇者だって名乗ったら、神様は怒るのか?」
冗談を言っている顔ではなかった。エリナを三年間縛っていた言葉を、この男は食卓の椅子でも増やすように、平然と他人へ渡そうとしていた。
「……怒るかもしれないよ」
「そりゃ、ずいぶん狭量な神様だな」
「そういうこと、神殿の前で言わないでね」
「今は倉庫だからいいだろ」
呆れた息が漏れた。笑ったのだと気づくまで、少しかかった。
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「なあ、二羽の鳥がいるとする」
戸板を立てる音も聞こえなくなった頃、やどかりが言った。
「……急に、何?」
「まあ聞け。雨が降ってきて、一羽は巣へ帰った。雨の当たらねえところで羽を休めて、腹を満たして、眠った」
エリナは黙って聞いていた。
「もう一羽は、そのまま飛んでいった」
「雨の中を?」
「ああ。風に煽られるし、羽も重くなる。落ちるかもしれねえ。それでも、行きたいところがあるから飛んでいく」
やどかりは窓のほうへ目を向けた。
「どっちがいいと思う?」
「巣に帰るほう」
すぐに答えられた。膝の上の布へ視線を落とし、もう一度、小さく続けた。
「もう、傷つきたくないもの」
「そうだな」
「……いいの?」
「俺が許可する話でもねえだろ」
エリナは唇を結んだ。また、答えを返された。
「じゃあ、なんで聞いたの」
「お前がどう思うか、知りたかった」
「帰りたいって、言って良かったの」
「ああ。じゃあ、もう一つ」
やどかりが視線を戻した。
「お前は、どっちがかっこいいと思う?」
エリナは眉を寄せた。
「……同じ質問じゃないの?」
「同じ答えでもいいぞ」
帰るほうがいい、雨の中を飛び続けるなんて、馬鹿みたいだと、言おうとした。けれど、声が出なかった。
雨の中で羽を広げる鳥を思い浮かべた。風に押し戻され、木の影にも隠れず、倒れてもまた身体を起こす、小さな鳥だった。飛ばなければいいのに、と思った。同時に、行きたいところまで飛び続けてほしい、とも思った。
「……でも」
目を開けると、男がこちらを見た。
「飛んでるほうが、かっこいいとは思う」
エリナは自分の手を見た。
「怖くても、行きたいところに向かってるなら……そっちのほうが、かっこいいと思う」
やどかりは頷いた。
「そうか」
「でも、私とは違うよ」
すぐに言わなければと思った。
「私、ずっと泣いてた。何度も逃げたくなったし、剣なんて捨てようと思った。今だって、帰りたい」
「泣きながらでも、飛んでたんだろ」
「……え?」
やどかりの目が、エリナの手元へ落ちた。剣の柄が擦れて硬くなった右の掌。古い傷の跡が、いくつも残っている。
「三年間、雨の中にいたんだろ。そりゃ、帰りたくなる」
エリナは手を裏返した。泣いたことも、逃げたかったことも、剣を捨てようとしたことも話した。それなのに、男は飛んでいたと言った。
「……飛んでても」
声が震えた。
「どこにも、着かなかったよ」
やどかりは黙っていた。
「魔王のところまで行って、負けて……それからも、頑張ったけど……どこまで行けばいいのか、分からなくなって……」
掌に涙が落ちた。
「私、もう……疲れた……」
顔を覆おうとしたところで、肩から布が滑った。やどかりが身を寄せ、掛け直した。その手が離れかけたとき、エリナは袖を掴んだ。自分でも、どうしてそんなことをしたのか分からなかった。やどかりは動きを止めた。エリナの指が離れないのを見てから、そっと横に座り、そのままそばにいてくれた。
エリナは額を男の手のひらへ寄せた。
「……ごめんなさい……」
誰に謝っているのか、分からなかった。次の言葉も謝罪になりかけて、喉の奥で崩れた。
「帰りたい……」
外套を握る手に力がこもった。
「帰りたいよ……」
エリナが泣く間、やどかりはその距離を変えなかった。しばらく何も言わず、そばにいた。窓の向こうで風が鳴った。エリナは一度身体が強張ったが、やどかりは静かに背中を撫でた。戸は閉じている。誰も入ってはこなかった。顔を男の外套へ寄せると、堪えていた声がまた漏れた。
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泣き声が途切れてからも、やどかりは何も聞かなかった。エリナは何度か鼻をすすり、ようやく男の外套から顔を離した。
握っていた袖を離すと、水筒が差し出された。受け取って、少しずつ飲む。喉のつかえが、わずかに和らいだ。
エリナは水筒を膝に置いた。隣の男は、まだ何も聞いてこなかった。何か言おうとして、その横顔を見る。
「……本当に、その名前なの?」
「今聞くのか?」
「気になるよ」
「やどかりで通ってる。呼ぶには困らねえだろ」
そういう問題じゃないと思ったが、エリナは笑えた。
笑った拍子に唇の傷が引きつり、口元を押さえた。
「……まだ痛むか」
「ちょっとだけ」
やどかりは口元へ目を向け、それから布に吊られた左腕を見た。
「帰るにしても、まずは何とかしねえとな」
その視線が、壁に立てかけた聖剣へ移った。
「一個ずつ整理していくぞ、身体はボロボロ、剣もボロボロ」
「うん」
「金もない」
「……うん」
「おまけに、街の奴らと仲が悪い」
「言い方……」
「人気がない」
「言い直せばいいってものじゃないよ」
やどかりは少し笑った。
「金は、俺がいくらか出せる。剣も買えばいい。人気は……まあ、今すぐどうにかするもんでもねえだろ」
「急に雑……」
「で、身体にはこいつだ」
取り出したのは、小さな瓶だった。中の液体が揺れた。暗い倉庫の中で、そこだけが薄く明るく見えた。金色の光が硝子の内側を巡り、沈んでは浮かび、底に溜まることなく満ちている。エリナは目を離せなくなった。治療を待つ間、何度も聞いた薬の特徴だった。
動かない腕を治せるかもしれない。けれど、素材の入手が困難で、数が少なく世界に数個しかない、手に入れることなどできない。王都で有名らしい医師はそう話していた。
エリナは膝に載せられた左手を見た。あれが本物なら、この手も、また動くのだろうか。
「……還命薬(かんめいやく)?」
「知ってんのか」
「本物……?」
「偽物を大事に持ち歩く趣味はねえよ」
エリナは瓶から目を離せなかった。
「なんで、持ってるの」
「それは秘密」
「……秘密、多くない?」
「長く生きてるとな」
やどかりは栓を抜き、瓶を差し出した。エリナが右手を伸ばすと、掌へ硝子の冷たさが移った。男の指は、もう瓶から離れていた。
「……いいの?」
「飲むためのもんだろ」
「私、まだ……このあと、どうするかも決めてない」
「それと怪我は別だろ」
エリナは瓶と男の顔を見比べた。何かを約束すればいいのか、口にしかけた言葉が行き場をなくした。やどかりは、膝から落ちかけていた布を掛け直しただけだった。
「俺が持ってるのは、その一本だ。残さず飲め」
エリナは瓶の口を見た。少し傾ければ飲める。右手が震えるのは、瓶が重いからではなかった。男の顔をもう一度見てから、硝子の縁を唇へ当て、中身を飲み干した。
喉を通った液体が腹へ落ちたあと、左肩に熱が集まり始めた。傷の縁から肘へ、肘から手首へ、強く引かれていたものが一本ずつ緩むような痛みが走った。
「……っ、あ……!」
エリナは身を折った。右手の瓶が傾き、やどかりが下から支えた。膝に載せた左腕は、まだ動かなかった。金色の光が傷の周りを包むと、黒い痕の端が薄い灰色へ変わった。枝分かれしていた筋も輪郭がぼやけ、少しずつ肌の色に溶けていく。
最後に肩の奥が引き攣り、エリナは布を噛みそうになった。やどかりの手が背中を支えた。痛みが引くまで、何も言わず、同じところにあった。
やがて、肩へ食い込んでいた重さがなくなった。顔を上げると、街灯に照らされた皮膚から、黒い痕が消えていた。エリナは動かないはずの腕を見つめた。何を試せばよいのか、すぐには思いつかなかった。今まで何度も、期待してから、同じ手を見下ろすことになった。
膝の布がずれた。油布から半分出ていた封筒が、その上を滑った。右手にはまだ空の瓶があった。落ちると思った瞬間、左手が動いた。
封筒の端を、掌が押さえていた。
エリナはその手を見た。誰も持ち上げていない。指を伸ばそうとすると伸びた。少し曲げると、紙の端が指の腹に沿ってしなった。
「……動いた、動いたよぅ……」
声がひどく小さかった。もう一度肘を曲げる。封筒を持ち上げようとして、力を入れすぎ、角を折りかけた。慌てて緩めると、今度は落としそうになった。やどかりが瓶を受け取り、空いた右手を添えられるようにしてくれた。
両手で、母の手紙を持った。
それだけのことを、エリナはしばらく続けていた。右手を離してみて、また添える。左の指が紙を支えているのを見るたび、目の前がぼやけた。肩を持ち上げても、腕はついてきた。
「……ありがとう」
「おう」
やどかりは空の瓶を床へ置いた。底にはもう、金色の光はなかった。
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エリナは手紙を包み直した。封を切るための手は、もう動いた。それでも、宛名の先へ進むことはできなかった。
「……治してもらったのに」
「ああ」
腕が治れば、何もかも元へ戻ると思っていた。それなのに、母の字を見ただけで喉が狭くなる。黒い痕のなくなった肩へ右手を置いても、その怖さは消えなかった。
「村にも、噂が届いてるかもしれない。私が帰ったあとで、魔物が出たら……お父さんたちまで……」
「そう言う奴がいるかもしれねえな」
簡単に、大丈夫だとは言わなかった。エリナは封筒を伏せた。やどかりは、その手を止めなかった。治してもらったのだから、もっと喜ばなければならない。そんなことまで考えている自分が嫌になり、エリナは膝へ目を落とした。空の瓶が見えた。
「お礼したいけど、お金は……今、ないんです」
「知ってる」
「でも、荷物なら運べるし。夜の見張りも、できます。腕、治してもらったから」
左手を握ってみせた。動くことを、相手にも確かめてもらいたかった。右手だけの頃に断られた仕事も、今ならできるかもしれない。あの一本に釣り合うものが何も思いつかず、エリナは急いで言葉を足した。
「掃除でも、料理でも」
やどかりは空の瓶を拾い、栓を戻した。何を頼むか考えているのだと思い、エリナは背筋を伸ばそうとした。男は瓶を荷物へしまうと、その手を膝へ置いた。
「何かを私にさせたいんですよね? 私、何をすればいいですか」
「さっきも聞いたが、お前は、何がしたい?」
エリナは顔を上げた。言われたことを頭の中でもう一度繰り返したが、返事に使える言葉が出てこなかった。
「……私が?」
「ああ」
「やどかりさんが私に何かしてほしいことがあるんじゃ……例えば、魔王を殺してほしいとか」
「魔王なら俺一人でも殺しに行く、今はエリナが何をしたいか聞いてる」
どうするべきかなら、ずっと教えられてきた。神に選ばれたのだから戦いなさい。勇者なのだから魔王を倒しなさい。世界を救いなさい。そう言われて剣を持ち、みんなに約束して、ここまで歩いてきた。
帰還してからは、その身体で人のいる場所へ来るなと言われるようになった。傷を治してほしくても、誰かを助けるためでも、そのために誰かのそばに行くことまで、悪いことのように思えていた。
どの言葉にも、エリナのするべきことが添えられていた。従えるかどうかは別にしても、答えだけは、いつも誰かが持っていた。男はそれをくれなかった。返事のできないエリナを前にしても、勝手に頷いたり、分かったような顔をしたりしない。沈黙の中で、窓から入る明かりが封筒の端へ触れていた。腕を治してくれた男は、何をしろとも言わず、同じ場所に座っていた。
魔王の城を思い浮かべると、膝が固くなった。家までの道を考えれば、途中の町でまた戸を閉ざされる気がした。どちらにも、すぐ足を向けることはできない。その二つの間で、次の答えを早く出さなければと思うほど、何も言えなくなっていった。
外で足音が止まった。エリナは扉を見た。荷箱は動かなかった。やがて足音が遠ざかると、肩へ入っていた力が、少しずつ抜けた。
「……今日は、休みたい」
男へ聞こえたのか、分からなかった。目を伏せたまま、エリナは続けた。
「誰にも追い出されないところで、朝まで眠りたい」
口にすると、情けない願いに思えた。腕を治してもらったばかりなのに、何もしないで横になりたいと言っている。もっと先のことを聞かれているのかもしれなかった。それでも、今の自分に言えるのは、それだけだった。
「……それでも、いい?」
「おう。休めよ」
やどかりは立ち上がった。エリナの身体が先に強張ったが、男が向かったのは荷物のほうだった。もう一枚布を出し、寝られるだけの場所を足元に空ける。床へ敷く前に木屑を払い、端を幾重かに折って、頭を置ける厚みにした。
休んだ後、何をするのかは、聞かれなかった。
エリナは、布の端を直している男へ左手を伸ばした。袖に触れたところで迷い、指を止めた。やどかりがこちらを向き、その手を下から受けた。掴めと引かれることはなかった。自分で少し指を曲げると、硬い掌が握り返してくれた。
エリナは俯いた。休みたいと言っても、男はそばにいた。握っていた手をゆっくり離し、左手を膝の布へ戻す。少し指を曲げると、布の柔らかさが掌に触れた。エリナは用意された寝床を見た。今夜は、剣を枕元におかず、横になってもいいのだと思い、瞼を閉じた。