「やどかりさん、下がって!」
エリナは剣を掴み、床へついた膝に力を入れた。背中に痛みが走り、息が詰まった。その間にも、魔王の右手で黒い刃が形を取り、やどかりの頭上へ持ち上がっていく。
男が顔を上げた。剣を構えるのが遅かった。
刃がぶつかる音とともに、やどかりの身体が横へ飛んだ。倒れた燭台が跳ね、男はその向こうを転がった。
「やどかりさん!」
返事は聞こえなかった。
エリナはもう一度立とうとしたが、右足が滑った。身体を支えた左手に、砕けた石が食い込む。顔を上げると、魔王は既に別の方を向いていた。
倒れた兵士を、二人が引き起こそうとしている。その頭上へ黒い影が伸びた。
「伏せて!」
テオの杖から風が放たれた。
影の先が逸れ、兵士たちの後ろの柱へぶつかる。砕けた石が降り注ぎ、三人は頭を抱えて身を縮めた。テオは続けて杖を振ろうとしたが、持ち上げた腕が途中で下がった。
エリナは床に剣先をつき、ようやく立ち上がった。
魔王の胸は黒いものに覆われていた。さっきまで見えていた塊は隠れ、剣先を届かせる隙間もなかった。肩から背へ膨らんだ影の間に、人の顔だけが残っている。
「……アルト」
やどかりが呼んでいた。
魔王は振り向かなかった。剣を持ったまま兵士たちへ歩き、近づいた槍を払い落とした。その動きに、迷いも、ためらいもなかった。
エリナは一歩、後ろへ下がった。
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柱の陰へ運ばれてきた兵士は、脇腹を押さえていた。
ミアがその手をどけると、指の下から血が流れた。衣服の裂け目を開き、畳んだ布を押し当てる。兵士が身を捩り、ミアの袖を掴んだ。
「痛みますね。少し、押さえます」
言いながら、空いている手を傷の上へかざした。光が広がると、男の指から僅かに力が抜けた。
それでも血は止まらなかった。ミアは手を近づけ、息を詰めて魔力を込めた。傷の縁が少しずつ寄っていく。もう少しで、と思ったとき、隣へ別の担架が置かれた。
「こちらもお願いします!」
顔を上げると、運んできた兵士の頬に血がついていた。担架の上の人のものなのか、彼自身のものなのか、一目では分からない。
「隣の先生を呼んでください。今、手を離せなくて……」
答える途中で目の前が暗くなった。ミアは膝をつき直し、腕が落ちないように身体を寄せた。
別の治療師が駆け寄ってきた。傷を見て、すぐに包帯を手に取る。
「代わります。手をどけてもらえますか」
「まだ血が」
「私が押さえます」
ミアは相手の手が入るのを待ち、ゆっくりと光を止めた。立とうとして足に力が入らず、担架の縁へ手をつく。
その頭上を、撤退を告げる笛の音が通り抜けた。
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「全隊、退け! 負傷者を先に運べ!」
国王の声が響いた。
入口近くにいた兵士が振り返り、同じ命令を廊下へ向かって叫んだ。担架が持ち上がり、立っていた者が道を空ける。
エリナは魔王を見たまま、動けなかった。
あと一歩だった。
剣先に触れた硬さが、まだ手に残っている。あそこへ、もう少し深く刺さっていれば終わったのかもしれない。テオの風も、兵士たちの槍も、やどかりの剣も、確かにそこまで道を作ってくれた。皆で戦えば届く――道中ずっと積み重ねてきたものが、間違いではなかったと証明できるところまで来ていた。
それなのに最後の一歩だけが、届かなかった。
魔王が強すぎて押し返されたのではない。自分たちの側から飛んだ、たった一つの声で剣が止まった。その事実を考えようとすると、胸の奥が冷たくなった。
「エリナ! お前も下がれ!」
国王に呼ばれた。
振り向いた途端、言葉が口をついた。
「でも、もう少しで……!」
「もう戦えん。周りを見ろ」
兵士が一人、盾を引きずっていた。支えに入った仲間も足を引いている。テオは杖を握り直そうとして、片方の手をもう片方で押さえていた。
レオンのいる柱の陰から、担架が運び出された。
エリナは、その上に誰が寝ているのかを確かめようとした。持ち上げられた毛布が邪魔で、顔が見えなかった。
「これ以上、負傷者を増やすわけにはいかん。退くぞ」
国王はエリナの返事を待たず、伝令を中庭へ走らせた。
彼女は剣を握ったまま、入口へ動く人々を見た。戻れば、またあの胸へ近づけるかもしれない。けれど、そこまで自分を守ってくれた盾は壊れ、槍を持っていた人は運ばれていく。
唇を噛むと、血の味がした。
「……分かりました」
小さな声しか出なかった。エリナは息を吸い直し、近くの兵士へ向き直った。
「下がろう! 入口へ!」
男が頷き、隣の兵士の肩を叩いた。
その二人が下がるまで待って、エリナも後ろへ足を引いた。
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やどかりが、まだ残っていた。
倒れた燭台の向こうで、片膝をついている。肩から血が流れ、剣を持つ手は床へ落ちたままだった。
「やどかりさん!」
エリナは呼んだ。
男は魔王を見ていた。聞こえていないのかと思い、もう一度、声を張った。
「こっち! 立てる?」
やどかりの目が動いた。それだけだった。
魔王が剣を振り、前に残っていた盾の隊が下がった。やどかりと皆の間が、また遠くなる。
「やどかりさん!」
腕を掴んだ。
血で濡れた袖が滑り、握り直す。男はようやくエリナを見たが、その目を見返した瞬間、怒りより先に、怖さが込み上げた。
このまま置いていけば、この人は死んでしまう。
「立って。早く!」
力いっぱい引いた。それでも大きな身体は上がらず、エリナの足の方が滑った。
「反対を持つ!」
兵士がやどかりの脇へ腕を入れた。
二人で引き起こすと、男の膝が伸びた。足が床を踏む。エリナはその腕を肩へ回し、出口の方へ身体を向けた。
「行くよ。歩いて!」
やどかりの靴が床を擦った。
盾を持つ兵士がすぐ脇にいた。黒いものが近づくと、盾で払うように受け、身体ごと押されながらもついてきた。
「急いでくれ!」
エリナは頷く余裕もなく、男の腕を引いた。
「……俺が」
耳元で、やどかりが言った。
「俺が、止めた」
分かっている。
そう答えそうになったが、息が切れて、言葉にならなかった。出口の向こうで兵士が手を振っていた。その人へ向かって、一歩ずつ足を出した。
「お願い、今は歩いて……!」
やどかりの足に、少しだけ力が戻った。
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廊下の曲がり角で、列が止まった。
前を行く担架が、壁と、下がってきた兵士の間へ挟まっていた。先を持つ男が向きを変えようとしたが、後ろが動かない。
エリナたちは壁へ寄った。
やどかりの重さが肩へかかる。痛みを堪えて支えている間に、担架が目の前を回った。乗せられた兵士は目を閉じ、毛布の端を握りしめていた。
誰かが足元の瓦礫を蹴り退け、ようやく列が動いた。
広間の方で、硬いものが割れた。
振り返ると、最後尾の盾が斜めに傾き、その向こうから黒い影が伸びていた。テオが杖を上げかけたが、別の魔術師が前へ入った。
「ここは私が。先に行ってください」
テオは一瞬、口を開きかけ、それから下がった。
後ろで光が広がった。エリナの頬にも熱が触れた。すぐに走る足音が近づき、魔術師が追いついてきた。その袖には大きな焦げ跡があった。
階段へ出ると、やどかりが手すりへ手を伸ばした。
エリナは肩を貸したまま、最初の一段を下りた。前を運ばれる担架が傾き、乗っている人が呻く。運ぶ二人が立ち止まり、持つ高さを変えた。
後ろから急げという声が飛んだが、すぐ近くで別の兵士が怒鳴った。
「押すな! 落ちるぞ!」
エリナは手すりを掴み直した。
上から音がするたび、駆け下りたくなった。けれど、足を滑らせれば、前の担架まで巻き込む。やどかりの靴が一段下りるのを確かめ、自分も足を動かした。
最後の段から下りたときには、膝が震えていた。
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中庭で、搬送を受け持つ兵士が腕を振っていた。
「歩けない奴は、こっちだ!」
荷車の周りに、人が集まっていた。木箱が地面へ下ろされ、空いた荷台へ毛布が広げられる。ミアは既にそこにいて、横たわった兵士の包帯を確かめていた。
エリナを見ると、やどかりの肩へ目を移した。
「ここに座らせてください」
兵士と二人で、やどかりを荷車の縁へ座らせた。
腕を離そうとして、指が開かないことに気づいた。血で張りついた袖を、一本ずつ指をほどいて放す。肩から重さが消えた途端、エリナ自身も座り込みそうになった。
「エリナも、そこへ」
「私は、まだ歩ける」
「背中、ぶつけたでしょう」
答えようとしたが、息を吸うだけで痛かった。
ミアが隣の兵士へエリナを頼み、やどかりの裂けた上着を開いた。傷へ布を当てると、男の顔が歪んだ。
「押さえていてください」
やどかりの手を布の上へ置く。その向こうで新たな負傷者を呼ぶ声がし、ミアはそちらを振り返った。
男は言われたまま、肩を押さえていた。
エリナは荷車へ手をつき、周りを見た。
左腕を固定されたレオンが、別の荷台へ上がろうとしている。いつも先に盾を構えてくれた人が、今は二人がかりで持ち上げられていた。
目が合った気がしたが、荷車が動き始め、すぐに見えなくなった。
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門の前で、車輪が石に乗り上げた。
荷台が大きく傾き、ミアが負傷者の身体を押さえた。手綱を持つ男が馬を止める。エリナも思わず荷台へ両手を添えた。
「押すぞ! 誰か、こっちへ!」
ダンが車輪の横へ膝をついた。
すぐに二人が走ってきた。エリナも後ろへ回ろうとしたが、身体を曲げた途端、背中の痛みで動けなくなった。
「そこ、入るよ!」
男に声をかけられ、道の端へ退いた。
合図とともに荷車が揺れた。車輪が僅かに浮き、石を越える。乗っていた兵士が呻き、ミアが顔を覗き込んだ。
王都を出たあとにも、こうして皆で荷車を押した。
あのときは、合図より早く力を入れたエリナが前へつんのめり、抜けたあとまで押さなくていいと笑われた。泥だらけの手を見て自分も笑ったことを、ほんの数日前のことなのに遠い昔のように思い出した。
今は同じ「せーの」の声が上がっても、笑う者はいなかった。車輪が石を越えれば、押していた者たちは荷台の負傷者が無事かを確かめ、息を整える間もなく次の荷車へ走っていく。
皆で力を合わせるという同じ光景なのに、あのときとはまるで別のものに見えた。
城の中で轟音がした。
エリナが振り返ると、高い窓から黒いものが溢れ、壁を伝って落ちていた。階段を下りてきた最後の隊が、中庭を横切ってくる。
門を守る兵士が彼らを通し、その後ろへ盾を向けた。
「中は、もういないか!」
「これで最後だ!」
叫びが返った。
国王は門の外で報告を聞き、護衛へ頷いた。旗が動く。それに合わせて、門前の隊も下がり始めた。
エリナは荷車の縁を掴み、歩き出した。