城を出ても、魔物は追ってきた。
荷車の前へ回ろうとするものを槍で追い払い、後ろの隊が遅れれば、その手前の隊が止まって待った。エリナは剣を抜こうとしたが、柄へ手をかけたところで、荷台の兵士に呼ばれた。
「水、もらえますか」
男は起き上がれず、首だけをこちらへ向けていた。
エリナは剣から手を離し、荷の間にあった水袋を取った。揺れる荷台へ手を伸ばすと、隣の者が男の頭を支えてくれた。
少しずつ飲ませる間にも、後ろでは戦う音が続いていた。
坂を下り、城壁が岩の向こうへ隠れた頃、偵察の兵士が戻ってきた。魔王の姿は見えないという報告に、何人かが振り返った。
国王は歩みを止めさせず、後方の警戒を続けるよう命じた。
エリナも、もう一度だけ城の方を見た。
塔の先が、黒い雲の下に残っていた。
隣を歩いていたテオが躓いた。
エリナが腕を伸ばすと、彼は杖をついて踏みとどまった。それから荷車へ近づき、縁へ手をかけた。
「……乗ってもいいですか」
荷台の男が少しずれた。
テオは礼を言い、引き上げてもらって座った。膝へ肘を置き、両手で顔を覆う。その指先は、まだ震えていた。
エリナは何も声をかけられず、荷車の横を歩いた。
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岩陰の宿営地へ着くと、地面へ次々に布が敷かれた。
前にここへ泊まったとき、天幕の場所を決めるのに随分時間がかかった。今日は、日除けもないまま負傷者が降ろされ、治療師たちがその間を行き来していた。
呼ばれる名前と、呻き声と、水を求める声が途切れなかった。
エリナもようやく背中を診てもらった。
服をめくられ、触れられた途端に声が漏れた。治療師は腫れた場所を確かめ、他に痛むところを尋ねた。
どこから答えればいいのか分からず、エリナは少し黙った。
「……背中が、一番です」
手当てを受けている間、横になったまま、行き交う靴を見ていた。
担架が通るたびに、誰なのか気になった。けれど、顔を上げようとすると痛み、治療師に肩を押さえられた。
「今は動かないで」
エリナは頷いた。
横に置いた剣の鞘に、黒い汚れがついていた。布で拭かなければと思ったが、手を伸ばす気になれなかった。
少し離れたところで、人数を確かめる声が続いていた。
名前を呼ばれても返事のできない人がいて、そのたびに仲間が場所を知らせた。エリナは聞こえてくる名前を心の中で繰り返したが、途中から、うまく覚えられなくなった。
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レオンを見つけたのは、空が暗くなり始めてからだった。
荷車の車輪へ背を預け、毛布を肩に掛けている。エリナが近づくと、顔を上げた。
「背中は?」
「手当て、してもらいました」
「そうですか」
レオンは隣に置いていた水袋を退けた。
エリナは腰を下ろし、固定された彼の腕を見た。指の先まで腫れていた。
「腕……」
「しばらく、腕は動かなさそうです」
レオンは動く方の手で、毛布を引き上げた。
エリナの口から、謝る言葉が出た。
「すみません」
レオンがこちらを見た。
何について謝ったのか、自分でも説明できなかった。勝てなかったことか。剣を止めたことか。この人を、家からここまで連れてきたことか。
道中、レオンとは何度も一緒に戦った、疲れていたら、休めと言い、自分が下がっても次の人がいると教えてくれた。彼の腕が、今は胸の前に固定されている。
帰ってからしたいことを、皆に聞いた。その人たちを、自分はこんな姿で帰らせている。そんな考えが浮かぶたび、何から謝ればいいのか分からなくなった。
「エリナさん」
呼ばれて、顔を上げた。
レオンは何か言いかけたが、近くを通る治療師に声をかけられ、そちらを向いた。包帯を確かめられる間、眉間に皺が寄った。
エリナはそれ以上、口を開けなかった。
手当てが終わると、彼は目を閉じた。エリナはずれた水袋を手の届く場所へ戻し、静かに立った。
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ベルタが器を渡してくれた。
「少しでいいから、食べな」
エリナは両手で受け取った。薄い汁の中に、柔らかく煮えた野菜が沈んでいた。
ベルタの袖口には、乾いた血がついていた。エリナがそこを見ているのに気づくと、彼女は袖を折り返した。
「私のじゃないよ」
それだけ言って、別の器を持ち上げた。
エリナは何も尋ねられなかった。少し離れたところへ座り、一口飲んだ。熱さは分かったが、味が分からなかった。
荷車の向こうに、やどかりがいた。
肩を包帯で覆われ、上着を片方だけ羽織っている。足元には器が置かれていたが、手をつけていないようだった。
エリナは匙を置いた。
行って、何を話すのだろうと思った。
顔を見たら、責める言葉が出るかもしれない。何も言えずに戻ってくるかもしれない。それでも、離れたところから見ていることに耐えられなくなって、立ち上がった。
「やどかりさん」
男が顔を上げた。
目が合うと、エリナは言葉に詰まった。疲れた顔をしていた。何度も見たはずの無精髭も、頬の皺も、そのままなのに、ひどく年を取ったように見えた。
やどかりは、また手元へ目を落とした。
「……俺が止めた」
低い声だった。
「お前が斬ってりゃ、終わってた。なのに、俺が……」
「聞こえてたよ」
男の口が閉じた。
エリナはその前へ座った。立っていると、膝が震えた。
「止まれって言われたから、何かあるんだと思った」
声が聞こえると、身体が動いた。右へ跳んで、三歩下がって、何度も助かった。だから最後も、そうした。
「……悪かった」
エリナは首を振りかけ、途中でやめた。
謝ってほしくて来たのか、自分でも分からなかった。ただ、広間では聞けなかったことが、まだ胸につかえていた。
「アルトさんのこと、どうして言ってくれなかったの」
やどかりは黙っていた。
エリナは待った。今まで何度も、この人が自分の答えを待ってくれたように、すぐには次の言葉を重ねなかった。
「……怖かった」
男の目が、ようやく彼女へ戻った。
「お前が、俺を見る目が変わるのが。もう一緒に行けねえって、言われるのが」
口元が動いたが、音は出なかった。
「次の町で話すつもりだった。怪我が治ってから、落ち着いてからって、先に延ばした。先に進むたび、今じゃなくてもいいって思った」
エリナは膝の上の手を見た。
王都でも、話す時間はあった。父の料理を食べてほしいと頼んだ晩にも、この人は隣にいた。
「帰っていいって、私には言ってくれたのに」
唇を噛んでから、続けた。
「私が帰っちゃうかもしれないことは、言えなかったんだね」
「……ああ」
男は目を伏せた。
その返事を聞くと、倉庫で初めて差し出された手まで、確かめずにはいられなくなった。
「あのとき、私を見つけたのも、アルトさんのため?」
やどかりは頷いた。
「城へ戻る前に、今のあいつの様子を知りたかった。そこから生きて帰ったお前なら、何か聞けると思った」
「私を、治したのも?」
「アルトは関係無い、死なせたくなかったからだ」
今度は、すぐに返ってきた。
エリナは顔を上げた。
暗がりで見た小さな瓶を思い出す。金色の光が、硝子の中を巡っていた。
「もしかして、あの薬って……」
やどかりは、膝の上の手を見た。
「アルトに帰ってきてほしくて、元に戻す方法を探した。その中で聞いたんだ。あの薬なら、魔王の力に侵された身体でも戻せるかもしれねえって」
「……かもしれない?」
「試した奴はいなかった。それでも、他に何もなかった。手に入ったのは、お前に会う少し前だ」
「あれって貴重な薬なんじゃ……」
やどかりは、自分の掌を見た。
「手に入れられたのは、あの一本だけだった」
エリナの喉が狭くなった。
「じゃあ、アルトさんに使う前に、私に……」
「ああ」
「どうして」
やどかりは彼女を見た。
「片腕が動かねえまま、あちこちでイジメられてた。ボロボロで、寝る場所もなくて、それでもまだ自分で何とかしようとしてた」
男はそこで一度言葉を切った。
「目の前に、治せるかもしれねえ奴がいた。だから渡した」
「でも、それを私が――」
「お前が使ったんじゃねえ。俺が使ったんだ」
声が少し強くなった。
「お前が背負う話じゃねえよ」
エリナは口を閉じた。
倉庫で、やどかりは何と言っただろう。
――飲むためのもんだろ。
「……後悔してないの?」
やどかりは、少しだけ考えた。
「アルトに使ってたらどうなったかは、今でも考える。でも、お前に渡したことを後悔したことはねえよ」
やどかりは小さく息を吐いた。
「腕が動いて、ゆっくり寝れた。次の日には、美味いもんも食わせることが出来た、治せてよかったと思った、それだけだ」
エリナは、膝の上で左手を開いた。
動くようになった指の感触を、今も覚えていた。助けてもらったことまで嘘だったとは、思えなかった。
けれど、その手で握った剣は、今日、やどかりの声で止まった。
「……殺したく、なかったの?」
長い間があった。
やどかりの喉が動き、やがて、小さく頷いた。
「……ああ」
「私に斬らせるのも?」
男は答えなかった。
エリナは待った。離れたところで、誰かが痛みに呻いた。すぐに治療師の声が返った。
やどかりの肩が縮んだ。
「じゃあ、言ってよ……!」
思っていたより、声が震えた。
「あそこまで行く前に、言ってほしかったよ!」
男が顔を上げた。
「選べると思っていたんだ」
その目が、エリナへ向いた。
「今度こそって。お前たちがいて、皆が戦ってて……ここで終わらせなきゃならねえって、分かってた」
やどかりの指が、膝の上で曲がった。
「なのに、あいつの顔を見たら」
その先が続かなかった。
エリナは俯いた。分からないとは言えなかった。自分だって、やどかりに殺してくれと頼まれたら、剣を持てるか分からない。たぶん、簡単には振れない。だから、目の前の男を卑怯だと切り捨てることもできなかった。
けれど、理解できることと、傷つかなかったことは別だった。
レオンの固定された腕を見た。ミアが力を使い切って座り込むところも、荷車へ乗ったテオの手が震えているところも見た。広間で名前を呼ばれても返事をしなかった人もいた。
誰も怪我をしなかったことには、もうできない。あの一瞬をなかったことにすることも、ここまで来る前へ戻ることもできなかった。
「私……怒ってる」
やどかりは動かなかった。
「でも、死んでほしかったわけじゃない。だから、連れて帰ってきた」
そこまで言うと、喉が詰まった。
やどかりが何か言おうとして、口を開いた。エリナは首を振った。
「ごめん。今、何か言われても……」
うまく聞ける気がしなかった。
男の顔を見ていると、責めたいのか、助けてほしいのか、自分の気持ちまで分からなくなった。泣きたくなって、泣いたらこの人がまた謝ると思うと、それも嫌だった。
「今日は、もう……」
エリナは立ち上がった。
やどかりが手を動かした。引き止めようとしたのかもしれない。けれど、その手は膝へ戻った。
数歩離れてから、エリナは振り返った。
「ご飯、食べて」
それだけは言えた。
やどかりは足元の器を見た。エリナは頷くのを待たず、荷車の向こうへ歩いた。
自分の器は、置いた場所に残っていた。
座って匙を持つと、汁はもう冷めていた。口へ運べば野菜の形も、塩気も分かるはずなのに、味だけが遠かった。エリナは一口だけ飲み込み、膝の上で手を止めた。
周りには人がいた。負傷者の様子を尋ねる声があり、水を運ぶ足音があり、呼べばきっと誰かが顔を向けてくれる。王都を出た夜なら、それだけで「一人じゃない」と思えたはずだった。
それなのに今夜は、たくさんの人に囲まれていることと、寂しくないことが同じではなかった。
いつもなら、困ったときも、腹が立ったときも、最初に呼んでいた名前がある。
その一人分の距離だけが、千人の中にいても埋まらなかった。
エリナは冷えた器を両手で包んだまま、今夜はその名前を口にできなかった。