「エリナ」
呼ばれて、顔を上げた。
ミアが立っていた。肩に荷を掛け、もう片方の手には水袋を持っている。エリナの前へ来ると、地面に置かれた剣と、膝の上の布へ目を向けた。
「そろそろ、出るそうです」
「……うん」
エリナは頷き、もう一度剣へ手を伸ばした。
柄はすぐそこにあった。ほんの少し指を曲げればいい。そう思うほど、手が強張った。ミアが見ていることも分かっていて、何とかしなければと焦ったが、指先は鞘を撫でただけだった。
「私が持っていきましょうか」
エリナはミアを見た。
聞き返すより先に、首を振りかけた。この剣まで持ってもらったら、自分は何をしに来たのか分からなくなる。
けれど、ミアは急がなかった。少し屈み、彼女の顔を見て待っていた。
「……持てないの」
言ってしまうと、目の奥が熱くなった。
「手は、動くんだけど。痛いからじゃなくて……」
「はい」
ミアは荷を下ろした。
「持っていっても、いいですか」
同じことを、もう一度聞いた。
エリナは唇を結び、やがて頷いた。ミアが剣を拾う。鞘へついていた土を払い、自分の荷の紐へ通した。それから、エリナの前へ手を差し出す。
「立つのは、大丈夫ですか」
エリナはその手を借りた。
背中はまだ痛んだが、足には力が入った。立ち上がると、ミアは落ちた布も拾って渡してくれた。
剣のない腰が、軽かった。
その軽さを誰かに見られたくなくて、エリナは上着の裾を引いた。
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最後の荷車が動くところだった。
エリナが近づくと、御者が手綱を緩めた。急いで歩こうとしたが、足元の石につまずき、ミアに肘を支えられた。
「乗るかい」
御者が聞いた。
荷台には、足を包帯で巻かれた兵士が座っていた。その隣が少し空いている。エリナが迷っていると、兵士が自分の荷を膝へ移した。
「どうぞ」
エリナは小さく礼を言った。
荷台へ上がるとき、腰に剣がないことをまた思い出した。隣の兵士がそこを見るのではないかと思ったが、男はエリナが座ると、毛布の端を彼女の方へ寄せた。
「背中に挟むと、少しはましですよ。結構、揺れるんで」
言われたとおりにした。
荷車が動き、車輪が石を越える。背板へ当たる衝撃が、毛布を通して伝わった。
ミアは荷車の横を歩いていた。
彼女の荷についた剣が、歩くたびに揺れている。
隣の兵士が、声をかけてきた。
エリナは身構えた、何か言われるのではないかと、勇者なのにもう戦えないのかと
しかし、兵士は、水袋の栓を開けてほしいと頼んできた。きつく締まっていて、うまく回せないらしい。
エリナは受け取り、布を当てて栓を捻った。開いた水袋を返すと、男は礼を言って水を飲んだ。
荷車は、彼女が何も決められないままでも、少しずつ進んでいた。
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川の音が聞こえてきたのは、昼を過ぎてからだった。
橋へ入る手前で荷車が止まり、人が前後へ動いた。向こう岸を確かめる兵士たちの姿が、小さく見えた。
今日の宿営地は、橋を渡る前の平地だった。列が街道から外れ、先に着いた人々の間へゆっくりと入っていく。
エリナが荷台から下りると、ミアが荷を外した。
剣を抜き取り、エリナへ渡そうとして、手を止める。それから敷いた毛布の上へ、鞘ごと横に置いた。
「ここに置きますね」
エリナは頷いた。
ミアはその隣へ腰を下ろした。荷から薬の袋を取り出すわけでも、エリナの傷を診るわけでもなく、靴の紐を少し緩めて、息を吐いた。
「足、疲れちゃいました」
エリナは彼女の靴を見た。
「ごめん。私、乗っちゃって」
「あなたは怪我人ですよ。それに途中、道が悪かったですし」
ミアは靴先を持ち上げ、足首をゆっくり回した。
エリナは、自分の袋を少しずらした。二人で座るには毛布が狭かった。ミアがありがとうと言い、空いた場所へ荷を置いた。
川は、思っていたより近かった。
水音に混じって、鍋を下ろす音や、人を呼ぶ声が聞こえる。エリナは膝を抱えかけたが、背中が痛んでやめた。
「……ミア」
「はい」
呼んでから、何を聞きたかったのか分からなくなった。
剣を持ってくれてありがとう、と言えばよかった。歩かせてしまってごめん、と言うつもりだったのかもしれない。
ミアは隣で待っていた。
「私、間違えたのかな」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
「皆に、来てほしいって言ったこと」
ミアの顔を見るのが怖くて、エリナは川の方を向いた。
「勝てるって、思ってた。みんな来てくれて、魔物も倒せて……今度は大丈夫だって」
向こうで、担架が荷車から降ろされていた。
持つ二人が声を掛け合い、地面に敷かれた布へ運んでいく。
「みんな、そう思ったから来てくれたんだよね」
ミアはすぐには答えなかった。
包帯を巻いた指を膝へ置き、担架を見送っていた。
「私も、勝ちたかったです」
その声に、エリナは目を伏せた。
「昨日は怖かったです。手を離したら、この人が死んでしまうと思って。でも、次の人も運ばれてきて……」
ミアは包帯の端へ触れ、ほどかずに手を離した。
「城から出たあとも、ずっと、誰かが呼ぶんです。行かなきゃと思うのに、足が動かなくて」
エリナは何も言えなかった。
昨日、ミアも怖かったのだ。何度呼ばれても答えてくれたから、そんなことさえ、きちんと考えられていなかった。
「……ごめん」
ミアがこちらを向いた。
「でも、連れてこられたわけじゃありません。私が選んでここに来たんです」
声は静かだった。
「それは、分かっていてほしいです」
エリナはミアを見た。
「私が一緒に行きたいって、言ったでしょう」
覚えていた。
あの町で傷を診てもらい、一緒に戦い、ミアが旅へ出ると言った日。自分たちの後ろへついてきたのではなく、彼女は自分の荷を持って、こちらへ歩いてきた。
「……うん」
頷くと、ミアも小さく頷いた。
「今すぐ、また戦えますとは言えません。でも、エリナに誘われたことを、なかったことにしたいわけじゃないです」
喉の奥が詰まった。
エリナは俯いた。泣けばミアを困らせると思ったのに、一度落ちた涙を拭うと、次がこぼれた。
ミアはこれ以上言葉を重ねなかった。自分の袋から布を取り出し、エリナの手へそっと置いた。
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泣いているところへ、テオが来た。
エリナを見ると足を止め、ミアへ目を向ける。ミアが何も言わずに場所を空けると、テオは杖を横へ置いて座った。
「……あとにしますか」
エリナは布で目元を押さえ、首を振った。
「何か、あった?」
「いくつか、聞きたいことがあるんです」
テオは膝の上へ紙を広げた。
描かれていたのは、広間の簡単な図だった。柱の位置と、人のいた場所。中央の丸のそばへ、細い線が何本も引かれている。
エリナは息を詰めた。
「戦いのこと?」
「はい。後ろからでは、見えなかったところがあって」
エリナは紙を見たまま、手を握った。
「ごめん、次はちゃんとできるって、まだ……」
「次にできるかを聞きに来たんじゃありません」
テオは紙から顔を上げた。
「昨日、何が起きたのかを知りたいんです。僕も、途中から自分のことで精いっぱいでしたから」
エリナは彼を見た。
テオの手にも、小さな傷があった。指の関節のあたりで、皮膚が赤くなっている。
「答えられそうですか」
聞かれて、エリナは息を整えた。
「……少しずつでも、いい?」
「もちろん」
テオは紙を押しつけず、二人の間へ置いた。
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エリナは途中で何度も言葉を止めた。
はっきり覚えていることと、そうだった気がすることが混ざっていた。テオは、分からないと言えば、それ以上は聞かなかった。確かだと思うところだけを書き足し、しばらく紙を見つめていた。
「核を覆い直したものに、剣が当たったんですね」
「うん。私がもう一度突こうとした時には、もう黒いのが戻ってた。中までは、届かなかったと思う」
テオが頷いた。
エリナは紙の中央を見た。
「……私が止まったからだよ」
口にすると、テオの手が止まった。
「見ていました」
エリナは唇を噛んだ。
テオは筆先を紙から離した。
「やどかりさんの声で止まったことも」
川の音が聞こえた。
テオは少し間を置いてから、続けた。
「僕も、あの人が何かに気づいたのかと思いました。だから、あなたにだけ、あれを無視しろとは言えません」
エリナは顔を上げた。
テオの眉間には、皺が寄っていた。
「……腹は立っています。あのとき、何のために皆で押さえていたのか」
その言葉に、エリナは小さく頷いた。
「私も」
自分だけではなかった。
そう分かったことにほっとして、ほっとした自分がまた嫌になった。けれど、テオはその怒りを隠さずに、ここへ座っていた。
紙を丸めて投げ出すこともせず、見えなかったことを尋ねに来ていた。
「……どうして、調べてるの」
エリナが聞くと、テオは図へ目を落とした。
「あの胸のものを壊さない限り、同じことになります。外の黒いものをいくら剥がしても、戻ってしまう」
エリナの肩が強張った。
テオは中央の丸を指した。
「でも、身体から離れたものは消えました。昨日も、何度も見たんです」
「……うん」
「どこでつながっているのか。そこが分からないかと思って」
エリナはその指先を見た。
自分は、剣を持てないのに、テオは別のことを見ようとしていた。
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近くの天幕から、ミアを呼ぶ声がした。
彼女は立ち上がり、呼んだ治療師のところへ向かった。エリナはその背中を目で追った。担架の上の人へ声をかけ、包帯の下を確かめている。
自分がここに座っていても、その手は止まっていなかった。
「朝起きて、まず、やどかりさんに聞こうと思ったの」
エリナは言った。
テオがこちらを見た。
「剣が持てなくなっちゃって。どうしたらいいか、分からなくて」
エリナは膝へ目を落とした。
「いつもなら、何か言ってくれると思ったんだけど……あの人も、分からないんだって思って」
テオは答えを急がなかった。
エリナは自分の膝へ目を落とした。
「だから、もうどうしたらいいか、分からなくなっちゃった」
言ってから、隣に座っている人を見た。
テオの膝には、まだ図があった。
「でも、テオは考えてたんだね」
「少しです。まだ、何もできていません」
テオはそう答え、紙の端を押さえた。
風でめくれそうになった反対側へ、エリナも手を置いた。
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ミアが戻ってきたとき、エリナはもう泣いていなかった。
目元は熱く、頭も少し痛んだ。それでも、二人の顔を順番に見られた。
「私、また剣を振れるか、分からない」
ミアが隣へ座った。
テオは何も書かずに、エリナの言葉を待った。
「今度は止まらなければいいって、思ったの。やどかりさんが何か言っても、聞かないで」
話しているうちに、胸が苦しくなった。けれど、今日は途中で立ち去りたくなかった。
「でも、もし、あそこにいるのがやどかりさんだったらって考えたら……」
ミアの指が、膝の上で僅かに曲がった。
「できなかった。考えるだけでも、嫌だった」
エリナは言い終え、息を吐いた。
やどかりを許せたわけではなかった。大切な人を殺せないなら仕方ないと、皆へ言えるわけでもない。
けれど、そこから先を一人で考えても、同じ場所へ戻ってくるばかりだった。
「……変だよね。私、アルトさんには、ひどいことされたのに」
「変だとは思いません」
ミアが答えた。
それ以上、説明はしなかった。エリナは彼女の顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「城で、殺してくれって言ってた」
アルトの声を思い出した。
「あの人も、あの黒いのがなかったら……」
言いかけて、テオの紙へ目を向けた。
中央の丸と、そこから外へ伸びる線。身体を離れたものは消える。テオが私に聞いて、メモした事も書かれていた。
「ミア」
「はい」
エリナは、二人の間に置かれた紙へ手を添えた。
こんなことを聞いていいのか、まだ迷っていた。命を懸けて戦った人たちがいる。簡単な思いつきで、また来てほしいとは言えない。
だから、約束してほしいのではなく、まず聞きたかった。
「アルトさんは……治せないのかな」
ミアはすぐには答えなかった。
テオも、できるとは言わなかった。
二人とも、紙の上へ目を向けた。
「……アルトさんを操っている魔王を取り除くという事ですか」
ミアが聞いた。
エリナは頷きかけ、首を振った。
「分からない。そういうことができるのかも、私には」
テオが紙を広げ直した。
描かれた胸の丸のそばへ、まだ何も書かれていない場所があった。彼はそこへ筆先を置き、ミアの方を向いた。
「身体がどうなっているか、見えた範囲でいいので教えてもらえますか」
ミアが少し近づいた。
エリナは二人が見やすいように、紙の端を押さえ直した。
剣は、まだ毛布の上にあった。
手に取ることはできなかった。明日なら戦えるとも、もう大丈夫だとも思えなかった。
けれど、口にした問いを、二人が一緒に考えていた。
「エリナも、ここを見てください」
テオに呼ばれ、顔を上げた。
ミアが隣を空けた。
エリナは膝を寄せ、二人の間へ身を乗り出した。