メモに書かれた宿は、通りに面した二階建ての建物だった。エリナは看板と手元の文字を見比べ、戸口で足を止めた。中から食器の触れ合う音がして、温かい料理の匂いが流れてくる。
本当に、名前を出すだけで泊めてもらえるのだろうか。
紙を畳み、扉を押した。
「……やどかりさんに、ここへ来るように言われたんですけど」
「ああ、聞いてるよ」
宿の主人は頷くと、棚から鍵を一つ取った。
「部屋は二階だ。夕飯も用意できるから、荷物を置いたら降りておいで」
それ以上の説明を求められることもなく、鍵が差し出された。エリナは受け取ってから、ようやく小さく頭を下げた。
部屋には寝台と小さな机があり、窓には薄いカーテンが掛かっていた。寝台の端に腰を下ろすと、身体が柔らかく沈んだ。思わず、隣を掌で押してみる。手を離すと、布団はゆっくり元の形へ戻った。
ここで眠っていいのだと思うと、すぐには立ち上がれなかった。
食堂へ降りると、湯気の立つ煮込みとパンが出された。エリナは匙を取り、一口ずつ口へ運んだ。温かいものが喉を通り、腹へ落ちていく。食べ終える頃には、肩の力が抜けていた。
部屋へ戻り、聖剣を寝台の脇へ置いた。手紙が服の内側にあることを確かめてから、布団に入る。
これからどうしたいのか、考えなければ。
そう思っていたのに、枕へ頭を預けると、目を開けていられなくなった。少しだけ休んでからにしようと身体を横へ向けた、その先は覚えていなかった。
次に目を開けたときには、カーテン越しに朝の光が差していた。
翌朝、宿を出る前に代金を尋ねると、主人は首を振った。
「もういただいてるよ。部屋代も、食事代も。やどかりさんからね」
エリナは、差し出しかけた金を見下ろした。これも、あの男が置いていったものだった。
「……全部、ですか?」
「ああ。気にせず行きな」
主人に礼を言い、外へ出た。戸を閉めてから、手の中の金をしまう。
「……そういうことは、先に言ってよ」
言いたい相手は、どこにもいなかった。
宿のお礼は、まだ言っていない。食事がおいしかったことも、朝までぐっすり眠れたことも、顔を見て伝えたかった。そのあとで、一言くらい文句を言おう。何について文句を言うのかは決めていなかった。
エリナは通りを見渡した。行き交う人の中に、くたびれた外套を探す。幾つかの路地を覗き、昨日やどかりを見失った角まで歩いたが、それらしい姿はなかった。
倉庫へ戻ると、中は空だった。
「……やどかりさん?」
返事はなかった。男が座っていた場所には誰もおらず、掛けてくれた布だけが残っていた。
エリナはそれを拾い、膝に広げて腰を下ろした。
やどかりが自分の居場所を知っているのは、ここだけだ。もし戻ってくるなら、またこの扉を開けるかもしれない。
もう少しだけ、待ってみよう。
布を肩まで引き上げ、壁へ背を預けた。通りから足音が近づくたびに顔を上げたが、足音はいつも扉の前を通り過ぎていった。
やがて、外で荷車の軋む音がした。
エリナは布を抱えて戸口へ出た。通りを覗いたものの、見えるのは荷車を引く人の背中だけだった。
倉庫の壁際に腰を下ろし、布を畳んで膝へ置く。今にも男が隣へしゃがみ、「何してんだ」と声をかけてくる気がした。
そのとき最初に何を言うか、エリナはまだ決められずにいた。
目を閉じると、雨の路地が浮かんだ。角を曲がった先に誰もいなかった、あの光景だった。
「急に助けて、急に消えた……変なおじさん」
自分で言って、少しだけ口元が緩んだ。それから、一昨日の夜の倉庫を思い出した。布まで敷いてくれたくせに、行き先は一言も言わなかった。次に会ったら、まずそれを言おうと思った。
エリナは顎を膝へ乗せ、左手で布の端を持ち上げた。還命薬は本物だった。腕は自分の意思で動いて、黒い痕は消えたけど、首の付け根へ触れる癖も残っていた。それでも、通りで人の声がすると、右手は先に襟を引き寄せた。見られないようにする動きだけは、腕が治っても残っていた。
服の内側へ手を入れ、布に包まれた手紙を確かめる。折り目の感触が指に触れた。家までの道を、今日は考えられる。すぐにここを出てしまってもよいはずだった。それでも、自分が何をしたいのかまだ決めきれていない。やどかりが通りを戻ってこないか、エリナは戸を開ける音のたびに顔を上げた。荷車が止まり、誰かが積み荷の数を確かめている。返事をする声は眠たげで、少し不機嫌だった。
食堂にいた頃の朝も、こんな音から始まった。裏口で母が仕入れの数を確かめ、父が厨房から足りないものを伝える。エリナはその声を聞きながら、籠の野菜を洗っていた。今朝も二人は、店を開ける支度をしているのだろうか。あの声の届くところへ帰りたかった。
そのとき、地面の下から突き上げるような音がした。壁が震えた。
エリナは顔を上げた。遅れて悲鳴が聞こえ、何か重いものが倒れる音が続いた。荷車の男が怒鳴ったが、言葉の途中で声が裏返った。もう一度轟音が響き、その奥に唸り声が混じった。エリナの手が首元へ上がった。過去の声が、現実の音に重なる。ここから出ろと言われたのに、ここに残ってしまったからか。
その考えに捕まるより先に、逃げる人が路地の前を横切った。抱えた籠から落ちたものを拾う余裕もなく、こちらへ気づかないまま走り去っていく。エリナは聖剣を掴んで立ち上がった。壁に沿って路地の入口まで進む。
東門の片側が、内側へ倒れていた。外れた蝶番が石畳を削り、砕けた木材が門前の市場へ散らばっている。倒れた屋台から林檎が転がり、泥水に落ちた布地を、逃げる人々が踏んでいった。その間を、黒い獣が走っていた。狼に似ているが、背丈は普通の狼より大きい。背骨に沿って硬い突起が並び、開いた口から垂れる唾液が、石に落ちて白く泡立った。
屋根の上でも、何かが動いた。六本の脚が瓦を掴み、細長い翅が震えている。刃物のような前脚を備えた蟲型の魔物だった。翅の擦れる音が重なって、濡れた朝の空気を薄く震わせた。どちらも、戦ったことがある。一体ずつなら、動きは分かる。
けれど門の向こうには、まだ影が続いていた。
「門前から離れろ! 槍を並べろ!」
「城へ知らせろ! 東門が破られた!」
自警団らしい男が叫んでいた。そばの若者が槍を仲間へ渡し、人波の切れ目を縫って走り出した。数人が横倒しの荷車を盾に槍を構える。その後ろを、人々が押し合いながら逃げていく。エリナは柄を握り直した。通りへ出ようとして、足が止まった。荷車の陰に、見たことのある顔があった。首元の黒い筋を指し、腕を掴んで殴った男だった。今は屋台の柱へ背をつけ、青ざめた顔で東門を見ている。
あの男だけではない。この通りで顔を上げれば、自分を知っている誰かと目が合う。勇者だ、と叫ばれる。一昨日の声がまた重なって、魔物から守るはずの人たちに、後ろから引き倒されるかもしれない。エリナは壁へ肩を押しつけた。
「……助けなきゃ」
口にしたのに、足は動かなかった。助けなければならない理由なら、いくらでも知っていた。それでも怖かった。魔物の牙だけを見ていられないことが、怖かった。
通りの向こうで、子供が転んだ。前を走っていた母親が振り返ったが、間へ人が流れ込み、すぐには戻れなかった。子供は立とうとして片足を引きずり、泣きながら母親へ手を伸ばした。母親にも子供にも、見覚えはなかった。
屋根から、蟲型の魔物が降りてきた。薄い翅が折り畳まれる。六本の脚の先が石畳に触れ、前脚の一対がゆっくり持ち上がった。
エリナは息を止めた。子供は、こちらを見ていなかった。勇者様、と呼んでもいなかった。誰もエリナがここにいると知らない。このまま路地の奥へ下がれば、少なくとも今、助けなかったことを責める者はいなかった。
服の内側で、手紙の角が胸に触れた。
帰る場所はある。
父と母は待っている。
けれど、あの子にも、手を伸ばしている母親がいた。
「……もう」
エリナは震える息を吐いた。怖いものは、怖かった。考えたからといって、足の震えは止まらなかった。それでも、壁についていた手を離した。
「分かったよ……!」
誰への返事かも分からないまま、エリナは通りへ飛び出した。
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「勇者……?」
誰かの声がした。顔を向けなかった。蟲型の前脚が振り下ろされる。エリナは子供の前へ滑り込み、聖剣を斜めに差し出した。刃先も欠けているし、ヒビも入っている。意識して振らなければいけない。一歩深く踏み込む。硬い爪が刀身を擦り、耳の奥まで響く音を立てた。まともには受けなかった。
受ければ、腕か剣のどちらかが折れる。柄を傾けて爪を外側へ流すと、その先端が石畳を削った。跳ねた破片が頬に当たった。
「立てる?」
子供は泣きながら首を振った。足首を押さえている。エリナは唇を噛み、蟲型の脚を蹴った。倒せるはずもなかったが、身体の向きが少し変わった。
「お母さんのところまで。私の腕、掴んで」
子供が縋りついた。エリナは引き起こし、こちらへ駆け寄ってきた母親のほうへ押し出した。
「抱いて走って!」
母親が子供を受け取った。礼を言おうとした唇が、エリナの顔を見て止まる。「勇者」という誰かの声に、母親は子供を抱く腕へ力を込めた。その一瞬を見たくなくて、エリナは魔物へ向き直った。
横から翅が走った。肩に鋭い痛みが生まれ、遅れて服が温かくなった。屋根から降りた別の一体が、姿勢を立て直そうとしている。
エリナは後ろへ下がりかけた。荷車の陰から伸びた手が、襟の後ろを掴んだ。
「こいつだ!」
振り向かなくても、以前、私を殴った男だと分かった。
「やっぱりだ! 呪われた勇者がいるからだ!」
「そんなこと言ってる場合か!」
自警団の一人が怒鳴った。男の腕を掴んで引き離そうとしたが、エリナの襟を握った手は離れず、息が詰まる。傷のある肩をひねって、ようやく逃れた。
背後で二人の男が言い争っていた。私を殺せと叫んでいる、エリナは奥歯を噛み締めた。前にも、後ろにも、身構えなければならなかった。どちらを見ても、もう片方が見えなくなる。
蟲型の前脚が動いた。エリナはその付け根を見た。曲がる向きは分かる。刃のように見える外側は硬いが、脚を引きつけたとき、内側に細い節が現れる。そこへ、聖剣を差し込んだ。鈍い抵抗のあとで刃が通り、魔物が甲高く鳴いた。聖剣には、まだ力が残っていた。
使い手の腕を強くしてはくれなかった剣だが、それでも魔物を覆う魔力の膜には、小さな裂け目を開いてくれる。その隙間へ、自分で刃を届かせなければならない。エリナは柄を引いた。一体目が崩れた。倒れた身体を盾にし、もう一体の突進を横へかわす。息を吸うと、少し身体に力が戻る。だが、止まる暇はなかった。
狼型が、荷車の陰を抜けてくる。
「右、来る!」
エリナは叫んだ。自警団の槍が動いたが間に合わない。獣が鼻先を引いた、その一瞬に間へ入り、前脚の腱を斬る。動きは、覚えていた。相手が跳ぶ前に沈む肩も、翅を広げて向きを変える癖も、逃げる人間を追うときに低くなる頭も。覚えるまでには、何度も間違えた。
そのたびに傷ができ、怖さが増えた。それでも次に同じ動きを見たとき、身体は少しだけ早く反応するようになった。三年間に身についた足運びと右手の動きは、左腕が戻ってもなくならなかった。今までの三年間は無駄ではなかった。
左手を添えられるようになったからといって、力任せに受け止める戦い方へ変えるつもりもなかった。蟲型の節へ、もう一度刃を入れた。今度は引き抜くときに、嫌な手応えがあった。
細い音がした。エリナは剣を見た。柄の近くにあった亀裂が、刀身の両側へ広がっていた。
「……待って」
誰に頼んだのか、自分でも分からなかった。次の魔物が迫った。避けきれず、爪を刃の根元で流そうとした。乾いた音とともに、剣が軽くなった。銀色の破片が宙へ散った。一つが手の甲を裂き、別の一つが石畳を跳ねて、排水溝の縁で止まった。そこに映っていた淡い光が、ゆっくり消えていった。
手元に残ったのは、柄と、指ほどの長さの刃だけだった。エリナはそれを見つめた。銀の鞘を初めて抱えたときには、重くて腕が沈んだ。今は、あまりに軽かった
門の向こうで、新たな咆哮が上がった。
「武器を捨てろ!」
背後で声がした。自警団とは別の男が持っている槍の穂先が、視界の端に入った。こちらへ向いている。
「お前、何をした!あの呪いで、魔物を呼んだんじゃないのか!」
「違う……」
槍を避けて下がった足が、割れた敷石に取られた。エリナは膝をつき、傷のある手で地面を押さえた。手の甲から落ちた血が、薄く広がる。
「私……戦ってるの……」
立とうとすると、肩から血が流れた。
「見れば、分かるでしょ……」
男の顔には恐怖があった。だからといって、向けられた穂先が鈍くなるわけではなかった。エリナは柄を握り直した。助ければ、分かってもらえると思ったわけではない。それでも、少しくらいはと思っていたのかもしれない。その期待まで踏みにじられる痛さに、目の奥が熱くなった。
帰りたかった。こんなところで、また血を流したくなかった。
けれど振り返ると、荷車の後ろにまだ人がいた。転んだ老人を、若い男が起こそうとしていた。あそこへ狼型を通したくなかった。エリナは片膝を起こした。立ち上がるまでに、二度、足が滑った。
「……やどかりさん」
息と一緒に、名前が漏れた。どこにもいない男に腹が立った。聞くだけ聞いて、いなくなって。こちらはまだ、こんなところにいる。
「見てる……?」
槍を無視して、短くなった刃を魔物へ向ける。
「私……まだ、飛んでるよ……」