「見てるぞ」
エリナは振り返った。
「ずいぶん、かっこいい姿じゃねえか」
やどかりがいた。通りの端から、倒れた屋台を回り込んでくる。外套の裾は泥で汚れ、肩には昨日はなかった裂け目があった。手には、一本の剣を鞘ごと持っていた。その顔を見た瞬間、安心より先に怒りがこみ上げた。
「……遅い……」
「すまんかった」
群衆が割れた。大袈裟に道を譲ったわけではない。ただ、近づいてくる男を気味悪がるように。あるいは、何か面倒なものに巻き込まれたくないとでもいうように。
人々が左右へ退いていく。その中央を、やどかりが歩いてきた。
やどかりは足を速めて、エリナへ向けられていた槍を手の甲で横へ押し、男へ短く言った。
「穂先はあっちだ。敵を間違えんな」
荷車の陰で、男が屈んだ。拾い上げた石が頭の高さまで上がる。やどかりはエリナとの間へ身体を入れた。飛んできた石が外套の肩口へ当たり、足元に落ちた。それを無視して、やどかりはエリナの前へしゃがんだ。
やどかりはエリナの肩を見て、鞄から薬を取り出した。
「傷見せろ、痛むぞ」
エリナがやどかりの方へ肩を向けると、その上から、薬の蓋を開けて乱暴に掛け流し始めた、痛みでエリナが身を引いても止めてくれなかった。
「乱暴すぎ、それ本当は飲むやつだよ」
「でもこれが一番早いぞ」
「……ありがとう、……めちゃくちゃ痛いけど」
先ほどとは違い、少し痛みは残っているが、どちらの腕も、痛みに身構えながら自分で動かすことができるようになった。
「逃げるなら、あっちだぞ」
「……意地悪、そんなことしない」
やどかりが顎で路地を示した。エリナはそちらを見たあと、荷車の後ろに残る人々へ顔を戻した。
「プレゼントがあるんだが、いるか?」
やどかりが、持ってきた剣を上げた。
「いる」
今度はすぐに答えた。
やどかりは鞘から抜き、柄をこちらへ向けた。銀の装飾も、光る石もなかった。刃はまっすぐで、研がれた縁だけが朝の乏しい光を返していた。柄に巻かれた革は新しく、握ると掌へわずかに沈んだ。重かった。その重さが嬉しかった。
「そいつを使って俺たちを助けてくれ」
エリナは、周囲を見る。こちらを見て様子見している人たち。魔物に襲われて逃げ惑う人たち。そして、今もエリナに死ねと叫んでいる人たち。
「全員?」
「全員だ」
「ほんと……、意地悪だね……」
「よく言われる」
母親に抱かれながらこちらを見ている子供に視線を向ける。
「私、あの子を助けたかったの」
「ああ」
「ほかの人も……死ぬの、見たくなくて」
「でも、もうこれじゃ勝てない」
聖剣の柄を持ち上げると、残った刃は指より少し長いだけだった。
壊れた聖剣の柄を、足元の乾いた木箱の上へ置く。それから、新しい剣を両手で持って立ち上がった。
「後ろは俺が何とかする」
やどかりも立ち上がった。
「前、頼めるか」
エリナは東門を見た。肩を動かし、指を一度曲げた。痛みは残ったが、柄は握れた。刃物のような爪も、濡れた牙も、さっきと同じように怖かった。ただ、後ろを任せられる人がいて、前へ向ける剣があった。
「……うん。お願い」
背後で、何かが石畳を跳ねた。振り向くと、やどかりの頬に赤い筋が走り、口元へ血が伝っていた。肩越しに見えた手が、次の石を拾おうと伸びていた。やどかりは、エリナの背中と群衆の間から動かなかった。
「やどかりさん!」
「いいから行け」
「でも……!」
「こっちは俺が引き受けた」
やどかりは群衆へ向き直った。エリナは唇を噛んだ。周囲すべてを見ていなければと思う癖が、まだ身体に残っていた。前も、後ろも、倒れる人も、石を拾う手も。けれど、今は任せると決めた。エリナは魔物へ向き直った。
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最初の狼型には、半歩だけ近づいた。獣が跳ぶ。後ろへ逃げず、身体を横へずらす。開いた顎の下へ刃を通すと、重い衝撃が腕へ返った。聖剣のようには斬れなかった。魔力の膜に刃先が弾かれ、角度がわずかにずれた。エリナは力任せに押さず、首の動きに合わせて柄を引いた。
薄い喉元へ刃が入った。どうやらやどかりは良質な剣を選んできたらしい。獣が足元を通り過ぎ、横倒しになった。次の一体が来る。エリナは息を吐いて構え直した。
「よう、馬鹿ども、よく見ろよ」
背後で、群衆を挑発し始めたやどかりの声がした。いきなり挑発するなと言いたかったが、今は、それどころではない。
「あいつが何してるか、ちゃんと見ろ」
「何を見ろってんだ!」
男が怒鳴り返した。
「勇者がいるから魔物が来たんだろ!」
「今、魔物を止めてんのがその勇者だろうが」
エリナは二体目を荷車から引き離した。子供を抱えた女が逃げる隙間を作り、追おうとする獣の前へ立つ。
「前に首を見た! あの黒いのは、魔王の呪いだろ!」
「それが魔物を呼ぶってのは、誰に聞いた」
「みんな言ってる! 今だって、こうして来てるじゃねえか!」
男の指が、崩れた門を示した。その先では魔物が荷車へぶつかり、止める槍が大きく撓んでいた。恐ろしいものが目の前にあることだけは、本当だった。
「あいつが連れてきたところを見たのか」
やどかりは、石を握り直した男の手を見ていた。
「今、あいつが戦ってるのは見えるだろ。その背中に石を投げて、誰に魔物を止めてもらうつもりだ」
男は石を握ったままだったが、その腕は下がった。エリナの前で蟲型が翅を開く。風を受ける角度が変わった。飛ぶつもりだ。踏み込んで、脚の節を斬った。跳び上がりかけた身体が傾き、石畳へ落ちる。
「でも、魔王は生きてる!」
別の声がした。
「三年だぞ! 三年も、空は暗いままだ!」
エリナの肩が強張った。息を吸い直し、刃を引いた。
「三年、あいつは戦ってる、俺たちを守るためにだ」
やどかりの声は、さっきより低かった。
「魔王には負けた。それでも、国中回って魔物を倒して、人を助けてきた」
「それが何だってんだ! 魔王は倒せてねえ! 意味ねえじゃねえか、あいつなんていなければいいんだ!」
「魔王にボロボロにされて、それで左腕も動かなくなった。それでも立ち上がって、人を助けているやつが、悪者になるのか?」
剣を引く手が、わずかに震えた。エリナは顔を上げなかった。今、後ろを見たら、うまく立っていられなくなりそうだった。
「あいつ一人なら、もう逃げられるぞ」
やどかりが言った。
「魔王に負わされた傷は治った。剣もある。お前らを置いて、逃げることだってできる」
狼型が荷車の左を回り込もうとした。エリナも左へ動いた。獣の目が、こちらを向く。
「それでも、あそこにいる」
やどかりの声が続いた。
「お前らの前に立ってる」
エリナは斬りつけた。獣が退いた。勝手に胸が詰まったので、大きく息を吐いた。泣くならあとにしなければならなかった。
「……見栄張ってるだけだろ」
群衆のどこかで、男が呟いた。血に汚れた刃が、一瞬だけ重くなった。
「俺には、そう見えねえな」
やどかりが答えた。
「怖いくせに、こっちへ来るなって踏ん張ってる。あんな顔してまで、俺たちを守ってる」
「かっこいいだろ」
エリナは奥歯を噛んだ。
「……今、言わないでよ」
小さな声は、翅の音に消えた。指が緩みかけた柄を握り直し、もう一歩前へ出た。
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すべての声が、やんだわけではなかった。まだエリナを疑う者もいた。やどかりへ罵声を浴びせる者も、何も言わず通りを離れる者もいた。ただ、石を投げる腕は上がらなくなった。やどかりが間に立ち、誰かが屈むたびにそちらへ目を向けた。背後で石の跳ねる音がしないまま、エリナは何度か剣を振れた。
「店の奥に子供がいるんだ」
商人らしい男が言った。店へ続く狭い道を塞ぐように立ち、握った拳を胸の前へ寄せていた。濡れた掌を服へ擦りつけ、それからまた、門へ目を向けた。
「あの呪いで、また来たらどうする。中に入れなきゃよかったんだ。外にいてくれれば……」
「そのおかげで、襲われなかったかなんてのが、お前に分かるのか」
男は返事をしなかった。エリナにも聞こえていた。以前、戸口で聞かれた問いとよく似ている。自分がいなければ大丈夫だったと、答えられる人も、ここにはいなかった。
商人は、剣を振るエリナへ目をやったが、その顔から恐れが消えたわけではなかった。
「だからって、すぐ信じろと言われても……みんなが言ってるんだぞ」
「だったら、まずは、自分の目で見ろ。お前の子供がいるほうへ魔物を通さねえように、あいつがどこに立ってるか」
狼型がエリナの横を抜けようとした。エリナは足を踏み替え、獣と店の戸口の間へ入った。押し返す刃へ重みがかかり、商人の返事までは聞き取れなかった。
「あいつ、田舎の食堂の娘だったんだ」
田舎は余計だと思ったが、エリナは剣を振り続けた。
「父親の横で野菜切って、母親に呼ばれたら皿を運んでた。剣なんて持ったこともなかった」
やどかりの声が、通りに通った。
「そんな娘に世界を救えって言って、ボロボロになって帰ってきたら、今度はその傷を理由に追い出すのか」
誰も答えなかった。屋台の上で翅が鳴り、やどかりが近くの男の襟を掴んで引いた。振り下ろされた前脚が、さっきまで頭のあった場所を削る。エリナは踏み込み、次の一撃が来る前に魔物を通りへ押し戻した。
「自分の子供にも、同じこと言えるのかよ」
女が、胸の前で固く握っていた手を下ろした。指を一本ずつ開き、足元に落ちた石へ目をやり、自分の服の裾を掴んでいる子供を見た。さっき助けた親子だった。
衣擦れの音がして、子供を連れた女が荷車の陰へ駆けた。母親の声がした。
「この人、歩けません。誰か、反対側を持って!」
荷車の陰で座り込んでいた老人へ、女が肩を貸していた。近くの男が戸惑いながら手を伸ばす。二人で老人を起こすと、子供が先に立ち、建物の戸を叩いた。
エリナは視線を前へ戻した。呼吸が速くなっていた。左腕は動く。けれど、剣を振るたびに肩の傷が引き、右腕も重くなった。左腕が治ったとはいえ、酷使し続けた身体は、何もかも元どおりというわけにはいかなかった。
東門には、まだ魔物の影があった。このまま全部を相手にできるだろうか。エリナは数えようとして、途中でやめた。
「なあ、俺たちにもやれること、あるだろ」
やどかりが言った。
「剣を持てねえなら、持たなくていい。怪我人を運べ。道を空けろ。子供を家に入れてやれ」
「……俺たちが出たって、足手まといだ」
「今そこで味方を追い払おうとしてるよりは、よっぽどましだよ」
誰かが、短く息を漏らした。笑ったのか、泣いたのか、エリナには分からなかった。
「三年間、あいつに任せてたんだ」
やどかりの声に、少しだけいつもの軽さが戻った。
「そろそろ、手伝ってもいいんじゃねえか」
槍を持った自警団の男が、エリナの斜め後ろへ動いた。穂先がこちらを向いたので、エリナは反射的に肩を引いた。男はそれを見て、一瞬動きを止めた。それから槍を持ち替え、路地へ入ろうとした狼型へ向けた。
「こっちは……止める」
エリナの顔を見ないまま、男が言った。
「そっちを頼む」
返事をする前に、蟲型が迫った。エリナは踏み込んだ。刃を引いたあと、背後を確かめると、狼型はまだ槍の向こうにいた。初めて、一体を見なくて済んだ。そのことだけで、息を吸う隙間ができた。
東門の向こうから、低い咆哮が響いた。これまでの獣とは違っていた。喉で鳴らす声というより、大きな扉を地面の底で引きずっているような音だった。足元の水たまりに細かな波紋が広がり、倒れた屋台の金具が震えた。エリナは門を見た。崩れた扉の向こうに、影があった。
門柱より低い位置で、何か太いものが動く。腕に見えた。その奥でもう一本、さらに別の一本が動いた。剣を握る指が冷たくなった。やどかりも、その音を聞いた。群衆から顔を背け、エリナのほうへ歩き出す。
「おい、どこ行く!」
商人が声を上げた。
「前」
「お前まで行って、どうするんだ!」
「あいつ一人じゃ、大変そうだろ」
やどかりは腰の剣を抜いた。頬を流れた血は顎で乾きはじめていた。かっこつけるには、ひどい顔だった。
「勇気がある者を勇者って呼ぶらしいが」
振り返って、言葉を投げつけた。
「一人だけ、勇者って呼ばれるのはずるいじゃねえか」
やどかりは、さらに言葉を続ける。
「そこで自分を守ってくれる奴に文句を言い続けるか。それとも、勇気を出して行動するのか」
「お前たちは何がしたい?」
エリナの方へ向き直り、石畳を踏んで一歩踏み出した。
「俺は、カッコいいほうを選ぶぜ」