エリナは、やどかりにカッコつけすぎだと言い返そうとした。けれど、声にするより先に頬が上がったので、口を閉じた。
あの人までこちらへ来る。カッコつけるために、剣を持って歩いてくる。その足音を、魔物の声の間にも聞き分けられた。
蟲型の前脚が迫ったので、まずそれをかわさなければならなかった。横へ回り、脚を斬り、倒れた身体を越えて、もう一体へ剣を向ける。
その間にも、足音が近づいていた。やどかりのものだと思った。けれど、一人分にしては多かった。革靴の音に、木底の靴が混じる。何かを引きずる音が続き、息を切らした声が近くで聞こえた。
エリナは振り返った。
やどかりの後ろには、斧を持つ男や、長い棒を握った商人がいた。鍋の蓋を胸の前へ構えた料理人は、こちらへ来る途中にも、一度持ち手を握り直していた。
麺棒を持って出てきた男は、自分の手元を一度見て、少し心細そうな顔をした。それでも戻らず、前掛けの裾で汗を拭った。誰も、頼もしそうには見えなかった。腕は強張り、魔物が鳴くたびに肩が跳ねた。自分から一歩進んできたことを、もう後悔しているような顔の人もいた。
それでも、そこに立っていた。
「おい、食堂の嬢ちゃん!」
先頭にいた老人が叫んだ。片方の袖が肘の先で結ばれていた。残った手には、使い込まれた肉切り包丁が握られている。エリナの胸が跳ねた。勇者様ではなかった。食堂の嬢ちゃん。旅立つ日に置いてきたはずの自分へ、声をかけられた気がした。
「俺たちは、何をすりゃいい!」
「……え……」
「聞こえなかったか!」
老人は少し顔を赤くした。
「手伝いに来たって言ってんだ!」
エリナは口を開いた。説明しなければならない。東門からまだ来る。狼型は横へ回る。蟲型は屋根から降りる。あの大きな影が入ってくれば、通りの真ん中には立たせておけない。分かっていることはいくつもあった。
けれど、口にすれば、この人たちは危険のある場所へ動く。街道で冒険者を呼び止めかけたときと同じ恐れに、喉が狭くなった。自分でできるようになるまで待てば、頼まずに済む。ずっとそう考えてきた身体が、今も言葉を飲み込もうとしていた。
目の前の人々は、まだ動かずにいた。命じられて連れてこられた者たちではなかった。怖がりながら自分でここまで来て、何が要るのかを聞いていた。やどかりが手を上げた。
「よう、食堂の嬢ちゃん」
「やっぱ、勇者ってのは意外とどこにでもいるものらしい」
友人との待ち合わせに来たような声だった。
「指示を出してくれ。俺たちにカッコつけさせてくれ」
エリナは男を見た。勝手に来て勝手に助けて勝手に消えた人が、今は自分の言葉を待っていた。その後ろにいる人々も、同じだった。エリナは息を吸った。カッコつけさせなければ可哀想だと思った自分に少し笑った。
「……東門から、まだ来てる」
声が震えたので、もう一度吸い直した。
「狼型を路地へ入れないで。人が逃げてるから。槍の人たちは、荷車の横を塞いでほしい」
男たちが頷いた。
「屋根にもいるから、上を見てる人がほしい。降りてきたら、教えて」
「俺が見る!」
商人が棒を持ち上げた。エリナは麺棒の男を見た。
「あなたは、戦わなくていい」
「お、俺?」
「怪我した人を、奥の建物へ。歩けない人がまだいるの」
男は自分の麺棒を見下ろし、それから大きく頷いた。
「分かった!」
門の向こうで、再び咆哮が上がった。全員の顔がそちらを向いた。エリナの足も震えた。けれど背後では、すでに誰かが動きはじめていた。荷車を押す声がする。倒れた人へ呼びかける声がする。自警団の槍が、左右へ分かれて道を作った。全部、自分でしなければならないと思っていた。
今も、そうしようとしてしまう。それでもエリナは、彼らへ顔を向けた。
「全員を助けたい、あなたたちも含めて、でも一人じゃ、手が足りないの」
言ってしまえば、ひどく当たり前のことだった。それなのに、続く言葉を口にするまで、喉が詰まった。
「……お願いします。手を貸してください」
「おうよ」
その返事を合図に、人々が動きはじめた。荷車の車輪へ肩を入れた男たちが、声を合わせて押した。泥に嵌まっていた車輪が軋みながら回り、路地へ通じる隙間が狭くなる。その両脇へ自警団が槍を差し出すと、回り込もうとしていた狼型の魔物が足を止めた。
「こっちだ! 歩ける奴は奥へ!」
麺棒を腰紐へ差した男が、倒れた老人の脇を抱えた。子供を連れた女が戸口を押さえ、その向こうでは別の誰かが卓をどけている。逃げ込む場所ができると、人の流れが変わった。押し合っていた背中が一つずつ通りから消え、足元を気にせず剣を振れる場所が、エリナの前に広がっていった。
「屋根だ!」
棒を持った商人が叫んだ。
「右の、煙突の横!」
エリナは顔を上げた。蟲型が翅を広げていた。瓦を蹴る前に、その姿を見つけられた。
「見えた!」
降りてくる先へ踏み込み、着地する脚の節へ刃を入れる。魔物が傾いたところで喉元を突き、引き抜くと同時に後ろへ下がった。背中に、人がぶつからなかった。そこを、誰かが空けてくれていた。
エリナは大きく息を吸った。ほんの少し前まで、通り全体が自分へ覆いかぶさってくるようだった。目を向けなければならない場所が多すぎて、一つを見れば、ほかの何かを失う気がした。
今は、声が届いた。右にいる。上から来る。そこは通れる。自分の目が届かない場所を、誰かが見ていた。エリナは振り返りかけた顔を前へ戻した。声に従って一歩寄せた足の先には、本当に、人の通れる隙間が空いていた。
「無理すんなよ!」
やどかりが、荷車の横から叫んだ。
「止めるだけでいい! 倒そうとして前へ出るな!」
長い棒で狼型を押さえていた男が、慌てて半歩下がった。そこへ槍が添えられ、獣の鼻先が引っ込む。
「怪我した奴は後ろへ! 後ろにも仕事はあるぞ!」
声に応じて、血の滲んだ腕を押さえる男が退いた。入れ替わりに別の男が荷車へ肩をつける。誰も、慣れてはいなかった。呼びかけが重なって聞き取れないことも、同じ荷物を二人で取りに走ることもあった。それでも、何かが少しずつ噛み合っていく。エリナ一人では作れなかった時間が、少しずつ生まれていた。
これなら勝てると思った。そのとき、東門の門柱が震えた。外側に残っていた石が幾つか剥がれ落ちる。土煙の向こうから太い指が現れ、崩れた扉の端を掴んだ。門板が持ち上がった。人が何人がかりでも動かせなかったものが、邪魔な枝でも払うように横へ投げ捨てられた。
通りの声が、途切れた。四本の腕を持つ魔物が、門をくぐっていた。背を丸めてなお、肩が石組みを擦っている。頭には三本の角があり、濡れた鱗の間から、暗い赤色が脈打つように明滅していた。一歩踏み込むと、足の下で石畳が割れた。
「……おいおい」
肉切り包丁を持った老人が呟いた。
魔物を見ているはずなのに、その奥に別の影が重なった。魔王城の石床。何が起きたのかも分からないまま、壁へ叩きつけられた身体。動かない左腕。剣を握る手から、血の気が引いていった。左腕はもう動く。それでも、あの石床を思い出すと、身体は固くなった。
浅い息を吐き切ろうとしても、途中で喉が詰まった。エリナは柄を握り直し、今、足の下にある石畳を踏みしめた。
「エリナ」
やどかりが隣へ来た。エリナは魔物を見たまま、返事をした。
「……見えてる」
「そうか」
「怖いよ」
「ああ。俺も」
意外な答えで、エリナは横を向いた。やどかりは四本の腕を見上げていた。剣を握る手を一度開き、革の柄を握り直している。
「お前、あれに似た奴と戦ったことあるか?」
「……もっと、小さいのなら」
「どうやって倒した」
エリナは記憶を探った。街道沿いの岩場だった。石のような皮膚に刃が滑り、まともには傷をつけられなかった。何度も逃げながら、首を動かすたびに開く鱗の隙間を見つけた。
「首の付け根。鱗が薄いところがあった」
口にすると、魔王の影が少し薄れた。目の前にいるのは、別の魔物だった。まだ一度も剣を当てていない。何が通じて、何が通じないのかも、確かめていなかった。背後で荷車が軋んだ。振り返ると、男たちが肩を入れ直していた。巨大な魔物を見て青ざめながらも、小さな獣を通さないよう、必死に踏ん張っている。
老人が、エリナの視線に気づいた。
「でかいのは、俺らじゃ無理だ」
震えている包丁を、少し下げた。
「だが、小さいのまでそっちへやるつもりはねえよ」
エリナは男たちを見た。怖いのは、自分だけではなかった。それでも、自分にできることを手放さずにいる。
「……うん」
エリナは頷いた。
「お願いします」
やどかりが半歩退き、道を空けた。
「あれ、任せてもいいか」
エリナは剣を持ち上げた。刃の向こうで、魔物が低く唸った。
「……やってみる」
今の自分に言えるのは、それだけだった。必ず勝つとも、全部任せてとも言えなかった。けれど、やどかりは不満そうな顔をしなかった。
「おう、頼んだぞ」
その返事を背中に受けて、エリナは走り出した。