停戦の交渉をしていたはずが、なぜかギレン総帥が猫を飼い始めました。 作:山田 川田
シャア・アズナブルは、猫を飼い始めていた。理由は、本人にもよく分からない。
少し前、ギレン・ザビの自宅を訪れた時、一匹の猫を見た。ギレンの猫だった。猫はまったく緊張する様子もなく、ただ座っていた。
その姿を見てからしばらくして、シャアも猫を飼い始めた。ただし、ギレンの猫とは性格がまるで違った。
走る。とにかく走る。部屋の端から端まで走る。突然止まる。そして、また走る。理由は分からない。
部下が猫を見る。
「少佐」
「何だ?」
「あの猫は、何をしているんです?」
シャアも猫を見る。猫は猛烈な勢いで部屋を横切った。
「分からん」
「…………」
しばらくすると、また戻ってきた。速い。
シャアは腕を組んだ。
「しかし、速いな」
「そうですね」
その日の新聞がテーブルの上に置かれていた。シャアは何気なくページをめくる。そこで手が止まった。
『貫禄のギレン総帥の猫――取材陣にも動じず』
写真には、机の上で堂々と座っているギレンの猫が写っていた。
シャアは記事を見る。それから、自分の猫を見る。猫が走る。シャアの前を一瞬で通過した。
「…………」
もう一度、新聞を見る。
『貫禄のギレン総帥の猫』
シャアは言った。
「……こちらの方が速いな」
部下が顔を上げた。
「何の話です?」
シャアは新聞を畳んだ。
「少し出かける」
「どちらへ?」
「決着をつけに行く」
「何のです?」
◇
その頃、ギレンは自宅で仕事をしていた。停戦交渉はすでに長期化している。戦闘はほとんど止まっていたが、和平条約そのものはまだ完成していない。
自治権。軍の扱い。通商。戦後復興。捕虜の帰還。決めなければならないことはいくらでもある。
机の上には、そのための書類が積まれていた。ギレンは一枚ずつ確認している。
その机の真ん中に、猫が座っていた。何もしていない。ただ座っている。
そこへ警備員が入ってきた。
「総帥、シャア・アズナブル少佐がお見えです」
ギレンは書類から顔を上げた。
「何の用だ?」
「それが……」
警備員が困った顔をした。
「猫を連れておられます」
「……」
ギレンはしばらく黙った。
「入れろ」
しばらくして、シャアが入ってきた。猫もいる。
ギレンはシャアを見る。次に猫を見る。そして、またシャアを見る。
「……何をしに来た?」
「決着をつけに来ました」
「……何の決着だ?」
シャアは猫を床へ下ろした。
次の瞬間、走った。
室内を、シャアの猫が猛烈な勢いで横切った。机の横を抜ける。椅子の下を通る。壁際で方向転換する。また走る。
ギレンは黙って見ている。ギレンの猫も見ている。動かない。
シャアの猫が再び走る。速い。机の上に飛び乗り、積まれていた書類を蹴散らした。
紙が床へ落ちる。一枚、二枚、さらに何枚か。
和平交渉に関する重要書類だった。
「……」
ギレンは床を見る。シャアを見る。また猫を見る。
猫はまだ走っている。ギレンの猫は座ったままである。
「少佐」
「何でしょう」
「猫を連れて帰れ」
シャアは微笑んだ。
「では、私の勝ちですね」
「……何の話だ?」
シャアは猫を抱き上げ、大声で笑いながら部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
「……」
ギレンはしばらくドアを見ていた。それから床を見る。和平交渉に関する重要書類が散乱している。
ギレンの猫は、ずっと机の上に座っていた。
「……何をしに来たのだ?」
◇
翌日、新聞各紙に奇妙な記事が掲載された。
『猫対決――赤い彗星の猫は三倍速い?』
記事には二匹の猫の写真が並んでいる。
『速さのシャアの猫』
『貫禄のギレンの猫』
記事によれば、シャア・アズナブル少佐が猫を連れてギレン総帥の自宅を訪問。シャアの猫は室内を猛烈な速度で走り回った。
一方、ギレンの猫はほとんど動かず、その様子を眺めていたという。
シャアは新聞を読んでいた。
部下も横から記事を見る。
「でも、ギレン総帥の猫は何もしていませんよね」
「それは向こうの戦術だ」
「戦術?」
シャアは新聞を見る。
『速さのシャアの猫』
『貫禄のギレンの猫』
「速さではこちらの勝ちだ」
「貫禄では負けているようですが」
「……」
シャアは少し考えた。
「一勝一敗か」
シャアはもう一度、記事を見た。
「いや、三倍速いなら、三勝一敗でこちらの勝ちだ」
「そういう計算なんですか?」
シャアは新聞を畳んだ。
「これでいい」
「何がです?」
「ザビ家との決着だ」
「……」
部下はしばらくシャアを見ていた。
「……何の話ですか?」
◇
その記事は、連邦側でも読まれていた。
停戦が続くようになってから、ジオン側の新聞や放送が連邦側へ伝わることも珍しくなくなっている。
ある連邦軍施設の休憩室。数人の兵士が新聞を囲んでいた。
「おい、これ見ろよ」
「何だ?」
新聞を広げる。
『猫対決――赤い彗星の猫は三倍速い?』
「赤い彗星って、あの赤い彗星だよな?」
「ああ」
「猫飼ってるのか」
「らしいな」
別の兵士が記事を覗き込む。
「しかも三倍速い」
「猫がな」
笑い声が起きた。
「ギレンの猫、全然動いてないぞ」
「貫禄らしい」
「何だよ、それ」
また笑い声が起きる。
少し前まで、「赤い彗星」という名前は恐怖の対象でしかなかった。
◇
数日後、シャアは連邦側との打ち合わせに出席するため、連邦軍の施設を訪れていた。
廊下を歩いていると、少し先にいた二人の兵士がシャアに気づいた。
「赤い彗星だ」
「ああ」
小さな声が聞こえる。
「猫の?」
「猫の」
シャアの足が止まった。二人を見る。連邦兵が固まった。
「何か?」
「い、いえ!」
シャアはしばらく二人を見た。そして、そのまま歩いていった。
姿が見えなくなる。
「……」
一人が息を吐いた。
「……やっぱり怖いな」
「ああ」
少し間があった。
「でも、猫飼ってるんだよな」
◇
サイド3。
ギレンも同じ新聞を読んでいた。
『猫対決――赤い彗星の猫は三倍速い?』
「……」
ギレンは記事を見る。
『速さのシャアの猫』
『貫禄のギレンの猫』
「私は仕事をしていただけだ」
椅子にいる猫を見る。
「お前も座っていただけだ」
「……」
新聞を閉じた。
「なぜ対決したことになっている?」
ギレンの猫がいつものように座っていた。
◇
その夜、シャアは自宅で猫を見ていた。猫は今のところ走っていない。
シャアはしばらく黙っていた。
「馬鹿なことをしたと思うか?」
猫はシャアを見る。
「多くの人が家族を失った。私だけではない」
シャアは少し黙った。
「馬鹿なことでも、何でもいい。どこかで決着は必要だ」
「これ以上、誰も死なないことが一番だ」
「どう思う?」
猫は走りだした。
「……」
シャアは走り回る猫を見ていた。
「さて、明日から、どう生きようか?」
◇
翌日、ギレンは執務室で和平交渉の書類を確認していた。
昨日までと同じように、仕事は山ほどある。
そこへ秘書が入ってきた。
「閣下、お手紙です」
一枚のカードを机の上に置く。
ギレンが顔を上げた。
「誰からだ?」
「こちらに」
秘書はそれ以上説明しなかった。
「それでは、失礼します」
すぐに部屋を出ていく。
ギレンは閉じたドアを見る。
「……」
机の上の手紙を見る。
『ギレン・ザビ様
私のことをお忘れですか?
猫を見せてくれると言いましたよね。
お仕事がお忙しいのであれば、仕方がないと思っていました。
でも、赤い彗星とは楽しそうに遊んでいましたね。
あなたは冷たい人ですね』
「……」
ギレンは手紙を見た。
もう一度、最初から読む。
『私のことをお忘れですか?』
読む。
『猫を見せてくれると言いましたよね』
読む。
『でも、赤い彗星とは楽しそうに遊んでいましたね』
「……」
ギレンは立ち上がった。ドアを開ける。
「待て!」
廊下を歩いていた秘書が振り返った。
「はい?」
「戻れ!」
「何かございましたか?」
「緊急事態だ!」
「……はい?」
「早く入れ!」
秘書が慌てて執務室へ戻った。ギレンは手紙を机の上に置く。
「今から対策会議だ!」
「対策会議……ですか?」
「そうだ」
ギレンの表情は真剣だった。
「議題は手紙の返信についてだ」
「……」
こんなに慌てた総帥を、初めて見た。
ついに次回が最終話です。