停戦の交渉をしていたはずが、なぜかギレン総帥が猫を飼い始めました。 作:山田 川田
二日目の夕方。
ギレンは獣医師と共に、猫を連れて自宅へ戻った。
猫は部屋に入ると、周囲を見回した。慎重に歩きながら、家具の匂いを嗅いでいる。ギレンはその様子を見ていた。
「何をしている?」
「自分のいる場所を確認しているのではないでしょうか」
猫は机の下へ入る。出てくる。椅子の周囲を歩く。窓の近くまで行く。部屋を一周すると、ギレンの仕事机の上に飛び乗った。
ギレンが見る。
「……」
猫は机の上を少し歩き、その場で身体を丸めた。
「寝るのか?」
猫は目を閉じた。
獣医がその様子を見る。
「どうやら、ここを気に入ったようです」
「私の机だぞ」
「そのようですね」
猫はすでに眠っていた。
「……」
ギレンは机の上で寝ている猫を見る。
「明日から勤務だが、こいつはどうする?」
「猫ですか?」
「そうだ」
「ここにいるのではないでしょうか」
「私が仕事をしている間も?」
「猫ですので」
ギレンはもう一度、猫を見る。猫は机の上で眠っていた。
◇
翌朝。
ギレンは執務室へ戻った。机の上には、休暇中に届いた報告書が積まれている。最初に手に取ったのは、南極で続いている和平交渉の報告書だった。
一枚読む。次をめくる。また次をめくる。ギレンの指が机を叩いた。
独立問題、未決。
自治権、未決。
軍備、協議継続。
捕虜交換、協議継続。
ページをめくる速度が少しずつ速くなる。何も決まっていない。
やはり休暇など取るべきではなかった。随時こちらから指示を出していれば、もっと交渉は進んでいたはずだ。
人選を間違えたか。マ・クベでは駄目だったのか。ならば交代させるか。それでも進まなければ、交渉中止も考えなければならない。
ギレンの指が止まった。
交渉中止。
そうなれば、次は軍事行動だ。奇襲作戦。戦力の再配置。補給体制の確認。参謀本部はどこまで準備している。
ギレンは報告書を机に置いた。少し強い音がした。
「マ・クベを呼べ」
「はい」
側近がすぐに動いた。ギレンは次の報告書を手に取った。
数秒後。
「まだか」
「現在、南極へ接続しております」
「急がせろ」
「はい」
ギレンは報告書に目を戻した。指が再び机を叩き始めた。
しばらくして、モニターにマ・クベが映った。いつも通り、無表情で直立している。
ギレンは書類に目を落とした。
「まず、議題第一案のジオン公国の独立については、どこまで進んでいる?」
マ・クベが答える。
「連邦側は、現時点ではジオン公国の完全な独立を承認できないとの立場を維持しております。ただし、今後も協議を継続することについては異論ありません」
ギレンの指が机を一度叩いた。
「では、第二案として提示されていた自治権については?」
「自治権の拡大については検討の余地があるとのことです。ただし、その範囲について双方の主張に隔たりがあり、合意には至っておりません」
「捕虜交換については?」
「協議には応じております。しかし、人数や引き渡し方法については、まだ調整が必要とのことです」
「軍備は?」
「双方とも縮小には同意しておりません。現在も協議中です」
「警戒態勢は?」
「現状維持です」
ギレンは報告書を机に置いた。
「何も決まっていないではないか!」
マ・クベの表情は変わらなかった。
ギレンは次の報告書を手に取った。数枚めくり、また机に置く。
「……今まで、何をしていた」
声は先ほどより低かった。
「交渉を続けておりました」
「その結果が、これか」
「はい」
ギレンは何も言わなかった。時計の音だけが執務室に響いた。マ・クベはモニターの向こうに立っている。
ギレンは何も言わなかった。
時計の音だけが執務室に響いた。マ・クベはモニターの向こうに立っている。
ギレンは報告書を閉じた。交渉が決裂した場合に備える必要がある。
決裂後の奇襲。目標はルナツー。
いや、奇襲だけで攻略は不可能だ。
連邦も奇襲を行うか? 目標はソロモン? グラナダ?
いや、その戦力はない。
ルナツーを包囲して、救援に来る艦隊を攻撃する。
いや、すぐには来ないだろう。
ルナツーに奇襲をかけて、一撃離脱。その後、射程外から包囲する。
連邦は反撃すらできないと宣伝する。
いや、それでも、すぐには来るとは限らない。
やがて、マ・クベが口を開いた。
「総帥」
マ・クベは少し姿勢を正した。
「しかし、大きな成果が一つございます」
「何だ?」
「今日も、誰も死んでおりません」
ギレンは何も言わなかった。
机の上の報告書に目を落とす。一枚めくった。もう一枚めくる。
戦闘報告。
損害報告。
前線部隊からの報告。
ギレンの手が止まった。しばらく、そのまま報告書を見ていた。
マ・クベは何も言わない。
時計の音が聞こえた。
ギレンは報告書を閉じた。
「報告書に追加しておけ」
マ・クベは姿勢を変えていない。
「何と書きますか?」
ギレンはすぐには答えなかった。
しばらくして、口を開いた。
「本日の死者、ゼロとな」
マ・クベは黙ってその言葉を聞いた。
少し間があった。マ・クベは一礼した。
「恐縮です」
通信が終わった。
◇
九時。
二日中断していた軍上層部会議が始まった。
「現在まで、連邦側による重大な停戦違反は確認されていません」
「我が軍は?」
「同様です。小規模な問題はいくつかありましたが、現地司令部間の連絡で処理されています」
「戦闘には発展していないのだな」
「はい」
ギレンはうなずいた。
「ならば現行の対応を継続せよ。現場の判断だけで攻撃を開始させるな」
「はっ」
将兵は続けた。
「休暇中の将兵についてですが、第一陣の多くが部隊へ復帰しています。第二陣との交代を開始しています」
「問題は?」
「特にありません」
「休暇制度は継続する」
何人かの将校がギレンを見る。
「必要な警戒戦力を維持する。戦闘がないのに全将兵を前線へ拘束する必要はない」
「了解しました」
◇
仕事を終え、ギレンは帰宅した。
猫がいた。ギレンの椅子で眠っている。近づくと、目を開けた。
「ニャア」
猫はその場から動かない。ギレンはしばらく猫を見た。
「お前はいつも休暇だな」
猫は目を閉じた。帰る場所で待っている者が一匹増えていた。