あいつなんかおかしくね? 作:ループ者大好き侍
一周目、俺は彼女に出会った。名前も知らなかった。ただ、廊下ですれ違っただけの、それだけの出会いだった。それでも俺は彼女に恋をした。理由なんてなかった。強いて言うなら、彼女が笑うところを一度も見たことがなかったからかもしれない。
彼女は死んだ。
二周目。あれは夢だと思った。同じ朝、同じ天井、同じ光の角度。けれど夢にしてはやけに鮮明で、俺はすぐに気づいた。彼女がまた、そこにいることに。何も変わらなかった。何をしていいかも分からず、ただ様子を窺うだけの一日を過ごした。
彼女は死んだ。
三周目。少しずつ、仕組みに気づき始めた。同じ日、同じ時間、同じ結末。あの日、彼女を家に呼んでみた。理由をつけて、勇気を振り絞って。彼女は家には来なかった。約束の時間になっても、玄関のチャイムは鳴らなかった。
彼女は死んだ。
十周目。彼女に嫌われた。踏み込みすぎたのだと思う。友人にすらなれなかった。近づけば近づくほど、遠ざかっていくような、そんな周回だった。
彼女は死んだ。
五十周目。彼女はいなかった。転校でもしたのか、そもそも存在しなかったのか。理由は分からない。ただ、教室のどこにも、彼女の姿はなかった。
五十三周目。五十九周目。六十一周目。六十七周目。七十一周目。七十三周目。七十九周目。八十三周目。八十九周目。九十七周目。彼女は死んだ。
百周目──
目覚まし時計が鳴る五分前に、目が覚めた。
もう体が覚えている。何度目かも分からないくらい、同じ音、同じ天井、同じ光の角度で朝が来る。俺は起き上がりもせず、しばらく天井の染みを数えた。ここに来て何度目だったか、もうその染みの形すら暗記してしまっている。
顔を洗って、制服に着替えて、階段を下りる。母親の「おはよう」も、トーストの焦げ具合も、全部知っている。台本のない芝居を、何百回も繰り返しているような気分だ。
玄関を出ると、いつもの角で、いつもの猫とすれ違う。この猫が車に轢かれかけるのを助けるところから、俺の一日は始まる。助けたところで、彼女の運命には何も関係ない。それでも、体が勝手に動いてしまう。何百回もやってきたことは、もう習慣を通り越して、儀式のようなものになっていた。
意味があるかどうかなんて、いつからか考えなくなった。見捨てて仕舞えば気持ちよく眠れない。理由なんてそれだけで十分だった。彼女を救うための行動でなくても、体は勝手に誰かを助ける方へと動いてしまう。そういう性分なのだと、諦めに近い気持ちで受け入れていた。
学校までの道のりも覚えている。今日は曇り、明日は雨。その次の日は──
教室に着く。窓際から三番目の席。彼女はまだ来ていない。いつもの時間まで、あと十二分。
その十二分の間に、俺はやるべきことをおさらいする。三限目の理科の実験で、薬品を扱う班の順番を変えること。昼休みに、階段の踊り場で足を滑らせる一年生を助けること。放課後、駅前の交差点で、信号無視をしようとする彼女を呼び止めること。
どれも、今まで何百回と繰り返してきたことだ。やったところで、結局は別の何かが彼女の命を奪う。ただ、それをしないことには「あの日」にたどり着くことさえできない。
三限目、俺は理科室の薬品棚の前に立って、班の順番をさりげなく入れ替えた。担当教師には気づかれないよう、何度も練習してきた自然な動きで。これで少なくとも、薬品による事故は防げるはずだ。もっとも、これで彼女が助かった周回は一度もない。それでもやめるわけにはいかなかった。
昼休み、階段の踊り場で足を滑らせかけた一年生の腕を、俺は間一髪で掴んだ。「危ねえな、気をつけろよ」とだけ言って立ち去る。感謝の言葉を最後まで聞いたことはあんまりない。聞く必要もないと思っている。これは彼女のための行動ではないのだから。
放課後、駅前の交差点。信号無視をしようとする彼女を、俺は肩を掴んで呼び止めた。彼女は少し驚いた顔をして、それから怪訝そうに俺を一瞥すると、何も言わずに踵を返した。今日もまた、話しかけることすらできなかった。
こんな日々を、これから一年、また繰り返すことになる。何が彼女の命を奪うのか、それがいつになるのか、俺はまだ知らない。分かっているのは、今日という日から、また新しい一年が始まったということだけだ。
──もう、驚くことなんてないと思っていた。
何がどう転んでも、結末はひとつしかない。彼女は死ぬ。俺がどれだけ足掻いても、道を変えても、結果だけは変わらない。だから最近は、驚くという感情そのものが摩耗してしまっている。悲しいとか、悔しいとか、そういう感情すら、もう随分前に擦り切れてしまった気がする。
けれど。
廊下の向こうから聞こえてくる声に、俺はふと足を止めた。
聞き覚えのない、笑い声。
いや──正確には、聞き覚えがないわけじゃない。クラスメイトが笑っているだけの、なんてことのない光景だ。それなのに、何かが引っかかる。
視線を巡らせる。廊下の窓際、日差しの中で誰かと笑い合っている男子生徒。長身で、屈託のない笑い方をする、特に変わったところのない一人の生徒。
……誰だ、あれ。
記憶を辿る。一周目、二周目、十周目、五十周目──何周分もの記憶を、頭の中で早送りする。あの顔、あの声、あの立ち方。どこにも、覚えがない。
この百周の間、ずっと同じ学校の、同じクラスの、同じ一年を繰り返してきた。教室の座席表も、出席番号も、誰がどの部活に入っているかさえ、俺は全部暗記している。だから断言できる。あいつは、今までのループにはいなかった。
なのに今、当たり前のようにそこにいる。まるで最初から、ここにいたみたいに友人たちと笑い合い、机に鞄を置き、何の違和感もなく朝のホームルームの席に着こうとしている。
俺は思わず、自分の記憶を何度も疑った。見落としていただけではないか、目立たない生徒だっただけではないか。だが違う。あいつのような目立ち方をする人間を、俺が百周も見落とすはずがない。
──あいつ、なんかおかしくね?
この違和感の意味を、この時の俺はまだ知らない。ただ、心のどこかで微かな予感だけがあった。何かが変わり始めている──その予感が良いものなのか悪いものなのか、判断する材料すら俺にはまだなかった。
その日の放課後、俺はいつも通り駅前の交差点で彼女を呼び止め、いつも通り無視され、いつも通り徒労感だけを抱えて帰路についた。結末は今日も変わらなかった。あの男子生徒のことは、結局それ以上何も分からないまま、一日が終わった。
布団に入る直前、天井を見上げながら、俺はもう一度あいつの顔を思い出そうとした。輪郭も、声も、はっきり思い出せる。それなのに、記憶のどこを探っても、その顔を見た覚えがない。
百周目は、今日から始まったばかりだ。今度こそあいつが何なのか確かめてやる──そう思いながら、俺は目を閉じた。
次はいつ出すかわかんないけど評価感想くれたら早くなります。(乞食)