第124話 脳量子波
地球――医療施設。
窓から差し込む光の中で、アーミアは右手を何度も握っていた。
開く。
握る。
もう一度、開く。
見た目は明らかに変わってしまった。手首から先には銀色の部分が残り、光の加減によって金属のような光沢を見せている。
それでも、自分の意思には従う。
「……動く」
痛みもない。
指先の感覚もある。
医師からも、今のところ生命活動に異常はないと聞かされていた。
だからといって、不安がなくなるわけではない。
アーミアが銀色の指先を見つめていると、病室の扉が開いた。
「起きてたか」
聞き覚えのある声だった。
「レイナスさん」
「今度は一発で正解か。昨日の訂正作業も無駄じゃなかったな」
レイナスが入ってくる。
アーミアは少しだけ笑った。
「もう間違えません」
「それなら助かる」
レイナスはベッドの横まで来ると、アーミアの右手を見る。
「具合は?」
「普通です」
「普通?」
「見た目以外は……ですけど」
アーミアは右手を持ち上げた。
「ちゃんと動くし、触った感覚もあります」
「痛みは?」
「ないです」
「そうか」
レイナスが右手を伸ばす。
「少し見せてくれ」
「はい」
アーミアも右手を差し出した。
そのはずだった。
「……え?」
レイナスの指が触れる直前、右手が勝手に引っ込んだ。
アーミア自身が一番驚いている。
レイナスも伸ばした手を止めた。
「今、自分で動かしたか?」
「動かしてません」
「だよな」
アーミアは恐る恐る右手を見る。
自分の意思で前へ出す。
動く。
「もう一回……やってみます?」
「無理はするなよ」
「大丈夫です」
今度はアーミアの方から手を近づけた。
レイナスは動かない。
距離が縮まる。
あと僅かというところで――。
右腕が急に曲がった。
「わっ」
アーミアの右手が胸元まで逃げる。
「…………」
「…………」
二人とも黙って右手を見る。
アーミアが左手で右腕を掴んだ。
「今のも私じゃないです」
「らしいな」
レイナスが一歩下がった。
すると右腕から不自然な力が抜ける。
アーミアは試しに指を動かした。
今度は普通に動いた。
「俺が近づいた時だけか」
「どうして……?」
「さてな」
レイナスは自分の右手を見る。
昨日、この手から侵入してきた銀色の物質を《アニマ》で強制的に押し出した。
その後、逃げようとした個体を破壊している。
「昨日のことが関係してるなら、向こうからすれば俺の印象は最悪だろうが……」
そこでレイナスが眉を寄せる。
「お前の中にいる奴が、何でそれを知ってる?」
アーミアも右手を見る。
答えなど分からない。
レイナスは端末を取り出した。
「これは俺の専門外だな。詳しい奴に仕事を回すか」
「詳しい人?」
「こういう時に便利なのがいるんだよ」
◇
プトレマイオス2――ブリッジ。
『本人の意思とは無関係に?』
「ああ」
通信画面の向こうにティエリアがいる。
レイナスは病室の壁にもたれながら、先ほどの出来事を説明していた。
「俺が近づくと右手だけ逃げる。離れれば普通に戻る」
『君以外では?』
「まだ試してない」
ティエリアは少し考え込んだ。
『昨日、君が破壊した個体との関連は考えられる』
「俺もそう思った。ただ、別の個体が経験したことをこいつが知ってる理由が分からん」
『情報を共有している可能性はある』
「やっぱりそこか」
『可能性の一つだ。まだ断定はできない』
ティエリアが端末へ視線を落とした。
その時だった。
背後から声がする。
『ティエリア』
刹那だった。
『また感じる』
ティエリアが振り返る。
『強くなったのか?』
『ああ』
通信越しのレイナスが眉を寄せた。
「何の話だ?」
ティエリアは少し間を置いてから答えた。
『刹那が、《エウロパ》の出現以降、断続的に妙な感覚を捉えている』
「妙な感覚?」
『言葉ではない。だが、何かが脳量子波へ干渉している可能性がある』
レイナスの表情から軽さが消える。
「銀色の奴か?」
『まだ分からない。ただ、反応が強くなる時期と、銀色の物質が地球圏へ接近した時期が重なる』
「刹那だけか?」
『それを今から確認する』
レイナスは病室を見る。
ベッドの上ではアーミアが銀色の右手を眺めている。
「……こっちにも一人、妙なことになってる奴がいる」
ティエリアも同じことを考えたらしい。
『アーミア・リーか』
「ああ」
『彼女に残った個体が脳量子波にも反応するなら、何か分かるかもしれない』
「分かった。俺はここにいる」
通信を切る。
レイナスは端末をポケットへ戻した。
「どうも今日は来客が増えそうだぞ」
「誰か来るんですか?」
「昔の同僚だ」
「ソレスタルビーイングの?」
「まあな」
アーミアの表情が一気に変わった。
「本物の?」
「偽物のソレスタルビーイングがどこにいるんだよ」
その反応を見て、レイナスは嫌な予感がした。
◇
しばらくして。
病室の扉が開いた。
最初に入ってきたのはティエリアだった。
その後ろに、刹那、アレルヤ、マリーが続く。
アーミアの目が大きくなる。
「…………」
レイナスは壁際で腕を組んだ。
予想通りだった。
アーミアの視線が、真っ先に刹那で止まる。
映画とは服装も雰囲気も違う。
それでもモデルになった人物の資料は、何度も見ている。
「……マイケル……?」
「違う」
刹那は即答した。
「…………」
「刹那・F・セイエイだ」
「あ……」
アーミアの顔が赤くなる。
「ご、ごめんなさい。刹那さん」
「ああ」
刹那は特に気にした様子もない。
レイナスが横から言う。
「気持ちは分かるぞ。俺も昨日レイヴン扱いされた」
「それは……ごめんなさい」
「今は直ってるから問題ない」
そこへアレルヤが苦笑しながら入ってきた。
「映画の影響、かなり大きいみたいだね」
アーミアが声の方を見る。
アレルヤと目が合う。
「…………」
嫌な沈黙だった。
アレルヤの笑顔が少し引きつる。
「えっと……」
「ジェニファー……?」
「やっぱりそうなるんだ……」
アレルヤが肩を落とした。
マリーが不思議そうに彼を見る。
「ジェニファー?」
「映画の僕らしいよ」
「女の人ですよ」
アーミアが補足した。
「それは言わなくても大丈夫かな」
「ピンクの髪で――」
「詳しく説明しなくていいから」
マリーが堪えきれずに小さく笑った。
「ごめんなさい、アレルヤ」
「マリーまで笑わないでよ」
病室の空気が少しだけ和らぐ。
アーミアの視線がティエリアへ向きかけたところで、ティエリアが先に口を開いた。
「僕はティエリア・アーデだ」
「……はい」
「それでいい」
レイナスが僅かに口元を緩めた。
ティエリアが鋭く見る。
「何か?」
「いや、危機管理ができてると思ってな」
「君は黙っていてくれ」
「了解」
ティエリアはベッドの横へ移動した。
「アーミア。右手の状態を確認させてほしい」
「はい」
「無理に何かするつもりはない。違和感があればすぐに言ってくれ」
アーミアが右手を布団の上へ置く。
ティエリアは触れず、端末で反応を確認した。
「レイナス」
「俺か?」
「先ほどと同じように近づいてくれ」
「分かった」
レイナスが一歩進む。
銀色の指が僅かに震えた。
もう一歩。
右手がすっとアーミアの身体側へ逃げる。
ティエリアの目が細くなる。
「アーミア。今のは?」
「私じゃありません」
「戻せるか?」
アーミアが意識して右手を前へ出す。
戻る。
レイナスが再び近づく。
また逃げた。
アレルヤが驚いたように見る。
「本当にレイナスだけ避けてる……」
「昨日、こいつらの仲間を一つ壊した」
レイナスが答える。
「そのせいかもしれん」
刹那は銀色の右手を見つめていた。
「……感じる」
ティエリアが振り向く。
「ここでもか?」
「ああ」
刹那がゆっくりベッドへ近づく。
右手は逃げなかった。
むしろ。
銀色の指先が僅かに動いた。
アーミアが目を見開く。
「今の、私じゃないです」
刹那の瞳に淡い金色が宿る。
「こいつだ」
「何が分かる?」
「分からない」
刹那はしばらく右手を見つめた。
「でも、こっちを感じている」
ティエリアがアレルヤとマリーを見る。
「二人は?」
アレルヤが意識を集中する。
表情が変わった。
「……いるね」
マリーも目を閉じる。
「はい。とても近いです」
アーミアは三人を順番に見る。
「皆さんには、何か分かるんですか?」
マリーが目を開く。
「声が聞こえるわけではないんです。ただ、そこに何かがいるという感覚が伝わってきます」
「僕たちが使う脳量子波に少し似てる」
アレルヤが続ける。
「でも、人間のものとは違う」
ティエリアはヴェーダへ計測データを送りながら考え込む。
「やはり偶然ではないか」
レイナスが聞く。
「何か掴めたか?」
「彼らは脳量子波に反応している可能性が高い」
ティエリアは銀色の右手を見る。
「刹那、アレルヤ、マリーの三人が同じ対象を知覚した。そして対象側にも反応がある」
「なるほどな」
レイナスは三人を見る。
「俺だけ蚊帳の外か」
「君は脳量子波を使えないからね」
「《アニマ》とそいつは別物だ。そこは仕方ない」
その時。
アーミアが額へ手を当てた。
「……あれ?」
マリーがすぐに気づく。
「どうしました?」
「分からない……」
アーミアは目を閉じる。
「何か……たくさんいるような……」
刹那がアーミアを見る。
「どこに?」
「遠く……」
アーミアは言葉を探す。
「場所は分からないです。でも、一つじゃない。いっぱい……」
銀色の右手が微かに揺れる。
「昨日も見えました。星とか、銀色のものとか……知らない景色が一気に頭の中に入ってきて……」
ティエリアの表情が変わる。
「同化によって、アーミア自身も彼らの情報を受け取っている可能性がある」
アーミアが不安そうに自分の右手を見る。
マリーがそっと声を掛けた。
「無理に聞こうとしないでください」
「でも……」
「私も昔、自分の中へいろいろなものが流れ込んでくる感覚を知っています。慣れないうちに無理をすると苦しくなりますから」
アーミアがマリーを見る。
「はい……」
アレルヤも頷く。
「何か感じた時に教えてくれればいい。僕たちもまだ、あれが何なのか調べ始めたばかりだから」
「分かりました」
刹那はしばらく黙っていた。
やがて銀色の右手へ向けて、静かに問いかける。
「お前たちは、何を知りたい?」
返事はない。
だが、銀色の表面が僅かに波打った。
アーミアが息を呑む。
刹那はその反応を見つめる。
「……俺たちを知ろうとしているのかもしれない」
レイナスが壁際から答えた。
「知り方に問題がありすぎるけどな」
刹那がレイナスを見る。
「ああ」
「悪意がないとしても、あのままじゃ人間の身体が持たん。そこは分けて考えた方がいい」
「分かっている」
刹那はもう一度アーミアの右手を見る。
「だから、知る必要がある」
レイナスは短く頷いた。
その時、アーミアがふとレイナスへ右手を差し出した。
「レイナスさん」
「ん?」
「今なら触れるかも」
「やめとけ。無理に試す必要は――」
言い終わる前に、レイナスが僅かに近づいた。
銀色の右手が素早く引っ込む。
「……やっぱり駄目でした」
「らしいな」
アーミア本人は困ったように笑っている。
右手だけが、レイナスから少しでも距離を取ろうと身体の陰へ回っていた。
アレルヤがその様子を見て呟く。
「ずいぶん徹底してるね」
「昨日の一件がよほど気に入らなかったらしい」
「レイナスさん、嫌われてますね」
アーミアが言う。
「お前まで言うのか」
「私は嫌ってませんよ?」
「なら本人と右手で意見をまとめておいてくれ。次に来るまでの宿題だ」
アーミアが笑う。
その横で、ティエリアだけは銀色の右手を見つめ続けていた。
刹那たちの脳量子波には反応する。
レイナスには、明確に接触を避ける。
そしてアーミア自身にも、これまで存在しなかった感覚が生まれている。
まだ答えには程遠い。
それでも、銀色の来訪者がただの金属でも、ただの兵器でもないことだけは、少しずつ明らかになり始めていた。