第34話 ヴェーダ
西暦2307年――月面・ヴェーダ本体施設
月の地下深く。
人類社会の表側から隔絶された空間に、巨大な量子型演算処理システムが存在していた。
ヴェーダ。
ソレスタルビーイングの根幹を支え、膨大な情報を処理し続けてきた存在。
その中枢へ至る区画を、一人の男が歩いていた。
アレハンドロ・コーナー。
その傍らを進む少年のような姿の人物――リボンズ・アルマークには、初めて足を踏み入れた場所を訪れる者の緊張がない。
アレハンドロが立ち止まる。
目の前には、巨大な扉があった。
「ついに、ここまで来た」
何代にもわたってコーナー家が望んできたもの。
イオリア・シュヘンベルグが遺した計画の中枢。
そして、自分たちを拒み続けてきたヴェーダ。
世界では今、三大国家群へGN-Xが行き渡り、ガンダムの絶対的優位が崩れ始めている。
チームトリニティも追い詰められた。
ラグナ・ハーヴェイは役目を終えた。
表で進んでいる変化の多くに、アレハンドロは満足していた。
「世界は統一へ向かっている」
静かな声が地下空間へ響く。
「ソレスタルビーイングによる武力介入。それに対抗するため、長く争ってきた国家群が手を結ぶ。皮肉なものだな」
「それこそが、イオリア・シュヘンベルグの計画でしょう?」
リボンズが微笑む。
アレハンドロも口元を緩めた。
「そうだ。だが、二百年前の亡霊に最後まで任せる必要はない」
彼が欲しいのは計画の破壊ではない。
主導権だった。
イオリアの計画を、自分が完成させる。
人類を統一へ導いた者として、その中心に立つ。
アレハンドロにとって、それはコーナー家が長い年月をかけて待ち続けた瞬間でもあった。
リボンズは何も言わず、ヴェーダへ意識を接続していく。
幾重にも重なる防壁。
アクセス権限。
隔離された領域。
一つずつ、その構造を読み取っていく。
人間が端末越しに触れる情報とは違う。
ヴェーダそのものへ深く潜る。
リボンズだからこそ可能な領域だった。
「どうだ?」
「問題ありません」
リボンズの瞳が淡く光を帯びる。
「予定通りです」
扉が開き始めた。
その向こうにある光景を前に、アレハンドロは足を止めた。
巨大な演算システムの中心。
そして――。
一基のカプセル。
その中に、一人の老人が眠っている。
二百年以上前の人間。
この世界の変革を計画した男。
「イオリア・シュヘンベルグ……」
アレハンドロは、その名を口にした。
◇
トリニティ拠点・上空
スローネアインとツヴァイが激突した。
装甲同士が擦れ、赤いGN粒子が弾ける。
『貴様ぁっ!』
ヨハンが機体を押し込む。
ミハエルを殺した男。
ラグナを殺した男。
そして今、弟の機体まで奪った。
普段なら決して見せない怒りが、操縦にも滲んでいた。
だがサーシェスは、その感情すら楽しんでいる。
『いい顔してんじゃねえか!』
ツヴァイがアインを蹴り飛ばす。
機体が大きく流れる。
姿勢制御。
その隙を逃さず、GNファングが左右へ展開した。
ヨハンも射撃で迎撃する。
一基。
二基。
光条がファングを撃ち抜く。
だが死角へ回り込んだ一基がアインの装甲を貫いた。
「ぐっ!」
衝撃で身体がシートへ叩きつけられる。
『ヨハン兄!』
離れた場所からネーナが叫ぶ。
逃げろと言われた。
それでも逃げられない。
唯一残った兄を置いて、自分だけ離脱することなどできなかった。
「ヨハン兄を――!」
ドライがツヴァイへ向かう。
「返せぇぇっ!」
砲撃。
サーシェスがツヴァイを翻す。
『おっと』
射線を外し、そのままドライへ機首を向ける。
ヨハンが叫んだ。
『来るな、ネーナ!』
ツヴァイのGNバスターソードが振り上げられる。
◇
月面・ヴェーダ本体施設
「これが、イオリア本人か」
アレハンドロはコールドスリープ装置を見上げていた。
人類の変革。
戦争根絶。
そのために二百年以上先の未来を見据え、計画を残した男。
だが、アレハンドロの表情に敬意はない。
「あなたの時代は終わった」
眠るイオリアへ語りかける。
「これからは私が計画を引き継ぐ」
その後方では、リボンズがヴェーダへの介入を続けていた。
膨大な情報が流れ込む。
ソレスタルビーイング。
ガンダム。
太陽炉。
各エージェント。
世界各地の監視網。
そして、イオリア計画に関する情報。
リボンズはそれらを驚くほど静かに受け止めていた。
だが、一つだけ。
既存のデータ構造へ綺麗に収まらない存在がある。
リボンズの操作が僅かに止まった。
「……」
「どうした、リボンズ?」
アレハンドロが振り返る。
「いえ」
表示された情報。
レイナス・レノアーク。
過去の記録が存在しない。
既存の生体情報との一致もない。
そして、ヴェーダが観測した戦闘能力。
ANIMA。
リボンズはその項目を数秒眺めた。
ヴェーダにも説明できていない。
解析不能。
既存科学体系との完全な照合不能。
本人は異世界から来たと主張。
年齢百歳以上を自称。
そのどちらにも裏付けはない。
「例の男か?」
アレハンドロも気づいた。
「はい」
「計画への影響は?」
「現時点では判断できません」
リボンズは淡々と答える。
「ヴェーダにも、彼の出自を説明できる情報が存在しないようです」
アレハンドロが僅かに眉を寄せた。
「ヴェーダにも?」
「少なくとも、確認できる範囲では」
それは珍しい。
世界中から膨大な情報を集めるヴェーダに、過去が存在しない人間。
しかも、ガンダムすら生身で破壊し得る力を持つ。
アレハンドロは少し考えた後、視線をイオリアへ戻した。
「今は構わない」
「よろしいのですか?」
「彼一人が何者であろうと、世界そのものの流れは変えられない」
リボンズは微笑んだ。
「そうですね」
だが、その視線は一瞬だけレイナスのデータへ戻った。
興味。
少なくとも、この時のリボンズが抱いたものはそれだった。
やがて表示を閉じる。
今、優先すべきものは別にある。
「ヴェーダの掌握を進めます」
「ああ」
アレハンドロは頷いた。
「ソレスタルビーイングから、その力を取り上げる」
◇
プトレマイオス・ブリッジ
最初に異変へ気づいたのはティエリアだった。
「……?」
端末を操作する指が止まる。
もう一度入力。
表示された結果を見て、眉を寄せる。
「どうしたの?」
クリスが横を見る。
「待て」
ティエリアは別の領域へアクセスする。
接続。
応答。
一瞬だけ正常に見えた。
次の瞬間、画面の一部が消える。
「これは……」
「ティエリア?」
スメラギも異変に気づく。
ティエリアの呼吸が僅かに速くなった。
「ヴェーダへのアクセスに異常が発生している」
ブリッジの空気が変わった。
「異常?」
クリスが自分の端末から確認する。
「こっちも……アクセスできる領域が減ってる?」
「違う」
ティエリアの声が硬くなる。
「権限が変更されている」
「誰に?」
答えはない。
ヴェーダはソレスタルビーイングの根幹だ。
作戦立案。
情報。
機体システム。
さまざまな領域が、その支援を前提としている。
それが今、自分たちを拒絶し始めている。
「バックアップへ切り替えて!」
スメラギの指示が飛ぶ。
「クリス、独立系へ移行! フェルト、各ガンダムとの通信を維持!」
「了解!」
「やってます!」
ブリッジが一気に慌ただしくなる。
ロックオンも表情を変えた。
「おいおい……今度はこっちかよ」
アレルヤがティエリアを見る。
「何が起きてるんだ?」
「分からない……」
ティエリアの声が掠れる。
自分とヴェーダとの繋がり。
それは単なる情報端末へのアクセスではない。
ティエリア・アーデという存在の根幹に近いものだった。
「ヴェーダが……僕を拒絶している?」
「ティエリア」
スメラギの声が飛ぶ。
「今は原因より対処よ」
その言葉で、ティエリアが顔を上げる。
「……了解した」
指を動かす。
だが動揺は消えていない。
その時、クリスが声を上げた。
「ガンダム側にも影響!」
「どの程度!?」
「システムの一部がヴェーダから切り離され始めてる!」
スメラギの表情が険しくなる。
「全機、独立稼働へ移行する準備!」
◇
月面・ヴェーダ本体施設
「反応が出ています」
リボンズが告げる。
「プトレマイオス側が異常を認識しました」
アレハンドロは満足そうに笑った。
「そうか」
世界を変えるための力。
それを独占してきた者たちが、今ようやく自分たちの足元が崩れたことに気づいた。
「これで彼らも理解するだろう」
アレハンドロは眠るイオリアを見上げる。
「計画を動かす者が、永遠に同じである必要はない」
リボンズは答えず、ヴェーダのさらに深い領域へアクセスしていく。
そこで。
一つのシステムが反応した。
「……?」
リボンズの目が僅かに細くなる。
これまでの防壁とは違う。
ヴェーダを奪われることそのものを想定して仕込まれた、別系統の処理。
「どうした?」
「いえ……まだ解析中です」
リボンズがさらに深く触れる。
その先に眠っているものまでは、まだ見えない。
だが確かに何かがある。
イオリア・シュヘンベルグが、自らの計画を奪おうとする者へ残したもの。
リボンズはその存在を認識しながらも、アクセスを止めなかった。
◇
地上・移動車両
レイナスの端末に緊急通信が入った。
スメラギからだった。
『レイナス、状況が変わった』
「トリニティ?」
『そっちもだけど、別件』
車内の揺れの中、レイナスは画面を見る。
スメラギの背後ではクルーが慌ただしく動いていた。
「何があった?」
『ヴェーダへのアクセス権を失いつつある』
レイナスの表情が変わる。
ヴェーダについて知っている情報は限定されている。
それでも、ソレスタルビーイングにとってどれほど重要なシステムなのかは理解していた。
「故障じゃない?」
『権限そのものを書き換えられてる。誰かがヴェーダへ介入してる可能性が高い』
レイナスは数秒黙った。
トリニティ。
GN-X。
ラグナ。
サーシェス。
そしてヴェーダ。
別々に見えていたものが、急速に同じ時期へ集中している。
「……随分まとめて来たな」
『ええ』
「こっちは?」
『今のところ問題ないわ。独立系へ切り替えてる』
「なら、俺は地上を続ける」
スメラギが少し意外そうな顔をした。
『戻らなくていいの?』
「今から宇宙へ戻っても、ヴェーダの奪い合いじゃ俺にできることがないだろ」
レイナスは窓の外へ目を向ける。
「だったら、手が届く方をやる」
『サーシェスね』
「ああ」
一度、絹江を殺そうとした。
ラグナ殺害にも関与している可能性が高い。
そして今、ツヴァイを奪ってトリニティと戦っている。
「場所が分かったら送ってくれ」
『分かった』
通信が切れる。
レイナスは端末に映る戦闘地点を見つめた。
今度は、間に合うかどうかではない。
間に合う場所まで近づく。
そのための経路を探し始めた。
◇
トリニティ拠点・上空
スローネアインが大きく弾き飛ばされた。
装甲の各所から火花が散る。
ヨハンは操縦桿を握り直す。
目の前には、ミハエルのツヴァイ。
その中にいるのは弟ではない。
『終わりか?』
サーシェスの声が聞こえる。
「まだだ……!」
アインが再び武器を構える。
遠くでネーナが叫んでいた。
『ヨハン兄!』
ヨハンは答えなかった。
ツヴァイがGNバスターソードを構える。
サーシェスは笑っていた。
『じゃあ、終わりにしようぜ』
赤いガンダムが加速する。
ヨハンも退かなかった。
二機の距離が、一気に縮まった。