第36話 帰還
西暦2307年――宇宙・プトレマイオス格納庫
輸送艇の固定アームが接続され、低い振動が船体を伝った。
気密確認を終えたハッチが開く。
「……帰ってきたな」
レイナスは肩に掛けていたバッグを持ち直し、プトレマイオスへ足を踏み入れた。
地上へ降りてから、それほど長い時間が経ったわけではない。
だが状況はまるで違っている。
GN-Xの出現。
ラグナ・ハーヴェイの死。
アリー・アル・サーシェスによるスローネツヴァイ強奪。
チームトリニティの全滅。
そして――ヴェーダへのアクセス権喪失。
数日分の出来事としては、いささか詰め込みすぎだった。
「現実ってのは、大体最後に余計な一行がついてくるもんだけど……今回は欄外までびっしりだな」
誰に聞かせるでもなく呟き、格納庫を見渡す。
整備班が慌ただしく行き交っていた。
ガンダム各機はヴェーダから切り離した状態での稼働確認が進められている。イアンを中心に、機体側のシステムを独立運用へ移す作業が続いていた。
「お、帰ったか!」
聞き慣れた声。
イアンが工具を片手に近づいてくる。
「ただいま。随分忙しそうだな」
「見りゃ分かるだろ。いきなりヴェーダを取り上げられたんだぞ」
「便利なものほど、なくなった時の請求が高いな」
「他人事みたいに言うな」
「俺、ヴェーダから給料もらってないし」
「給料そのものをもらってないだろうが」
「それもそうだ」
イアンが呆れた顔をする。
そのやり取りだけなら、以前と何も変わらない。
だが格納庫の空気は明らかに張り詰めていた。
レイナスは整備中のガンダムを見る。
「機体は?」
「動く。だが今まで通りとはいかん。ヴェーダに頼ってた部分をこっちで補わにゃならん」
「戦えなくなったわけじゃないんだな」
「そこまで間抜けな造りにはしとらん」
「なら一安心だ」
イアンはそこでレイナスを見た。
「お前は相変わらずだな」
「何が?」
「ヴェーダを取られたってのに、一番影響がない顔してやがる」
レイナスは少し考えた。
「実際、ほとんどないからな」
「だろうな」
「元から登録もされてない外様が、今さらアクセス権を失うも何もない」
「こういう時だけ便利な立場だな」
「肩書きと居心地は別勘定だよ。普段は肩身が狭いんだから、たまには元を取らせてくれ」
イアンが鼻で笑った。
「ブリッジ行け。スメラギが待ってる」
「ああ」
レイナスはバッグを置くと、格納庫を後にした。
◇
プトレマイオス・居住区画
ブリッジへ向かう途中。
通路の角を曲がったところで、レイナスは足を止めた。
絹江がいた。
壁際の端末を見ていた彼女も、こちらに気づく。
「レイナスさん」
「戻りました」
ここだけ、口調が変わる。
自分でももう意識していない。
最初に会った時からそうだった。
「ご無事で」
「そっちも。船の中まで大変だったみたいですね」
「ええ。私には詳しいことまでは分かりませんけど……皆さんの様子が急に変わりました」
絹江は端末を閉じる。
「ヴェーダ、でしたか」
「そうです」
レイナスも歩みを止めたまま答える。
「俺も全部を知ってるわけじゃないですけど、ソレスタルビーイングにとっては相当重要なシステムです。それを誰かに押さえられた」
「誰に?」
「まだ分かりません」
絹江は少し考える。
「ラグナ・ハーヴェイの件と関係があると思いますか?」
記者らしい問いだった。
レイナスはすぐには答えない。
「可能性はあります。でも、まだ繋げられる材料がないですね」
「サーシェスは?」
「ラグナの邸宅にいた。ツヴァイも奪った。そこまではかなり固いです」
「……トリニティの三人は」
レイナスの表情が僅かに沈む。
「全員、死にました」
絹江は黙った。
彼女もネーナが何をしたのか聞いている。
結婚式場を攻撃したこと。
多くの民間人を殺したこと。
だからといって、その死を喜べるわけでもなかった。
「サーシェスが?」
「ミハエルとヨハンは間違いない。ネーナも戦闘中にドライの反応が消えています」
絹江は視線を落とす。
「……そうですか」
少しの沈黙。
それから、レイナスは彼女を見る。
「サーシェスのことは、こっちでも追います」
「私も――」
「調べるんでしょうね」
先回りされ、絹江が口を閉じた。
レイナスは苦笑する。
「止めても調べるでしょう?」
「……はい」
「ですよね」
それ以上は言わなかった。
危険だから何もするな、と言って聞く人間ではない。
それはもう分かっている。
「ただ、一人では動かないでください」
「分かっています」
「本当に?」
「レイナスさん、私をどういう人間だと思ってるんですか?」
「一回殺されかけても取材を続ける記者」
絹江が言葉に詰まった。
「……否定できませんね」
「でしょう?」
レイナスは少し笑う。
「じゃあ、また後で。スメラギに呼ばれてるんで」
「はい」
数歩進んでから、絹江が呼び止めた。
「レイナスさん」
振り返る。
「お帰りなさい」
レイナスは一瞬だけ目を丸くしてから、表情を緩めた。
「ただいま」
◇
プトレマイオス・ブリッジ
「帰ったか」
ロックオンが最初に気づいた。
「今さっきな」
レイナスがブリッジへ入る。
クリス、フェルト、リヒティ。
アレルヤ。
ティエリア。
刹那。
スメラギ。
一通り顔を確認する。
全員いる。
だが空気は重い。
特にティエリアは、端末の前からほとんど動いていなかった。
「地上は?」
スメラギが尋ねる。
「今追えるところは王留美に任せてきた。ラグナの周辺も、サーシェスの足取りも継続して調べてもらってる」
「そう」
「で、こっちは?」
レイナスが空いている席の背へ手を置く。
「ヴェーダを完全に取られた?」
ティエリアが答えた。
「ほぼ、そう考えていい」
いつもの硬さはある。
だが声に力がない。
「我々に与えられていたアクセス権限は大幅に失われた。ガンダム各機については独立したシステムへ移行している」
「誰がやったかは?」
「分からない」
ティエリアの拳が僅かに震える。
「何者かがヴェーダの深部へ侵入し、こちらの権限を書き換えた。それ以上は……」
言葉が途切れる。
レイナスはティエリアを見る。
以前なら、もう少し踏み込んで聞いたかもしれない。
だが今はやめた。
「分からないなら、そこは後回しだな」
ティエリアが顔を上げる。
「……何?」
「今分からないものを睨んでても答えは出ない。今使えるものを数えた方が早い」
スメラギが頷いた。
「私も同意見よ」
レイナスは周囲を見る。
「船は動く?」
「動くわ」
「ガンダムは?」
イアンから届いている整備状況をクリスが確認する。
「独立稼働できる。まだ調整は必要だけど」
「通信は?」
「使える」
「人間は?」
ロックオンが眉を上げる。
「そりゃ、ここにいるだろ」
「なら、まだ結構残ってる」
レイナスは肩をすくめた。
「全部持っていかれたわけじゃない」
ティエリアの表情は晴れない。
「君には分からない」
「そうだな」
否定しなかった。
ティエリアが僅かに目を見開く。
「俺にはヴェーダとの繋がりがどういう感覚なのか分からない。だから、そこは分かったふりをしない」
レイナスはティエリアの端末へ目を向ける。
「ただ、なくなったものを数えて動けなくなるより、残ってるものを使った方がいい。それだけだ」
「……」
「俺なんか最初からヴェーダの外だぞ。意外と何とかなる」
ロックオンが吹き出した。
「お前を基準にするな」
「参考例が一件しかないんだから仕方ないだろ」
「参考にしちゃいけない一件だろ、それ」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
ティエリアだけは笑わなかった。
それでも先ほどより、端末を見る目には力が戻っていた。
スメラギが全員を見る。
「状況を整理するわ」
メインモニターへ情報が並ぶ。
「三大国家群にはGN-Xが配備された。ガンダムとの性能差は以前ほど大きくない」
次。
「チームトリニティは全滅。スローネツヴァイはアリー・アル・サーシェスに奪取された」
刹那の目が僅かに動く。
「ラグナ・ハーヴェイは死亡。サーシェスが現場にいた可能性が高い」
次。
「そして、ヴェーダへのアクセス権を喪失した」
一つずつ並べれば、状況がどれほど悪化したか嫌でも分かる。
レイナスが腕を組む。
「綺麗に同じ時期へ重なったな」
「偶然だと思う?」
スメラギが尋ねる。
「全部が一本かは分からない。でも、何本かは同じところに繋がってると思った方が自然だろ」
「私もそう考えてる」
GN-X。
ラグナ。
トリニティ。
サーシェス。
ヴェーダ。
誰かが盤面を動かしている。
まだ、その姿だけが見えない。
「問題は」
スメラギが表示を切り替える。
「向こうが次に何をするか」
その時。
フェルトが顔を上げた。
「接近する輸送艇を確認」
一瞬、ブリッジに緊張が走る。
「識別は?」
「味方です。王留美側からの補給便」
スメラギが息を吐く。
「この状況じゃ、補給一つでも心臓に悪いわね」
レイナスがモニターを見る。
「で、その中に俺用のモビルスーツは?」
数秒。
沈黙。
スメラギが振り返った。
「ないわよ」
「……そうか」
ロックオンが笑う。
「帰って早々それかよ」
「こっちは地上でツヴァイ強奪の報告まで聞かされたんだぞ。人の機体を奪って乗って帰る奴までいるのに、俺だけいつまで徒歩なんだ」
「宇宙で徒歩はできねえだろ」
「だから困ってる」
クリスが笑いを堪え、フェルトも僅かに口元を緩める。
スメラギは額へ手を当てた。
「イアンに言いなさい」
「言ってる」
「じゃあ待ちなさい」
「待ってるよ。結構長いこと」
その返事に、今度はロックオンだけでなくアレルヤまで笑った。
ほんの短い時間だった。
ヴェーダは奪われた。
敵は強くなった。
トリニティは消えた。
状況が好転したわけではない。
それでも、プトレマイオスにはまだ人がいる。
考える頭がある。
動く手がある。
戦う力も残っている。
そして――ヴェーダの記録にも存在しなかった男が、一人戻ってきた。
レイナスはメインモニターに映る地球を見上げた。
「さて」
誰にともなく呟く。
「次は何を持っていかれる前に、こっちから動くかだな」
スメラギも同じ地球を見つめていた。
ソレスタルビーイングは、初めてヴェーダという巨大な支えを失った。
それでも。
戦いは止まらない。