第60話 双子
西暦2311年秋――欧州某都市
雨上がりの街に、薄い霧が残っていた。
地球連邦の成立によって国境の意味は以前より薄くなったが、街そのものまで一つになったわけではない。石造りの建物が並ぶ古い通りを人々が行き交い、その一角にある小さなカフェでは、夕方前の穏やかな時間が流れていた。
窓際の席。
ニール・ディランディは、すっかり冷めたコーヒーを前に座っている。
向かいの絹江が端末から顔を上げた。
「また入口見た」
「……そんな見てたか?」
「さっきから何度も」
ニールは苦笑する。
「久しぶりだからな」
「緊張してる?」
「少しはするさ」
素直に認めて、窓の外を見る。
ライルとの接触には時間がかかった。
カタロンとの関係が疑われる人物へ正面から連絡するわけにもいかず、絹江の記者としての伝手と王留美側の情報網を使い、何人もの仲介者を挟んだ。
最初の連絡では、ニールの名前さえ伏せた。
――家族に関係する人物が会いたがっている。
伝えたのはそれだけ。
三日前、ようやく返事が届いた。
場所と時間を指定したのはライルだった。
入口のベルが鳴る。
ニールの視線が動いた。
一人の男が入ってくる。
絹江は思わず息を止めた。
写真では見ていた。
それでも、実際に目の前へ現れると印象が違う。
ニールとほとんど同じ顔。
同じ髪。
同じ背格好。
だが、同じ人間には見えない。
周囲を見る視線も、歩き方も、表情も違う。
男が店内を見回し――窓際で止まった。
ニールも動かなかった。
長い年月を挟んで、双子が互いを見る。
先に歩き出したのは男だった。
席まで来て、ニールの顔をじっと見る。
「……兄さんか」
「ああ」
「本当に?」
「本人だよ」
ライル・ディランディはしばらく兄を見つめた。
やがて椅子を引く。
「久しぶりだな、ライル」
「久しぶりって……何年ぶりだと思ってるんだ」
「悪かったよ」
「本当に今さらだな」
ライルは座ると、向かいにいる絹江を見る。
「そっちは?」
「絹江・クロスロード」
「クロスロード……」
ライルが少し考える。
「記者の?」
「私を知ってるの?」
「名前くらいはな」
それからニールを見る。
「何で兄さんが記者と一緒にいるんだ?」
「色々あったんだよ」
「その色々を聞きに来たつもりなんだけどな」
「分かってる」
店員が注文を取りに来る。
ライルはコーヒーを頼んだ。
それが届くまで、兄弟はほとんど話さなかった。
絹江も口を挟まない。
同じ顔をした二人の間にある時間は、第三者が簡単に埋められるものではなかった。
コーヒーが置かれる。
ライルが一口飲む。
「それで?」
「ん?」
「何で今になって俺を探した?」
ニールは少し考えてから答えた。
「偶然なんだ」
「偶然?」
「絹江が調べ物してて、お前の名前を見つけた」
ライルの視線が絹江へ向く。
「何を調べてた?」
「アロウズ」
ライルの表情が僅かに変わった。
ニールはそれを見逃さない。
「ライル」
「何だ」
「カタロンにいるのか?」
ライルの目が細くなる。
「……どこまで調べた?」
絹江が答える。
「あなたがカタロンと何度か接触しているところまで。それ以上は分からない」
「そうか」
ライルは少し考える。
「なら、それ以上は探らないでくれ」
「分かった」
絹江はあっさり頷いた。
ライルが少し意外そうに見る。
「聞かないのか?」
「聞いて答えてくれる?」
「いや」
「なら聞かない」
「……記者ってもっとしつこいもんだと思ってた」
「必要な時はしつこいわよ」
ニールが小さく笑う。
「それは本当だ」
「ニール」
「何も言ってないって」
ライルが二人を交互に見る。
だが、今は何も言わなかった。
「まあ」
ニールが弟へ向き直る。
「お前が生きてるって分かった。それで一度、顔を見たかったんだ」
「それだけ?」
「最初はな」
「最初は?」
「俺のことも話しておこうと思って」
ライルがカップを置く。
「兄さんの?」
「ああ」
少し間を置く。
「その前に、一つ謝らせてくれ」
「何を」
「ずっと連絡しなかったこと」
ライルの表情が固くなる。
ニールは続けた。
「悪かった」
「……今さらだな」
「ああ」
「家を出て、それっきりだった」
「そうだな」
「何してるかも知らなかった」
「……ああ」
「死んだと思ったことだってある」
ニールの笑みが消える。
ライルは兄を見る。
「それで急に連絡が来て、来てみたら普通に座ってる」
「悪かったよ」
「謝ってほしいわけじゃない」
「分かってる」
ニールは視線を逸らさなかった。
「それでも、言っときたかった」
ライルはしばらく黙っていた。
やがてコーヒーへ手を伸ばす。
「……もういい」
許したわけではない。
長く空いた時間が、一言で消えるわけでもない。
それでもニールは、それ以上何も言わなかった。
「それで」
ライルが聞く。
「兄さんは今まで何してたんだ?」
「それなんだけどな」
ニールは一度、絹江を見る。
事前に決めていた。
ライルには話す。
絹江が小さく頷いた。
ニールは弟へ向き直る。
「俺はソレスタルビーイングにいた」
ライルの手が止まった。
「……何?」
「二年前まで、ガンダムに乗ってた」
「ちょっと待て」
ライルが身を乗り出す。
「兄さんが?」
「ああ」
「ガンダムに?」
「ああ」
「ソレスタルビーイングの?」
「そうだ」
ライルは完全に固まった。
ニールは黙って待つ。
「……何してんだよ、兄さん」
「まあ……そうなるよな」
「そうなるだろ!」
周囲の客が振り向く。
ライルは声を落とした。
「本当なのか?」
「本当だよ」
「世界中で武力介入してた、あの?」
「ああ」
「……」
ライルは額を押さえた。
「全然笑えない」
「冗談じゃないからな」
「何でそんなこと……」
「色々あった」
「またそれか」
「今度はちゃんと話すさ」
ニールは少し間を置いた。
「ガンダムに乗ってた時は、本名を使ってなかった」
「……コードネーム?」
「ああ」
ニールは弟を見る。
「ロックオン・ストラトス」
ライルがその名を小さく繰り返す。
「ロックオン・ストラトス……」
初めて聞く名前だった。
「それが兄さんの?」
「そうだ」
「……随分変わった名前だな」
「俺が決めたわけじゃない」
ライルはしばらく兄を見る。
「じゃあ、二年前にソレスタルビーイングが消えた時……」
「死にかけてた」
ニールは胸元へ触れる。
「かなり酷くやられてな」
ライルの表情が変わる。
「誰に?」
「昔から追ってた男だ」
「そいつは?」
「生きてる」
「名前は?」
「ライル」
ニールの声が少し低くなる。
「それはお前が背負うことじゃない」
「兄さんが殺されかけたんだぞ」
「ああ」
「なら――」
「だからだよ」
ニールは静かに言った。
「お前まで俺と同じものを背負う必要はない」
ライルは何か言おうとして、やめた。
しばらくして椅子へ背を預ける。
「……昔からそうだな」
「何が?」
「そういうところだよ」
ニールは何も返さなかった。
◇
同日――夕刻
店を出る頃には、雲の隙間から夕日が差していた。
三人は川沿いを歩いていた。
しばらくしてライルが足を止める。
「兄さん」
「ん?」
「まだ何かあるだろ」
ニールも止まった。
「分かるか」
「何年一緒に育ったと思ってる」
「それもそうだな」
ライルが振り返る。
「俺を探したのは、本当に顔を見るためだけか?」
「最初はそうだった」
「今は?」
ニールは弟を見る。
「頼みたいことがある」
「ソレスタルビーイング絡みか」
「ああ」
ライルの顔に警戒が戻る。
ニールは構わず続けた。
「俺たちは今、組織を立て直してる」
「また武力介入するのか?」
「まだ動ける状態じゃない」
仲間は揃っていない。
機体も艦も建造途中。
アレルヤは、今も行方が分からない。
「でもアロウズについては調べてる」
ライルの表情が変わる。
「どこまで知ってる?」
「民間人被害の隠蔽。オートマトンの使用。拘束者への扱い。他にもある」
ライルは黙った。
その反応だけで十分だった。
「カタロンも同じものを見てるんだろ?」
「……答えられない」
「それでいい」
ニールはそれ以上聞かない。
「だから一度、俺たちのところへ来ないか?」
「俺が?」
「ああ」
「ソレスタルビーイングに?」
「入れって言ってるわけじゃない」
ニールは真っ直ぐ弟を見る。
「俺たちが今何をしようとしてるのか、自分の目で見てくれ」
「その後は?」
「お前が決めればいい」
ライルは黙る。
やがて、少しだけ目を細めた。
「兄さん」
「何だ?」
「俺を兄さんの代わりにするつもりか?」
「違う」
ニールは即答した。
「俺になれとは言ってない」
一歩近づく。
「お前に来てほしいんだ」
ライルは兄を見つめた。
ニールは、それ以上何も言わない。
決めるのはライルだ。
「……考えさせてくれ」
「ああ」
「カタロンのこともある」
「分かってる」
「すぐには返事できない」
「それでいいさ」
ライルは小さく頷いた。
そして歩き出そうとして――ふと止まる。
今度は絹江を見る。
それからニール。
もう一度、絹江。
「そういや」
「何だ?」
「さっきから気になってたんだけど」
ライルが二人を指す。
「兄さんと絹江って、どういう関係なんだ?」
沈黙。
ニールが止まった。
絹江も止まった。
「……」
「……」
ライルの眉が上がる。
「何で二人とも黙るんだよ」
「いや」
ニールが頭を掻く。
「急に何言い出すんだ」
「だって気になるだろ。兄さんが女の人連れて俺に会いに来るなんて初めてだし」
「仕事仲間だよ」
絹江がニールを見る。
「仕事仲間?」
「……何だよ」
「別に」
「その顔やめろよ」
ライルが二人を交互に見る。
「一緒に住んでる?」
再び沈黙。
「……」
「……」
ライルの目が細くなった。
「一緒に住んでるんだな」
「事情があるんだよ」
ニールが答える。
「どんな?」
「色々」
「またそれかよ」
今度は絹江が小さく笑った。
ライルはその様子を見る。
そして、少しだけ口元を緩めた。
「まあいいや」
「何だよ、その顔」
「別に?」
「絶対何か思ってるだろ」
「久しぶりに会った兄貴が生きてて、ガンダムに乗ってて、女と一緒に暮らしてる」
ライルは肩をすくめる。
「今日は情報量が多すぎる」
「……悪かったな」
「別に悪いとは言ってない」
ライルは今度こそ背を向けた。
数歩進んでから、片手を上げる。
「連絡するよ、兄さん」
「ああ」
ニールも手を上げる。
「待ってる」
ライルは人の流れへ消えていった。
ニールはその背中が見えなくなるまで立っていた。
やがて。
隣から声がする。
「仕事仲間なんだ」
「……そこ拾うのか?」
絹江は答えず歩き出す。
「おい、絹江」
「帰るんでしょ?」
「いや、そうだけどさ」
ニールは少し困った顔をして、その後を追う。
長く離れていた双子の時間は、まだ埋まってはいない。
それでも。
もう一度繋がるための最初の一歩は、確かに踏み出されていた。