第78話 リボンズ・アルマーク
西暦2312年春――プトレマイオス2・医務室
数時間が経った。
ルイスの状態は落ち着いていた。
レイナスの《アニマ》による治療後、細胞異常の急激な進行は見られない。呼吸も脈拍も安定している。
だが、完治したわけではない。
白い錠剤も与えていない。
医療スタッフはルイスの状態を監視し続けていた。
ベッド脇の椅子には、沙慈が座っている。
会話はほとんどなかった。
沙慈が何か言おうとして、やめる。
ルイスも時折、沙慈を見る。
だが目が合えば、どちらからともなく逸らしてしまう。
五年ぶりの再会。
それだけなら、もっと違うものになったはずだった。
「……沙慈」
「何?」
「本当に……自分でここにいるの?」
沙慈は少し考えてから頷いた。
「うん」
「捕まってるんじゃなくて?」
「違うよ」
「脅されても?」
「ない」
ルイスが俯く。
「……そう」
納得したようには見えなかった。
ただ、少なくとも沙慈本人がそう言っている。
それを無理に否定することもできない。
「ルイスは?」
「え?」
「どうしてアロウズに?」
ルイスの右手が僅かに強張った。
「……戦うため」
「ガンダムと?」
「そう」
「……」
「私には、それしかなかったから」
沙慈は何も言えなくなった。
ルイスが視線を落とす。
「家族もいなくなった」
静かな声だった。
「身体もこんなになって……ずっと痛くて、苦しくて」
義手となった左腕を見る。
「ガンダムだけは許せなかった」
そこに迷いはない。
「今でも許せない」
沙慈は俯いた。
薬の影響。
身体の異常。
それらが見つかったとしても。
この言葉まで全部、薬のせいにすることはできない。
五年前。
本当に起きたことなのだから。
「……うん」
沙慈が答える。
ルイスが顔を上げた。
「否定しないの?」
「できないよ」
「……」
「僕は君じゃないから」
沙慈は自分の手を見る。
「君が失ったものを、僕が『もういいじゃないか』なんて言えない」
ルイスは黙った。
その時。
医務室の扉が開いた。
入ってきたのはティエリアだった。
その後ろにはスメラギ。
「具合はどうだ?」
ルイスの表情に警戒が戻る。
「……何?」
「聞きたいことがある」
「ティエリア」
スメラギが制する。
「尋問じゃないわ」
「分かっている」
ティエリアは一拍置いた。
「君の体調に関係することだ」
ルイスの視線が僅かに動く。
ティエリアは端末を操作した。
画面に白い錠剤が表示される。
「君が所持していた薬について聞きたい」
ルイスの表情が変わった。
「……返して」
最初に出てきた言葉はそれだった。
「その前に確認が必要だ」
「私の薬なの」
「分かっている」
ティエリアは淡々と続ける。
「この薬は、君の身体に起きている細胞異常を抑制している」
「だったら返して」
「だが、それだけではない」
「……どういう意味?」
「内部にナノマシンが含まれている。しかも、それが細胞異常の抑制とは別の働きをしている可能性がある」
ルイスが眉を寄せる。
「何、それ……」
「知らなかったのか?」
「身体を治すための薬だって聞いてる」
「誰から?」
ルイスが黙る。
ティエリアは急かさない。
「君を治療するためにも必要な情報だ。薬を渡した人物を教えてほしい」
「……」
ルイスの右手が布団を掴む。
しばらくして。
小さく口を開いた。
「……リボンズ」
ティエリアの目が僅かに細くなる。
「フルネームを」
「……リボンズ・アルマーク」
室内が静まった。
沙慈には聞き覚えのない名前だった。
スメラギも反応を見せる。
ティエリアが確認するように繰り返した。
「リボンズ・アルマーク」
「……そう」
ソレスタルビーイングが、その名前を知った瞬間だった。
「その人物は何者だ?」
ルイスが少し眉を寄せる。
「……何者って」
「所属を聞いている」
「軍人じゃない」
「連邦政府の人間か?」
「そういう肩書きじゃないと思う」
「なら、どういう立場だ?」
ルイスは答えに迷った。
知らないからではない。
どう説明すればいいのか分からない。
「……すごく力のある人」
「力?」
「アロウズにも、連邦にも」
ティエリアとスメラギの視線が僅かに交わる。
ルイスは続けた。
「上の人たちだって、リボンズを無視できない」
「アロウズの指揮系統にいるのか?」
「分からない。でも……普通の人じゃない」
「君にとっては?」
問いに。
ルイスの表情が変わった。
警戒ではない。
むしろ。
先ほど沙慈へ向けたものに近い、個人的な感情だった。
「……恩人」
「恩人?」
「私を助けてくれた人」
ルイスは左腕へ目を落とす。
「ガンダムの攻撃を受けてから、ずっと身体がおかしかった」
沙慈の顔が曇る。
「治療しても治らなくて……身体も元には戻らなくて」
「そこへリボンズ・アルマークが現れた?」
「そう」
「いつ頃だ?」
「私が治療を受けていた頃」
「それ以前に面識は?」
「ない」
「向こうから接触してきたのか?」
「……うん」
ティエリアの目が鋭くなる。
「なぜ君に?」
「知らない」
「何か理由を説明されたか?」
「そんなの……」
ルイスは言葉を止める。
「苦しんでる私を助けてくれた。それじゃ駄目なの?」
ティエリアは答えなかった。
ルイスにとっては、それで十分だった。
家族を失った。
身体を壊した。
将来も失った。
そんな時に現れ。
苦痛を和らげる薬を与えた。
そして。
再び立つための力を与えた。
「薬を飲み始めてから、身体は?」
「楽になった」
「他に変化は?」
「……分からない」
「感情や思考に――」
「ティエリア」
スメラギが止める。
ルイスの顔に苛立ちが浮かんでいた。
「質問を変えるわ」
スメラギが穏やかに言う。
「リボンズ・アルマークは、あなたがアロウズへ入ることにも関係している?」
「……」
「責めているわけじゃないわ。経緯を知りたいだけ」
ルイスは少し迷った。
「直接、入れって言われたわけじゃない」
「なら?」
「私が……戦いたいって言ったから」
沙慈が顔を上げる。
「ルイス……」
「ガンダムを倒したかった」
「……」
「家族の仇を取りたかった」
右手を強く握る。
「リボンズは、それを否定しなかった」
「戦う力を与えた?」
「そう」
「アロウズへ入る道も?」
「教えてくれた」
ルイスはすぐに続けた。
「でも、私が決めたの」
強い口調。
「リボンズに命令されたんじゃない。私が戦いたかったからアロウズに入った」
ティエリアが答える。
「君の選択を否定するつもりはない」
「だったら――」
「だが、君の選択に影響を与えた人物が、君の身体へ何をしていたのかは調べる必要がある」
「何をしたって……治してくれたのよ」
「その薬が治療だけを目的としているなら、僕もそれで構わない」
「リボンズは私を助けてくれた!」
ルイスの声が強くなる。
沙慈が立ち上がりかける。
だが、ティエリアは表情を変えなかった。
「なら、なおさら調べるべきだ」
「……何で」
「本当に君を助けるためのものなら、調べてもその事実は変わらない」
ルイスが言葉に詰まる。
「僕たちが疑っているからといって、君まで彼を疑えとは言っていない」
「……」
「ただ、君の身体で起きていることを確認する」
ティエリアが端末を下げる。
「それだけだ」
ルイスはしばらく睨んでいた。
やがて。
「……薬を返して」
「今はできない」
「飲まないと駄目なの」
「今の君の身体は安定している」
「また苦しくなったら?」
「その時は処置する」
「あなたたちに何ができるの?」
「ルイス」
沙慈が声をかける。
ルイスが振り向く。
「レイナスさんが治療してから、ずっと安定してる」
「……あの人が?」
「うん」
ルイスは黙った。
戦場で自分を止めた男。
アロウズで怪物のように語られている男。
そして。
自分の身体を安定させた男。
「……あの青白い光?」
「《アニマ》っていうらしい」
「……何なの、それ」
「僕にもよく分からない」
「沙慈も分からないの?」
「僕、ここに来てそんなに経ってないから……」
「……」
ルイスが額を押さえた。
「本当に何なの、この船……」
スメラギが小さく苦笑する。
「その感想については、否定しづらいわね」
◇
プトレマイオス2・ブリーフィングルーム
「リボンズ・アルマーク」
スメラギが端末へ名前を表示した。
レイナス。
刹那。
ティエリア。
アレルヤ。
マリー。
フェルト。
クリス。
ニール。
ライル。
イアン。
主要メンバーが集まっている。
誰も、その名前に反応しなかった。
「聞いたことある奴?」
レイナスが室内を見回す。
沈黙。
「……全滅か」
「少なくとも、僕は知らない」
ティエリアが答える。
刹那が名前を見る。
「ヴェーダにもないのか?」
「現時点で僕たちがアクセスできる範囲にはない」
スメラギが情報を整理する。
「ルイスの証言では、リボンズ・アルマークは軍人ではない。公的な肩書きも彼女は知らない」
表示が切り替わる。
「ただし、連邦政府とアロウズの双方に強い影響力を持っていると、ルイスは認識している」
室内の空気が変わった。
レイナスが腕を組む。
「……随分と話が変わってきたな」
「ああ」
ティエリアが答える。
「アロウズへ入る道をルイスへ示したのも彼だ」
「それでいて組織図には出てこない、と」
ニールが言う。
「今のところはね」
スメラギが頷く。
「彼女の認識が正確かどうかも確認する必要があるけど」
レイナスは椅子へ深く座り直した。
「肩書きは分からない。軍人でもない。なのに軍と政府の上の方へ話が通る」
以前。
自分で口にした言葉が蘇る。
――現場が暴走してるんじゃなくて、最初から止められないように話が通ってる。
「……嫌なところに部品が嵌まったな」
フェルトがレイナスを見る。
「前に言ってたこと?」
「ああ」
レイナスは端末を見る。
「アロウズが好き勝手やってるのに、どうして誰も止められないのかって話だ」
「リボンズ・アルマークが止めさせていない?」
アレルヤが尋ねる。
「そこまでは言ってない」
レイナスは首を振る。
「ただ、そういうことができそうな立場の奴が一人出てきた」
「それだけでも大きい」
ティエリアが言う。
スメラギが続ける。
「そして、その人物がルイスへ特殊なナノマシンを含む薬を与えている」
画面に解析結果が表示される。
「この薬は、擬似GN粒子による細胞異常を抑制している。それ自体は事実よ」
「問題はそれ以外だ」
ティエリアが表示を拡大する。
「ナノマシンが細胞活動そのものへ干渉している」
アレルヤが眉を寄せる。
「治療のためじゃなく?」
「治療だけでは説明できない」
「人間を変えようとしてるってこと?」
クリスが尋ねる。
「可能性はある」
「どんなふうに?」
「まだ分からない」
ティエリアは断言を避けた。
「ただし、単なる副作用と考えるには変化に規則性がありすぎる」
マリーが静かに画面を見つめる。
「ルイス本人は知らないんだよね」
「ああ」
「リボンズを恩人だと思ってる」
「そうだ」
マリーの表情が曇る。
自分の身体へ、自分の知らないところで何かを施される。
その意味を、彼女は他の者より重く受け止めていた。
刹那が口を開く。
「リボンズは、ルイスを利用したのか?」
「可能性はある」
スメラギが答える。
「でも、まだ決めつけない」
「本人が善意だった可能性も残すのか?」
ライルが尋ねる。
「事実として切り捨てる材料がないもの」
レイナスが頷く。
「名前が出た途端に全部そいつの仕業にすると、調査じゃなくて答え合わせになっちまう」
「珍しくまともなことを言うな」
イアンが言う。
「俺を何だと思ってるんだ?」
「敵のMSを拾ってくる男」
「まだ引っ張るのか、それ」
「朝の話だ!」
「そうだったな……」
フェルトが小さく笑う。
スメラギが咳払いする。
「話を戻すわよ」
空気が締まる。
「今まで私たちは、アロウズの異常な権限。その背後にいるかもしれない存在。そしてヴェーダへの干渉。この三つを別々の仮説として考えていた」
三項目が表示される。
「そこへ初めて、具体的な人物名が出てきた」
RIBBONS ALMARK
「もちろん、この人が全部に関わっているとは限らない」
「でも調べる価値は十分ある」
ニールが言う。
「ええ」
「絹江には?」
「名前を送る」
スメラギが答える。
「連邦政府側から調べてもらうわ。ただし無理はさせない」
レイナスが頷く。
「今度は一人で危ない橋を渡らないって約束してるからな」
「グラハムやセルゲイは?」
ライルが尋ねる。
「まだ早い」
レイナスが先に答えた。
「ルイスの話が本当なら、相手は連邦やアロウズの上に手が届く。下手に名前を出して、向こうまで目をつけられたら笑えない」
スメラギも同意する。
「まず私たちで調べられる範囲を調べる」
ティエリアが画面の名前を見つめる。
「リボンズ・アルマーク……」
これまで。
敵には顔がなかった。
アロウズ。
連邦政府。
ヴェーダ。
その向こうに何者かがいる可能性だけがあった。
だが。
初めて。
一人の人間の名前が現れた。
「ようやく取っ掛かりができたか」
レイナスが呟く。
「まだ名前だけだ」
ティエリアが言う。
「ああ。だからいい」
「どういう意味だ?」
「最初から答えまで書いてある仕事なんて、そうそうないってことさ」
レイナスは画面を見る。
「型番一つでも分かれば、次に調べる場所が決まる」
刹那もまた、その名前を見つめていた。
「リボンズ・アルマーク」
低く呟く。
「この男を探す」
「ええ」
スメラギが頷いた。
「まずは、この名前がどこへ繋がっているのかを確かめる」
アロウズ。
連邦政府。
ルイス・ハレヴィ。
ナノマシン。
そしてヴェーダ。
これまで別々に存在していた疑問の間に。
初めて一本の線が引かれた。