第92話 トレーニング
ソレスタルビーイング宇宙整備拠点・トレーニングルーム
「沙慈」
「何?」
「運動しようか」
「……急にどうしたの?」
沙慈・クロスロードは露骨に嫌そうな顔をした。
目の前にはトレーニングウェア姿のレイナス。
その後ろでは、ラッセがベンチプレスの重量を調整している。
アレルヤとマリーも既に準備を終えていた。
どう見ても逃げ道はなかった。
「別に筋肉を付けてMSと殴り合えって話じゃないよ」
「そんなことできるのレイナスさんだけだよ」
「俺だって好きで基準がおかしくなったわけじゃないんだけどな」
レイナスは肩をすくめる。
「お前、今は整備の手伝いもしてるだろ」
「うん」
「それに、この先ずっと何も起きない保証もない」
拠点はつい先日、イノベイターの部隊から直接襲撃を受けたばかりだ。
戦場へ出るつもりがなくても、戦いの方からやってくる。
「艦内で事故が起きるかもしれない。避難することもある。誰かを支えて移動しなきゃならないことだってある」
「……」
「そういう時、最後に頼りになるのは自分の身体だ」
沙慈も納得したのか、トレーニングルームを見回す。
「つまり、戦うためじゃなくて……」
「生き残るため」
レイナスは頷いた。
「ついでに誰か一人くらい引っ張って逃げられれば上出来だな」
沙慈の頭に誰が浮かんだのか。
少しだけ表情が変わる。
レイナスは気づいたが、そこには触れなかった。
「まあ、そんなわけで基礎体力くらい付けとこうって話だ」
「それなら分かるけど……」
沙慈が周囲を見る。
ラッセ。
アレルヤ。
マリー。
そしてレイナス。
「どうしてこのメンバーなの?」
ラッセが笑った。
「俺は普段からここ使ってるだけだ」
「僕も身体は動かしておいた方がいいからね」
アレルヤが答える。
「私もです」
マリーも続く。
沙慈は二人を見る。
元・超兵。
しかもマリーの中にはソーマ・ピーリスとして積み重ねた戦闘経験まで残っている。
最後にレイナス。
百年以上生き、生身でMSを破壊する。
「……僕、比較する相手を間違えてない?」
「安心しろ」
ラッセが笑う。
「間違えてる」
「安心できないよ!」
◇
最初はランニングマシンだった。
レイナスが沙慈の隣に立つ。
「最初から飛ばすなよ。今日は今の体力を見るだけでいい」
「分かった」
「息が上がったら速度落とせ。張り合う必要もない」
「誰と?」
沙慈が隣を見る。
アレルヤとマリーが軽いペースで走っている。
さらにその向こうでは、ラッセがかなり速い速度を維持していた。
「……張り合わないよ」
「賢明だな」
レイナスも走り始める。
しばらくして。
沙慈の呼吸が荒くなってきた。
「はぁ……はぁ……」
「速度落としていいぞ」
「まだ……大丈夫」
「その台詞を言い始めた時点で、大体大丈夫じゃない」
レイナスが沙慈のマシンの速度を一段落とす。
「無理して次の日に動けなくなったら本末転倒だ」
「レイナスさんに言われると……すごく納得いかないんだけど」
「俺をどういう人間だと思ってるんだ?」
「いつも無茶する人」
即答だった。
少し離れた場所からマリーが反応する。
「それは私も思います」
アレルヤも苦笑した。
「否定は難しいかな」
ラッセまで笑う。
「四対一だな」
レイナスは走りながら周囲を見る。
「……人に教える側が過去の勤務態度まで審査されるとは思わなかったな」
「勤務態度の問題なの?」
「そこを掘り下げると長くなる。今は走れ」
「ごまかしたよね?」
◇
ランニングを終え、次は軽い筋力トレーニングへ移る。
今度はラッセが沙慈のフォームを確認する。
「腰を反らすな。重量は軽くていい」
「こう?」
「そう。まずフォームを覚えろ」
ラッセは慣れていた。
レイナスも余計な口を挟まず任せている。
一通り終えた沙慈が、ベンチから身体を起こした。
「思ってたよりきつい……」
「最初はそんなもんだ」
ラッセが答える。
「続けりゃ慣れる」
「ラッセさんはどれくらい上げるの?」
「聞かない方がいいんじゃないか?」
レイナスが言う。
「どうして?」
「数字を聞くと張り合いたくなるのが人間だからだ」
「張り合わないよ」
「なら聞いてもいい」
「どっちなの……」
その横でマリーが空いた器具へ向かった。
沙慈が何気なく見る。
マリーが重量を設定する。
「……え?」
沙慈が二度見した。
マリーはそのまま普通に持ち上げる。
「……マリーさん?」
「はい?」
「それ、重くない?」
「それほどでもありませんよ」
アレルヤが苦笑する。
「マリーは超兵だから」
「今は超兵だからというだけではありません」
マリーが少し不満そうに言う。
「ちゃんと訓練もしています」
「あ、ごめん」
「いえ」
マリーは笑う。
「でも、沙慈さんが同じ重量にする必要はありませんからね」
「しないよ!」
ラッセが吹き出した。
◇
一通り沙慈のメニューが終わった。
床に座った沙慈がタオルで汗を拭く。
「疲れた……」
「初日ならそんなもんだよ」
レイナスが飲み物を渡す。
「ありがとう、レイナスさん」
沙慈は受け取りながら、まだ運動を続けている三人を見る。
「みんな、すごいな……」
ラッセは筋力トレーニング。
アレルヤとマリーは少し離れたスペースでストレッチをしている。
「環境が違うからな」
レイナスが壁にもたれる。
「ラッセは元々身体を鍛えてる。アレルヤとマリーは超兵として育てられた。比べる意味はないよ」
「レイナスさんは?」
「俺?」
「レイナスさんはどれくらいできるの?」
「……」
一瞬。
ラッセの動きが止まった。
アレルヤも振り向く。
マリーまでレイナスを見る。
レイナスは嫌な予感がした。
「その質問、答えたら面倒になる気がするな」
沙慈が首を傾げる。
「どうして?」
ラッセがニヤリとする。
「そういや俺も見たことねえな」
「何を?」
「こいつが本気でトレーニングしてるところ」
アレルヤも興味を持ったらしい。
「確かに」
マリーがレイナスを見る。
「私もありません」
「お前らな……」
レイナスは額を押さえる。
「沙慈のトレーニングが目的だっただろ」
「もう終わったじゃないか」
沙慈が言う。
「元気になった途端にそっち側へ回るのやめてくれない?」
「でも気になるよ」
四人の視線が集まる。
レイナスはしばらく黙った。
「……分かったよ」
ラッセが笑う。
「お、やるか?」
「ただし《アニマ》は使わない。それでいいだろ」
「当たり前だ」
「器具を壊したらイアンに怒られるからな」
レイナスがベンチへ向かう。
ラッセが重量を設定しようとする。
「どのくらいから行く?」
「適当でいいよ」
「適当って……」
「壊れない範囲で」
ラッセの手が止まる。
「基準がおかしいんだよ」
◇
結局。
器具の安全上限まで重量が増えた。
レイナスはベンチに横になっている。
沙慈が表示を見る。
「……これ、本当に持ち上がるの?」
「さあ」
「さあって……」
レイナスがバーを握る。
持ち上げる。
「……」
沙慈が黙った。
もう一回。
さらにもう一回。
特に苦しそうでもない。
ラッセが呆れた顔になる。
「お前、《アニマ》使ってないよな?」
「使ってない」
「本当に?」
「使ってないって」
アレルヤがレイナスの身体を見る。
「身体そのものが強いんだね」
「長いこと色々やってきたからな」
マリーが器具の表示を見る。
「まだ余裕がありますね」
「あるけど、これ以上載せられないだろ」
レイナスはバーを戻して身体を起こす。
「だからやりたくなかったんだよ。比較の参考にならない」
沙慈が呆然としている。
「……僕、あれを目指すの?」
「目指すな」
即答だった。
「お前は普通に健康になればいい」
「なんか説得力がすごい……」
「俺みたいなのを基準にしたら、身体作りの前に常識の方が壊れるぞ」
ラッセが笑う。
「自覚はあるんだな」
「あるよ。それくらいは」
◇
少し休んだ後。
ラッセが広いマットスペースへ移動した。
「せっかくだ。護身くらい教えたらどうだ?」
沙慈が嫌な顔をする。
「まだやるの?」
「本格的な格闘じゃない」
レイナスも立ち上がる。
「掴まれた時の外し方とか、転んだ時の受け身とか。その程度なら覚えといて損はない」
「……それくらいなら」
「よし」
まずレイナスが沙慈の腕を軽く掴む。
「力任せに引っ張るな。相手の握りが弱いところへ――」
手首を動かす。
簡単に外れる。
「こう」
「なるほど」
「やってみろ」
今度は沙慈がレイナスの腕を掴む。
「……」
「……」
沙慈が首を傾げる。
「外してみて」
「いや、今は僕が掴んでる側だよ」
「そうだったな」
「大丈夫?」
「教えるの慣れてないんだよ」
ラッセが笑い出す。
「お前、戦えるのに教官には向いてねえな」
「現場と教育は別業種なんだよ」
「そこを業種で分けるの?」
沙慈が突っ込む。
「分けたい。できれば」
結局、基礎的な護身術はラッセも手伝うことになった。
アレルヤとマリーも時折助言を入れる。
一通り終わった頃。
沙慈は完全に床へ座り込んでいた。
「……もう無理」
「今日はここまでだな」
レイナスが手を差し出す。
沙慈がその手を取って立ち上がる。
「これ、毎日やるの?」
「毎日はやらなくていい。続かなきゃ意味ないからな」
「週に何回か?」
「そのくらいで十分」
レイナスは沙慈を見る。
「別に兵士にするつもりはないんだ」
「うん」
「ただ――」
少しだけ声が真面目になる。
「いざって時に、自分で走れるか。誰かの手を取って走れるか。それだけでも随分違う」
沙慈は少し考える。
ルイスの顔が浮かんだ。
「……分かった」
「なら十分だ」
レイナスが頷く。
その横でラッセが笑った。
「次からもうちょい増やすか」
「え?」
「慣れたらな」
「今ので十分だよ、ラッセさん!」
「若いんだからいけるって」
「無理だよ!」
アレルヤが笑い、マリーも口元を緩める。
レイナスはその様子を見ながら、自分の飲み物へ手を伸ばした。
「まあ、ほどほどにな」
沙慈が振り返る。
「レイナスさんがそれ言う?」
「……今日それ何回目だ?」
トレーニングルームに笑い声が広がった。
◇
数日後――宇宙整備拠点・居住区
ルイスは通路を歩いていた沙慈を見つけた。
「あ、沙慈」
「ルイス」
声を掛けられた沙慈が足を止める。
その動きを見て、ルイスが首を傾げた。
「……どうしたの?」
「何が?」
「なんか歩き方変じゃない?」
「……筋肉痛なんだ」
「筋肉痛?」
沙慈が苦笑する。
「ちょっとトレーニングしてて」
ルイスが目を丸くした。
「沙慈、トレーニングしてるの?」
「まだ始めたばかりだよ」
「どうして急に?」
「レイナスさんに勧められたんだ。戦うためじゃなくて、何かあった時に自分で動けるくらいの体力はあった方がいいって」
「ああ……」
ルイスは納得したように頷く。
先日の拠点襲撃を考えれば、戦闘員でなくても体力が必要になる場面はある。
「それならいいかもね」
「僕もそう思って始めたんだけど……思ってたよりきつくて」
「誰と?」
「レイナスさんとラッセさん。それにアレルヤさんとマリーさん」
「……」
ルイスの表情が止まった。
沙慈が首を傾げる。
「ルイス?」
「レイナスさんとラッセさん」
「うん」
「アレルヤさんとマリーさん」
「うん」
ルイスはしばらく沙慈の顔を見つめた。
そして、妙に真剣な表情になる。
「沙慈」
「何?」
「常識はなくさないでね」
「……」
沙慈が瞬きをする。
それから大きく頷いた。
「僕も同じこと思ったよ」
「よかった……」
ルイスが心底安心したように息を吐く。
「だってラッセさんは見るからに鍛えてるし、アレルヤさんとマリーさんは超兵でしょ?」
「うん」
「レイナスさんに至っては、生身でMS壊す人だし」
「うん……」
「そんな人たちと一緒にトレーニングしてたら、普通が分からなくなりそう」
「実はレイナスさん本人にも言われたんだ」
「何て?」
「俺みたいなのを基準にしたら、身体作りの前に常識の方が壊れるぞって」
ルイスが吹き出した。
「本人が一番分かってるじゃない!」
「自覚はあるみたい」
二人で笑う。
「でも、僕は僕に合わせたメニューだから。別にみんなと同じことをやってるわけじゃないよ」
「ならいいけど……」
ルイスは沙慈の身体を眺める。
「筋肉ついた?」
「数日でつかないよ」
「ちょっと見せて」
「何を?」
「腕」
ルイスが沙慈の腕を掴む。
「ちょ、ルイス」
軽く触ってみる。
「……変わってない」
「だから始めたばかりだって!」
「ふふっ」
ルイスが笑う。
その笑顔を見て、沙慈もつられて笑った。
「でも、続けてね」
「うん」
「無茶はしないで」
「分かってる」
「レイナスさんの真似もしないで」
「それは絶対しないよ」
即答だった。
「ラッセさんとも張り合わないでね」
「張り合わないよ」
「アレルヤさんとマリーさんとも」
「張り合えるわけないじゃないか」
「なら安心」
ルイスが笑う。
沙慈は少し呆れながらも、その顔を見て笑い返した。
戦うためではない。
誰かと同じになるためでもない。
何かあった時に、自分の足で立つ。
そして、大切な人の手を取って走れるようにする。
沙慈に必要なのは、そのくらいでよかった。