古い牧場の朝
ユニフォール歴2360年。
帝都から遠く離れた農村地帯に、一軒の古いケモミミマンジュウ牧場があった。
牧場といっても、帝国各地にある大規模な産業施設とは違う。
木造の母屋が一軒。
古びた納屋が二棟。
換毛した毛を集める小屋が一つ。
そして、広い草地。
それだけだった。
それでも、この牧場は周囲の村ではよく知られていた。
何代も前からケモミミマンジュウを飼い続けている、古い牧場だったからだ。
朝。
まだ太陽が山の向こうから顔を出したばかりの頃、三代目の牧場主は納屋の扉を開けた。
「おはよう」
返事はない。
代わりに、
もふっ。
という音がした。
足元を見る。
白と灰色の毛玉が一つ、ゆっくりと転がってきた。
続いて二つ。
三つ。
そして最後には、納屋の奥から大量のケモミミマンジュウがぞろぞろと出てきた。
「朝ご飯はまだだぞ」
牧場主が言うと、一番大きな個体が不満そうに耳を伏せた。
「だからまだだって」
牧場主は笑いながら餌桶を運んだ。
ケモミミマンジュウたちは一斉に集まった。
あまりに密集するので、牧場主は毎朝のように、
「押すな」
と言わなければならない。
「押すなって。事故になるぞ」
そう言っても、後ろからさらに一匹が押してくる。
結局、牧場主自身が毛玉の群れに押し出され、納屋の壁へ背中をぶつけた。
「……朝からこれか」
納屋の隅で、二本の尾が揺れた。
二尾のケモミミサマだった。
この牧場には二体いる。
どちらも、この牧場で生まれた。
牧場主の祖父がまだ若かった頃。
当時、牧場には百年以上生きた巨大なケモミミマンジュウが何体もいた。
ある年、その個体たちが妙に一か所へ集まり始めた。
毎日、毎日。
ぎゅうぎゅうと身体を寄せ合い、巨大な毛の塊になった。
当時の牧場主だった二代目は、それを面白がって眺めていたという。
しかし、数週間後。
突然、群れが崩れた。
大量の毛が舞い上がり、その中心から二人の少女が現れた。
どちらも狐の耳を持ち、二本の大きな尾を生やしていた。
それが、この牧場の二尾だった。
当時は大騒ぎになった。
村役場へ届け出が行われ、帝国危険生物管理局にも報告された。
調査官が何人もやって来た。
しかし、調査が終わった後に残った結論は単純だった。
「牧場のケモミミマンジュウに危害を加えない限り、問題なし」
それだけだった。
それから六十年以上。
二体はずっとこの牧場にいる。
そして今では、牧場主より牧場のことをよく知っていた。
「今日は毛刈り……じゃないな。換毛の時期だから、集めるだけでいいか」
「その子は昨日も食べ過ぎてるから少し減らして」
「あと、納屋の屋根は危ない。登るな」
牧場主が次々に言うと、二尾の片方が小さくため息をついた。
「……聞いてる?」
「聞いている」
少女は淡々と答えた。
「ならいいけど」
「ただし、あの子は食べ過ぎではない」
「いや、どう見ても食べ過ぎだろ」
二尾は牧場主の隣に立って、足元の巨大な毛玉を見た。
その毛玉は何事もなかったかのように餌を食べ続けている。
「……確かに」
「だろ?」
二人はしばらく黙ってそれを眺めた。
牧場主が笑った。
二尾も少しだけ笑った。
それから朝の仕事が始まった。
昼になると、村から数人がやって来た。
今日は共同作業の日だった。
牧場の柵が一部壊れていたのだ。
牧場主一人でも直せないことはない。
だが、村では昔からこういう仕事を一人で抱え込まない。
誰かの納屋が壊れれば皆で直す。
誰かの畑が不作なら、余った作物を分ける。
病人が出れば交代で食事を届ける。
それが、この地域では当たり前だった。
「ここは俺が押さえる」
「じゃあ釘を」
「昼までに終わらせよう」
二尾のケモミミサマも手伝っていた。
一人が木材を運び、もう一人がケモミミマンジュウを誘導している。
もっとも、後者はほとんど遊んでいるだけだった。
「そっちじゃない」
毛玉が逆方向へ転がる。
「そっちでもない」
また転がる。
「……誰か、この子を止めてくれ」
村人たちから笑い声が上がった。
昼過ぎには、柵は直った。
誰かが持ってきたパンと野菜を皆で分けた。
ケモミミマンジュウにも少し分ける。
二尾は人間と同じ場所に座って食事をしていた。
特別扱いはされない。
だからといって、無視されることもない。
ただ、そこにいる。
昔からずっとそうだった。
夕方。
牧場主は毛の回収小屋へ向かった。
床には、換毛によって落ちた大量の毛が積まれていた。
「今年も多いな」
二尾の一人が隣から覗き込む。
「去年より少ない」
「分かるのか?」
「分かる」
「……そうか」
牧場主にはよく分からなかった。
だが、二尾がそう言うならそうなのだろう。
毛は集められ、村の加工所へ運ばれる。
そこから毛糸になり、布になり、冬には誰かの服や毛布になる。
この牧場で生まれた毛が、村の誰かを暖める。
牧場主はそれが好きだった。
大きな帝国の役に立っている、と考えたことはない。
ただ、今日集めた毛が、冬になれば誰かの役に立つ。
それで十分だった。
夜。
仕事を終えた牧場主は、母屋の縁側に座っていた。
庭ではケモミミマンジュウたちが丸くなって眠っている。
その中央には、二尾のケモミミサマが座っていた。
月明かりに二本の尾が浮かんでいる。
「なあ」
牧場主が言った。
「俺で三代目なんだよな」
「そう」
「四代目も、この牧場を継ぐのかな」
二尾は少し考えた。
「それは、まだ分からない」
「そうだよな」
牧場主は空を見上げた。
帝国には皇帝がいる。
軍人がいる。
行政官がいる。
SUOPNの人間もいる。
学者も、工場で働く人間も、農民も、牧場主もいる。
それぞれに役目がある。
だが、牧場主は自分が帝国を支えているなどとは考えていなかった。
明日の朝も餌をやる。
柵を直す。
毛を集める。
病気になった個体がいれば世話をする。
村の仕事があれば手伝う。
そして、次の世代に牧場を渡す。
それだけだった。
「まあ、明日のことは明日考えるか」
牧場主が立ち上がる。
「おやすみ」
「おやすみ」
二尾が答えた。
母屋へ戻る。
灯りが消える。
静かになった牧場で、眠っていた一匹のケモミミマンジュウが寝返りを打った。
その拍子に、隣の個体へぶつかる。
ぶつかられた個体がさらに隣へ転がる。
その隣も転がる。
やがて十数匹がゆっくりと押し合いになった。
二尾の一人が振り返る。
「……また始まった」
もう一人がため息をつく。
「朝までには止まる」
「たぶんね」
二人は毛玉の群れを眺めながら、静かに笑った。
帝国のどこかでは、その夜も大きな会議が開かれていた。
軍では作戦が議論され、役所では書類が積み上げられ、都市では工場の機械が動いている。
けれど、この古い牧場では。
ただ、二人の二尾と、何十匹もの毛玉が、いつも通り眠っていた。
それもまた、ネールリナ帝国の一日だった。