ユニフォール歴2352年。
朝六時半。
地方都市の外れにある地域警備局の小さな警察署では、夜勤から日勤への交代が始まっていた。
建物は古い。
石と煉瓦を組み合わせた二階建てで、入口の上には国家警察の紋章が掲げられている。裏手には小さな車庫と留置用の建物があり、正面には住民が相談に来られる窓口がある。
華やかな場所ではない。
けれど、この町では誰もが一度くらいは見たことのある建物だった。
「昨夜は?」
日勤の警官が尋ねる。
夜勤の警官は机の上の記録簿を閉じた。
「大きな事件はなし。酔っぱらいが一人、駅前で寝ていた。それから、東側の市場で荷車同士がぶつかった」
「怪我人は?」
「なし。双方とも話し合いで済んだ」
「それならいい」
簡単な引き継ぎだった。
殺人事件も、強盗も、暴動もない。
それでいい。
警察官にとって、何も起きない一日は決して退屈ではない。
むしろ、それが仕事の成果だった。
七時。
制服を整え、装備を確認する。
腰の装備品。
手帳。
筆記具。
携帯灯。
警笛。
手錠。
簡単な応急処置具。
そして、警察官であることを示す身分証。
最後に帽子を被る。
「行ってきます」
「気をつけて」
巡回に出る。
町はまだ完全には目を覚ましていない。
パン屋の煙突から煙が上がっている。
市場では商人が荷物を降ろし、駅へ向かう人々が通りを歩いている。
学校へ向かう子供たち。
工場へ向かう労働者。
朝の買い物をする老人。
警察官が歩いていると、何人かが軽く頭を下げる。
警察官も会釈を返す。
それだけだった。
特別な意味はない。
毎日のことである。
最初の仕事は、商店街だった。
「警察さん」
八百屋の店主が声を掛けてきた。
「どうしました?」
「昨日から、店の裏に知らない荷物が置いてあるんですよ」
案内される。
木箱が一つ。
蓋は閉じられている。
警察官は周囲を確認した。
「触っていませんね?」
「はい」
「それで大丈夫です」
箱の側面に送り先らしき文字が書かれている。
住所を確認する。
近くの工場だった。
警察官が工場へ連絡すると、すぐに従業員が走ってきた。
「すみません! うちの荷物です」
「どうしてここに?」
「運搬の人間が置き場所を間違えたようで……」
店主が呆れた顔をする。
「朝から驚かせないでくれよ」
「本当に申し訳ありません」
警察官は二人の話を聞き、荷物が無事に引き取られたことを記録した。
事件にはならなかった。
それで終わりだった。
午前九時過ぎ。
今度は交通事故だった。
大通りで荷馬車と小型貨物車が接触している。
幸い、双方とも軽傷だった。
問題は道路だった。
事故を起こした二台が道の中央に止まっているため、後ろに車列ができている。
警察官は道路の中央に立った。
手を上げる。
車を止める。
反対側を通す。
また止める。
「ゆっくり!」
荷物を積んだ車が慎重に脇を通過する。
事故車両の所有者同士は、まだ言い争っていた。
「そっちが急に出てきたんだ!」
「そっちこそ前を見ていなかっただろ!」
「まあまあ」
警察官が割って入る。
「怪我の確認をします。その後、双方から話を聞きます」
「でも――」
「順番に聞きます」
強い口調ではない。
しかし、警察官として必要な程度にはきっぱりしている。
二人とも黙った。
事故処理が終わった頃には、昼になっていた。
署へ戻る。
昼食は簡単なものだった。
同僚と食堂で食べる。
「今日は忙しいな」
「まだ昼だぞ」
「だから言ってるんだ」
笑いが起きる。
そのとき、窓口の方から声がした。
「すみません」
住民相談だった。
家族が帰ってこないという。
成人した息子が昨夜から戻っていない。
警察官は話を聞きながら、特徴、服装、最後に確認された場所を記録していく。
「喧嘩などは?」
「ありません」
「持病は?」
「特には」
「よく行く場所は?」
一つずつ聞いていく。
その後、署内へ情報が回される。
駅。
市場。
周辺の道路。
知人宅。
必要な場所へ連絡が入る。
午後には数人の警察官が捜索に出た。
夕方近く、本人は隣町の友人宅にいることが分かった。
単に連絡を忘れていただけだった。
家族が迎えに行った。
警察官は記録簿に結果を書き込む。
「発見。無事」
それだけだった。
けれど、その二文字を書くときだけは、少し肩の力が抜けた。
午後三時。
今度は市場で小さな騒ぎが起きた。
盗難だった。
売り物の工具が数点なくなっているという。
現場を確認する。
店主から話を聞き、周囲の店にも尋ねる。
「怪しい人を見ませんでしたか?」
「そういえば、昼頃に知らない人が……」
「どちらへ?」
指差された方向へ向かう。
しかし、すぐには見つからない。
署へ戻って記録を整理する。
この程度の事件なら地域警察の仕事だ。
証言をまとめ、現場を確認し、必要なら上級の捜査部門へ送る。
国家警察という大きな組織も、結局のところ、こうした小さな仕事の積み重ねで動いている。
夕方。
駅前の人通りが増えてきた。
警察官は巡回する。
駅員と少し話をする。
「今日はどうです?」
「特に問題ありません」
「それなら結構です」
駅構内を一周する。
酔った男が一人、ベンチで寝ている。
起こす。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫だ」
「家まで帰れますか?」
「帰れる……」
「では、気をつけて」
男はふらふらと立ち上がった。
数歩進んで、振り返る。
「警察さん」
「はい」
「ありがとう」
警察官は少しだけ笑った。
「お気をつけて」
夜。
署に戻る。
今日の記録を書く。
商店街の置き荷物。
交通事故。
行方不明者。
市場の盗難。
駅前の酔客。
どれも帝国全体から見れば、小さな出来事だ。
だが、その一つ一つには、その町で暮らす誰かの生活がある。
記録を書き終える。
日勤の警察官は、夜勤の同僚へ引き継ぎを始めた。
「市場の盗難は捜査継続。事故処理は完了。行方不明者は無事発見」
「了解」
「それから、駅前の道路工事が明日から始まる。朝の交通整理を増やした方がいい」
「分かった」
最後に記録簿を渡す。
外を見る。
町にはまだ灯りが残っている。
酒場の明かり。
工場の明かり。
住宅の窓。
駅の照明。
その一つ一つの向こうに、人がいる。
警察官は帽子を取り、制服の襟を少し緩めた。
今日も大きな事件はなかった。
それは、良いことだった。
明日もまた、同じように町を歩く。
誰かに道を尋ねられれば答え、
困っている人がいれば話を聞き、
事故が起きれば道路を止め、
盗難があれば調べ、
喧嘩があれば間に入り、
災害が起きれば人を安全な場所へ誘導する。
国家警察という大きな名前の下で、実際にやっていることは案外地味だ。
けれど、その地味な仕事が途切れれば、町は少しずつ不便になり、少しずつ不安になる。
だから今日も、交番の灯りは消えない。
夜勤の警察官が机に向かう。
外では、巡回車のエンジンが静かに始動した。
そしてまた、誰かの一日が始まる。