ユニフォール歴2363年。
帝国南部の山間にある小さな村。
人口は百数十人ほど。
大きな街道から外れた場所にあり、周囲を低い山と畑に囲まれている。
冬になっても雪はほとんど降らない。
朝晩は冷えるものの、昼になれば陽射しが暖かい。
村人たちは、この土地を「何もない場所」と言う。
けれど、そこに生まれた者にとっては、何もないことが故郷だった。
その日の昼前。
村へ続く細い道を、一人の女性が歩いていた。
背負っている荷物は少ない。
古びた鞄が一つ。
軍服ではない。
簡素な民間服を着ている。
髪は短く整えられていた。
歩き方だけが、少しだけ軍人らしかった。
背筋が伸びている。
足取りが一定している。
村の入口まで来ると、女性は立ち止まった。
遠くに家々が見える。
畑。
果樹。
小さな神殿。
共同井戸。
昔とほとんど変わっていない。
「……帰ってきた」
小さく呟く。
声に出したのは、それだけだった。
最初に気づいたのは、畑にいた老人だった。
鍬を持ったまま、こちらを見る。
しばらく目を細める。
そして、
「おや」
と声を上げた。
女性が軽く頭を下げる。
「ただいま」
老人は少し黙った。
「本当に帰ってきたのか」
「うん」
「軍は?」
「辞めた」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
老人は鍬を地面に立てかける。
「荷物、持とうか」
「大丈夫」
「そうか」
「うん」
二人は並んで村へ歩き始めた。
しばらくして老人が聞く。
「何年ぶりだ?」
「……かなり」
「そうか」
また沈黙。
それでも気まずくない。
故郷というのは、そういう場所だった。
村の中央まで来ると、何人かが気づいた。
「あれ?」
「帰ってきたの?」
「本当に?」
女性は何度も頭を下げる。
「久しぶり」
「大きくなったね」
「もう大きくなったって歳じゃないよ」
「そうだった」
笑い声が起こる。
軍隊では、彼女は中尉だった。
部下を持ち、命令を出し、上官から命令を受ける立場だった。
けれど、この村では関係ない。
子供の頃に走り回っていた少女。
畑の端で転んで泣いていた子供。
祭りの日に神殿の前で騒いでいた娘。
それだけだった。
家に入る。
長い間、人が住んでいなかった部屋には少し埃が積もっていた。
女性は窓を開ける。
暖かい風が入ってくる。
軍務中には、こんな風を感じることはほとんどなかった。
基地。
兵舎。
演習場。
輸送車。
宿営地。
前線。
移動。
また移動。
風景は何度も変わった。
けれど、風そのものを意識することはなかった。
彼女は窓辺に立ったまま、しばらく動かなかった。
午後。
村の神殿へ向かう。
伝承官が出迎えた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「長い務めでしたね」
「はい」
伝承官は彼女の顔を見る。
「疲れましたか」
女性は少し考える。
「……たぶん」
「では、しばらく休みなさい」
「そうします」
神殿の中は静かだった。
祭壇の前には、いつものように小さな供物が置かれている。
花。
果物。
穀物。
特別なものではない。
村の人々が普段から持ってくるものだ。
女性は座る。
手を合わせる。
軍務中も祈りはしていた。
ただ、軍隊では祈る時間にも決まりがあった。
ここでは誰にも急かされない。
しばらく目を閉じる。
何も考えない。
それだけだった。
夕方。
村の共同作業場で、昔から知っている村人たちと夕食を食べる。
「軍では何をしていたんだ?」
「いろいろ」
「いろいろじゃ分からないよ」
「本当にいろいろ」
「中尉だったんだろ?」
「最後はね」
「偉くなったな」
女性は苦笑する。
「中尉って言っても、村じゃ何の役にも立たないよ」
「そんなことない」
「じゃあ何ができる?」
少し考える。
「荷物は持てる」
「軍人なのに?」
「軍人だから」
笑い声。
誰かが皿を差し出す。
「じゃあこれ運んで」
「はいはい」
女性は立ち上がった。
皿を運ぶ。
昔と変わらない仕事だった。
夜。
自宅に戻る。
荷物を開ける。
中には軍務時代の品がいくつか入っていた。
古い制服。
手帳。
磨かれた徽章。
軍務記録。
そして、中尉の階級章。
女性はそれを手に取る。
しばらく眺める。
輝きは少し鈍っている。
長い時間を過ごした証拠だった。
それを机の上に置く。
明日からは必要ない。
もう命令を受けることもない。
部下を率いることもない。
早朝の点呼に起きる必要もない。
演習の日程を確認する必要もない。
それが嬉しいのか。
寂しいのか。
自分でもよく分からなかった。
ただ、静かだった。
あまりにも静かだった。
女性は窓を開ける。
夜の風が入ってくる。
遠くで虫の声がする。
山の向こうから、村の共同団の見回りをしている者たちの足音が聞こえる。
その音も、軍隊にいた頃とは違う。
急いでいない。
警戒しながらも、どこかのんびりしている。
この村の夜だった。
翌朝。
女性は早く目を覚ました。
長年の習慣だった。
まだ日の出前。
身体を起こした瞬間、点呼の時間を確認しようとして――
必要がないことに気づく。
少し笑う。
「……もういいんだった」
窓の外を見る。
空が明るくなり始めている。
女性は服を着替え、外へ出た。
畑ではすでに何人かが働いている。
「早いね」
声を掛けられる。
「癖が抜けなくて」
「軍人だったから?」
「中尉だったから」
「じゃあ偉い人だったんだ」
「ここでは違うよ」
「そうだな」
相手は笑った。
「こっちじゃ畑を耕せる奴が偉い」
女性も笑う。
「じゃあ、手伝う」
鍬を受け取る。
土に刃を入れる。
ざくり。
湿った土が崩れる。
もう一度。
ざくり。
軍隊では、命令に従って動いた。
ここでは誰にも命令されない。
自分で土を耕す。
自分で休む。
自分で帰る。
それだけのことだった。
けれど、その単純さが不思議と心地よかった。
昼近くになる。
暖かな風が畑を通り抜ける。
女性は額の汗を拭う。
山の向こうには、どこまでも穏やかな空が広がっていた。
かつて中尉だった女性は、鍬を肩に担ぐ。
「昼にするか」
「そうしよう」
誰かが答える。
二人は村へ戻っていく。
階級章は家の机に置いたままだ。
けれど、それを捨てるつもりもなかった。
長い年月を生きた証だからだ。
ただし、それはもう彼女自身のすべてではない。
これからは、この村で暮らす。
畑を耕し。
祭りに参加し。
神殿で祈り。
共同作業を手伝い。
困っている隣人がいれば手を貸す。
必要なら、かつて身につけた知識を村のために使う。
それでいい。
暖かな風が、背中から吹いてくる。
彼女は振り返らなかった。
故郷の道を、ゆっくり歩いていった。