ユニフォール歴2363年。
朝。
帝都から遠く離れた地方都市にある、ネールリナ特別治安維持局――政治保安総局の地方庁舎。
外から見れば、ただの官庁だった。
灰色の石壁。
狭い窓。
入口に掲げられたSUOPNの紋章。
門衛が立ち、職員証を確認している。
中へ入れば、廊下は静かだった。
足音だけが響く。
壁には時計がある。
朝の八時。
扉が一斉に開く。
職員たちが席につく。
机。
書類。
電話。
電信機。
灰色のファイル。
そして、鍵の掛かった棚。
政治保安総局の一日は、銃声では始まらない。
紙の音から始まる。
「昨日の報告、来ているか」
「来ています」
「見せろ」
一人の職員が封筒を渡す。
受け取った側は封を切る。
中には地方の集会に関する報告書が入っていた。
農業組合の会合。
参加者三十七名。
議題は税制。
特に問題なし。
その下に、別の紙が一枚。
参加者の一人が、帝国の農業政策について批判的な発言をした。
職員はそこに鉛筆で線を引いた。
「この人物」
「はい」
「以前にも名前が出ていたな」
「二年前に一度」
「何をした?」
「酒場で軍の食糧配給について不満を言った、と」
「証拠は?」
「ありません」
「では、記録上は?」
「発言あり、のみです」
職員は少し考える。
「注意対象に入れておけ」
「監視ですか?」
「まだいい。情報収集だけだ」
「分かりました」
紙が一枚増えた。
それだけだった。
しかし、その一枚が後々まで残る。
午前九時。
別の机では、三人の職員が一つの報告書を囲んでいた。
「これはおかしい」
「どこが?」
「報告者は、集会で反政府的発言があったと言っている」
「そうだな」
「だが、別の報告では、そんな発言はなかった」
沈黙。
「どちらが正しい?」
「分からない」
「では、どうする?」
一人が肩をすくめた。
「両方残す」
「そんなことでいいのか?」
「後で片方が間違っていたと分かっても、両方残っていれば『当時はそういう情報があった』と言える」
「……便利だな」
「保安機関というのは便利な言葉が多いんだ」
誰も笑わなかった。
冗談ではなかった。
十時。
上級職員が入ってくる。
部屋にいた者たちは立ち上がる。
「座れ」
全員が座る。
机の上に新しい封筒が置かれた。
「上からだ」
誰もすぐには触らない。
上からの命令は、時として最も扱いに困る。
封を切る。
内容を読む。
地方の青年団体についての調査命令だった。
「危険度は?」
「指定なし」
「つまり?」
「調べろということだ」
「理由は?」
「書かれていない」
「……面倒だな」
「だから上から来たんだろう」
誰かが呟いた。
「理由がないから、下が作る」
部屋が静かになる。
それは、この部署では珍しい話ではなかった。
昼。
食堂。
政治保安総局の食堂も、普通の官庁と大して変わらない。
湯気の立つ料理。
硬いパン。
椅子。
長い机。
職員たちは普通に飯を食べる。
「今日の煮込み、薄いな」
「昨日よりはいい」
「昨日を基準にするな」
笑い声が少しだけ起こる。
しかし、会話は自然と小さくなる。
「……あの席」
一人が目だけで示す。
「誰?」
「昨日来た」
「どこの部署?」
「知らない」
「政治保安じゃない」
「じゃあ何でここにいる?」
「知らない」
そこで会話が終わる。
知らない人間について、ここで不用意に話す者はいない。
誰が誰の報告をしているか分からない。
誰がどの部署に繋がっているかも分からない。
そして何より、
「自分について誰かが何かを書いているかもしれない」
という感覚が、職員たちの中に常にあった。
午後。
調査対象となった青年団体の資料が届く。
活動内容。
会員名簿。
会合記録。
資金。
印刷物。
代表者の経歴。
職員たちは一つずつ確認する。
「こいつ、外国の学校にいたな」
「だから?」
「分からない」
「じゃあ書くな」
「でも記録には残る」
「何のために?」
「後で問題になった時のためだ」
また紙が増える。
「こいつは?」
「兄が軍人」
「問題ないな」
「むしろ逆だ」
「では?」
「家族関係として記録」
「……全部記録するつもりか?」
「それが仕事だろ」
淡々とした会話だった。
誰も興奮していない。
誰も悪人の顔をしていない。
それが一番気味の悪いところだった。
午後三時。
突然、一枚の報告書が戻ってきた。
赤い印が押されている。
「再調査」
職員たちが顔を見合わせる。
「何が問題なんだ?」
「書き方が弱いらしい」
「内容は?」
「同じだ」
「なら、書き直すだけだ」
一人がペンを取る。
最初の文章を書き直す。
「『政府批判の発言が確認された』」
「それは事実か?」
「『政府政策に対する否定的発言が報告された』」
「それならいい」
「報告された、だからな」
「実際に確認したわけじゃない」
「そういうことだ」
言葉が少しずつ変わる。
事実。
伝聞。
推測。
評価。
その境界が、紙の上で少しずつ曖昧になっていく。
職員は書き終える。
「これで通るかな」
「通るだろ」
「通らなかったら?」
「また書き直す」
夕方。
突然、上級職員が一人の職員を呼び出した。
「お前、昨日の報告を書いたな」
「はい」
「この情報はどこから?」
「協力者です」
「名前」
「規定上、ここには書けません」
「俺が聞いている」
「……」
沈黙。
「言えないか」
「はい」
上級職員はしばらく見つめる。
「分かった。戻れ」
職員は部屋を出る。
廊下を歩く。
自分の机へ戻る。
同僚が何も聞かない。
聞かないことも、この部署では一種の礼儀だった。
夜。
ほとんどの職員は帰った。
しかし、数人だけが残っている。
照明の下で書類を整理する。
一人が古いファイルを開いた。
二年前の報告。
一年半前の報告。
半年前の報告。
今日の報告。
同じ人物の名前が何度も出ている。
「……」
職員は考える。
反政府活動家なのか。
ただの不満分子なのか。
誰かに恨まれているだけなのか。
あるいは、何もしていないのか。
分からない。
だが、記録は積み上がっている。
一枚。
また一枚。
十枚。
二十枚。
「これだけあれば、何かあることにできる」
隣の職員が言った。
「やめろ」
「何が?」
「そういう言い方」
「事実だろ」
「事実じゃない」
「記録は事実だ」
「記録が事実を作ることもある」
しばらく沈黙。
「……お前、政治保安に向いてないな」
「そうかもしれない」
「なら辞めるか?」
「辞められると思うか?」
二人とも黙った。
午後十一時。
最後の職員が机を片付ける。
報告書を棚に戻す。
鍵を掛ける。
さらに別の鍵を掛ける。
廊下へ出る。
消灯する。
扉を閉める。
その瞬間、背後の机に残された一枚の紙が目に入った。
昼間、自分が書いた報告書だった。
職員は立ち止まる。
戻ろうとする。
しかし、やめた。
そのまま歩く。
廊下には誰もいない。
建物の外。
夜風は冷たい。
職員は帽子を被り直す。
街には普通の人々がいる。
酒場から笑い声が聞こえる。
家々には灯りがある。
誰も、政治保安総局の建物など見ていない。
職員は歩きながら思う。
今日、何人の名前が書類に書かれたのだろう。
何人が調査対象になったのだろう。
何人が、まだ何も知らないまま眠っているのだろう。
そして、自分の名前もまた、どこかの紙に書かれているかもしれない。
その考えを振り払う。
明日になれば、また出勤する。
また報告書を読む。
また誰かの名前を調べる。
また誰かの情報を「念のため」として記録する。
そうして紙は増えていく。
誰かが疑われ。
誰かが疑い。
誰かが報告し。
誰かが報告される。
その輪の中で、誰も完全には安全ではない。
そして翌朝。
灰色の建物には、また灯りが点く。
机の上には新しい封筒が置かれる。
一枚目の紙には、こう書かれていた。
「至急調査を要す」
誰かが封を切る。
また一日が始まった。