ユニフォール歴2358年
宮殿の廊下
朝の宮殿は、静かだった。
まだ皇帝が起床するより少し前。
長い廊下には淡い朝日が差し込み、磨かれた床には窓枠の影が細長く伸びている。
女性使用人は、両手に布と小さな掃除道具を持って歩いていた。
昨日の晩餐会で使われた区画を確認し、埃や食べ物の欠片が残っていないかを見る。
「……あら」
廊下の角に、何かがいた。
白っぽい毛玉。
床にぺたりと張り付くようにして、じっとしている。
その頭から、小さな狐耳が二つ出ていた。
そして、その後ろには短い尻尾。
女性使用人は数秒間、それを見つめた。
「…………」
毛玉も彼女を見つめた。
「…………」
「……マンジュウ?」
毛玉の耳が、ぴくりと動いた。
「やっぱり」
ケモミミマンジュウだった。
宮殿に入り込んでいる。
女性使用人は慌てなかった。
この帝国でケモミミマンジュウを見ること自体は珍しくない。
農村にもいる。
軍施設にもいる。
市場にもいる。
寺院にもいる。
宮殿にいることだけが、少々問題だった。
「どこから入ってきたのかしらね」
しゃがみ込む。
ケモミミマンジュウは逃げなかった。
むしろ、女性使用人の持っていた布に鼻先を近づける。
「それは食べ物じゃないわよ」
布を少し遠ざける。
するとマンジュウは、今度は彼女の手袋に身体を寄せた。
ふわり。
毛が触れる。
「……あなた、ずいぶん人懐っこいわね」
指先で軽く撫でる。
毛玉が少しだけ潰れた。
ケモミミマンジュウは満足そうに耳を伏せる。
女性使用人は困った顔をした。
「困ったなあ……」
ここは皇帝の宮殿だ。
勝手に動物を飼っているわけではない。
しかも、宮殿内には重要な書類も、貴重品も、皇帝本人もいる。
「あなた、外に出なさい」
そう言って廊下の先を指差す。
マンジュウは動かなかった。
「ほら」
もう一度指差す。
動かない。
「……」
耳だけが動いた。
「……聞いてないわね」
女性使用人は小さく息を吐いた。
仕方なく、両手を差し出す。
するとマンジュウは身体を伸ばした。
ふに。
柔らかな身体が腕に乗る。
思ったより重い。
「……結構食べてるわね」
抱き上げると、マンジュウはそのまま彼女の胸元に張り付いた。
尻尾が揺れる。
「こら」
剥がそうとする。
しかし、毛の内部にある筋繊維が衣服をしっかり掴んでいた。
「……」
「…………」
「離れなさい」
マンジュウは離れない。
「お願いだから」
離れない。
女性使用人はしばらく無言で格闘した。
ようやく剥がすことに成功すると、今度は床に置く。
マンジュウは一歩も動かず、彼女を見上げた。
「……どうして私についてくるの」
また歩く。
ぽて。
後ろからついてくる。
ぽて。
ぽて。
「…………」
振り返る。
マンジュウも止まる。
「ここから先は駄目よ」
そこには皇帝の私室へ続く区画があった。
マンジュウは耳を立てた。
「本当に駄目」
ぽて。
一歩進んだ。
「駄目って言ってるでしょう」
ぽて。
「……もう」
女性使用人はマンジュウを抱き上げた。
今度は抵抗されないよう、両手でしっかり抱える。
「あなた、皇帝陛下のお部屋に入りたいの?」
マンジュウは答えない。
当然、答えられない。
ただ、彼女の腕の中で丸くなった。
「……まあ、いいわ」
女性使用人は小さく呟いた。
「外へ連れていくまでよ」
そのまま歩き出す。
ところが。
角を曲がったところで、彼女の足が止まった。
廊下の向こう。
数名の侍従と護衛を従えて、皇帝が歩いてくる。
女性使用人は反射的に姿勢を正した。
腕の中には、ケモミミマンジュウ。
「……」
皇帝の視線が、マンジュウへ向く。
女性使用人は青ざめた。
「も、申し訳ございません」
皇帝はしばらくマンジュウを見た。
そして、
「それは?」
「先ほど、廊下に……」
「ふむ」
マンジュウが皇帝を見る。
皇帝を見る。
耳が動く。
皇帝が一歩近づく。
マンジュウも少しだけ身体を伸ばした。
「……なるほど」
皇帝は微笑んだ。
「迷子らしいな」
「はい」
「では、預かっておこう」
女性使用人は目を瞬いた。
「……陛下が、ですか?」
「私のところまで来たのだからな」
そう言って、皇帝はマンジュウを受け取った。
マンジュウは抵抗しなかった。
むしろ皇帝の腕の中に収まると、すぐに丸くなった。
尻尾だけが、ゆっくり揺れる。
護衛の一人が小さく笑った。
女性使用人も、思わず笑ってしまった。
「……では、私は掃除に戻ります」
「ああ。ご苦労」
女性使用人が頭を下げ、去っていく。
しばらくして。
皇帝の腕の中から、ぽふ、と小さな音がした。
マンジュウが少しだけ身体を膨らませたのだ。
「……随分と寛いでいるな」
皇帝はそう呟いた。
マンジュウは答えない。
ただ、気持ちよさそうに目を細めていた。
その日の宮殿日誌には、
「朝、宮殿内にケモミミマンジュウ一体侵入。皇帝陛下が保護。」
とだけ記された。
なお、その後三日間、誰もそのマンジュウを宮殿の外へ出すことができなかった。