研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
アルベルト・セインに会うためにこの町まで来たディーンだったが、すぐに町を離れる理由はなくなっていた。本人には会えなかったものの、その元弟子であるユリウス・ハインとは話ができるようになったし、治癒魔術についてまともに疑問をぶつけられる相手がいるというのは、これまでほとんどなかったことだった。
それに、町そのものも大きい。冒険者ギルドには毎日のように新しい依頼が張り出され、本屋も一軒ではない。治癒院や薬屋、魔術道具を扱う店まである。宿代は以前の町より少し高かったが、その分仕事も多かったため、ディーンはしばらくここに留まることにした。
翌朝、冒険者ギルドへ向かったディーンは、依頼板の前で一枚ずつ紙を眺めていった。護衛、荷運び、薬草採取、畑を荒らす魔物の討伐。報酬だけなら悪くないものもあったが、今のところ金には困っていない。そうして何枚か見送ったところで、『火吹猿の群れの討伐』と書かれた一枚に指が止まった。
森林部に生息し、群れで行動。木上から石や枝を投擲するほか、火球を吐く個体が確認される。
「……火球」
ディーンは依頼書を剥がし、受付へ持っていった。
「これ、受けたいです」
受付の男が顔を上げる。
「火吹猿ですか。単独で行くつもりですか?」
「……はい」
「討伐経験は?」
「火吹猿はないです。赤尾蜥蜴とか、岩甲猪ならあります」
昨日までなら、おそらく「これ受けたい」「火吹猿はない」「赤尾蜥蜴ならある」で済ませていた。けれど、この町へ来てから他人の会話を意識して聞いてみると、店員や受付のような相手には、言葉の最後に「です」や「ます」をつける者が多い。
ユリウスからも、言葉遣いをどうにかしろと言われた。これが正しいのかは分からないが、とりあえず真似てみることにした。
「火吹猿は群れます。木の上から攻撃してくるので、一人だと少し危険ですよ」
「じゃあ……一緒に行く人、いますか?」
「同じ依頼を受ける人がいるか、ということですか?」
「はい。それです」
「探しておきましょうか?」
「お願いします」
男は特に困った顔もせず、普通に頷いた。受付を離れたディーンは、数歩進んだところで一度だけ振り返ったが、男はすでに次の冒険者と話している。少なくとも、今の言い方で機嫌を損ねた様子はない。
「……これでいいのか」
一度では分からない。
だから、もう少し試す。
その日の昼には道具屋で「これ、いくらですか」「もう少し安くできますか」と使ってみた。値引きは断られたものの、店主の反応は普通だった。以前の町で本屋の店主に「半分だけ買う」と言ったときのような顔はされない。
夕方には、商人らしい男が店へ入るなり「少々よろしいでしょうか」と声をかけているのを耳にした。翌朝、今度はそれを宿の主人に試してみると、魔物について詳しい本屋の場所を何の問題もなく教えてくれた。
使える言葉なのだろう。
そう判断したディーンは、その日の午後にギルドで紹介された三人組にも、覚えたばかりの言葉を試した。年長の男二人と、弓を背負った若い女だった。
「ディーンです。……よろしくお願いします」
「俺はロッド。こっちがバルクで、弓がエナだ」
「よろしく」
エナが軽く手を上げる。三人とも年上だったが、ディーンがそう言っても妙な顔はしなかった。その後も年齢や使える魔術について普通に話が続いたので、少なくとも初対面ではこのくらいがいいらしい。
「何が使える?」
「火、水、土、風。あと簡単な治癒魔術です」
「四つ?」
「はい」
「そりゃ大したもんだ」
ロッドが感心したように言った。ディーンは少し迷った末、「ありがとうございます」と返した。これも最近よく聞く言葉だった。
翌朝、四人は火吹猿が出る森へ向かった。道中、ディーンは三人から知っていることを聞き出した。火吹猿は木の上を移動し、群れの中でも火を吐く個体と吐かない個体がいる。火球そのものは大きくないものの、枯葉や木へ燃え移るため厄介なのだという。
「火を吐く前、何かしますか?」
「何か?」
「鳴くとか。決まった動きとか」
「さあな。口は開けるだろうけど」
「鳴いてることもあるわね」
「火を吐くときだけ?」
「そこまでは見てないな」
「分かりました」
質問している内容は以前と何も変わっていない。ただ、言葉の終わりだけが少しずつ変わっていた。
森へ入って一刻ほどで、最初の群れを見つけた。先に気づいたエナが「上!」と叫んだ直後、枝が飛んでくる。ディーンが身体をずらすと、頭上で枝葉が揺れ、その向こうを灰色の毛に覆われた小型の魔物が走った。
見えるだけで三匹。さらに奥にもいる。
「散るなよ!」
「はい!」
ロッドの声に答えながら右手を上げると、足元から土が盛り上がり、飛んできた石を受け止めた。その向こうで、一匹の火吹猿がこちらを見る。
口が開く。
ディーンの意識は、その口元へ吸い寄せられた。
鳴いていない。
腕にも目立った動きはない。
それでも次の瞬間には赤い光が生まれ、火球となってこちらへ飛んできた。
ディーンは横から風をぶつけて軌道を逸らした。地面へ落ちた火にはすぐ水を被せる。火球そのものは、これまで見てきた火魔術と大きく違うようには見えない。
気になるのは、そこではなかった。
「……今の」
「ディーン!」
背後で枝が折れた。
近い。
振り向く。
もう目の前にいた。
ディーンは身体を沈めた。頭のあった場所を爪が通り抜け、着地した猿がそのまま牙を剥く。
土。
隆起。
腹へぶつける。
猿の身体が浮いたところへ、ロッドの剣が入った。
「ボーッとするな!」
「分かった!」
ディーンは返事をすると、今度こそ周囲へ意識を戻した。
残りは三匹。エナが木上の一匹を牽制している間に、バルクが盾で投石を受けている。ディーンは一本の木の根元だけを持ち上げ、幹をわずかに傾けた。枝にしがみついていた猿が体勢を崩し、その瞬間をエナの矢が射抜いた。
別の猿が跳ぶ。着地点へ水を撒き、土を緩める。足を取られたところをロッドが仕留めた。
最後の一匹が口を開いた。
まただ。
今度は見る。
赤い光が生まれる。
口の中――いや。
少し前か?
「来るぞ!」
火球が飛ぶ。
ディーンは土壁を立てて受け止めた。火が散り、壁の表面を黒く焦がす。
そこで観察を切り上げた。
依頼を終えて町へ戻ると、ディーンは火吹猿について書き残した。
『詠唱なし』
『鳴き声は必要なさそう』
『大きな動きもない』
『火が出る場所 口の中? 口の前?』
少し考えて、その下へ書き足す。
『もう一回見る』
人間は普通、詠唱して魔術を覚える。自分もそうだった。母親の言葉を真似し、何度も失敗しながら火を出して、そこから少しずつ言葉を削っていった。その結果として、今では何も言わなくても魔術を使える。
だが、火吹猿は違う。
親から詠唱を教わるとは思えない。そもそも人間の言葉を使わない。
「……最初から?」
もし最初から詠唱を必要としないのなら、自分が何年もかけて削ったものを、火吹猿は初めから持っていなかったことになる。
その違いが気に入った。
次の日から、ディーンは討伐依頼の選び方を変えた。何らかの特殊な攻撃をする魔物を優先し、風を飛ばす鳥型の魔物、地面を隆起させる獣、冷気を吐く小型の魔物と、できるだけ異なるものを見に行った。
もちろん、それらが本当に魔術なのかは分からない。火吹猿の火が体内で作られたものなら、魔術ではなく身体の仕組みかもしれない。風を起こす魔物も、ただ翼の力が強いだけという可能性はある。
だから、最初から魔術だとは決めなかった。
攻撃の前に何をするのか。どこから現れるのか。何度続けて使えるのか。距離はどれくらいか。使い続ければ疲れるのか。
見られるものを見て、自分の魔術と比べる。
そして、見たものは自分でも試した。
火球は手元に作ってから飛ばすのが普通だった。なら、離れた場所に直接作れないか。一歩先ならできた。二歩先では少し形が崩れ、三歩離れると安定しなくなる。
土はもっと簡単だった。自分の足元から伸ばす必要はなく、敵の足元を直接隆起させればいい。水も相手の顔の前に作れば、わざわざ大量に放つ必要がない。
威力を大きくするより、必要な場所へ必要な分だけ出す方が面白かった。
そして、結果としてその方が戦いやすかった。剣を振るう敵の足元だけを崩し、味方へ飛んできたものの横だけに風を当て、逃げようとする魔物の退路へ小さな火を置く。
使う魔力が少なければ、その分だけ次の魔術を使える。戦闘が終わった後にも、実験する余裕が残る。
強くなろうとして始めたことではなかった。
ただ、以前より明らかに戦いやすくなっていた。
そんな生活の合間に、ディーンはユリウスの治療所へ通った。
二度目に訪ねたときは、街で拾ったばかりの言葉をそのまま使った。
扉を叩く。
「どうぞ」
「少々よろしいでしょうか」
ユリウスが顔を上げ、眉を寄せた。
「……何だ、その喋り方」
「変ですか?」
「いや。妙に堅いだけだ」
「じゃあ違うか」
「何がだ?」
「こっちの話」
椅子へ座ろうとして、前回のことを思い出した。
「座っていいですか?」
「ああ」
腰を下ろし、本を取り出す。
「治癒魔術のことで聞きたいことあります」
「『ある』だな」
「あります」
「無理に直さなくていい」
「どっち?」
「……好きにしろ」
よく分からなかった。
だが、追い返されなかったので前よりはいいらしい。
「王級治癒魔術なんですけど、腕をここで失った場合と、ここで失った場合」
自分の上腕と前腕を順番に指す。
「治すのに使う魔力、変わりますか?」
「変わるとされている」
「指一本なら?」
「もっと少ないだろうな」
「子供と大人では?」
「おそらく違う」
「同じ人が同じところ二回なくしたら?」
「……そんな症例がどれほどあると思ってるんだ」
「ないですか?」
「少なくとも私は知らない」
「そうですか」
紙へ書き込んでから顔を上げると、ユリウスがこちらを見ていた。
「何?」
「いや」
「まだ喋り方変?」
「初めて来た日よりはずっとましだ」
「じゃあこれ使います」
「好きにしろ」
その程度だった。
三度目に来るまでの間にも、ディーンは街の人間を見続けた。「少々よろしいでしょうか」は店や仕事の場ではよく聞くが、宿の主人へ毎回使う者はいない。同じ店へ何度も来る客は少しずつ言葉を崩し、冒険者は仲間同士なら乱暴なくらいの言葉を使うくせに、依頼主を前にすると急に丁寧になる。
その切り替わる瞬間が面白かった。
だから、自分でも試した。
「これください」
「ありがとうございます」
「今、少しいいですか?」
「すみません。道を聞いてもいいですか?」
最初は聞いた言葉をそのまま使った。当然、失敗もした。
宿の主人に「ご苦労様です」と言ったときは、妙な顔をされた。翌日、別の客が「いつもありがとう」と言うと主人が笑ったので、そちらを覚えた。
商人の真似をして、ギルドの受付に「お忙しいところ大変恐縮ですが」と言ったこともある。
「……何か悪いものでも食べました?」
「変ですか?」
「あなたが言うと、とても」
「じゃあやめます」
やめた。
決まった言葉を覚えるだけでは足りないらしい。相手によって違い、場所によって違い、自分との関係でも変わる。
けれど、難しいというより条件が多いだけだった。
条件が違えば結果も変わる。
それなら、相手の反応を見ながら合うものを残していけばいい。
四度目にユリウスの治療所を訪れたとき、ディーンは扉を叩いてから中へ入り、患者がいないことを確かめた。
「失礼します。ユリウスさん、今少し時間ありますか?」
ユリウスは顔を上げたまま、一拍遅れて「ああ」と答えた。
「前に話してた治癒魔術のことで、確認したいことがあるんですけど」
「……座れ」
「ありがとうございます」
椅子に腰を下ろして本を出そうとしたところで、まだユリウスがこちらを見ていることに気づいた。
「何ですか?」
「その喋り方は誰に教わった?」
「誰にも」
「では、どうして急にそうなった」
「街の人を見てました。話しかけ方を変えると相手の反応も変わるので、何回か試して、嫌そうじゃない方を残しました」
ユリウスはしばらく何も言わなかった。
「……君は礼儀までそうやって覚えるのか」
「他にやり方知らないので」
「数日で?」
「毎日いっぱい人いるから」
試す回数には困らなかった。
ユリウスは呆れたように息を吐いた。
「初対面なら、今くらいで十分だろう」
「ユリウスさんにも?」
「私にはそこまで畏まらなくていい。もう何度も会ってるだろう」
「分かった」
「……切り替えが早いな」
「その方がいいんだろ?」
「ああ。まあ、それでいい」
ディーンはそこで話し方への興味を失い、本を開いた。
「じゃあ、前の話なんだけど」
ユリウスのところへ来る目的は、最初から治癒魔術だった。傷について聞き、治療例について聞き、本に書かれていることと、実際に患者を診てきたユリウスの経験を比べる。
冒険者の仕事で怪我人が出れば、自分が治療した結果も覚えておいた。治した直後だけでなく、翌日どうなったのかまで聞くようになったのは、ユリウスと話すようになってからだった。
ある日、仲間の腕にできた浅い切り傷を治したところ、傷口そのものは綺麗に閉じたのに、翌日になっても動かすと痛いと言われた。
次にユリウスを訪ねたとき、そのことを聞いた。
「今、時間ある?」
「ああ」
「この前、腕を切った人を治したんだけど、傷は閉じたのに次の日も動かすと痛いって言ってた」
「珍しいことではない」
「なんで?」
「傷口が塞がることと、その下にあるものが完全に元へ戻ることは同じではないからだ」
ディーンの手が止まった。
「待って」
「何だ」
「傷閉じてても、中は治ってないことある?」
「ああ」
「治癒魔術使ってても?」
「ある」
「じゃあ、見た目だけ先に戻る?」
「そういう場合も――」
「だったら皮膚と中で治る速さ違う? 骨は? 筋は? 血は? 治癒魔術って全部一緒に戻してるんじゃないの?」
「ディーン」
「何?」
「近い」
気づけば、机を挟んでユリウスの顔のすぐ近くまで身を乗り出していた。
「あ」
座り直す。
「すみません」
「それと、さっきまで覚えていた言葉遣いはどこへ行った」
ディーンは少し考えた。
「……忘れてた」
「そうか」
「戻した方がいいですか?」
「私には別にいいと言っただろう」
「じゃあいいや。それで、骨は?」
ユリウスが笑った。
「本当にそこは変わらないんだな」
「何が?」
「何でもない」
面白いことを見つけると、相手の顔を見ることを忘れる。質問が頭に浮かぶと、覚えた言葉より先に口から出る。
それだけは、何度試してもなかなか直らなかった。
そして、直す必要があるのかもまだ分からなかった。
町での生活が半月を越える頃には、初対面の相手と話すことにはかなり慣れていた。最初は丁寧に話し、相手が砕けた言葉を望むなら合わせる。忙しそうなら先に時間を聞き、頼み事なら何をしてほしいのかを伝える。
誰かにまとめて教えられたものではない。
見て、試して、反応が良かったものを残した。
考えてみれば、魔術を覚えるときとあまり変わらなかった。
一方、冒険者としての研究も続いていた。
ある日の討伐依頼で、風を操る鳥型の魔物と遭遇した。翼を大きく振るった次の瞬間、十歩以上離れた場所にいた冒険者の身体が横へ弾かれた。
ディーンは目を見開いた。
「待って! 今のもう一回撃たせたい!」
「馬鹿! 倒せ!」
「一回だけ!」
「駄目だ!」
結局、倒した。
戦闘が終わると、ディーンは死骸の翼を何度も動かした。羽そのものに何かあるのか。翼の動きが必要なのか。それとも、動作はただのきっかけなのか。
単なる風圧とは思えなかった。
あれだけ離れた人間が動いたのに、その間に生えていた草はほとんど揺れていなかったからだ。
「……途中、通ってない?」
宿へ戻ると、机の上に紙を立て、その手前に蝋燭を置いた。まずは普通に紙へ向けて風を送る。
紙が倒れた。
蝋燭の火も揺れた。
「違う」
もう一度。
自分から風を飛ばすのではない。
紙のある場所で、直接起こす。
失敗。
蝋燭が揺れる。
もう一度。
また揺れる。
ディーンは目を閉じた。
手元から向こうへ何かを送る感覚をやめる。
向こう側に、最初から風があるように。
魔力を流す。
紙が揺れた。
蝋燭は――ほとんど動かない。
「……できた」
目を開く。
もう一度。
紙の右側だけ。
左へ倒れる。
今度は少し高い場所。
紙の上端だけが揺れた。
ディーンはしばらく倒れた紙を見つめ、それから口元を緩めた。
威力は弱い。あの魔物のように人間を吹き飛ばすことはできない。
だが、場所は選べる。
翌日の依頼で試した。味方へ噛みつこうとした魔物の鼻先、その横だけに風を起こす。頭がわずかに逸れ、牙が外れた。
それだけで十分だった。
威力を上げなくてもいい。
必要な場所へ、必要な分だけ。
魔物の使う力を見れば見るほど、自分の魔術にも試したいことが増えていった。そして同時に、一つの疑問が少しずつ大きくなっていった。
魔物は詠唱しない。
人間は普通、詠唱する。
自分も今はしないが、最初は詠唱から覚えた。
魔物は違う。
なら、どうして使える。
誰にも教わらずに使えるのなら、何がその使い方を知っているのだろう。
その疑問を考えているうちに、以前から抱えていた別の問いが浮かんだ。
『王級治癒魔術は、なくなった部分をどうやって知る?』
数日後、ディーンはユリウスの治療所を訪れた。扉を叩いて中へ入ると患者がいたため、「失礼しました。また後で来ます」と言って出た。
二刻ほどして戻る。
もう一度、扉を叩く。
「どうぞ」
「今、時間ある?」
「ああ。入れ」
いつもの椅子へ座る。
「今日は何だ?」
「治癒魔術のことで、考えたことある」
「聞こう」
「魔物って、詠唱しないんだ」
ユリウスが眉を上げた。
「治癒魔術の話じゃなかったのか?」
「治癒魔術の話」
「そうは聞こえないが」
「人間は普通、詠唱して魔術を使う。でも魔物はしない。俺もしない」
「……待て。君が無詠唱なのは初耳だぞ」
「言ってなかった?」
「聞いてない」
「じゃあ今言った」
「そういう話を軽く出すな」
「それより」
「それよりで流すな」
ディーンは紙を広げた。
『王級治癒魔術は、なくなった部分をどうやって知る?』
「これ」
ユリウスも紙を見る。
「魔物は、たぶん誰かに詠唱を教わってない。それでも魔術を使える。だったら、魔術の使い方を最初から知ってる何かがあるのかもしれない」
「何か?」
「分からない」
「分からないのか」
「うん。でも、それで思った」
ディーンは自分の腕を見る。
「傷って勝手に治るだろ」
「ああ」
「身体は元に戻ろうとする。でも腕は生えない。王級治癒魔術なら生える」
「そうだな」
「だったら、魔術が腕の形を決めてるんじゃなくて、身体の方が知ってる可能性ない?」
ユリウスの表情が変わった。
「……身体が?」
「うん。骨とか肉とか血とかじゃなくて……いや、それかもしれないけど。何か、元がどうだったか分かるもの」
うまく言葉にできない。
骨が知っているのか。肉が知っているのか。血なのか。それとも、目には見えない別の何かなのか。
分からない。
けれど、分からないものに分かったような名前をつける必要はなかった。
「それを王級治癒魔術が使ってるなら、指が五本になる理由も少し分かるかもしれない」
ユリウスは何も言わなかった。
机の上の紙へ視線を落とす。
沈黙が続く。
ディーンも待った。
以前なら、すぐに「どう思う?」と聞いていたかもしれない。だが今は、ユリウスが考えているのだと分かった。
やがて、ユリウスが椅子へ深く座り直した。
「ディーン」
「何?」
「その考え、もう少し整理できるか?」
「たぶん」
「文章にしてみろ」
「なんで?」
「先生に送ってみる」
ディーンの動きが止まった。
「アルベルト先生に?」
「ああ」
「紹介してくれる?」
「まだ会わせるとは言っていない。この問いを送ると言ったんだ」
「でも、読んでもらえる?」
「私から送れば、目くらいは通してくれるだろう」
ディーンは黙った。
以前に言われた一つの言葉を思い出す。
『信用?』
「……信用された?」
ユリウスが一瞬、目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「少しはな」
「何したから?」
「それを本人に聞くのか?」
「知りたい」
「自分で考えろ」
前にも言われた。
だが、今回はそれ以上聞かなかった。約束した時間を守ったことかもしれない。患者がいれば帰ったことかもしれない。聞いたことを調べて、また戻ってきたことかもしれない。
どれなのかは、まだ分からない。
「分かった」
ディーンは紙を引き寄せた。
「どのくらい書けばいい?」
「先生が読んで、君が何を疑問に思い、どうしてそう考えたのか分かる程度だ」
「分かった」
「それから、いきなり『おかしいだろ』から始めるなよ」
「駄目?」
「駄目だ」
「なんで?」
「……君の礼儀はまだ完成してないな」
「でも前よりいいだろ?」
「そこは認める」
ディーンは少し笑った。
この町へ来たとき、持っていたのは一冊の本と、その本に対する疑問だった。今は少し違う。
魔物が魔術を使う。
人間も魔術を使う。
身体は傷を治す。
治癒魔術は、その身体へ何かをする。
別々だと思っていたものの間に、まだ細いながらも何かがつながり始めていた。
それが正しいのかは分からない。
だから、書く。
人に見せる。
違うと言われれば考え直す。
それでも分からなければ、また見る。
また試す。
ディーンは紙の一番上に、アルベルト・セインの名前を書いた。
その下で筆を止める。
「……最初、何て書けばいい?」
「自分で考えろ」
「そこだけ教えて」
「嫌だ」
「なんで?」
「街で調べてきたらどうだ」
ディーンは少し考えた。
「それもそうか」
「そこで納得するのか」
紙を畳み、鞄へ入れる。
明日は依頼の前に、本屋へ寄ってみようと思った。手紙の書き方が載った本があるかもしれない。なければ、実際に手紙を書いている人を見ればいい。
魔物の魔術も、人間の話し方も、治癒魔術も、まだ分からないことの方が多い。
けれど以前とは少し違う。
分からないものを見つけたとき、何をすればいいのかだけは、もう知っていた。