研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
ラノアへ行くと決めてから、ディーンは三日間を準備に使った。
以前なら、行きたい場所が決まれば地図を買って、そのまま出発していたかもしれない。だが今は、長い旅には金がかかることも、知らない土地では必要なものが変わることも知っている。
まず地図を買った。
ラノア王国は遠かった。指で道を辿り、途中の町を確認する。街道を外れなければ宿のある町をいくつか通る。冒険者ギルドもある。北へ進むほど寒くなるらしく、今持っている外套では足りないと言われた。
防寒具。保存食。水袋。火口。治療用品。筆記具。紙。
短剣の手入れをして、残っている金を数える。
大学へ着いたあとにも金は必要になる。
「……足りるけど、減るな」
机の上に銅貨と銀貨を並べたまま考える。
移動するだけで金を使うのは惜しい。
翌朝、ギルドへ行った。
「ラノア方面へ行く依頼、ありますか?」
受付の女が顔を上げた。
「ラノアまで直接?」
「途中まででもいいです。北に行くやつ」
「護衛?」
「それがいいです」
「珍しくまともな依頼の探し方するのね」
「いつもまともです」
「そういうことにしておくわ」
いくつか見せてもらい、北へ向かう商隊の護衛依頼を選んだ。ラノアまで直接行く商隊ではないが、かなりの距離を同じ方向へ進む。そこから先は別の依頼を探せばいい。
金を払って移動するより、移動しながら金をもらえる。
やはり冒険者は便利だった。
依頼を決め、出発日を確認する。
残る準備は、それほど多くない。
宿へ戻ったディーンは荷物をまとめ、最後に机へ紙を一枚置いた。
母親へ手紙を書くためだった。
筆を取る。
『母さんへ。
元気です。
明日、ラノア魔法大学へ向かいます。』
そこで止まった。
読み返す。
「……短いな」
用件は伝わる。
だが最近、人に何かを伝えるときは、自分が言いたいことだけでは足りないと分かってきた。
母親なら何を知りたいだろう。
少し考える。
『怪我はしていません。
金もあります。
ちゃんと食べています。
宿にも泊まっています。』
そこまで書いて、頷く。
たぶん必要だ。
もう一つ思いついた。
『魔物を見るときも、前より周りを見るようになりました。』
筆が止まる。
「……前より、か」
これでは以前は見ていなかったと言っているようなものだった。
実際そうなのだが、母親を安心させる文章として正しいのかは怪しい。
線を引いて消す。
『危ないことはしないようにしています。』
書いてから考えた。
魔物の討伐依頼を受けている。
危ない。
知らない魔物を見に行くこともある。
それも危ない。
「……嘘だな」
消した。
『危ないことをするときは、前より気をつけています。』
今度は残した。
それから、ラノアへ行く理由を書く。
『ラノア魔法大学には、たくさん本があるそうです。
治癒魔術だけじゃなくて、魔物の魔術や魔術陣や魔道具や、魔力そのものを調べている人もいるそうです。
まだ分からないことが多いので、行って調べます。』
書いてから、少し考える。
多い、では足りない気がした。
ほとんど分かっていない。
火を出せる。
だが、なぜ出るのか分からない。
水を作れる。
だが、どこから来たのか分からない。
詠唱なしでも魔術は使える。魔物も詠唱しない。魔術陣にはそもそも口がない。それでも魔術は成立する。
魔道具は人間がその場で術を使い続けなくても働く。
治癒魔術に至っては、傷を塞ぐだけでなく、失った腕まで戻せるものがある。
違う。
全部違うように見える。
それなのに、どれも魔力を使う。
「……何なんだろうな」
小さく呟いた。
その疑問は手紙には書かなかった。
母親への手紙だからだ。
代わりに、もう少し別のことを書く。
『村を出るときに教えてもらったことは、ちゃんと役に立っています。
荷物のことも、金のことも、宿のことも、前より自分でできるようになりました。
ありがとう。』
最後の一行を書いたところで、ディーンの筆が止まった。
何となく照れくさい。
消そうかと思った。
やめた。
『ラノアに着いたら、また手紙を書きます。』
それで終わりにした。
翌朝、手紙を預けた。
*
出発までに、もう一つやることがあった。
世話になった人間への挨拶だった。
最初に宿の主人へ行った。
「明日、町を出ます。今までありがとうございました」
「おう。ラノアだって?」
「はい」
「また随分遠くへ行くな。忘れ物するなよ」
「確認しました」
「お前の場合、荷物より飯を忘れそうなんだよ」
「保存食も入ってます」
「そういう意味じゃねえんだがな」
よく分からなかった。
次に本屋へ行った。
店へ入った瞬間、店主が顔をしかめる。
「今日は立ち読みさせんぞ」
「今日は買いません」
「じゃあ何しに来た」
「明日、ラノアへ行きます」
「……そうか」
「今までありがとうございました」
店主はしばらくディーンを見た。
「お前、そんなこと言えるようになったのか」
「言えます」
「最初は本を半分だけ売れとか言ってたくせに」
「あれは駄目だった?」
「駄目に決まってるだろ」
「もうしません」
「当たり前だ」
店主は鼻を鳴らした。
「ラノアなら、ここより本は多いだろうよ」
「アルベルトさんもそう言ってました」
「なら帰ってくる必要ねえな」
「珍しい本があったら持ってきます」
「……それなら帰ってこい」
「分かりました」
ギルドにも寄った。
何度も依頼を受けた受付で出発を伝えると、受付の女は驚かなかった。
「やっぱり行くのね」
「知ってた?」
「最近ずっとラノア方面の道とか依頼とか聞いてたでしょう」
「そうだった」
「向こうでも依頼中に魔物を眺めすぎないこと」
「最近はちゃんと終わってから見てます」
「それなら少しは安心ね」
ロッドたち三人にも会えた。
ちょうど依頼帰りだったらしく、バルクは泥だらけで、エナは疲れた顔をしていた。
「ラノア?」
ロッドが聞き返す。
「うん。魔法大学に行く」
「学生になるのか?」
「まだ分からない。入る方法も向こうで聞く」
「そこからかよ」
「でも、研究してる人がいっぱいいるらしい」
「お前には向いてるんじゃないか?」
バルクが笑った。
「ただし、向こうで魔物に『もう一回撃たせたい』とか言うなよ」
「一回だけなら――」
「駄目だ」
「分かった」
「本当に分かってんのか?」
エナが笑う。
「まあ、死なないでね」
「うん」
少し考えてから、ディーンは言った。
「三人とも、今までありがとうございました。一緒に行ったとき、助かりました」
三人が妙に静かになった。
「……なんか気持ち悪いな」
バルクが言った。
「なんで?」
「いや。ちゃんとしてるから」
「ちゃんとした方がいいって教わった」
「普段からやれよ」
「やってる」
「興奮すると消えるだろ」
それは否定できなかった。
*
最後にユリウスの治療所へ向かった。
患者が一人いたので、外で待つ。
しばらくして患者が出てきてから扉を叩いた。
「失礼します。今、時間ありますか?」
「あるぞ」
中へ入る。
ユリウスは使った器具を片づけていた。
「明日の朝、ラノアへ出ます」
「そうか」
「はい」
それだけ言って、少し迷った。
何を言うかは決めていた。
決めていたのに、実際に言おうとすると妙に言いにくい。
「今まで、ありがとうございました」
ユリウスの手が止まった。
「ユリウスさんがアルベルトさんに繋いでくれなかったら、たぶんここまで来られなかった。それ以外も、いろいろ教えてもらったし」
「……随分まともな挨拶ができるようになったな」
「変?」
「いや。それでいい」
ディーンは頷いた。
「向こうでも最初からその喋り方をしろよ」
「分かってる」
「興味のある話になった途端に忘れるな」
「それはたぶん無理」
「そこを直せと言っているんだ」
「でもユリウスさんは、俺が普通に喋っていいって言った」
「私にはな。他人にまで適用するな」
「分かった」
「本当か?」
「たぶん」
ユリウスはため息をついた。
それから机の引き出しを開け、一枚の紙を出した。
「持っていけ」
「何?」
「手紙だ」
「誰に?」
「大学の治癒魔術関係者に、私が知っている者が一人いる。会える保証はないし、何か特別扱いしてもらえると思うな。ただ、名前くらいは出せる」
ディーンは手紙を受け取った。
「ありがとう」
「それと、向こうで面白いことが分かったら手紙を寄越せ」
「治癒魔術?」
「それもだ」
ユリウスは少し考える。
「君の場合、それだけ調べて帰ってくるとは思えんからな」
「魔物も調べたい」
「だろうな」
「魔術陣も」
「ああ」
「魔道具も気になる」
「分かったから、全部今話すな」
ディーンは口を閉じた。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ。気をつけてな」
治療所を出てから、アルベルトのところへも向かった。
こちらでは長居をしなかった。
「明日、ラノアへ行きます」
「そうか」
「教えてくれて、ありがとうございました」
「私は場所を教えただけだ」
「それでも」
アルベルトは少しだけ頷いた。
「向こうでも調べます」
「ああ」
「治癒魔術も」
「ああ」
「それ以外も」
「その方がいいだろう」
ディーンは頭を下げた。
扉へ向かおうとすると、背後から呼び止められた。
「ディーン」
振り返る。
「何か分かったら、今度は君が私に教えてくれ」
ディーンは少しだけ目を見開いた。
教えてもらうために、ここへ来た。
アルベルトは自分より遥かに長く治癒魔術を調べている。自分が知らないものを見て、知らないものを治し、知らない本を読んできた。
その人が、自分に教えてくれと言った。
「……分かりました」
今度は、少し考えて付け足す。
「分かったら、ちゃんと書いて送ります」
「読みやすくな」
「練習します」
「それも研究のうちだ」
ディーンはもう一度頭を下げた。
*
翌朝。
まだ空が白み始めたばかりの時間に、ディーンは町の門を出た。
商隊は荷馬車四台。護衛はディーンを含めて六人だった。
歩き始めてしばらくして、町が小さくなっていく。
ディーンは一度だけ振り返った。
村を出たときとは違った。
あのときは、外に何があるのかほとんど知らなかった。
今は少し知っている。
金が必要なこと。
本に書かれていることがすべてではないこと。
けれど、本にしか残っていないものもあること。
実際に見ること。
詳しい人に聞くこと。
自分で試すこと。
人に何かを聞くなら、聞いてもらえるように話すこと。
そして、どれだけ調べても分からないことがあること。
それでも、分からないまま終わりにする必要はない。
「ディーン、行くぞ」
「今行く」
前を向いた。
*
旅は長かった。
最初の商隊とは十日ほどで別れた。
途中の町で報酬を受け取り、次は北へ向かう薬草商の護衛を見つけた。その依頼が終われば数日だけ町に滞在し、宿代を抑えるために短い討伐依頼を受ける。金が減れば働き、道が合えば護衛に混ざる。
以前より、旅はずっとやりやすくなっていた。
ただ移動するのではない。
移動しながら働く。
働きながら知らない土地を見る。
知らないものがあれば記録する。
ある町の宿では、壁に小さな魔道具が取りつけられていた。
「これ何?」
宿の主人に聞く。
「保温用だよ」
「ずっと動いてる?」
「魔力が切れるまではな」
「誰かが術を使い続けなくても?」
「魔道具だからな」
「なんで?」
「……なんでって、魔道具だからだろ」
答えになっていなかった。
ディーンは食事のあと、その魔道具をしばらく眺めた。
魔術なら、術者が魔力を使う。
魔術陣なら、人間が喋らなくても魔術が起きる。
魔道具なら、さらに人間がその場にいなくても決まった働きを続ける。
翌朝、帳面に書き足した。
『魔道具』
『誰が魔術を使ってる?』
『最初に入れた魔力?』
『魔術陣と同じ?』
答えはない。
そのまま残した。
別の日には、護衛中に見たことのない魔物が現れた。
四本脚の獣だった。額から短い角が一本伸びている。前衛の男が剣を構えた瞬間、その足元の土が突然盛り上がった。
「土?」
ディーンが呟く。
「来るぞ!」
「分かってる!」
観察するのは後だ。
横へ走る。
獣が頭を下げて突っ込んでくる。その進路だけ地面を柔らかくすると、前脚が沈んだ。体勢を崩したところへ護衛の剣が入る。
獣が起き上がる。
もう一度、地面が動いた。
詠唱はない。
だが、それだけでは何も分からない。
獣自身が土を動かしているのか。
角に何かあるのか。
別の仕組みなのか。
今は決められない。
まず倒す。
討伐が終わってから、ディーンは死体の前へしゃがみ込んだ。
「さっきの土、こいつがやったんですよね?」
「たぶんな」
「角?」
「知らん」
「切っていい?」
「素材になるから傷つけるなよ」
「じゃあ触るだけ」
角、額、脚、口。
順番に見る。
何も分からなかった。
それでも記録した。
少なくとも、人間以外にも魔力らしいものを使って現象を起こす生き物がいる。それはもう何度も見ている。
問題は、どうやっているのかだった。
*
北へ進むにつれて、朝の空気が変わった。
ある朝、宿を出ると息が白くなった。
「……白い」
ディーンは立ち止まった。
もう一度息を吐く。
白い。
手で触ろうとすると消える。
「何してるんだ?」
同行していた冒険者が聞いた。
「息が白い」
「寒いからだろ」
「なんで寒いと白くなる?」
「知らん」
「暑いとならない」
「そりゃそうだ」
「水?」
「知らねえって」
ディーンはもう一度息を吐いた。
少し考える。
「ラノアで調べられるかな」
「お前、何でも大学で調べるつもりか?」
「駄目なの?」
「……いや。好きにしろ」
大学という場所が、少しずつ楽しみになっていた。
答えがあるからではない。
調べる方法が、今より増えるかもしれないからだ。
*
旅の途中、ディーンは一度、自分の帳面を整理した。
宿の小さな机に、これまで書いた紙を広げる。
火。
水。
土。
風。
詠唱。
無詠唱。
魔物。
魔術陣。
魔道具。
治癒魔術。
それぞれ別のところから始まった疑問だった。
新しい紙を一枚出す。
『知りたいこと』
『火は何が燃えてる?』
『水はどこから来る?』
『魔力は何?』
『詠唱は何をしてる?』
『詠唱なしでも使えるのはなんで?』
『魔物はどうやって魔術を使う?』
『魔術陣は何をしてる?』
『魔道具はどうして動き続ける?』
『治癒魔術は何をしてる?』
書き終える。
「……多いな」
自分でも思った。
一つ分かれば減ると思っていた。
実際には逆だった。
一つ調べると、二つか三つ増える。
ディーンは紙を眺めた。
火と傷では全然違う。
水と魔道具も違う。
魔物と魔術陣も違う。
それでも、一つだけ同じものがある。
その下に書く。
『全部、魔力を使う?』
筆を止めた。
「……結局、魔力って何なんだ」
村にいた頃から使っている。
なくなれば眠くなる。
休めば戻る。
多く使えば大きな魔術が使える。
それくらいは分かる。
だが、それが何なのかは知らない。
火になるものなのか。
水になるものなのか。
物を動かすものなのか。
傷を治すものなのか。
全部できるなら、どうして全部できるのか。
しばらく考えて、紙を畳んだ。
今は分からない。
それでよかった。
そのために、ラノアへ向かっている。
*
出発から一月以上が過ぎた頃、街道の先に大きな町が見えた。
遠くからでも、これまで通ってきた町とは規模が違うのが分かった。
「あれがラノア?」
「ああ」
最後に同行した商人が答えた。
ディーンは目を細めた。
「大学は?」
「街の中だよ」
「どれ?」
「ここから分かるわけないだろ」
「大きいって聞いた」
「着けば嫌でも分かる」
門を抜ける。
人が多かった。
服装も違う。聞き慣れない訛りもある。杖を持った者が珍しくない。店先には魔術具らしいものが並び、見たことのない文字が書かれた本まで置かれている。
立ち止まりそうになる。
だが、まず依頼を終わらせる。
荷を届け、護衛完了の確認を受け、報酬を受け取った。
それから宿を探した。
荷物を置いた。
ようやく自由になった。
宿の主人に聞く。
「すみません。ラノア魔法大学はどちらですか?」
教えられた道を歩く。
やがて、大きな建物が見えてきた。
ディーンは足を止めた。
想像していたより大きかった。
だが、建物そのものを見ていたのは最初だけだった。
すぐに別のことが気になった。
「あれ全部、大学?」
近くを歩いていた学生らしい青年が振り返る。
「そうだけど」
「本はどこにある?」
「……図書館?」
「研究してる人は?」
「先生のことか?」
「たぶん」
「君、入学希望者?」
「まだ分からない」
「何しに来たんだよ」
「調べに来た」
青年は変な顔をして、そのまま歩いていった。
ディーンはもう一度、大学を見る。
あそこに答えがあるとは思っていない。
アルベルトにもそう言われた。
それでも、本がある。
記録がある。
自分とは違うものを見てきた人間がいる。
魔術を使うだけではなく、分からないことを調べている人間がいる。
村を出た頃とは違う。
あの頃は、どこかへ行けば答えを知っている人間がいるような気がしていた。
今はもう、それが違うことを知っている。
誰も知らないこともある。
何十年調べても、分からないこともある。
なら、自分で調べればいい。
「……よし」
鞄を背負い直す。
門の向こうには、知らないものがいくつあるのかも分からなかった。
ディーンはラノア魔法大学へ向かって歩き出した。