研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
ラノア魔法大学の門をくぐったディーンは、思わず足を止めた。
外から見ても大きかったが、中へ入ると一つの学校というより町に近い。石造りの建物がいくつも並び、その間を杖や本を抱えた学生たちが行き交っている。人族だけではない。獣族らしい耳を持つ者もいれば、肌や髪の色、体格からして見慣れない者もいる。
「――集え水よ。清き流れとなりて――」
左から詠唱が聞こえた。
十人ほどの学生が並んで水魔術を使い、教師らしい男が一人ずつ指導している。その向こうでは数人が大きな魔法陣を囲み、さらに別の建物からは見たことのない魔道具を抱えた学生が出てきた。
全部見たい。
水魔術の授業も、魔法陣も、あの魔道具も気になる。すれ違った学生が抱えていた、読めない文字の本まで気になった。
「……先に聞こう」
何をしに来たのかを思い出し、ディーンは受付の場所を尋ねた。
*
「入学について聞きたいんですけど、ここでいいですか?」
「はい。入学をご希望でしょうか?」
受付の女性はそう答え、ディーンが「まず制度を知りたい」と伝えると、慣れた様子で説明を始めた。
種族、身分、年齢による入学制限はない。所定の費用さえ納めれば基本的には誰でも入学でき、在籍期間は七年を基本とする。希望者は試験を受けることもでき、成績次第では入学金や学費の一部が免除される。
「全部でいくらですか?」
「入学金と七年間の学費を合わせて、アスラ金貨三枚程度です」
「……高い」
「七年間分ですので」
払えないわけではない。だが、その金があれば本が買える。旅ができる。道具も揃えられる。これから研究を続けるなら、使い道はいくらでもあった。
「試験で一番いい成績なら、全部無料になりますか?」
「必ずしも全額免除になるわけではありません。ただ、学費そのものを免除されている方はいらっしゃいます」
「どういう人ですか?」
「特別生です」
初めて聞く言葉だった。
すでに高い実績を持つ者や、将来的に大成する可能性が高いと大学が判断した者。そうした人物が在籍すること自体に価値があると認められれば、入学金や学費が免除され、通常の学生より自由な活動も認められることがあるという。
「授業は出られますか?」
「もちろんです。希望されれば通常の授業も受講できますし、担当教員の許可があれば他分野の講義を聴講できる場合もございます」
「図書館は?」
「利用できます」
「研究は?」
「大学の設備を利用できるものもございます」
「外に調べに行くのは?」
「学外活動についても、事情に応じて通常より柔軟な扱いが認められる場合があります」
ディーンは考えた。
授業には出たい。知らないことを知っている人間が、順序立てて教えてくれる。それをわざわざ捨てる理由はない。
だが、魔物も珍しい現象も授業の日程に合わせてはくれない。必要なら現物を見に行きたい。
本も読む。人にも聞く。授業も受ける。そして、自分でも見る。
その全部ができる。
「それになりたいです」
「……特別生に、ですか?」
「はい」
「申し訳ございませんが、特別生は希望すればなれる制度ではございません」
「どうすればなれますか?」
あまりに当然のように聞き返され、女性はわずかに間を置いた。
「大学側が、特別生として迎える価値があると判断した場合です。実績や能力、知名度などが考慮されます」
「知名度はないです」
「そうですか」
「研究は?」
「研究?」
「してます」
「どちらかの研究機関に所属されていたのでしょうか?」
「してません」
「では、どなたかに師事を?」
「してません。自分でやってました」
女性の表情に困惑が混じった。
ディーンは鞄を開け、何冊かの帳面を机へ置いた。
「これです」
「こちらは?」
「今まで調べたことです」
泥で汚れたもの、濡れて紙が波打ったもの、魔物の血が端に染みついたものまである。女性は許可を取って、そのうち一冊を開いた。
最初の頁は文字そのものが幼い。
『火は何が燃えてる?』
『薪がない』
『魔力が燃えてる?』
頁を進めると、水魔術と川の水を比べた記録があり、さらに先では詠唱が少しずつ削られていた。
『赤き熱よ』
『熱よ』
『火』
『なし』
横には成功と失敗の印が並んでいる。
「これは?」
「詠唱がどこまで必要なのか試してました」
「……『なし』というのは?」
「そこから無詠唱です」
女性の指が止まった。
「無詠唱魔術を使えるのですか?」
「はい」
「何属性でしょうか?」
「火、水、土、風です。治癒はまだ詠唱した方がやりやすいです」
女性が顔を上げた。
「四属性すべてを、無詠唱で?」
「はい」
帳面を見る目が変わった。
先ほどまでは内容を確認するように頁をめくっていたが、今度は一枚ごとに目を通していく。
そこには村で始めた実験だけでなく、旅に出てからの記録も残っていた。赤尾蜥蜴や火吹猿を観察した記録。魔物が詠唱せずに現象を起こすことへの疑問。傷が塞がったあとにも痛みが残った経験。王級治癒魔術が失われた部位まで戻すという記録への疑問。魔法陣、魔道具、そして魔力そのものについての走り書き。
見たことと、聞いたこと。
確かめたことと、まだ確かではないこと。
昔の帳面ほど混ざっているそれらが、新しいものになるにつれて少しずつ分けて書かれるようになっていた。
「これを、すべてご自身で?」
「はい」
「どなたからも研究指導を受けずに?」
「アルベルトさんとかユリウスさんには話を聞きました。でも、研究のやり方は習ってません」
「アルベルト……姓は分かりますか?」
「セインです」
女性がまた顔を上げた。
「アルベルト・セイン氏ですか?」
「知ってるんですか?」
「お名前は存じています」
「じゃあ話早いです。俺がここに来たの、アルベルトさんに勧められたからです」
女性は少し考え、帳面へ視線を戻した。
「何か紹介状はお持ちですか?」
「あ」
忘れていた。
ディーンは鞄の奥を探り、ユリウスから預かった手紙を取り出した。
「これならあります」
「拝見しても?」
「はい」
宛名を見た女性が、今度こそ完全に手を止めた。
「……少々、こちらでお待ちいただけますか?」
「特別生になれますか?」
「現時点ではお答えできません。ただ、私だけで判断できる内容ではなくなりました」
それは断られたのとは違うらしい。
「帳面をお借りしてもよろしいでしょうか。担当の教員に確認してまいります」
「なくさないでください」
「もちろんです」
「俺も行っていいですか?」
「必要でしたらお呼びいたしますので、こちらでお待ちください」
「分かりました」
女性が奥へ消えた。
ディーンは椅子に座る。
特別生になれるかは分からない。それでも、授業を受けられて、本が読めて、必要なら外へ調べに行ける。しかも学費がかからない。
「……なりたいな」
待っている間、壁に貼られた大学の案内図を眺めた。
図書館。修練場。研究棟。実験棟。
名前を見るだけで気になる場所が増えていく。
しばらくして奥の扉が開いた。
「ディーンさん」
受付の女性の後ろに、見知らぬ男が二人立っていた。一人は帳面を開いたまま持ち、もう一人はその横から内容を覗き込んでいる。
「いくつか確認させていただきたいことがございます」
「はい」
男の一人が、詠唱を削っていった頁を指で押さえた。
「本当に、これをご自身で?」
「はい」
「では、無詠唱魔術を実際に見せていただくことはできますか?」
「できます」
「今からでも?」
「はい」
*
連れて行かれたのは、校舎から少し離れた修練場だった。
帳面を持っていた男は魔術の教員らしく、もう一人は大学の運営に関わる職員だと名乗った。受付の女性も同行している。
広い地面の端に、魔術の標的らしい石柱が並んでいた。
「まず、水属性をお願いします」
「どこに出しますか?」
「そうですね……あの標的へ」
教員が十数歩先の石柱を示した。
ディーンは右手を向け、水球を作って飛ばした。石柱に当たり、砕けた水が地面を濡らす。
誰も喋らない。
「次に、火属性をお願いします」
同じ場所へ小さな火球を飛ばす。
「土属性を」
石柱の手前の地面を隆起させる。
「風属性もお願いします」
ディーンは少し迷った。
「風は見えないですけど」
「標的へ当ててください」
言われた通りにする。
風が石柱へぶつかり、表面に残っていた水滴が一斉に横へ流れた。
教員が石柱を見る。
「……いずれも無詠唱ですね」
「はい」
「短縮詠唱を声に出さず行っているわけではありませんか?」
「違います」
「頭の中で詠唱を?」
「してません」
「では、発動時には何を?」
ディーンは困った。
「何をって?」
「魔術を発動させる際、頭の中で何を行っているのですか?」
「出します」
「……もう少し詳しく説明できますか?」
「水なら、水を出す感じで」
教員が黙った。
ディーンも黙る。
「説明しにくいです」
「そのようですね」
男は帳面を開き、詠唱を削った記録を見た。
「こちらには、最初から無詠唱だったわけではないとあります」
「はい。最初は普通に詠唱してました」
「それを徐々に短くした」
「どこまで消しても出るのか知りたかったので」
「なぜ、そのようなことを?」
「詠唱が何をしてるのか分からなかったからです」
教員の目が帳面から上がった。
「詠唱をなくすことが目的ではなかったのですか?」
「違います。なくても出るなら、詠唱そのものが魔術を起こしてるわけじゃないと思ったので」
答えると、三人が黙った。
ディーンには、何がそんなに気になるのか分からなかった。
「もう少し見せてもらってもよろしいですか?」
「いいですよ」
今度は大きさを変えるよう求められた。
小さな水球。
その倍。
さらに大きく。
途中で教員が止め、今度は地面の一点だけを隆起させるよう指示する。次は場所を変え、さらに範囲を狭くする。
言われた通りにした。
普段やっていることだった。
「風で、あの布だけを動かせますか?」
棒から布が三枚、間隔を空けて吊られている。
「真ん中だけ?」
「はい」
風を起こす。
中央の布だけが揺れた。
「右だけ」
右。
「二枚同時に」
右と左。
教員が何も言わなくなった。
「まだやりますか?」
「いえ。十分です」
「そうですか」
ディーンは手を下ろした。
大したことをした感覚はない。火力を求められたわけでもなく、大きな魔術を使ったわけでもない。
ただ、教員は先ほどより帳面を丁寧に抱えていた。
*
その後は質問が続いた。
どこで魔術を覚えたのか。
なぜ火と水を比べたのか。
魔物を調べるために冒険者になったというのは本当か。
なぜ治癒魔術から王級の欠損再生へ興味が移ったのか。
アルベルトとはどのような話をしたのか。
ディーンは覚えている範囲で答えた。
「では、あなたが最も研究したいものは何ですか?」
最後にそう聞かれた。
「魔力です」
今度は迷わなかった。
「以前は火とか水とか、一個ずつ気になってました。治癒魔術も調べたいし、魔物の魔術も知りたいです。でも、全部魔力を使ってる」
机の上の帳面を指す。
「火は消えるのに、水や土は残る。人間は詠唱するのに、しなくても使える。魔物も詠唱しない。魔法陣も喋らないし、魔道具は人がずっと使ってなくても動く。治癒魔術は、なくなったものまで戻すことがある」
「それらを、同じ問題だと?」
「同じかどうかを知りたいです」
教員が少しだけ目を細めた。
「全部に魔力を使うなら、魔力が何なのか分かれば、何か分かるかもしれない。でも違うかもしれない」
「違った場合は?」
「違ったって分かります」
ディーンには、それで十分だった。
教員は少し笑った。
「分かりました」
「特別生になれますか?」
横にいた職員が咳払いした。
「それについては、こちらで検討させていただきます」
「いつ分かりますか?」
「数日はいただくことになるかと思います」
「分かりました」
「それまではシャリーアに滞在されますか?」
「はい」
ディーンは少し考えた。
「図書館はまだ使えませんか?」
「一般に開放されている範囲でしたら利用できます」
「どこですか?」
教員が笑った。
*
三日間、ディーンは大学へ通った。
まだ学生ではないので入れない場所も多い。それでも一般閲覧できる本はあったし、外から見られる授業もあった。
朝は大学へ行き、昼まで本を読む。食事をして、午後は敷地内を歩いた。
魔法陣を使う授業を見つければ足を止め、魔道具を運ぶ学生がいれば何を運んでいるのか聞いた。相手が忙しそうなら引く。質問してもよさそうなら名乗ってから聞く。
以前よりは、そのくらいの区別がつく。
二日目には、母親へ手紙を書いた。
『ラノアに着きました。
怪我はしていません。
ちゃんと宿に泊まっています。
大学は思っていたより大きいです。
本もたくさんあります。
今、特別生になれないか聞いています。』
そこまで書いて、少し考える。
母親は特別生が何か知らない。
『なれたら、学費が無料になります。
授業にも出られます。
たぶん研究もしやすいです。』
これなら伝わる。
『まだ決まってません。
決まったらまた書きます。』
封をした。
三日目の午後、宿へ大学からの使いが来た。
*
通された部屋には、前に会った教員と、別の年配の男がいた。
受付の女性はいない。
ディーンは勧められた椅子へ座った。
「お待たせしました」
「はい」
「結論から申し上げます」
年配の男が言った。
「大学として、あなたを特別生として受け入れることになりました」
「本当ですか?」
「はい」
「無料?」
男が一瞬黙った。
「……入学金および学費は免除されます」
「よかった」
まずそこだった。
アスラ金貨三枚が浮く。
本が買える。
遠くにも行ける。
実験にも使える。
「授業も出られますか?」
「もちろんです」
「全部?」
「すべて、というわけにはまいりません。通常の履修に加え、他分野については担当教員の許可を得ていただくことになります」
「魔法陣の授業も?」
「許可が得られれば」
「魔道具も?」
「同様です」
「治癒魔術は?」
「それもです」
「じゃあ大丈夫です」
「まだ説明は終わっておりません」
「すみません」
ディーンは座り直した。
年配の男は少しだけ眉を動かしたが、そのまま説明を続けた。
特別生であっても大学の規則には従うこと。施設によっては利用に許可が必要であること。学外活動について一定の自由は認められるが、長期間大学を離れる場合には届け出ること。危険な実験を無断で行わないこと。
「危険ってどこからですか?」
「……それについては、担当教員と相談してください」
「分かりました」
「また、大学側としても、あなたには研究を続けていただきたいと考えています」
「言われなくてもやります」
今度は、向かいの教員が笑った。
「でしょうね」
年配の男は机の上へ一冊の帳面を置いた。
ディーンのものだった。
「正直に申し上げれば、これをそのまま研究成果と呼ぶことはできません」
ディーンは帳面を見る。
「駄目ですか?」
「記録の取り方も、条件の揃え方も、文章のまとめ方も未熟です。検証が不足しているものも多い。あなた自身の推測と観察結果が混ざっている箇所もあります」
「はい」
心当たりはある。
特に古いものほどひどい。
「ですが」
男は帳面の表紙へ手を置いた。
「幼い頃から疑問を記録し、自分で比較し、試し、結果によって考えを変えている。その姿勢には見るべきものがあります。そして四属性の無詠唱魔術については、実際に確認しました」
少し間を置く。
「何より、あなたはまだ十四歳です」
ディーンは黙って聞いた。
「完成した研究者だから特別生として迎えるのではありません。この環境で学んだ先に何をするのか、それを見る価値があると判断しました」
「……分かりました」
本当は、全部理解できたわけではない。
ただ一つだけ分かった。
ここにいていいらしい。
「一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「研究のやり方も、授業で習えますか?」
年配の男は少し意外そうな顔をした。
「ええ。直接その名前の授業があるわけではありませんが、各分野で学ぶことになります。記録、比較、既存研究の調査、論述……あなたに必要なものは多いでしょう」
「じゃあ出ます」
「何にですか?」
「授業」
「……まだ時間割も決まっていませんよ」
「決まったら教えてください」
「もちろんです」
ディーンは頷いた。
特別生になれば、授業に出なくてもいい場合がある。
けれど、それはディーンにはあまり関係がなかった。
知らないことを教えてくれる人間がいるのなら、聞きたい。
本に書いてあるなら、読みたい。
自分で確かめられるなら、試したい。
現物が遠くにあるなら、見に行きたい。
そのどれか一つを選ぶ必要はない。
「では、正式な手続きを進めます」
「はい」
書類を渡された。
名前を書く。
出身地を書く。
年齢を書く。
十四。
最後に署名をして、筆を置いた。
「これで?」
「はい。ようこそ、ラノア魔法大学へ」
ディーンは書類を見た。
特別生。
その言葉にはまだ馴染みがない。何がどれほど特別なのかも、よく分からなかった。
ただ、学費は要らない。
授業に出られる。
図書館も使える。
研究設備も、許可を取れば使える。
そして必要なら、外へ調べに行くこともできる。
「……かなりいいな」
「何かおっしゃいましたか?」
「いえ」
帳面を鞄へ戻す。
大学へ来た目的は、答えを教えてもらうことではない。
アルベルトにも言われた。
ここに答えがあるとは限らない。
それでも、本がある。
自分とは違うものを見てきた人間がいる。
何年も一つの魔術を調べてきた研究者がいる。
自分の知らない方法もある。
ディーンは立ち上がった。
「図書館、今日から使えますか?」
年配の男が笑った。
「手続きが済みましたので、学生用の区画は利用できます」
「何時までですか?」
「今日はまだ――」
「場所は分かります」
言いながら扉へ向かいかける。
途中で止まった。
振り返る。
「ありがとうございました」
今度は忘れなかった。
二人へ頭を下げ、部屋を出る。
廊下を歩く足は、自然と速くなった。
まずは図書館。
魔力について書かれた本を探す。
それが終わったら魔法陣。
魔道具。
魔物。
治癒魔術。
授業が始まれば、そこでも知らないものが増えるだろう。
大学へ来れば答えが見つかると思っているわけではない。
むしろ、ここへ来てからまだ数日しか経っていないのに、知りたいことはもう増えていた。
それでいい。
分からないことが増えたなら、調べればいい。
ディーンは、ラノア魔法大学の特別生になった。