研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
特別生になった翌日、ディーンは朝から講義棟にいた。
前日に渡された履修案内には、七年間で受けられる講義がびっしりと書かれている。四属性魔術、治癒、解毒、魔力論、魔法陣、魔道具、魔物学。そのほかにも算術や歴史、軍学まであった。
昨夜、宿で全部読んだ。
そして、全部に印をつけた。
受付の職員は、それを見てしばらく黙った。
「……全部、受けるおつもりですか?」
「受けられないんですか?」
「時間が重なっています」
「あ」
そこまでは考えていなかった。
結局、最初は基礎魔術と魔力論を中心に履修し、空いている時間に魔法陣や魔道具関係の講義を入れることになった。他分野については担当教員の許可が得られれば聴講してもいいらしい。
ディーンとしては、それで十分だった。
最初に入った教室は、村の家なら何軒か入りそうなほど広かった。長机が段々に並び、人間だけでなく獣族や耳の長い種族もいる。
ディーンは前から二列目に座った。
机に新しい帳面を置く。
これまで使っていた帳面は、土や煤で汚れ、頁によっては魔物の血まで染みている。入学の面談でも、記録としては面白いが他人が読むことを考えた方がいい、と言われた。
だから新しいものを買った。
最初の頁に日付を書き、その下に、
『魔力』
と書く。
講師が入ってきた。
「では、魔力学概論を始める」
ディーンは羽根ペンを握った。
講義は面白かった。
同時に、少し期待外れでもあった。
魔力とは魔術を行使するために必要な力であり、人や魔族、魔物などが体内に有する。魔術を使えば消費され、休息によって回復する。個人によって保有量に差があり、一般に高度な魔術ほど多くの魔力を必要とする。
知っていることが多い。
もっと、聞いた瞬間に世界がひっくり返るような話が出てくると思っていた。
だが、その先で羽根ペンが止まった。
「魔力そのものには、基本的に属性はないと考えられている」
講師が黒板に一本の線を引く。
左端に『魔力』。
右端に『火・水・風・土』。
その間に『術式』と書いた。
「現在、最も広く支持されているのは、魔力が術式を介することで各属性の魔術として発現する、という考え方だ」
ディーンは黒板を見る。
魔力。
術式。
火、水、風、土。
「詠唱も術式ですか?」
手を挙げて聞く。
「正確には、詠唱は術式を成立させるための手段の一つだ。魔法陣も同様に、術式を成立させる方法と考えられている」
「じゃあ無詠唱は?」
教室の何人かがこちらを見た。
「術者自身が、詠唱を介さず術式を成立させていると考えられている」
「どうやって?」
「それについては十分に分かっていない」
ディーンの羽根ペンが止まった。
分かっていない。
大学の講師が、普通にそう言った。
「じゃあ、その術式って、魔力に何をしてるんですか?」
「一般的には、魔力を各属性の魔術として発現可能な状態へ変換している、と説明される」
「変換?」
「そうだ」
「どういうふうに?」
講師が少し黙った。
「そこから先は、まだ議論がある」
ディーンは黒板を見直した。
『魔力 → 術式 → 火・水・風・土』
きれいだ。
分かりやすい。
なのに、真ん中だけ中身が見えない。
「他の考え方もあるんですか?」
「ある」
講師は黒板の端へ、いくつか言葉を書き加えた。
魔力そのものが術者の内部で属性ごとに異なる性質へ変わっている、と考える者。
魔力が火や水へ変わるのではなく、周囲に存在する物質や自然現象へ働きかけている、と考える者。
ほかにも細かな違いを含めれば、いくつもの説があるという。
「どれが正しいんです?」
「分からない」
あっさり言われた。
「先生でも?」
「教師は何でも知っている生き物じゃない」
教室の何人かが笑った。
ディーンは笑わなかった。
「じゃあ、なんで最初のが一番使われてるんです?」
今度は講師が少しだけ笑った。
「いい質問だ」
黒板の最初の図を指す。
「既存の魔術を説明する上で、比較的矛盾が少ないからだ。詠唱や魔法陣によって異なる魔術が発動する事実とも合う。教育にも使いやすい」
「正しいからじゃない?」
「正しい可能性が高いと考えられている。だが、説明できることと、証明されていることは同じではない」
その言葉には聞き覚えがあった。
使えることと、分かっていることは違う。
アルベルトの言葉と、少し似ている。
ディーンは帳面に書いた。
『今、一番使われてる考え』
『魔力→術式→属性魔術』
その下に、
『術式は何を変えてる?』
と書いた。
少し考えてから、
『まだ分からない』
と付け加えた。
大学へ来れば、知っている人間が答えを教えてくれる。
どこかでそう思っていた。
実際には少し違った。
知っていることが増えた。
同時に、どこから先が分かっていないのかも教えてくれる。
それが面白かった。
講義が終わると、ディーンは講師を捕まえた。
「さっきの話なんですけど」
「来ると思ったよ」
講師は苦笑した。
ディーンは帳面を開いた。
「自然に働きかけるっていう説だと、水がないところで出した水はどうなるんです?」
「そこが、その説の弱いところだ」
「じゃあ、魔力そのものが属性を持つって方は?」
「術者によって得意属性が違うことなどを根拠にしている」
「俺、四つとも使えます」
「だからといって否定にはならない。君が四種類へ変化させられるだけかもしれない」
「……ああ」
それなら説明できる。
「無詠唱は?」
「それも、それぞれの立場から説明しようとしている」
「どれが一番――」
講師が手を上げた。
「本を紹介する」
質問を止められた。
代わりに三冊の本の名前を教えてもらった。
その日の午後、ディーンは基礎水魔術の実習へ出た。
周囲の学生たちが詠唱を始める。
ディーンは右手を出した。
水球が浮かぶ。
詠唱はいらない。
昔から何度もやってきた。
午前中の図を思い出す。
魔力。
術式。
水。
自分の場合、真ん中はどこにある。
水球を落とす。
次に火を出した。
これもできる。
火。
水。
火。
水。
何度か繰り返した。
感覚は違う。
そんなことは昔から知っていた。
だが、今日初めて、その違いに意味があるのかもしれないと思った。
主流説が正しいなら、自分も何らかの方法で術式を成立させている。
では。
「……俺、何してるんだ?」
自分に聞いてみる。
答えられなかった。
火を出す時は、火を出す。
水を出す時は、水を出す。
意識としては、それだけだった。
「ディーン」
講師に呼ばれた。
「はい」
「課題は水球だ」
「はい」
「なぜ火を出している?」
「ちょっと分からないことがあって」
「授業が終わってから分からなくなれ」
「はい」
火を消した。
その日の夜、宿で帳面を開いた。
『火と水では何が違う?』
その下に、
『感覚が違う』
と書く。
しばらく見てから、線を引いて消した。
何が違うのかを聞いているのに、違うと書いても意味がない。
代わりに、
『分からない』
と書いた。
数日後、ディーンは自分の古い帳面を教員に見せていた。
入学時に提出したものとは別の、旅の途中で使っていた一冊だった。
「ここです。水を細くしたら、石が削れやすくなった」
教員が読む。
「何回試した?」
「何回?」
「同じ条件で」
「……覚えてません」
「水の量は?」
「だいたい同じです」
「だいたい?」
「同じくらい」
「速度は?」
「細くした方が速くなってたかもしれません」
「標的は?」
「石です」
「同じ石か?」
ディーンは黙った。
教員が帳面を閉じた。
「これでは、細くしたから削れたのか、速くなったから削れたのか、石が脆かったのか分からない」
「でも、何回かやったら細い方が削れました」
「何回だ?」
「……覚えてません」
「なら、まずそこからだ」
少し腹が立った。
結果は出ている。
実際に、細い水は石を切った。
入学試験でも見せた。
それを使えないと言われているわけではない。
だが、説明できないと言われている。
また、アルベルトの言葉が浮かんだ。
使えることと、分かっていることは違う。
あの時は治癒魔術の話だった。
今度は自分の魔術だった。
「……じゃあ、どうしたら分かるんですか?」
「一つずつ変えろ」
教員は帳面を開き直した。
「太さを調べたいなら、それ以外をできるだけ同じにする。水の量、距離、標的、回数。変えたものと、変えていないものを記録する」
「全部?」
「できる範囲でな」
「面倒ですね」
「研究はだいたい面倒だ」
ディーンは少し考えた。
「でも、それなら何が効いたか分かる?」
「少なくとも、今よりはな」
その日のうちに訓練場へ行った。
同じくらいの石を五つ並べる。
水を飛ばす。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
五つ目。
結果を書く。
次は水を細くする。
一つ目。
二つ目。
途中で、石の大きさが違うことに気づいた。
やり直した。
今度は水の量が同じか分からなくなった。
やり直す。
三度目は途中で魔力を込めすぎた。
やり直す。
夕方までやって、帳面を見た。
思ったほど何も分からなかった。
「……今まで、よく分かった気になってたな」
独り言が出た。
それでも翌日もやった。
講義を受ける。
図書館へ行く。
実験する。
仕事で身につけた魔術も、改めて条件を変えて試した。
一週間。
二週間。
帳面の書き方が少しずつ変わった。
『強かった』
ではなく、
『前回より石の窪みが深い』
と書く。
『いっぱい魔力を使った』
ではなく、
『同じ術を続けられた回数が少ない』
と書く。
数字にできるものは数字にした。
できないものは、何を見てそう思ったのかを書く。
一か月もすると、新しい帳面は最初の数頁だけ妙に汚く見えるようになった。
二か月目。
魔法陣の基礎講義を受けた。
円の中に複雑な線が走っている。
魔力を与えれば、詠唱なしで決められた魔術が発動する。
面白かった。
質問した。
線を一本消したらどうなる。
位置を変えたらどうなる。
別の場所から魔力を入れたらどうなる。
講師に途中で止められた。
図書館へ行った。
すでに調べている人間がいた。
魔法陣の構造について書かれた本だけで、棚がいくつもある。
嬉しいような、悔しいような気分になった。
自分が思いついたことを、百年以上前の誰かが調べている。
その代わり、その人が最後に「不明」と書いた場所から、自分は考え始められる。
それも大学へ来て初めて知ったことだった。
三か月目には、最初ほど何でも質問しなくなった。
疑問が減ったわけではない。
むしろ増えた。
ただ、質問する前に図書館へ行くようになった。
それでも分からなければ教員に聞く。
「この本ではこう書いてあったんですけど、こっちの本だと違います。どっちですか?」
そう聞くと、教員の答えも変わった。
「いいところを見つけたな」
そう言って、別の論文を渡されることもあった。
大学に来る前より、分からないことは増えていた。
だが以前とは違う。
何が分からないのかが、少しずつ分かるようになってきた。
ある日の夕方。
訓練場にはディーン一人しか残っていなかった。
その日の課題は終わっている。
帰ってもよかった。
だが、右手を見た。
火を出す。
消す。
水を出す。
落とす。
風。
土。
入学した頃にもやったことだった。
あの時は、何が違うのか分からなかった。
今も分からない。
ただ、三か月前ならそこで終わっていた。
ディーンは帳面を開いた。
『四属性を同条件で比較する』
書いてから止まる。
同条件とは何だ。
同じ魔力量。
同じ大きさ。
同じ時間。
そもそも火と水の「同じ大きさ」は、何をもって同じとする。
水と風では。
土なら。
最初から躓いた。
「……比べられない」
思わず笑った。
こんな簡単なことすら難しい。
火を出す。
水を出す。
何度か繰り返す。
やはり違う。
その違いを言葉にしようとすると逃げていく。
重い。
違う。
強い。
それも違う。
多い。
たぶん違う。
昔なら、「感覚が違う」と書いて終わっていた。
今は、それでは何も書いていないのと同じだと分かる。
だから帳面には、
『違う感じがする』
と一度書き、
その横に、
『何が?』
と書いた。
答えは出なかった。
その日は、それだけで帰った。
翌日も分からなかった。
一週間後も、まだ分からなかった。
それでも、ときどき四属性を並べて使った。
詠唱している学生を見る。
魔法陣を見る。
魔物学の本を読む。
そのたびに、同じ疑問が頭の端に残った。
火と水で、自分は何を変えている。
術式が魔力を変換しているという。
なら、自分の中でも何かが起きているはずだ。
魔力そのものが変わっているのか。
それとも、別の何かが違うのか。
まだ分からない。
だから、新しい帳面の最後に一頁だけ空けた。
頁の上には、一行だけ書いてある。
『火を出す時と、水を出す時。俺は何を変えている?』
それからしばらく、その下には何も書かれなかった。