研究レポート:六面世界における魔法について   作:えびかま

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序論16

翌日、ディーンは実験室にいた。

 

机の上には、同じ初級水魔術の魔法陣が六枚並んでいる。

 

違うのは線のつなぎ方だけだ。

 

「本当にここだけ違うんですよね?」

 

「疑うなら自分で確認しろ」

 

答えたのは、魔法陣学を担当するエドガー・ハルフェンだった。

 

四十を少し過ぎた人族の男で、専門は魔法陣の構造と魔力伝達。ディーンが魔法陣を調べ始めてから、最も長く実験に付き合っている教員でもある。

 

もっとも、本人は「付き合っている」と言うと否定する。

 

研究指導をしているだけらしい。

 

ディーンは六枚を見比べた。

 

大きさ。

 

構成部。

 

魔力の供給点。

 

発動部。

 

線の長さまで揃えてある。

 

一枚目はほぼ直線。

 

二枚目は大きく迂回する。

 

三枚目は途中で二つに分かれ、再び合流する。

 

残りも経路だけが異なっていた。

 

「これなら比べられる」

 

魔力を入れる。

 

一枚目。

 

水。

 

二枚目。

 

水。

 

六枚すべてが発動した。

 

見た目だけなら大差はない。

 

そこで発動までの時間を測った。

 

自分だけでなく、別の学生にも協力してもらう。

 

一日目。

 

二日目。

 

三日目。

 

結果にはばらつきがあった。

 

それでも回数を重ねると、傾向は残った。

 

大きく迂回するものは、わずかに発動が遅い。

 

分岐して再び合流するものは、結果が安定しにくい。

 

直線に近いものは比較的安定している。

 

「長さは同じなんですよね」

 

「そうだ」

 

「なのに違う」

 

ハルフェンは答えなかった。

 

最近はこういう時、すぐ答えを教えてくれない。

 

ディーンは六枚を並べ直した。

 

線の長さではない。

 

魔力量も可能な限り揃えた。

 

術式を構成する部分も同じ。

 

残るのは。

 

「……通り方?」

 

帳面に書く。

 

『線の長さが同じでも、経路が違えば結果が変わる』

 

その下に、

 

『魔力は、どこを通るかだけじゃなく、どう通るかでも変わる?』

 

ハルフェンが横から覗いた。

 

何も言わなかった。

 

     *

 

そこから数週間、ディーンは経路の違いを調べた。

 

最初に疑ったのは曲がる回数だった。

 

曲がるほど魔力が通りにくくなる。

 

いくつかの実験では合った。

 

別の魔法陣で外れた。

 

次は分岐。

 

これも途中までは説明できたが、例外が出た。

 

線の長さ。

 

角度。

 

分岐。

 

合流。

 

魔力を入れる位置。

 

一つずつ変えた。

 

記録する。

 

元に戻す。

 

次を変える。

 

一冊の帳面が埋まる頃には、

 

『関係なし』

 

『不明』

 

『再検証』

 

が随分増えていた。

 

それでも、以前のように焦ることは減った。

 

違ったなら、その仮説を捨てればいい。

 

二冊目に入った頃、一つの実験で手が止まった。

 

魔力を一方向から入れる魔法陣。

 

二方向から入れ、中央で合流させる魔法陣。

 

どちらも発動するのは同じ水魔術だ。

 

二方向から入れる方で、片方だけ強く魔力を供給してみる。

 

水の出方が乱れた。

 

反対側を強くする。

 

また変わる。

 

両方を揃える。

 

安定した。

 

「魔力量の問題か?」

 

合計量を揃えて試す。

 

違う。

 

総量だけでは説明できない。

 

ディーンは魔法陣を指でなぞった。

 

右から中央へ。

 

左から中央へ。

 

そこで合流する。

 

紙に矢印を書いた。

 

二本の矢印が中央へ向かう。

 

「……魔力って、向きあるのか?」

 

言ってから首を傾げた。

 

違う。

 

魔力そのものが右や左を向いているわけではない。

 

どこから来て、どこへ行くのか。

 

その違いだ。

 

     *

 

その日の午後、記録をハルフェンに見せた。

 

「魔力に向きがあると思います」

 

ハルフェンの眉が動いた。

 

「向き?」

 

「いや……言い方が違うかもしれません」

 

帳面を開く。

 

「こっちから入れて、こっちへ行く。途中で分かれたり、また集まったりする。そういう違いです」

 

「魔力の流れか?」

 

「近いです。でも……」

 

その言葉なら、昔からある。

 

魔力を流す。

 

杖へ流す。

 

魔法陣へ流す。

 

魔道具へ流す。

 

ディーン自身も普通に使ってきた。

 

だが、自分が気にしているのは、魔力が移動するという事実だけではない。

 

「流れ方そのものが違ったら、魔術も変わるんじゃないかって」

 

ハルフェンが帳面を見る。

 

先ほどまでより、少し長く。

 

「続けろ」

 

「はい」

 

それだけだった。

 

     *

 

図書館で過去の研究を調べると、似た報告はいくつも見つかった。

 

魔法陣内部の魔力伝達。

 

分岐による効率の変化。

 

供給方向を逆にすると発動しなくなる術式。

 

どれも詳しい。

 

だが、多くは個別の魔法陣について論じていた。

 

この術式では、ここから魔力を入れる。

 

この線を切れば発動しない。

 

この分岐を変えると効率が落ちる。

 

ディーンは何冊も読み比べた。

 

「……みんな見てるじゃん」

 

自分だけが気づいたわけではない。

 

むしろ、昔から研究されている。

 

少し落胆した。

 

だが読み進めるうちに、別の違和感が出てきた。

 

どの研究も、魔法陣の構造について語っている。

 

魔力そのものについてではない。

 

帳面に書く。

 

『魔法陣では、魔力が通る方向や経路が結果に関係する』

 

その下に、

 

『魔法陣だけ?』

 

と加えた。

 

     *

 

次に、自分の無詠唱魔術を調べた。

 

これが難しかった。

 

右手を出す。

 

水球。

 

消す。

 

もう一度。

 

今度は発動する直前を意識する。

 

水が出た。

 

「早い」

 

気づいた時には終わっている。

 

何十回も繰り返した。

 

眠くなっただけだった。

 

翌日も試す。

 

火。

 

水。

 

風。

 

土。

 

魔法陣のような線が自分の中にもあると仮定してみた。

 

うまくいかない。

 

そもそも線が存在する保証もない。

 

数週間続けた頃、水魔術をいつもよりゆっくり発動させてみた。

 

魔力を集める。

 

そこから手の方へ。

 

「……前に?」

 

水が出た。

 

もう一度。

 

今度は分からない。

 

三度目。

 

少し分かる。

 

四度目。

 

また分からない。

 

「最悪だな、これ」

 

自分自身を測定器にするのは信用できない。

 

それでも、

 

『水魔術発動時、魔力が手側へ移動する感覚?』

 

と書いた。

 

横には、

 

『思い込みの可能性あり』

 

と付け加えた。

 

     *

 

さらに時間が経った。

 

魔法陣だけでなく、魔道具の記録も集めた。

 

魔力を蓄えるもの。

 

複数の術式へ順番に送るもの。

 

供給する場所によって動作が変わるもの。

 

以前に調べた魔物の記録も引っ張り出した。

 

火猿。

 

風を操る鳥。

 

魔法陣はない。

 

詠唱もない。

 

それでも魔術は発動する。

 

なら、魔法陣の線そのものが本質ではない。

 

では、線は何をしている。

 

ディーンは魔法陣を指でなぞった。

 

運ぶ。

 

分ける。

 

集める。

 

向きを変える。

 

「……真似してる?」

 

魔術を使う時に術者がやっている何かを、魔法陣が外側で再現している。

 

そう考えれば繋がる。

 

だが、証拠はない。

 

帳面には、

 

『魔法陣は術者内部の過程を外部化している?』

 

とだけ残した。

 

     *

 

一年目の終わりが近づいた頃、ハルフェンから研究記録を提出するよう言われた。

 

論文ではない。

 

一年間で何を調べ、何が分かり、何が分からなかったか。

 

ディーンは三日かけてまとめた。

 

最初の問いは変わっていない。

 

『火を出す時と、水を出す時。俺は何を変えている?』

 

答えは、まだない。

 

魔力量だけでは説明できない可能性。

 

魔力属性説も否定できない。

 

魔法陣では、魔力の供給位置や線の接続によって結果が変化する。

 

そこまでは既存研究にもある。

 

だが、それらの研究では、

 

方向。

 

経路。

 

分岐。

 

合流。

 

それぞれが個別の魔法陣を構成する条件として扱われていた。

 

ディーンには、それが少し違って見え始めていた。

 

魔力が流れるかどうかではない。

 

どこから、どこへ、どのような経路を取って流れるか。

 

それ自体を、一つの性質として扱えないか。

 

「方向……」

 

違う。

 

右か左かだけでは足りない。

 

直進する。

 

曲がる。

 

分かれる。

 

集まる。

 

いくつか言葉を書いて、消した。

 

最後に二文字が残った。

 

『流向』

 

その下に定義を書く。

 

『魔力がある地点から別の地点へ至る際に取る方向および経路。分岐・合流を含む』

 

まだ粗い。

 

本当に一つの性質として扱えるかも分からない。

 

だから最後には、

 

『魔力の流向と魔術発動の関係について、継続して検証する』

 

とだけ書いた。

 

     *

 

翌日。

 

ハルフェンは研究記録を最初から読んだ。

 

ディーンは向かいで待っていた。

 

頁が進む。

 

時々、指が止まる。

 

また進む。

 

最後の数頁まで来た。

 

「……流向?」

 

「はい」

 

「どの文献から取った?」

 

「どこからも」

 

ハルフェンが顔を上げた。

 

「君が作ったのか?」

 

「他にちょうどいい言葉がなかったので」

 

視線が頁へ戻る。

 

しばらく動かなかった。

 

一枚戻る。

 

さらに戻る。

 

実験結果まで戻って、もう一度読む。

 

今度は明らかに読み方が違った。

 

「ディーン」

 

「はい」

 

「ここでいう流向は、単なる魔力の伝達方向ではないな」

 

「はい。どこを通るかとか、途中で分かれるとか、集まるとか。そういうのも全部です」

 

「なぜまとめた?」

 

「最初は別々に調べてました。でも」

 

ディーンは記録を指した。

 

「結局、全部『魔力がどう通ったか』の違いなんじゃないかと思って」

 

ハルフェンは答えなかった。

 

指先が、紙に書かれた『流向』の文字に触れる。

 

「……なるほど」

 

小さな声だった。

 

「何か変ですか?」

 

「いや」

 

ハルフェンは椅子へ深く座り直した。

 

「魔力の流れという概念は古い。伝達方向も経路も分岐も、それぞれ研究されている」

 

「はい」

 

「だが普通は、魔法陣の構造として扱う。この魔法陣ではここを通る。この術式ではここで分岐する。そういう具合にな」

 

「はい」

 

「君は違う」

 

ディーンは首を傾げた。

 

ハルフェンが記録を持ち上げた。

 

「君はそれらを、魔法陣から切り離そうとしている」

 

「……駄目ですか?」

 

「逆だ」

 

返事が早かった。

 

「もし切り離せるなら、これは魔法陣の性質ではない」

 

『流向』を指す。

 

「魔力そのものを記述するための性質になる」

 

ディーンは黙った。

 

そこまでは考えていなかった。

 

ハルフェンは再び記録を読む。

 

「魔法陣が違っても、同じ流向なら共通する結果が出る。詠唱でも同じ性質が確認できる。無詠唱でも、魔道具でも、魔物でも――」

 

途中で言葉を切った。

 

「そこまで示せれば話が変わる」

 

「でも、まだ魔法陣でしかまともに調べられてません」

 

「その通りだ」

 

ハルフェンの声がすぐに戻った。

 

「今の段階では仮説と呼ぶのも早い。方向と経路を一つの性質として扱っていい根拠も足りない。分岐や合流が別の要素である可能性もある」

 

「はい」

 

「君の実験方法にも穴がある」

 

「どこです?」

 

「今から全部言う」

 

そこから長かった。

 

協力者が少ない。

 

魔力量の統制が甘い。

 

魔法陣の種類が偏っている。

 

発動時間の測定精度が低い。

 

過去の研究との比較も足りない。

 

次々に指摘された。

 

ディーンは途中から別の紙を出して書き始めた。

 

一通り終わる。

 

ハルフェンは腕を組んだ。

 

しばらく何も言わない。

 

「……先生?」

 

「調べる価値はある」

 

「流向?」

 

「ああ」

 

一拍置く。

 

「かなりな」

 

ハルフェンは立ち上がり、棚から紙を取り出した。

 

「これまで使った魔法陣を全部持ってこい」

 

「全部?」

 

「失敗したものもだ。実験条件の記録も。協力者ごとの結果を分けているなら、それも持ってこい」

 

「あります」

 

「来年度の実験計画を組み直す」

 

ディーンは瞬きをした。

 

「先生もやるんですか?」

 

「私は確認する」

 

「一緒にやるってことですよね?」

 

「違う」

 

「何が違うんです?」

 

「立場が違う」

 

よく分からなかった。

 

ハルフェンは別の紙にも何かを書き始めている。

 

「水だけでは足りない。火と風も使う。構造の違う魔法陣でも同じ傾向が出るか確認する。それから――」

 

そこで手が止まった。

 

「ディーン」

 

「はい」

 

「この言葉は、まだ外で使うな」

 

「流向?」

 

「ああ」

 

「なんで?」

 

「名前を付けると、人はそれが存在すると思い始める」

 

ディーンは『流向』を見る。

 

「まだ、あるかどうかも分からない?」

 

「そういうことだ」

 

ハルフェンは記録を返した。

 

「本当に一つの性質として切り出せるのか確かめろ。違えば捨てる」

 

「合ってたら?」

 

ハルフェンは答えなかった。

 

もう一度、『流向』の文字を見る。

 

その沈黙が少し長かった。

 

「……その時は」

 

ようやく口を開く。

 

「魔法陣学だけの話では済まなくなる」

 

ディーンは報告書を受け取った。

 

まだ仮の言葉だ。

 

正しいかどうかも分からない。

 

昨日までは、自分の帳面を整理するためにつけた名前に近かった。

 

それをハルフェンが、魔法陣の外へ持ち出した。

 

詠唱。

 

無詠唱。

 

魔道具。

 

魔物。

 

もし全部に同じものがあるなら。

 

そこまで考えて、やめた。

 

先に確かめる。

 

「先生」

 

「なんだ」

 

「実験室、もっと使えます?」

 

ハルフェンはため息をついた。

 

「来年度から使用時間を増やす」

 

「本当ですか?」

 

「ああ」

 

「特別生だから?」

 

「違う」

 

机の上に残った実験記録へ視線を落とす。

 

「君が、本当に面倒なものを見つけたかもしれないからだ」

 

ディーンは少し笑った。

 

「褒めてます?」

 

「早く資料を持ってこい」

 

「はい」

 

教員室を出る。

 

廊下を歩きながら、報告書を開いた。

 

『流向』

 

まだ発見ではない。

 

理論ですらない。

 

ただ、一年前には「違う感じがする」としか書けなかったものが、他人にも調べられる問いになった。

 

その違いだけは、ディーンにも分かった。

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