研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
翌日、ディーンは実験室にいた。
机の上には、同じ初級水魔術の魔法陣が六枚並んでいる。
違うのは線のつなぎ方だけだ。
「本当にここだけ違うんですよね?」
「疑うなら自分で確認しろ」
答えたのは、魔法陣学を担当するエドガー・ハルフェンだった。
四十を少し過ぎた人族の男で、専門は魔法陣の構造と魔力伝達。ディーンが魔法陣を調べ始めてから、最も長く実験に付き合っている教員でもある。
もっとも、本人は「付き合っている」と言うと否定する。
研究指導をしているだけらしい。
ディーンは六枚を見比べた。
大きさ。
構成部。
魔力の供給点。
発動部。
線の長さまで揃えてある。
一枚目はほぼ直線。
二枚目は大きく迂回する。
三枚目は途中で二つに分かれ、再び合流する。
残りも経路だけが異なっていた。
「これなら比べられる」
魔力を入れる。
一枚目。
水。
二枚目。
水。
六枚すべてが発動した。
見た目だけなら大差はない。
そこで発動までの時間を測った。
自分だけでなく、別の学生にも協力してもらう。
一日目。
二日目。
三日目。
結果にはばらつきがあった。
それでも回数を重ねると、傾向は残った。
大きく迂回するものは、わずかに発動が遅い。
分岐して再び合流するものは、結果が安定しにくい。
直線に近いものは比較的安定している。
「長さは同じなんですよね」
「そうだ」
「なのに違う」
ハルフェンは答えなかった。
最近はこういう時、すぐ答えを教えてくれない。
ディーンは六枚を並べ直した。
線の長さではない。
魔力量も可能な限り揃えた。
術式を構成する部分も同じ。
残るのは。
「……通り方?」
帳面に書く。
『線の長さが同じでも、経路が違えば結果が変わる』
その下に、
『魔力は、どこを通るかだけじゃなく、どう通るかでも変わる?』
ハルフェンが横から覗いた。
何も言わなかった。
*
そこから数週間、ディーンは経路の違いを調べた。
最初に疑ったのは曲がる回数だった。
曲がるほど魔力が通りにくくなる。
いくつかの実験では合った。
別の魔法陣で外れた。
次は分岐。
これも途中までは説明できたが、例外が出た。
線の長さ。
角度。
分岐。
合流。
魔力を入れる位置。
一つずつ変えた。
記録する。
元に戻す。
次を変える。
一冊の帳面が埋まる頃には、
『関係なし』
『不明』
『再検証』
が随分増えていた。
それでも、以前のように焦ることは減った。
違ったなら、その仮説を捨てればいい。
二冊目に入った頃、一つの実験で手が止まった。
魔力を一方向から入れる魔法陣。
二方向から入れ、中央で合流させる魔法陣。
どちらも発動するのは同じ水魔術だ。
二方向から入れる方で、片方だけ強く魔力を供給してみる。
水の出方が乱れた。
反対側を強くする。
また変わる。
両方を揃える。
安定した。
「魔力量の問題か?」
合計量を揃えて試す。
違う。
総量だけでは説明できない。
ディーンは魔法陣を指でなぞった。
右から中央へ。
左から中央へ。
そこで合流する。
紙に矢印を書いた。
二本の矢印が中央へ向かう。
「……魔力って、向きあるのか?」
言ってから首を傾げた。
違う。
魔力そのものが右や左を向いているわけではない。
どこから来て、どこへ行くのか。
その違いだ。
*
その日の午後、記録をハルフェンに見せた。
「魔力に向きがあると思います」
ハルフェンの眉が動いた。
「向き?」
「いや……言い方が違うかもしれません」
帳面を開く。
「こっちから入れて、こっちへ行く。途中で分かれたり、また集まったりする。そういう違いです」
「魔力の流れか?」
「近いです。でも……」
その言葉なら、昔からある。
魔力を流す。
杖へ流す。
魔法陣へ流す。
魔道具へ流す。
ディーン自身も普通に使ってきた。
だが、自分が気にしているのは、魔力が移動するという事実だけではない。
「流れ方そのものが違ったら、魔術も変わるんじゃないかって」
ハルフェンが帳面を見る。
先ほどまでより、少し長く。
「続けろ」
「はい」
それだけだった。
*
図書館で過去の研究を調べると、似た報告はいくつも見つかった。
魔法陣内部の魔力伝達。
分岐による効率の変化。
供給方向を逆にすると発動しなくなる術式。
どれも詳しい。
だが、多くは個別の魔法陣について論じていた。
この術式では、ここから魔力を入れる。
この線を切れば発動しない。
この分岐を変えると効率が落ちる。
ディーンは何冊も読み比べた。
「……みんな見てるじゃん」
自分だけが気づいたわけではない。
むしろ、昔から研究されている。
少し落胆した。
だが読み進めるうちに、別の違和感が出てきた。
どの研究も、魔法陣の構造について語っている。
魔力そのものについてではない。
帳面に書く。
『魔法陣では、魔力が通る方向や経路が結果に関係する』
その下に、
『魔法陣だけ?』
と加えた。
*
次に、自分の無詠唱魔術を調べた。
これが難しかった。
右手を出す。
水球。
消す。
もう一度。
今度は発動する直前を意識する。
水が出た。
「早い」
気づいた時には終わっている。
何十回も繰り返した。
眠くなっただけだった。
翌日も試す。
火。
水。
風。
土。
魔法陣のような線が自分の中にもあると仮定してみた。
うまくいかない。
そもそも線が存在する保証もない。
数週間続けた頃、水魔術をいつもよりゆっくり発動させてみた。
魔力を集める。
そこから手の方へ。
「……前に?」
水が出た。
もう一度。
今度は分からない。
三度目。
少し分かる。
四度目。
また分からない。
「最悪だな、これ」
自分自身を測定器にするのは信用できない。
それでも、
『水魔術発動時、魔力が手側へ移動する感覚?』
と書いた。
横には、
『思い込みの可能性あり』
と付け加えた。
*
さらに時間が経った。
魔法陣だけでなく、魔道具の記録も集めた。
魔力を蓄えるもの。
複数の術式へ順番に送るもの。
供給する場所によって動作が変わるもの。
以前に調べた魔物の記録も引っ張り出した。
火猿。
風を操る鳥。
魔法陣はない。
詠唱もない。
それでも魔術は発動する。
なら、魔法陣の線そのものが本質ではない。
では、線は何をしている。
ディーンは魔法陣を指でなぞった。
運ぶ。
分ける。
集める。
向きを変える。
「……真似してる?」
魔術を使う時に術者がやっている何かを、魔法陣が外側で再現している。
そう考えれば繋がる。
だが、証拠はない。
帳面には、
『魔法陣は術者内部の過程を外部化している?』
とだけ残した。
*
一年目の終わりが近づいた頃、ハルフェンから研究記録を提出するよう言われた。
論文ではない。
一年間で何を調べ、何が分かり、何が分からなかったか。
ディーンは三日かけてまとめた。
最初の問いは変わっていない。
『火を出す時と、水を出す時。俺は何を変えている?』
答えは、まだない。
魔力量だけでは説明できない可能性。
魔力属性説も否定できない。
魔法陣では、魔力の供給位置や線の接続によって結果が変化する。
そこまでは既存研究にもある。
だが、それらの研究では、
方向。
経路。
分岐。
合流。
それぞれが個別の魔法陣を構成する条件として扱われていた。
ディーンには、それが少し違って見え始めていた。
魔力が流れるかどうかではない。
どこから、どこへ、どのような経路を取って流れるか。
それ自体を、一つの性質として扱えないか。
「方向……」
違う。
右か左かだけでは足りない。
直進する。
曲がる。
分かれる。
集まる。
いくつか言葉を書いて、消した。
最後に二文字が残った。
『流向』
その下に定義を書く。
『魔力がある地点から別の地点へ至る際に取る方向および経路。分岐・合流を含む』
まだ粗い。
本当に一つの性質として扱えるかも分からない。
だから最後には、
『魔力の流向と魔術発動の関係について、継続して検証する』
とだけ書いた。
*
翌日。
ハルフェンは研究記録を最初から読んだ。
ディーンは向かいで待っていた。
頁が進む。
時々、指が止まる。
また進む。
最後の数頁まで来た。
「……流向?」
「はい」
「どの文献から取った?」
「どこからも」
ハルフェンが顔を上げた。
「君が作ったのか?」
「他にちょうどいい言葉がなかったので」
視線が頁へ戻る。
しばらく動かなかった。
一枚戻る。
さらに戻る。
実験結果まで戻って、もう一度読む。
今度は明らかに読み方が違った。
「ディーン」
「はい」
「ここでいう流向は、単なる魔力の伝達方向ではないな」
「はい。どこを通るかとか、途中で分かれるとか、集まるとか。そういうのも全部です」
「なぜまとめた?」
「最初は別々に調べてました。でも」
ディーンは記録を指した。
「結局、全部『魔力がどう通ったか』の違いなんじゃないかと思って」
ハルフェンは答えなかった。
指先が、紙に書かれた『流向』の文字に触れる。
「……なるほど」
小さな声だった。
「何か変ですか?」
「いや」
ハルフェンは椅子へ深く座り直した。
「魔力の流れという概念は古い。伝達方向も経路も分岐も、それぞれ研究されている」
「はい」
「だが普通は、魔法陣の構造として扱う。この魔法陣ではここを通る。この術式ではここで分岐する。そういう具合にな」
「はい」
「君は違う」
ディーンは首を傾げた。
ハルフェンが記録を持ち上げた。
「君はそれらを、魔法陣から切り離そうとしている」
「……駄目ですか?」
「逆だ」
返事が早かった。
「もし切り離せるなら、これは魔法陣の性質ではない」
『流向』を指す。
「魔力そのものを記述するための性質になる」
ディーンは黙った。
そこまでは考えていなかった。
ハルフェンは再び記録を読む。
「魔法陣が違っても、同じ流向なら共通する結果が出る。詠唱でも同じ性質が確認できる。無詠唱でも、魔道具でも、魔物でも――」
途中で言葉を切った。
「そこまで示せれば話が変わる」
「でも、まだ魔法陣でしかまともに調べられてません」
「その通りだ」
ハルフェンの声がすぐに戻った。
「今の段階では仮説と呼ぶのも早い。方向と経路を一つの性質として扱っていい根拠も足りない。分岐や合流が別の要素である可能性もある」
「はい」
「君の実験方法にも穴がある」
「どこです?」
「今から全部言う」
そこから長かった。
協力者が少ない。
魔力量の統制が甘い。
魔法陣の種類が偏っている。
発動時間の測定精度が低い。
過去の研究との比較も足りない。
次々に指摘された。
ディーンは途中から別の紙を出して書き始めた。
一通り終わる。
ハルフェンは腕を組んだ。
しばらく何も言わない。
「……先生?」
「調べる価値はある」
「流向?」
「ああ」
一拍置く。
「かなりな」
ハルフェンは立ち上がり、棚から紙を取り出した。
「これまで使った魔法陣を全部持ってこい」
「全部?」
「失敗したものもだ。実験条件の記録も。協力者ごとの結果を分けているなら、それも持ってこい」
「あります」
「来年度の実験計画を組み直す」
ディーンは瞬きをした。
「先生もやるんですか?」
「私は確認する」
「一緒にやるってことですよね?」
「違う」
「何が違うんです?」
「立場が違う」
よく分からなかった。
ハルフェンは別の紙にも何かを書き始めている。
「水だけでは足りない。火と風も使う。構造の違う魔法陣でも同じ傾向が出るか確認する。それから――」
そこで手が止まった。
「ディーン」
「はい」
「この言葉は、まだ外で使うな」
「流向?」
「ああ」
「なんで?」
「名前を付けると、人はそれが存在すると思い始める」
ディーンは『流向』を見る。
「まだ、あるかどうかも分からない?」
「そういうことだ」
ハルフェンは記録を返した。
「本当に一つの性質として切り出せるのか確かめろ。違えば捨てる」
「合ってたら?」
ハルフェンは答えなかった。
もう一度、『流向』の文字を見る。
その沈黙が少し長かった。
「……その時は」
ようやく口を開く。
「魔法陣学だけの話では済まなくなる」
ディーンは報告書を受け取った。
まだ仮の言葉だ。
正しいかどうかも分からない。
昨日までは、自分の帳面を整理するためにつけた名前に近かった。
それをハルフェンが、魔法陣の外へ持ち出した。
詠唱。
無詠唱。
魔道具。
魔物。
もし全部に同じものがあるなら。
そこまで考えて、やめた。
先に確かめる。
「先生」
「なんだ」
「実験室、もっと使えます?」
ハルフェンはため息をついた。
「来年度から使用時間を増やす」
「本当ですか?」
「ああ」
「特別生だから?」
「違う」
机の上に残った実験記録へ視線を落とす。
「君が、本当に面倒なものを見つけたかもしれないからだ」
ディーンは少し笑った。
「褒めてます?」
「早く資料を持ってこい」
「はい」
教員室を出る。
廊下を歩きながら、報告書を開いた。
『流向』
まだ発見ではない。
理論ですらない。
ただ、一年前には「違う感じがする」としか書けなかったものが、他人にも調べられる問いになった。
その違いだけは、ディーンにも分かった。