研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
二年目に入って、一か月ほどが経った。
実験室の机には、初級水魔術の魔法陣が並んでいた。
供給位置を変えたもの。経路を変えたもの。途中で分岐させたもの。一度分かれた線を、再び合流させたもの。
一年目より、実験のやり方はずっと整っている。
条件を揃える。変えるものは一つにする。繰り返す。他の人間でも試す。結果が違えば、どこが違ったのかを調べ直す。
その積み重ねで、分かったこともある。
魔力をどこから入れ、どのような経路を通すかによって、魔法陣の発動には差が生じる。
問題は、その先だった。
「先生」
記録を読んでいたハルフェンが顔を上げる。
「なんだ」
「これ以上やっても、魔法陣のことしか分からないですよね」
「そうだな」
あっさり肯定された。
ディーンは帳面をめくった。
後ろの方に、二文字だけ書かれた頁がある。
『流向』
方向。
経路。
分岐。
合流。
それらを一つの性質として扱えないか。
まだ仮の名前だ。
ハルフェンからも、軽々しく外で使うなと言われている。
本当にそんな性質が存在するのかさえ、まだ分からない。
「魔法陣じゃない魔術でも同じことが起きてるなら、調べたいです」
「なら調べろ」
「先生、魔道具は?」
「専門外だ」
「人間の中の魔力は?」
「専門外だ」
「魔物は?」
「専門外だ」
「先生、魔法陣以外は大体専門外ですね」
ハルフェンが顔を上げた。
「当たり前だ」
「そういうもんですか?」
「そういうものだ」
ディーンは少し考えた。
自分の無詠唱魔術。
詠唱魔術。
魔道具。
魔物。
調べたいものはいくらでもある。
だが、一人で全部を調べるには、知らないことが多すぎる。
「……じゃあ、どうするんです?」
「詳しい人間を頼れ」
「先生が教えてくれるんじゃないんですか?」
「無理だ。所詮私とて一介の魔法陣の研究者だ。そして君も一介の学生だ。一人でできることだけを調べていたら、自分一人で届くところまでしか行けん」
ディーンは黙った。
その言葉は、思ったよりすんなり入ってきた。
大学に来る前は、分からないことがあれば自分で見に行った。
本を探した。
魔物を追った。
魔術を試した。
それで随分遠くまで来たと思う。
だが、今調べようとしているものは、一人の手には大きすぎる。
「大学には、詳しい人がいる」
ハルフェンが言った。
「魔道具なら魔道具を研究してきた人間がいる。術者の魔力なら、それを何年も調べている人間がいる。君が一から同じところまで勉強する必要はない」
「……人を借りる?」
「言い方は悪いが、そういうことだ」
「じゃあ借ります」
「本人の前ではもう少し丁寧に言え」
ディーンは頷いた。
考えてみれば、単純な話だった。
自分にないものなら、持っている人間を頼ればいい。
本を読めば、知らなかったことを知ることができる。
けれど、人はそれだけではない。
自分が間違っていれば指摘してくれる。分からないことがあれば、一緒に考えてくれる。時には、自分では思いつかなかった問いまで返してくる。
ハルフェンと研究するようになって、それは何度も経験していた。
一人では届かないところでも、誰かとなら届くかもしれない。
「先生」
「なんだ」
「まず誰を借りればいいです?」
ハルフェンが眉間を押さえた。
「……だから本人の前で言うな」
最初に訪ねることになったのは、魔道具研究棟だった。
*
ミレイユ・バルディ。
四十代後半の炭鉱族の女性で、専門は魔道具内部の魔力伝達と魔力槽。
ハルフェンからそう聞いて研究室を訪ねたが、本人の姿が見当たらない。
「バルディ先生?」
返事はない。
代わりに、奥から金属を叩く音がした。
覗く。
小柄な女性が床に座り込み、分解された魔道具に囲まれていた。
「バルディ先生ですか?」
「そうよ。そこ押さえて」
「え?」
「その筒。転がるから」
言われるまま金属筒を押さえる。
ミレイユが工具を差し込み、力を込めた。
鈍い音とともに部品が外れる。
「よし。ありがと」
そこで初めてディーンを見る。
「で、誰?」
「ディーンです。ハルフェン先生から――」
「ああ、あなたね」
知っているらしい。
「何したいの?」
ディーンは説明した。
同じ魔法陣でも、魔力を入れる位置や、発動部までの経路を変えると結果に差が出る。
既存研究にも似た報告はある。
だが、それが魔法陣の構造だけに由来するのか、もっと広く魔力に関係するものなのかは分からない。
だから魔道具でも確かめたい。
『流向』という言葉は使わなかった。
まだ、その名前で説明していいものではない。
ミレイユは工具を弄りながら最後まで聞いた。
「なるほどね。それで?」
「魔力槽を使わせてもらえませんか?」
手が止まった。
「どうして?」
「人が魔力を入れると、毎回完全には揃わないからです。魔力槽なら、もっと同じ条件で入れられると思って」
「へえ」
ミレイユがようやく笑った。
「面白いじゃない」
「使っていいですか?」
「いいわよ」
「そんな簡単に?」
「駄目って言ってほしい?」
「いや、いいです」
「じゃあ決まり」
話が早い。
「記録は?」
「あります」
「全部持ってきて」
「三冊あります」
「三冊なら三冊」
「失敗したやつも?」
ミレイユが怪訝そうな顔をした。
「成功したやつだけ見て、何を調べるの?」
その言い方は違う。
だが、言っていることはハルフェンと同じだった。
*
魔力槽を使った実験は、予想以上に役立った。
人間は疲れる。
腹も減る。
集中も乱れる。
同じ量の魔力を入れたつもりでも、本当に同じだったのか分からない。
魔力槽なら、その差を小さくできる。
同じ魔法陣。
同じ供給量。
経路だけを変える。
繰り返す。
以前より結果のばらつきが減った。
それでも、経路を変えた時の差は残った。
「人間の調子だけが原因じゃない」
ディーンが記録を見る。
「そうねえ」
ミレイユは別のところを見ていた。
「先生?」
「ん?」
「何見てるんです?」
「ここ」
魔力槽と魔法陣を繋ぐ部分を指した。
「あなた、魔法陣の中ばっかり揃えてるでしょう」
「はい」
「でも魔力はここを通って入るのよ。こっちが違ったら、魔法陣の中だけ揃えても駄目じゃない?」
ディーンは接続部を見る。
魔力槽。
導線。
供給口。
その先に魔法陣。
「あ」
「でしょ?」
すぐ帳面を開く。
ミレイユが笑った。
「いい顔するわねえ」
「何がです?」
「自分の実験に穴が見つかったのに嬉しそう」
「調べるところ増えたので」
「変な子」
楽しそうに言われた。
*
結果を持ち帰ると、ハルフェンは一通り目を通した。
「悪くない」
最近分かってきた。
ハルフェンの「悪くない」は、かなり良い。
「じゃあ、魔法陣以外でも――」
「まだだ」
やっぱり早かった。
「魔道具と魔法陣は構造的に近い。これだけで魔術一般の性質とは言えん」
「次は人間ですね」
「そうなる」
今度はハルフェンに言われる前に、ディーンから尋ねた。
「詳しい人、紹介してください」
*
サフィア・リースは、ディーンも知っていた。
三十代後半の長耳族の女性。
一年目に受けた魔力学の講義を担当しており、専門は術者の魔力消費と詠唱過程。
声を荒らげることはほとんどない。
その代わり、曖昧な答えを曖昧なまま通してくれない。
「どうぞ」
研究室へ入ると、サフィアが書類から顔を上げた。
「ディーン君ですね」
「覚えてるんですか?」
「講義中にあれだけ質問されたら、忘れる方が難しいですよ」
笑っている。
ディーンは記録を見せた。
魔法陣で行った実験。
魔力槽を使って再検証した結果。
そして、次に知りたいこと。
サフィアは途中で口を挟まなかった。
全部聞いてから尋ねる。
「つまり、術者の身体の中でも、魔力が何らかの経路を取って移動していると考えているのですね?」
「はい」
「それは観察したことですか?」
「え?」
「魔力が身体の中を移動するところを見ました?」
「見てないです」
「では、今のところは事実ではありませんね」
声は柔らかい。
「仮説です」
「あ」
「調べる前から答えを決めてはいけません」
ディーンは言い直した。
「……魔術を使う時、術者の中で魔力がどうなっているのか調べたいです」
「それならいいでしょう」
「どうやって調べればいいです?」
「ディーン君は、どうするつもりでした?」
「魔術を使ってもらって、魔力をどこからどこへ動かしたか聞く」
「それはやめましょう」
「なんで?」
「質問の中に、もう『動かした』という答えが入っています」
ディーンは黙る。
「例えば、『魔術を使った時に身体のどこに何を感じましたか』と聞く。最初はこちらから、魔力が動くという言葉を与えない方がいいでしょう」
帳面に書く。
「なるほど」
「それから、同じ質問を複数の術者に行うこと。できれば熟練度や得意属性も記録しておきたいですね」
さらに書く。
「他には?」
「待ってください」
ペンが止まった。
サフィアが笑う。
「ディーン君は先へ進むのが速いですね」
「駄目ですか?」
「悪くありません。でも、研究では誰かが止める必要があります」
「ハルフェン先生にもよく止められます」
「でしょうね」
少し楽しそうだった。
「協力してくれます?」
「ええ。そのつもりで説明を聞いていました」
ディーンは頭を下げた。
「ありがとうございます」
今度は「借ります」とは言わなかった。
*
こうして、研究に関わる教員が三人になった。
エドガー・ハルフェン。
魔法陣。
ミレイユ・バルディ。
魔道具。
サフィア・リース。
魔力学。
三人になれば、研究は三倍速く進む。
少しだけ、そう思っていた。
実際には、実験を始めるまでが前より長くなった。
「比較条件が甘い」
ハルフェンが言う。
「待って。この測り方だと、魔力槽側の誤差と区別できないわよ」
ミレイユが止める。
「その質問では、被験者がこちらの仮説に引っ張られますね」
サフィアが修正する。
三人とも違うところを見る。
一つ直すと、別の穴が見つかる。
最初は面倒だった。
だが、三人の指摘を通った実験は、自分一人で考えたものより明らかに強かった。
ある日、三人から立て続けに修正を受けた後。
ディーンは赤字だらけになった実験計画を見た。
「……人増えると面倒ですね」
「じゃあ私帰る?」
ミレイユが立ち上がる。
「駄目です」
「どっちなのよ」
「面倒だけど、助かってます」
サフィアが小さく笑った。
「それなら、もう少し言い方を覚えましょうね」
「はい」
ハルフェンは顔も上げない。
「話が終わったなら直せ」
「はい」
ディーンは紙に向き直った。
不思議だった。
一人で調べていた頃より、思い通りにならない。
その代わり、自分一人では見えなかったものが次々と見つかる。
悪くなかった。
むしろ、かなり面白かった。
*
しばらくすると、大学内で声をかけられることが増えた。
「最近、魔道具研究棟にいるよな?」
「いる」
「ハルフェン先生のところにもいるだろ?」
「いる」
「リース先生とも何かやってるって聞いたぞ」
「やってる」
「何してるんだ?」
「研究」
「それは分かる」
研究の中身まで知っている学生はいなかった。
ディーンたちも話していない。
まだ、何を見つけたとも言えないからだ。
それでも、目立った。
特別生が長期間実験室を使っている。
魔法陣学のハルフェンが指導している。
そこへ魔道具研究のミレイユが加わった。
さらに魔力学のサフィアまで出入りしている。
複数分野の教員が、一人の学生の研究に関わっている。
それだけが広まった。
やがて、
「あの特別生、何かでかい研究してるらしい」
という話になった。
何を研究しているのかと聞けば、
「知らない」
と返ってくる。
中身の分からない噂だけが、少しずつ大学内を歩き始めた。
*
「ディーンさんですよね」
食堂で声をかけられた。
少年だった。
ディーンより少し年上に見える。
「そうだけど」
「研究、手伝わせてもらえませんか?」
「何の?」
「ディーンさんがやってるやつです」
「何やってるか知ってる?」
「知りません」
即答だった。
ディーンはパンを持ったまま相手を見る。
「知らないのに?」
「ハルフェン先生とバルディ先生とリース先生が一緒にやってるって聞きました」
「それだけ?」
「それだけです」
少年は笑った。
「でも、それだけで面白そうじゃないですか」
少し分かる。
ディーンだって、分からないものほど見たくなる。
「名前は?」
「ニコ・フェルナーです。魔力学科の二年です」
「何ができる?」
「水魔術は中級。他は初級です」
「他には?」
ニコは少し考えた。
「算術は得意です」
「どれくらい?」
「試験なら上の方です」
「実験は?」
「授業でなら」
ディーンは少し考えた。
「明日の放課後、空いてる?」
「はい」
「実験室来て」
「いいんですか?」
「まだ決めてない。何ができるか見てから」
「分かりました」
*
翌日。
ニコは実験室の隅で、一時間ほど実験を眺めていた。
学生が初級水魔術を使う。
発動までを測る。
記録する。
休ませる。
もう一度。
それを繰り返す。
「……思ってたより地味ですね」
「何すると思ってた?」
「もっと、見たことない魔術とか」
「ないよ」
「爆発とか」
離れたところで魔力槽を調整していたミレイユが振り返った。
「爆発させたいの?」
「いや、そういう意味じゃ――」
「壊していい装置ならあるわよ」
「ありません」
ディーンが止める。
「つまんないわね」
ニコが笑った。
それでも帰らなかった。
三日後。
「ディーンさん。この記録、ちょっといいですか?」
渡す。
しばらくして返ってきた紙には、何十回分もの結果が整理されていた。
「これ何?」
「平均です」
「それは分かる」
「こっちはばらつき。あと、この三回だけ他とかなり違います」
ディーンは紙を見る。
確かに違う。
今までなら、単に失敗として横へ置いていたかもしれない。
「なんで?」
「それを調べるんじゃないですか?」
ディーンは顔を上げた。
ニコも見返す。
「……残っていいよ」
「今ので決まったんですか?」
「俺より数字見るの上手い」
「先輩、算術の授業ちゃんと受けてます?」
「魔法陣と被って途中から取ってない」
「取った方がいいですよ」
「分かった」
「素直ですね」
必要なら学べばいい。
その日のうちに、次期の履修予定へ算術を加えた。
*
ニコが継続して実験へ参加するようになると、別の学生も顔を出すようになった。
噂を聞いた者。
ニコから聞いた者。
三人の教員が関わる研究を、一度見てみたい者。
最初は多かった。
一週間すると減った。
同じ魔術を何度も使う。
時間を測る。
記録する。
条件を変える。
また測る。
派手な新魔術は出てこない。
残ったのは数人だった。
ディーンは、その学生たちの得意なことを聞いた。
得意属性。
魔力量。
算術。
魔道具の扱い。
種族も違う。
それも研究には都合がよかった。
同じ人間で条件を揃えるだけではない。
違う術者でも同じ傾向が出るのか。
それ自体を調べられる。
少しずつ。
研究はディーン一人の帳面から、他人が参加できるものへ変わっていった。
*
ある日の夕方。
実験室には八人いた。
ディーン。
ニコ。
協力している学生たち。
ハルフェン。
サフィア。
奥ではミレイユが魔力槽を調整している。
学生の一人が初級水魔術を使った。
発動が終わってから、サフィアが尋ねる。
「今、身体に何を感じましたか?」
「胸の辺りから……腕の方に何か抜けていく感じがしました」
記録する。
次の学生。
「腹の奥が減る感じです」
次。
「杖に引っ張られるような感じがしました」
次。
「特には何も」
揃わない。
表現も違う。
それでも何人かは、身体のある場所から発動する場所へ何かが移るような感覚を口にした。
ディーンは記録を並べた。
「サフィア先生」
「はい」
「これ――」
「何が言えますか?」
先に聞かれた。
ディーンは記録を見直す。
「何人かは、魔力が移動したみたいに感じてる」
「はい」
「でも、本当に移動してるとは言えない」
「そうですね」
「じゃあ……調べる理由にはなる?」
サフィアが微笑んだ。
「十分です」
「それと」
ハルフェンが記録を一枚取った。
「術者がどういう指導を受けたかも確認しろ」
「なんで?」
「『手に魔力を流せ』と教えられた人間が、手へ流れると答えているだけかもしれん」
ディーンの手が止まる。
「あ」
「言葉による影響ですね」
サフィアが続けた。
「育った地域や指導者によって、魔力をどう表現するかも違うかもしれません」
また条件が増えた。
ディーンはすぐに書き留める。
以前なら、答えが遠ざかったように感じただろう。
今は違う。
間違った答えに近づく道が、一つ消えた。
それなら十分だった。
*
実験が終わった後。
ディーンは一人で帳面を開いた。
後ろの頁に、あの二文字がある。
『流向』
まだ、ハルフェン以外には見せていない。
今日の結果を足しても、存在すると言えるほどではない。
それでも、調べられる範囲は広がっている。
魔法陣。
魔道具。
術者。
そして、それを見る人間も増えた。
ハルフェンは、構造を見る。
ミレイユは、装置を見る。
サフィアは、人を見る。
ニコは、数字を見る。
同じものを前にしても、自分とは違うところを見る。
そのたびに、ディーン一人では思いつかなかった疑問が増えた。
一人で考えるより、分からないことが増えている。
なのに不思議と、前より進んでいる気がした。
翌日。
ディーンはハルフェンの研究室を訪ねた。
「先生」
「なんだ」
「魔物に詳しい人、知ってます?」
ハルフェンが書類から顔を上げる。
「何を調べたい」
「魔物です」
「それは分かる」
「詠唱もしない。魔法陣も使わない。それでも魔術を使う。人間と同じことをしてるのか、全然違うのか知りたい」
ハルフェンは少し考えた。
「一人いる」
「紹介してください」
「構わん」
「どんな人です?」
今度は返事までに少し間があった。
「歩ける靴を用意しておけ」
「靴?」
「あと、汚れてもいい服だ」
ディーンは目を瞬いた。
「研究室じゃないんですか?」
「行けば分かる」
それ以上は教えてくれなかった。
ディーンは研究室を出る。
廊下を歩きながら、少し笑った。
大学に来て一年。
知らないことは、減るどころか増えている。
それでも今は、その先へ一緒に行ってくれる人がいた。