研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
ディーンが初めて魔術を不思議だと思った日のことを、本人はずっと後まで覚えていた。もっとも、その日の朝に限って何か特別な出来事があったわけではない。
夏の盛りだった。朝から強い日差しが畑を照らし、村を横切る細い川では、ディーンを含めた子供たちが服を濡らして遊んでいた。竹をくり抜いて作った水鉄砲に川の水を吸わせ、誰が一番遠くまで飛ばせるかを競う。最初はそういう遊びだったはずが、いつの間にか互いを狙うようになり、最後には三人がかりで一人を川へ落とすだけの遊びになっていた。
「待て、ディーン!」
「嫌だね!」
背後から飛んできた水をしゃがんで避ける。そのまま川岸を駆け上がり、振り返りざまに竹筒を構えた。狙いは追ってきた少年の顔だった。押す。水は出なかった。
「あ」
空になっていた。次の瞬間、顔面に水を浴びた。
「ぶっ!」
笑い声が上がる。
「馬鹿! 入ってないのに出るわけないだろ!」
「うるせえ!」
ディーンは再び川へ飛び込んだ。竹筒を水へ沈め、棒を引く。中に水が入る。持ち上げると、先ほどより明らかに重い。それを友人へ向けて押し込めば、先端の穴から水が勢いよく飛び出した。当たり前のことだった。水を入れれば、水が出る。なくなれば出ない。そんなことについて考える子供はいない。ディーンも考えなかった。
昼過ぎまで遊び続けた結果、母親に言いつけられていた薪拾いを完全に忘れたことの方が、その時の彼にとってはよほど重大だった。家へ戻るころには服の裾に泥がこびりつき、膝には擦り傷ができていた。
「ディーン」
家の前で母が待っていた。怒っている。顔を見れば分かる。
「……ただいま」
「薪は?」
「今から行こうと思ってた」
「日が暮れるでしょう」
「まだ明るいよ」
「そういう話をしてるんじゃありません」
耳を引っ張られた。
「痛い痛い痛い!」
「まったく。着替えてきなさい。あと、その服は自分で洗うこと」
「はーい」
「返事だけはいいんだから」
解放された耳を押さえながら、ディーンは家へ入った。これもいつものことだった。母は怒るが、長くは怒らない。ディーンも反省するが、長くは続かない。
着替えを終えて戻ると、母は夕食の支度を始めていた。石造りの簡素な竈に鍋が置かれている。しかし、火はついていなかった。薪がないのだから当然だった。原因はディーンである。
「今日だけだからね」
母がため息をついた。竈の前へしゃがみ、右手を向ける。ディーンは何となくその様子を見ていた。母が小さく息を吸う。
「赤き熱よ、我が魔力に従い、ここに小さき火を灯せ――」
聞き慣れた詠唱だった。最後の言葉とともに、母の掌の先に赤い光が生まれた。小さな炎だった。揺れている。母がそれを竈へ移すと、炎はその場に留まり、鍋の底を舐め始めた。
ディーンはぼんやり眺めていた。別に初めて見るものではない。母は時々こうして魔術を使う。村にも使える者は何人かいるし、旅人がもっと大きな魔術を使っているところを見たこともある。魔術。魔力を使って、不思議なことを起こすもの。そういうものだと思っていた。だから、いつもならそのまま通り過ぎていた。
その日は、なぜか違った。
竈の炎を見ていた。赤い。揺れている。鍋が温まっていく。いつもの火と同じだった。だが――。
「母さん」
「なに?」
「それ、何が燃えてるの?」
母の手が止まった。
「何って?」
「火」
ディーンは竈を指した。
「何が燃えてるの?」
「魔術の火よ」
「それは分かってる」
「じゃあ何?」
ディーンは少し考えた。どう聞けばいいのか、自分でもよく分からなかった。
「薪を燃やしたら、薪が黒くなるだろ」
「なるわね」
「ずっと燃やしたら、なくなる」
「そうね」
「でも、それは?」
竈の中には何もない。正確には灰や煤は残っているが、今燃えているものは見当たらなかった。
「薪、入ってないよ」
「火魔術だからね」
「だから、何が燃えてるの?」
母は困ったような顔をした。
「魔力……じゃない?」
「魔力が燃えてるの?」
「たぶん」
「じゃあ魔力って燃えるの?」
「ディーン」
「なに?」
「お母さんは魔術師じゃないの。そんなこと聞かれても分かりません」
話は終わった。母は鍋へ野菜を放り込み始めた。ディーンはまだ竈を見ていた。魔力が燃えている。そういうものなのかもしれない。別におかしくはない。魔力なのだから。魔術なのだから。そういうことができるのだろう。しばらくするとディーンも興味を失った。夕食の匂いがしてきたからである。
その日の疑問は、それで終わった。少なくとも、その時は。
数日後、ディーンは畑の脇を歩いていた。別に手伝いをしていたわけではない。友人の家へ行く途中だった。夏の日差しが続き、土は乾いていた。畑では村の男が一人、作物へ水を撒いていた。大きな桶を運んでいるわけではない。男は畝の間に立ち、両手を前へ出していた。
ディーンは足を止めた。魔術だ。
「水よ集え、我が魔力に応じ、その姿をここに――」
男の前に水が現れた。最初は拳ほどだった。それが膨らみ、形を崩し、ざあっと畑へ落ちる。乾いた土が黒く変わった。男は少し場所を移動する。また詠唱する。水が現れる。土へ落ちる。
ディーンはそれを見ていた。火魔術とは違う。水は消えなかった。地面へ染み込んでいる。
「おじさん」
「ん?」
男が振り返った。
「その水、どこから持ってきたの?」
「持ってきてないぞ」
「じゃあどこから出したの?」
「魔術だよ」
「それは分かってる」
最近、同じ返事をした気がする。
「魔術で水を作ったんだ」
「魔力で?」
「そうだ」
ディーンは濡れた土を見る。しゃがんで触った。冷たい。指先に泥がついた。
「これ、魔力なの?」
「水だよ」
「でも魔力で作ったんだろ?」
「そうだな」
「じゃあ魔力が水になったの?」
男はしばらく考えた。
「そういうことなんじゃないか?」
「じゃあ火も?」
「火?」
「母さんが魔力で火を出してた」
「ああ。火魔術な」
「魔力は火にもなって、水にもなるの?」
「なるんじゃないか?」
「なんで?」
「なんでって……」
男が困った顔をした。ディーンは待った。
「魔術だからだよ」
結局、それだった。
ディーンは濡れた指を眺めた。男は再び仕事へ戻った。詠唱。水。地面が濡れる。何もなかったところから出てきた水が、そこに残っている。
ディーンは少しだけ考えた。朝、川で水鉄砲に水を入れる。入れた分だけ重くなる。撃てば減る。全部撃てば空になる。当然だ。水はどこかから持ってこなければならない。なのに、あれは違う。男は水を持っていなかった。それでも水が出た。魔力が水になった。そう考えればいいのかもしれない。でも、それなら火はどうなのだろう。魔力が火になった。水は残った。火は消えた。どうしてだろう。
そこで友人との約束を思い出した。
「あ、やべ」
ディーンは走り出した。その日の夕方には、また川で遊んでいた。だから、その程度の疑問だった。人生を変える啓示でもなければ、世界の真理を求める決意でもない。ただ、少し気になっただけだった。
だが数日後、母が再び火魔術を使ったとき、ディーンは詠唱を聞いていた。前とは違った。言葉を覚えようとしていた。
「赤き熱よ、我が魔力に従い、ここに小さき火を灯せ――」
母の手に炎が生まれる。ディーンは口の中で繰り返した。赤き熱よ。我が魔力に従い。ここに小さき火を灯せ。
夜。母が寝たあと、ディーンは家の裏へ出た。何度も聞いた言葉を思い出す。右手を前へ出した。
「赤き熱よ、我が魔力に従い、ここに小さき火を灯せ」
何も起きなかった。
「……あれ?」
もう一度。
「赤き熱よ、我が魔力に従い、ここに小さき火を灯せ」
何も起きない。
手の向きが悪いのかもしれない。母はもう少し指を伸ばしていた気がする。真似する。駄目だった。言葉を間違えたのかもしれない。もう一度。駄目。もう一度。駄目。
「なんでだよ」
腹が立った。魔術が使えないことより、目の前で母がやっていたことを自分で再現できないのが気に入らなかった。
翌日から、ディーンは母が魔術を使うたびに近くへ行くようになった。露骨に見れば追い払われるので、何でもないふりをした。言葉を聞く。手を見る。息を吸う場所を見る。炎が出る瞬間を見る。夜になれば試した。失敗した。また見る。また試した。
五日目。
「赤き熱よ、我が魔力に従い、ここに小さき火を灯せ――」
指先が温かくなった。
ディーンは息を止めた。小さな赤いものが浮かんでいた。火だった。蝋燭の炎よりも小さい。風に吹かれれば消えてしまいそうな、頼りない火。
「……出た」
胸の奥が跳ねた。
「出た!」
もう一度やった。今度は失敗した。
「なんでだよ!」
だが、もう一度。出た。笑った。またやった。少し大きくなった。もう一度。今度はどれだけ小さくできるか試した。次は長く残そうとした。次は手を横に向けた。次は詠唱を少し早くした。途中で言葉を止めたらどうなるのか試した。何度も失敗した。それでも面白かった。
できる。失敗する。少し変える。またできる。
それだけで、時間がいくらあっても足りなかった。
どれほど続けたのか分からない。そのうち、急に身体が重くなった。眠い。立っているのも面倒になり、その場に座り込んだ。まだやりたい。あと一回だけ。そう思って手を上げたが、ほとんど何も起きなかった。
ディーンは土の上に寝転がった。夜空が見えた。指先には、まだ少しだけ熱が残っている気がした。自分で魔術を使えた。それが嬉しかった。明日はもっと大きくしてみよう。水もやってみたい。あのおじさんの詠唱も、もう一度聞きに行こう。
それから、自分で火を出せるようになったのだから、確かめられることがある。
あの火は、本当に何かを燃やしているのだろうか。
考えている途中で、瞼が落ちた。
翌朝、家の裏で泥だらけになって眠っている息子を発見した母親が上げた怒鳴り声で、ディーンは目を覚ました。