研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
流向、密度、律動。
魔力を観察するための三つの言葉を作った翌日から、ディーンはさっそく新しい実験を始めた――わけではなかった。
最初にやったのは、これまでの記録をすべてひっくり返すことだった。
「多いですね」
床に積み上げられた帳面を見て、ニコが言った。
「まだある」
「聞かなきゃよかった」
積み上げられているのは、大学へ入ってからの実験記録だけではない。村にいた頃のものもあれば、冒険者として旅をしていた頃のものもある。魔物や魔道具、治癒魔術について書いたもの。自分で使った魔術も、他人が使うところを見ただけの魔術もある。失敗した実験や、その時には意味が分からず、とりあえず書き残しておいたものまで含めれば、数はさらに増えた。
当然、昔の帳面ほど記録は雑だった。
『水。昨日より強い』
『火。たぶん魔力多い』
『風。なんか違う』
今読み返しても、何がどう強かったのか、何と比べて違ったのかさえ分からない。
「これ、研究記録ですか?」
ニコが呆れたように一冊を持ち上げる。
「昔の俺に言って」
「本人でしょう」
使えないものは脇へ置き、条件や結果をある程度確認できる記録だけを抜き出していく。その横には、今のディーンが魔力を見るために使っている三つの項目を置いた。
どこを、どう通ったか。どれだけ集まっていたか。そして、時間の中でどう変化したか。
流向、密度、律動。
まずは、最も整理しやすい魔法陣から始めることにした。
*
魔法陣は、他の対象に比べれば格段に扱いやすかった。魔力の通る線が目に見え、必要なら構造そのものを変更できる。同じものを用意すれば、条件を揃えて何度でも実験を繰り返せる。
ハルフェンの研究室に保管されていた魔法陣の中から、ディーンたちはできるだけ構造や用途の異なるものを選んだ。初級の水魔術や火魔術、風や土の魔術だけでなく、用途の違う補助魔術も含める。発動の速いもの、遅いもの、安定しているもの、扱いに癖のあるもの。そうして集めた魔法陣を、一つずつ三要素に分けて記録していった。
もっとも、始めてみれば何もかもが綺麗に分類できるわけではなかった。
「これ、流向どっちです?」
ニコが一枚の魔法陣を指差した。供給口から伸びた線が途中で三つに分岐し、その先で再び一つへ合流している。
ディーンはしばらく眺めたが、どちらか一方に決めるだけの理由を見つけられなかった。
「……両方書く」
「分類になってませんよ」
「分からないのに一個にする方が駄目だろ」
結局、分からないものは分からないまま残した。密度についても事情は同じで、魔法陣の線幅からある程度の傾向を推測することはできても、それだけで実際の魔力密度を直接測定しているとは言えない。律動についても、魔力槽からどのように供給したかは記録できるが、魔法陣内部のあらゆる場所で起きている時間的変化まで把握できるわけではなかった。
三つの名前を付けたからといって、世界の側が都合よく三つに分かれてくれるわけではない。
それでも調べる数が増えていくにつれ、以前とは少し違った見え方が現れ始めた。
「これとこれ」
ディーンは二枚の魔法陣を抜き出して並べた。
見た目はかなり違う。一方は円を中心とした構造で、もう一方は細長く伸びており、線の配置も一見しただけでは共通しているようには見えない。ところが、描かれた形ではなく魔力の動きだけを追ってみると、よく似ていた。
どちらも供給口から入った魔力が二つに分かれ、発動部の直前で再び合流する。その合流部では局所的に密度が高まり、その直後に魔術が発動している。
「術式は違いますね」
ニコが二枚を見比べる。
「でも魔力の動きは似てる」
そして二つとも、水を勢いよく放出するための魔法陣だった。
もちろん、二枚だけなら偶然かもしれない。ディーンたちは似たものをさらに探し、三枚、四枚と比較する対象を増やしていった。完全に一致するものはなかったが、発動結果の似た魔法陣では、流向、密度、律動にも似た傾向が見つかることがあった。
逆の例もあった。見た目の構造がよく似ているにもかかわらず、発動結果が大きく異なる魔法陣を三要素に分けてみると、魔力が合流する位置やそこで生じる密度の変化、発動直前の律動に違いが見つかる。
ディーンは記録の端に、一つの問いを書き加えた。
『魔法陣の形そのものより、魔力がどのような状態を取るかを見る方が比較しやすい?』
最後の疑問符は、まだ消さなかった。
*
次に調べたのは魔道具だった。
「壊す?」
実験の話を聞いたミレイユが、最初に尋ねた。
「今回は壊しません」
「つまんないわね」
「なんでですか」
今回は同じ用途を持つ複数の魔道具を集め、内部で魔力がどう扱われているかを比較することにした。火を起こす道具、風を送る道具、水を出す道具。製作者も作られた年代も異なり、当然、内部構造も同じではない。
予想していたことではあったが、魔法陣よりはるかに厄介だった。魔力を通す部品そのものに固有の性質があり、途中には魔力を一時的に溜める部分もある。供給経路も、紙の上に描かれた線ほど単純ではなかった。
「これを三つだけで説明するのは無理ですよ」
内部を開いた魔道具を前に、ミレイユが言った。
「魔道具全部を説明するつもりはないです」
「じゃあ何を見るの?」
「発動する直前の魔力」
その答えを聞いて、ミレイユは少しだけ笑った。
「分かってきたじゃない」
ディーンが調べたいのは、魔道具そのものを三要素で説明できるかどうかではない。その複雑な構造の中で、魔力がどのように扱われ、発動する直前にどのような状態へ至るのかだった。
数週間、それからさらに数週間を使って、構造の異なる魔道具を調べた。当然、すべてが綺麗に揃うことはなかった。それでも、魔法陣で見つけたものと似た特徴が、魔道具の内部にも現れることがあった。
魔力の分岐と合流。局所的な集中。一定の供給。そして、発動直前に起こる急激な変化。
それらを確認したディーンは、以前より慎重に記録へ書いた。
『魔法陣と魔道具において、異なる構造でも類似した魔力状態が観察される場合がある』
横から覗き込んだニコが言った。
「弱い書き方ですね」
「強く書く理由ある?」
「ないです」
「じゃあこれでいい」
*
人間を対象にすると、さらに難しくなった。
身体の中を流れる魔力は見えず、その経路を直接測ることもできない。何より、無詠唱で魔力の扱いを細かく変えながら、同じ魔術を繰り返し発動できる術者がディーン以外にいなかった。
そのため、詠唱魔術を使う学生たちについては、これまでと同じように本人への聞き取りを中心に調べることになった。質問内容を作る役目はサフィアが引き受けた。ディーンに任せると、本人にそのつもりがなくても答えを誘導してしまうからだ。
「質問は『どう感じましたか』からです」
「分かってます」
「では、昨日の質問を読みますね」
「やめてください」
そのやり取りを聞いていたニコが笑う。
実際、集まった回答は曖昧だった。同じ火魔術を使っている者同士でも、『胸に集める』『腹から押し出す』『手の先が熱くなる』『何も感じない』と表現はばらばらで、詠唱をどう教えられてきたかによる影響も無視できない。
それでも同じ術者に何度も聞き取りを行うと、一人の人間は似た表現を繰り返すことが多かった。少なくとも、本人の中では何らかの一貫した感覚が存在している可能性はある。
ディーン自身については、さらに細かく条件を変えて試した。火、水、風、土。それぞれを同程度の出力で発動し、発現位置や速度を変え、広げたり絞ったりする。そのたびに、自分が魔力をどのように扱ったと感じたかを記録した。
自分の感覚そのものを証拠にはしない。ただし、次に何を調べるべきかを考える材料にはできる。
そうして実験を繰り返すうちに、ディーンは昔から抱えていた一つの疑問へ戻ってきた。
『火を出す時と、水を出す時。俺は何を変えている?』
掌の上に小さな火を作る。消して、今度は同程度の魔力で水球を作る。それも消すと、もう一度火を出し、次は水、風、土と続けた。何度も繰り返しながら、発動する魔術ではなく、自分がその直前に何をしているのかへ意識を向ける。
やはり違う。
だが、以前のように『なんか違う』としか表現できなかった頃とは違った。
火を作る時には、魔力を一度狭い範囲へまとめる感覚がある。水ではそれより広く、風では一か所へ留めるというよりも、動かし続けている感覚の方が強い。土になると、それともまた違う。
もちろん、これはディーン一人の感覚でしかない。それでも今なら、少なくとも違いを言葉にすることはできた。
昔の帳面を開くと、そこには以前考えた仮説が残っていた。
『属性によって魔力そのものが違う?』
ディーンはその横へ、新しい問いを書き加えた。
『同じ魔力を、違う状態にしている?』
そこで手が止まった。
もう一度、その一文を読む。
もしそうなら、魔力属性説が想定するように、火の魔力、水の魔力、風の魔力が最初から別々に存在している必要はない。そして、術式変換説がいう「術式による変換」についても、別の見方ができるかもしれない。
術式が魔力を別の何かへ変えているのではなく、魔力を特定の状態へ整えているのだとしたら。その状態を記述するためのものが、流向、密度、律動なのだとしたら――。
そこまで考えて、ディーンは筆を置いた。
まだ早い。
今ある結果から、そこまで言っていいとは思えなかった。
*
その日の夕方、ディーンは三人の教授とニコの前に、これまで整理した記録を並べた。リゼットは遠方へ調査に出ているため、この場にはいない。
最初に口を開いたのはハルフェンだった。
「結論は」
「まだないです」
「なら、何を見せたい」
ディーンはまず、魔法陣と魔道具を比較した記録を差し出した。
「構造が違っても、似た魔術では三つの状態に似たところがあります」
「すべてか?」
「違います」
「なら例外は」
「ここです」
ディーンは別にしておいた記録の束を差し出した。ハルフェンがそれを読み始める横で、ミレイユは魔道具の記録を取り、サフィアは術者への聞き取りに目を通す。しばらくの間、紙をめくる音だけが続いた。
やがて、ミレイユが最初に顔を上げた。
「これ、魔道具の分類にも使えるかもしれないわね」
「まだ分かりません」
「だから試すのよ」
一方、サフィアは術者への聞き取り記録の一か所を指した。
「術者については弱いですね」
「はい」
「ディーン君自身の感覚に依存しすぎています」
「そこは今のところどうにもならないです」
「なら、そのまま書いてください」
「はい」
最後まで黙って記録を読んでいたハルフェンが、ようやく帳面を閉じた。
「一つ足りない」
ディーンは思わず身を乗り出した。
「四つ目ですか?」
「違う」
ハルフェンは机の上に広げられた記録を指した。
「君は結果を見てから三つを調べている。火が出たから火の記録を見て、水が出たから水の記録を見る。そのやり方でも、起きたことを説明することはできる」
そう言って、記録の中から一枚の魔法陣を抜き取った。
「だが、それが使える考え方かどうかは別だ」
ディーンはすぐには答えなかった。ハルフェンが何を言おうとしているのか、まだ完全には掴めていない。
「……どうすればいいです?」
「逆にやれ」
「逆?」
「結果を見るな。魔力がどう動くかだけを見て、その先に何が起きるかを言ってみろ」
その言葉の意味を考えるように、部屋が静かになった。
先に理解したのはニコだった。
「当てるんですか?」
ハルフェンが頷く。
「当たるなら、少しは話が変わる」
ディーンは、ハルフェンが抜き取った魔法陣へ目を落とした。
これまでの研究では、いつも魔術が発動した後から考えていた。なぜこうなったのか。何が違ったのか。どこが同じだったのか。すでに起きた結果を前にして、その原因を流向、密度、律動という三つの観点から探していた。
だが、次は逆だった。
結果を知らない状態で流向、密度、律動を調べ、そこから何が起こるのかを予測する。
もし三つの要素が単なる後付けの分類ではなく、魔術の発動と本当に関係しているのなら、少なくとも何らかの予測ができるはずだった。
ディーンはしばらく魔法陣を見つめたあと、口元を緩めた。
「それ、面白そう」
ハルフェンはすでに次の資料へ視線を移していた。
「遊びではない」
「分かってます」
「顔が分かっていない」
隣でニコが小さく笑う。
ディーンは新しい頁を開き、一番上に書いた。
『発動前に、結果を予測する』
その下へ、『流向』『密度』『律動』と三つの言葉を並べる。
これまで三つの要素を使って、起きた現象を説明しようとしてきた。
次は、その順番を逆にする。
三つが本当に魔術を捉えるための物差しになっているのか。
ようやく、それを試せるところまで来ていた。