研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
「逆にやれ」
ハルフェンにそう言われてから、ディーンは三日をかけて実験方法を組み直した。
これまでは、まず魔術を発動させ、その結果と魔力の状態を比較していた。火が出たのなら、その時に魔力がどう動いていたのかを調べる。水が出たのなら、火の時と何が違っていたのかを調べる。そうして流向、密度、律動という三つの観点から結果を整理してきたが、それでは結局、すでに起きた現象を後から説明しているにすぎない。
本当に三つの要素で魔力の運動を記述できるというのなら、順序を逆にする必要がある。結果を知らない状態で先に魔力の状態を調べ、そこから何が起こるのかを予測する。
そのためにハルフェンが用意したのは、ディーンが一度も見たことのない五枚の魔法陣だった。いずれも他の研究室から借りてきたもので、何の魔術を発動するものなのかは伏せられている。
「術式の意味を読むな」
「読めませんよ。知らない形式が混じってます」
「なら好都合だ」
ディーンは一枚目の魔法陣を机に置き、魔力を流した。ただし、発動するところまでは供給しない。少量ずつ流して途中で止め、その時に起きた反応を記録していく。
見るのは、これまでと同じ三つだった。
流向、密度、律動。
もっとも、「見る」といっても魔力そのものが目に映るわけではない。少量ずつ魔力を送り、各部で生じる反応の変化を確かめながら、実際にどこを通り、どこへ集まり、その状態が時間の中でどう変化しているのかを推測していく。
『流向――中央へ収束後、二方向へ分岐』
『密度――発動部手前で上昇』
『律動――ほぼ一定』
そこまで書いたところで、ディーンの筆が止まった。
「で?」
横から帳面を覗き込んでいたニコが続きを促す。
「たぶん、狭い範囲に出る」
「何が?」
「分からない」
「火とか水とか」
「それが分からない」
結局、一枚目の予測には『属性――予測不能』と書いた。二枚目も同じだった。
三枚目では、発動までにやや時間がかかり、比較的広い範囲へ影響するのではないかと予測した。実際に発動させてみると、広がったのは風だった。範囲も発動までの時間も予測に近かったが、それが風であることまでは分からなかった。
「半分当たりですね」
「半分外れだ」
四枚目、五枚目と続けても、結果は似たようなものだった。発動までの速さや広がり方、一点へ集中するかどうか、供給量の変化に対して安定しているかといった性質は、以前より予測できるようになっている。
だが、火なのか、水なのか、風なのか、土なのか。その部分だけが、どうしても抜け落ちる。
ディーンは記録の端に一つの疑問を書き加えた。
『三つでは足りない?』
その一文は消さずに残した。
*
それから数か月、同じ実験を続けた。
使うのは他の研究室から借りた魔法陣で、ディーンがすでに知っている術式は除外する。発動結果を伏せたまま魔力を流して三要素を記録し、そこから結果を予測する。実際に発動させて答え合わせを行い、外れれば理由を探す。
予測、発動、比較、修正。それをひたすら繰り返した。
それでも最初のうちは、属性だけがどうしても当たらなかった。
「やっぱり、もう一つあるんじゃないですか」
ニコが言った。
「俺もそう思ってる」
「四つ目?」
「かもしれない」
ディーンは帳面を開き、『流向』『密度』『律動』の横に新しい空欄を作った。だが、そこへ何を書けばいいのかが分からない。
温度、属性、質、性質。思いついた言葉をいくつか書いてみたが、どれもしっくりこず、結局すべて消した。名前以前に、そもそも何を測ればいいのかさえ分かっていなかった。
そこでディーンは、一度実験を止めた。
「止めるの?」
ミレイユが意外そうに聞く。
「一回」
「珍しいわね」
「外れ方がおかしい」
ディーンはこれまで属性を外した魔法陣だけを抜き出し、机の上へ並べていった。その中に、記録上ではよく似た二枚があった。
どちらも中央へ収束し、そこで高密度となり、律動はほぼ一定。一方は水を発動し、もう一方は火を発動する。
「これ、本当に同じ?」
二枚の記録を見たミレイユが尋ねた。
「だから困ってる」
「違うわよ。聞いてるのはそこじゃない」
彼女は水の魔法陣を指先で叩いた。
「あなたが同じって書いたから、同じだと思ってない?」
ディーンは答えなかった。
もう一度、二枚の魔法陣へ魔力を流す。中央へ収束するという点では、確かに同じだった。密度も高く、律動にも目立った違いはない。
だが今度は一度に調べず、途中で魔力を止めた。供給量を落とし、少しだけ上げ、発動寸前まで流しては戻す。それを何度も繰り返して、経路の途中で起きている変化を細かく追っていく。
やがて、ディーンの手が止まった。
「……違う」
「どこ?」
ニコがすぐに寄ってくる。
「こっち」
ディーンは水の魔法陣を指した。
「中央に集まる前、一回広がってる」
「でも、線は――」
「線じゃない」
反射的に言葉が出た。
確かに、描かれた線は中央へ向かっている。だが実際に流れている魔力は、その線の中を最初から最後まで均一に進んでいるわけではなかった。分岐点の手前で一部が滞留し、周囲へ広がった後、再び集まりながら中央へ向かっている。
火の魔法陣には、その過程がない。
帳面を開けば、どちらにも『中央へ収束』としか書かれていなかった。
同じだと思っていたのではない。
同じになるように記録してしまっていた。
「同じじゃない」
その日の実験は、そこで終わった。
*
見直してみれば、問題は一つではなかった。
これまでディーンたちは、魔法陣に描かれた線と流向を近いものとして扱いすぎていた。線が右へ曲がれば、魔力も右へ曲がる。それ自体は大まかには正しい。しかし、実際の魔力の運動は、それほど単純ではなかった。
同じ一本の線の中にも、魔力が速く進む場所があれば、滞る場所もある。一度広がってから再び狭まることもあり、分岐したからといって二方向へ均等に流れるとも限らない。
ディーンは帳面を開き、流向の定義を書き直した。
『流向――魔力が実際に取る方向および経路』
魔法陣の線は、その流向を生み出すための条件の一つにすぎず、流向そのものではない。
密度についても同じだった。以前は線が細ければ密度が高くなると単純に考えていた時期があったが、同じ線幅でも供給方法や前後の経路によって、局所的な集中度は変化する。
『密度――実際にその場所へどれだけ魔力が集中しているか。線幅そのものではない』
律動も修正が必要だった。供給側から一定量を流しているからといって、魔法陣内部の魔力まで一定に変化しているとは限らない。内部の一部に魔力が一時的に蓄積し、それがまとめて次へ流れる構造なら、入口での供給が一定でも内部では周期的な変化が生じる。
『律動――魔力状態そのものの時間的変化。供給量の変化そのものではない』
三つとも、間違っていたわけではない。
ただ、見方が粗すぎた。
「じゃあ、今まで同じだと思ってたやつも、同じじゃないかもしれない?」
大量の記録を前に、ニコが恐る恐る尋ねた。
「全部見直す」
「全部?」
「全部」
ニコは何も言わず、天井を見上げた。
*
そこから、さらに時間がかかった。
以前なら『収束』の一語で済ませていた現象も、どこから収束が始まるのか、途中で一度広がるのか、何本の経路が合流するのか、その合流に偏りがあるのかまで分けて記録するようになった。
密度も一か所だけを測るのではなく、経路の各部でどう変化しているかを追う。律動についても発動までを一つのまとまりとして扱わず、その途中で起きる変化を記録した。
当然、記録用紙の量は急激に増えた。ニコは整理方法そのものを作り直し、ミレイユは細かな変化を確認しやすいよう測定用の魔力槽に手を加えた。サフィアには、術者側でも同じような違いを感覚として捉えられるかを調べてもらった。
ハルフェンだけは、増え続ける記録を見ても特に何も言わなかった。ただし、間違っているところを見つければ、そこだけは容赦なく赤で直した。
数週間後、ディーンたちは再び未知の魔法陣を使った予測実験へ戻った。
一枚目の魔法陣へ、ディーンは時間をかけて慎重に魔力を流した。以前よりも細かく各部の反応を確かめ、記録していく。
『流向――外周を循環後、三方向から中央へ収束。右経路のみ合流直前に一時滞留』
『密度――外周低。中央手前で急上昇。発動部で高密度維持』
『律動――前半一定。収束後、短周期で増減』
以前なら三行で済んでいた記録が、今では紙の半分近くを使っていた。
「結果は?」
ハルフェンに聞かれ、ディーンはすぐには答えず、過去の記録を探した。似た三要素を持つ実験を抜き出してみると、いずれも水だった。ただし、発動後の挙動には違いがあり、広がるものもあれば、細く飛ぶものもある。
その違いまで含めて記録を見比べる。
「水だと思います」
「他は」
「発動は少し遅い。出た直後はまとまってる。でも途中から広がる」
「量は?」
「そこまでは分かりません」
「書け」
ディーンは予測欄に、『水』『発動やや遅』『初期収束、後に拡散』と書いた。
魔法陣を発動させる。
現れた水は、最初こそ一本の太い塊となって前方へ伸びたが、少し進んだところで形を崩し、周囲へ広がった。
ニコが記録用紙と床にできた水溜まりを交互に見る。ディーンは何も言わず、次の魔法陣を手に取った。
二枚目は外した。風だと予測したが、実際に現れたのは土だった。
「なんで?」
結果を知った後でもう一度調べ、似た記録を並べて比較すると、一か所だけ密度の変化を取り違えていたことが分かった。測り直せば、確かに違っている。
三枚目は火。これは当たった。
四枚目は水。これも当たった。
五枚目は土。予測通りだった。
五枚すべてを終えたところで、ハルフェンが言った。
「もう一回」
*
一度当たっただけでは足りない。
魔法陣を替え、日を替え、魔力槽も替えた。可能な場合には、魔力を供給する者まで変えた。結果を伏せた状態で先に予測を書き、発動させてから比較する。外れれば原因を調べ、測定方法や分類を修正したうえで、また別の魔法陣を予測する。
完全ではなかった。細かな効果までは外れることがあり、複雑な魔法陣ほど最後まで読み切れない。治癒魔術については、そもそも三要素の何をどう測ればいいのか分からない部分が多く、魔物になればさらに難しかった。
それでも、少なくとも火、水、風、土の基本的な魔術については、以前とは明らかに違っていた。
三要素を細かく記録できた魔法陣ほど、発動結果の予測も当たりやすい。そして予測を外した場合でも、もう一度詳しく調べ直すと、最初の観察では捉えられていなかった流向、密度、律動の変化が見つかることが増えていた。
ある日、ニコがそれまでの結果をまとめた計算用紙を持ってきた。
「これ、偶然って言うの、そろそろ厳しくないですか」
ディーンは数字をしばらく眺めた。
「まだ増やしたい」
「そう言うと思いました」
さらに対象を増やした。
それでも、傾向は崩れなかった。
*
次に行ったのは、それまでとは逆の実験だった。
今度は既存の初級水魔法陣を使う。何が発動するのかは最初から分かっている。その状態から三要素を一つずつ意図的に変え、結果がどう変化するかを確かめる。
まず流向を変えると、水が出現する位置や広がり方が変わった。さらに大きく変えていくと、あるところを境に水そのものが発生しなくなり、魔力だけが散った。そこで元の流向へ戻せば、再び水が現れる。
密度を変えた場合には、単純に水量だけが増減するわけではなかった。発現の仕方そのものが変わり、局所的に密度を高めると、水はより細く、速く放たれた。
それを見たディーンは、昔、自分が感覚だけで使っていた水魔術を思い出した。水を細く絞り、速く撃ち出す。当時はただそうすればできると知っていただけだったが、今ならその時に自分が何を変えていたのかを、以前より少しだけ言葉にできる。
律動を変えれば、発動までにかかる時間や安定性が変化した。一定の周期で強弱を作れば、現れる水も断続的になり、さらに大きく崩せば発動そのものが起こらなくなる。
三つのどれを変えても結果は変化する。そして元の組み合わせへ戻せば、発動結果も元へ戻る。
ディーンは条件を変えながら、その実験を何度も繰り返した。
ある日、その途中でふと手が止まった。
帳面を見て、目の前の魔法陣を見る。それから、もう一度帳面へ視線を戻した。
「先生」
「なんだ」
「これ」
ハルフェンを呼び、二つの記録を並べて見せた。
対象となった魔法陣は、見た目にはまったく同じではない。描かれている線も違えば、構成そのものにも違いがある。しかし細かく測定した流向、密度、律動はかなり近かった。
二つを順番に発動させる。
現れた水も、ほとんど同じだった。
「もう一回」
条件を変えずに繰り返す。それでも結果は変わらない。
「魔法陣が違っても、魔力の動きが同じなら、結果も同じになる」
ディーンが言ったが、ハルフェンはまだ答えなかった。
「逆もある」
今度は別の記録を取り出す。こちらは見た目のよく似た二枚の魔法陣だったが、一部の流向が異なっており、発動結果にも違いが出ている。
ディーンは二組の記録を見比べた。
「魔法陣の形が魔術を決めてるんじゃない。魔法陣は、魔力をこう動かすためのものだ」
気づけば、声が少し速くなっていた。
そこでようやく、ハルフェンが口を開いた。
「まだ魔法陣でしか十分に示せていない」
ディーンは言葉を止めた。
「……はい」
「魔道具は?」
「途中です」
「術者は?」
「俺しか細かく調べられない」
「魔物は?」
「もっと難しい」
「なら、そこまでだ」
ディーンとしては、もう少し先まで言いたかった。
だが、帳面にはハルフェンに言われた範囲だけを書いた。
『魔法陣においては、形状そのものより、形成される魔力運動と発動結果の対応が強い』
そしてその下に、『魔道具でも同じ?』『術者でも?』『魔物でも?』と三つの問いを続けた。
*
その夜、研究室にはディーン一人だけが残っていた。
机の上には、何年分もの帳面が積まれている。火、水、風、土。詠唱と無詠唱。魔法陣、魔道具、魔物。昔のディーンにとって、それらはそれぞれ別々の疑問だった。
今は、少し違って見える。
新しい紙を一枚取り出し、その中央に『魔力』と書く。その下へ三本の線を伸ばし、『流向』『密度』『律動』と書き、そのさらに下に『魔術』と記した。
しばらく眺めてから、横に一つの問いを書き足す。
『術式は、魔力を別の何かに変えている?』
以前なら、そう考えていた。主流の術式変換説も、魔力が術式を通ることで火や水といった現象へ変換されると考える。
だが、今回の結果をそのまま受け取るなら、別の見方もできる。
異なる魔法陣でも、似た魔力運動を作れば似た結果が生じる。同じ魔法陣であっても、内部の魔力運動を変えれば結果が変化する。
ディーンは先ほどの一文に線を引き、その下へ新しく書いた。
『術式は、魔力を変えているんじゃない?』
少し考えてから、さらに続ける。
『魔力の動かし方を決めている?』
もちろん、まだ断定はできない。十分に示せているのは魔法陣についてだけで、魔道具や術者、魔物については証拠が足りていない。
それでも、以前よりはるかに確かめやすい問いになっていた。
ディーンは今日使った水の魔法陣へ目を向けた。
流向、密度、律動。この組み合わせを作れば、水が現れる。別の日でも、別の魔法陣でも、三要素を十分に再現できれば似た結果が出る。少なくとも、今までの実験ではそうだった。
紙へ一行書く。
『この動きなら、水になる』
そこで筆が止まった。
以前なら、その答えを見つけただけで満足していたかもしれない。
だが今は、その一行の下にもう一つ書いた。
『なんで?』
魔力が途中で水へ変わったようには見えない。観察できる限り、魔力は魔力として流れ、その流向、密度、律動を変化させている。それなのに、最後には水が存在している。
流向を変えれば結果が変わる。密度を変えても変わり、律動を変えても変わる。ならば、この三つが発動結果に関係している可能性は高い。
それでも、なぜ魔力をこのように動かすと水が現れるのか。
そこだけは、何も分かっていなかった。
ディーンはしばらく『なんで?』の一言を眺めたあと、その下に二行を書き加えた。
『今は、先に当てられる』
『でも、理由は分からない』
最後に、流向、密度、律動という三つの言葉をもう一度書いてから、ディーンは筆を置いた。
三つの物差しを手に入れたことで、以前より多くのものが見えるようになった。
そして、見える範囲が広がったからこそ、その先に残されている「分からないもの」の輪郭も、以前よりずっとはっきりしていた。