研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
発表の日が決まってから、ディーンは実験を禁止された。
正確には、ハルフェンに禁止された。
「あと一回だけ」
「駄目だ」
「確認するだけです」
「それを昨日も聞いた」
「昨日とは違う確認です」
「だから駄目だ」
魔力槽へ伸ばした手を叩かれ、ディーンは不満そうにハルフェンを見た。
「今から新しい結果を出して、原稿を書き直すつもりか」
「必要なら」
「必要にするな」
そこまで言われては仕方がない。ディーンは渋々手を引き、代わりに机の上へ積まれた発表用の原稿へ目を落とした。
流向、密度、律動。
その三つについてまとめた原稿は、すでに何度書き直したのか分からない。サフィアには断定が強すぎると言われ、ミレイユには魔道具について書きすぎだと削られた。ニコには数字の合っていない箇所を三つも見つけられ、ハルフェンに至っては最初から最後まで容赦なく赤を入れた。
「これ、俺の発表ですよね」
「だから直している」
「先生の文章になってません?」
「なっていない。私ならもっと短い」
ディーンはそれ以上聞くのをやめた。
*
発表の日。
用意された部屋へ入ったディーンは、扉をくぐったところで一度足を止めた。
思っていたより、人が多い。
前方には教授や研究者たちが並んでいる。魔法陣学、魔道具、属性魔術、魔力研究、治癒魔術。専門は様々で、中には顔も名前も知らない者がいた。人族だけではなく、長耳族や炭鉱族、獣族、小さな角を持つ魔族の姿まである。
後ろ半分を埋めているのは学生たちだった。特別生が複数の教授を巻き込み、何やら大きな研究をしているらしい。研究内容そのものより、そんな噂の方が先に広まっていたようだった。
ディーンは前列へ目を向ける。ハルフェン、サフィア、ミレイユ。少し離れたところにはジーナスが座り、後方にはニコもいる。
「多くないですか」
隣に立っていたハルフェンへ小声で尋ねた。
「そうだな」
「なんでこんなにいるんです?」
「呼んだからだ」
「先生が?」
「私だけではない」
言われて周囲を見ると、ミレイユがディーンの知らない研究者と話していた。サフィアの近くにも、見覚えのない研究者が二人座っている。
「聞かせる価値があると判断した。それだけだ」
そう言い残し、ハルフェンは自分の席へ向かった。
一人残されたディーンは、改めて部屋を見渡した。
魔物の前に立つより緊張する。
魔物なら、襲ってくるか逃げるかだ。少なくとも、何をしてくるのかはだいたい分かる。
教授は何をしてくるか分からない。
「それでは、始めてください」
進行役に促され、ディーンは小さく息を吸った。
原稿を机へ置き、前を向く。
*
「本日は、魔術発動時における魔力の運動について、これまで行ってきた実験の結果を報告します」
自分の声が、思っていたよりもよく響いた。
「魔術を使用すると魔力が消費されます。そのため従来から、魔術と魔力量の関係については多く調べられてきました。一般に、大規模な魔術ほど多くの魔力を必要とし、継続時間が長くなれば消費量も増加します。この点については、今回の実験でも同様の傾向を確認しています」
最初の資料を示す。ここまでは既存の知識と大きく変わらない。
「一方で、同程度の魔力量を使用した場合でも、発動する魔術は同一ではありません。火、水、風、土といった異なる現象が生じます。そこで本研究では、総魔力量以外に何が異なるのかを調べました」
次の資料へ移る。
そこには三つの言葉だけが書かれていた。
『流向』
『密度』
『律動』
後方の学生たちが一斉に筆を動かし始めた。
「実験の結果、魔力の状態を比較するために、三つの要素を仮定しました。一つ目を流向と呼びます。これは、魔力が実際に取る方向および経路を示すもので、途中で生じる分岐や合流も含みます」
次の項目を示す。
「二つ目が密度です。一定範囲において、どれだけ魔力が局所的に集中しているかを示します。これは、使用される総魔力量とは区別して扱います」
最後の一つ。
「三つ目を律動と呼びます。これは魔力状態の時間的変化を示すもので、一定状態の維持、増減、周期的変化、断続などを含みます」
一度、聴講者の方を見る。
ここまでは静かだった。学生たちは三つの定義を書き写し、前列の研究者たちも資料へ目を通している。
ディーンは次の資料へ進んだ。
「当初、この三要素によって説明できるのは、発動速度や効果範囲、安定性など、魔術の一部の性質に限られると考えていました。しかし、その後に行った予測実験によって、この考えを見直す必要が生じました」
未知の魔法陣を用いた実験方法を示す。
「予測実験では、私が術式を知らない魔法陣を用意し、発動結果を伏せた状態で少量の魔力を供給しました。発動に至る前に供給を停止し、流向、密度、律動を記録した上で、発動する魔術を予測します。その後、実際に発動させ、予測との比較を行いました」
最初の実験結果を示す。
「当初の測定方法では、発動速度、効果範囲、集中や拡散といった性質についてはある程度予測できましたが、属性については予測できませんでした」
後方で小さな話し声がした。学生の一人が隣へ顔を寄せ、何かを囁いている。
ディーンはそちらへ目を向けず、そのまま説明を続けた。
「この結果から、当初は三要素以外の要因が存在する可能性を考えました。しかし、新たな要素を追加する前に、既存の三要素を正しく測定できているかを再検討しました」
次に示したのは、水と火を発動する二枚の魔法陣だった。
「この二つは、当初の記録では類似した魔力運動を持つものとして分類していました。いずれも魔力が中央へ収束し、中央付近で高密度となり、律動もほぼ一定であると記録しています」
続いて、再測定した記録を示す。
「しかし、測定を細分化すると、実際の魔力運動には差がありました。一方では中央へ収束する前に一時的な拡散が生じ、もう一方では一部の経路に滞留が確認されました。また、合流時の魔力分布にも差があります」
前列の何人かが、二枚の資料を見比べ始めた。
「原因は、魔法陣に描かれた線と実際の流向を近いものとして扱いすぎていたことにあります。線が同じ方向へ伸びていても、その内部で魔力が均一に流れるとは限りません。同様に、線幅をそのまま密度の指標とすることも、供給側の魔力量が一定であることをもって律動が一定であると判断することも適切ではありませんでした」
ディーンは少し間を置いた。
「つまり、最初の予測実験で属性を予測できなかった原因について、三要素の不足を結論することはできませんでした。問題となったのは、まず三要素そのものの測定精度でした」
そこから、測定方法を見直した後の予測実験へ進んだ。
未知の魔法陣へ魔力を流し、経路の各部で流向、密度、律動を細かく記録する。過去の実験結果と比較し、発動する魔術を予測してから、実際に発動させる。
成功した結果だけではなく、予測を外した記録も示した。
「予測を外した場合には、その原因を再検討しました。その結果、初回の測定では捉えられていなかった流向、密度、律動の変化が、再測定によって確認される例が複数ありました」
資料を進める。
発動位置。
集中と拡散。
発動速度。
安定性。
そして、属性。
「測定方法を細分化した後、少なくとも今回対象とした基本四属性の魔術については、三要素を十分に記録できた場合、発動前に属性を含む発動結果を予測できる例が確認されました」
その瞬間、前列の空気が変わった。
声が上がったわけではない。
それまで聞こえていた紙をめくる音が、いくつか同時に止まった。
魔道具を専門とする研究者が顔を上げ、その隣に座っていた属性魔術の教授は、一度読んだ資料へ再び目を落とした。サフィアは組んでいた指をほどき、机の上の記録へ手を置いている。ミレイユも、いつものような楽しそうな笑みを浮かべてはいなかった。何かを頭の中で組み直している時の顔だった。
ハルフェンだけは変わらない。
ただ、ディーンには一つだけ気づいたことがあった。
先ほどから、赤ペンが一度も動いていない。
後方の学生たちの反応は、研究者たちとは少し違っていた。まだ三つの定義を書き写している者もいれば、途中で完全に筆を止めている者もいる。何人かは資料を何度も前後させ、隣同士で小声を交わしていた。
「これ、火の魔法陣を見なくても、火だって分かったってことか?」
「魔法陣じゃなくて、中の魔力を見たんだろ」
「同じじゃないのか?」
「たぶん、それが違うって話だ」
断片的な声が聞こえてくる。
ディーンは発表を止めなかった。
*
「続いて、予測とは逆方向からの検証を行いました」
示したのは、既存の初級水魔法陣だった。
「この実験では、同一の魔法陣を使用したまま、内部に形成される三要素の一部を意図的に変化させています」
流向を変えると、発動位置や水の広がり方が変化する。元へ戻せば、発動結果も元へ戻る。密度を変えた場合には、水の量だけではなく、形成の仕方や速度にも変化が生じた。律動についても同様に、発動までの時間や安定性に差が現れた。
「変化が一定範囲に収まる場合には、水という属性を維持したまま形状や速度、発動様式が変化しました。一方、三要素をさらに大きく変化させた場合には、正常に発動しなくなる例も確認されています」
続いて、形状の異なる二枚の魔法陣を示した。
「また、異なる形状の魔法陣であっても、内部に形成される流向、密度、律動が近い場合には、発動結果も近くなる例が確認されました」
今度は、はっきりと部屋が静かになった。
ディーンは一瞬だけ不安になったが、前列を見ると、研究者たちの視線は自分ではなく資料へ向けられていた。一人は二枚の魔法陣を指で交互に追い、別の研究者は自分の帳面へ何かを書き込んでいる。長耳族の教授は、筆を止めたまま二つの図を見比べていた。
ミレイユが小さく息を吐き、サフィアがその横へ視線を向ける。少し後ろの席にいるジーナスだけが、資料ではなくディーンを見ていた。
その沈黙の意味を、ディーンはまだ完全には理解できなかった。
予定していた結論へ進む。
「以上の結果から、本研究では、魔術発動過程における魔力の運動を、流向、密度、律動という三つの要素によって記述できると考えます」
原稿へ一度目を落とす。
ここは何度も書き直した。
「また、少なくとも今回確認した基本四属性を中心とする範囲では、この三要素によって記述される魔力運動と発動現象との間に、再現可能な対応が認められました」
そこで一度、言葉を切った。
「本研究では、この考えを『魔力運動三要素説』と呼称します」
最後の資料に、題が示される。
『魔力運動三要素説』
発表を終え、ディーンは一礼した。
*
質疑に移っても、すぐには手が上がらなかった。
ディーンは前に立ったまま待った。
沈黙が思ったより長い。
発表の途中から妙に静かだったこともあり、何か大きな間違いでもあったのではないかという不安が少しずつ膨らみ始めたところで、ようやく前列の一人が手を上げた。
属性魔術を研究している壮年の教授だった。
「確認したい。今回の結果から、火魔術と水魔術の違いは、魔力そのものに存在する属性の差ではなく、魔力運動の差によって生じると考えているのですか」
「現時点では、そう考えた方が今回の実験結果とは整合します。ただし、魔力そのものに属性差が存在しないことを直接確認したわけではありません」
教授の表情がわずかに変わった。
「同一の魔力を用いているのですね?」
「はい。少なくとも魔法陣を用いた実験では、同じ供給源からの魔力を使用しています」
「では、術者による属性適性の差をどう説明しますか」
「現時点では説明できません。特定の魔力運動を形成しやすい、あるいは維持しやすいといった差である可能性は考えていますが、今回の研究では検証していません」
教授はしばらく資料を見た後、それ以上は問わずに座った。
次に手を挙げたのは、魔道具を研究している者だった。
「この三要素は、魔道具についても成立すると考えていますか」
ミレイユがわずかにディーンへ視線を向ける。
「一部では類似した傾向を確認しています。ただし、魔道具は内部構造が複雑で、魔法陣と同程度の精度では測定できていません。そのため、現時点で魔道具全般へ一般化することはできません」
「つまり、魔道具については未確認に近いと?」
「魔力供給の時間的変化や局所的な集中と発動結果との関係については確認しています。ただし、三要素すべてについて魔法陣と同じ対応が成立するとまでは言えません」
研究者は一度頷いた。
「ならば、一般化はまだ早い」
「はい。その通りです」
その返答に、後方から小さな笑いが起こった。ミレイユも口元を緩めている。
次に手を挙げたのは長耳族の教授だった。
「三要素について確認したい。流向、密度、律動は、それぞれ独立した要素だと考えていますか」
ディーンは少し考えてから答えた。
「完全に独立しているとは考えていません」
「例えば、密度を変化させるために流向を変更すれば、二つの要素が同時に変化する可能性がありますね」
「あります」
「律動の変化によって、局所的な密度が変化する可能性も?」
「あります」
「ならば、この三つは独立した要素ではなく、一つの複雑な魔力状態を便宜上三つに分けているだけではありませんか」
ディーンはすぐには答えなかった。
その可能性は、自分でも否定できない。
「その可能性はあります。現時点では、三要素が互いに独立した性質であることを証明できていません」
「では、なぜ三つに分けるのです?」
今度の問いには、答えがあった。
「分けることで、実験が可能になるからです」
教授がわずかに眉を上げる。
「一つの『魔力状態』として扱った場合、二つの魔術の何が異なるのかを比較することができません。流向、密度、律動に分けることで、どの部分を変化させた時に、発動結果のどこが変化したのかを比較できます。少なくとも現段階では、現象を調べるための分類として有効だと考えています」
長耳族の教授はしばらくディーンを見ていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「なるほど」
*
質問はその後も続いた。
治癒魔術でも成立するのかと問われれば、現時点では確認できていないと答えた。召喚魔術については実験そのものを行っていない。魔物については観察例があるものの、十分な測定ができていない。上級以上の複雑な魔術については部分的な予測が可能な例もあったが、基本魔術ほどの精度には達していない。
同じ三要素を完全に再現できたとどう証明するのかと問われれば、現在の測定方法では完全な一致を証明することはできないと答えた。三要素以外の要因を見落としている可能性についても、否定できないとした。
分からないことは、分からない。
調べていないことは、調べていない。
発表前にサフィアとハルフェンから何度も言われたことだった。推測できることと、実験で示したことを混ぜない。
そのため、答えられない質問は多かった。
それでも質問は減らなかった。
むしろ、一つ答えるたびに別の手が上がった。
やがて、前列の端に座っていた年老いた教授が静かに手を上げた。それまで一度も質問していなかった人物だった。
「一つ、確認させてください」
「はい」
「あなたの資料では、特定の魔力運動を形成した場合、水魔術が発動するとあります」
「はい。今回の実験では、その対応を複数回確認しています」
「同じ条件で繰り返した場合も?」
「確認した範囲では再現しています」
「異なる魔法陣を使用した場合も?」
「同程度の魔力運動を形成できたものでは、近い発動結果を確認しています」
老人は小さく頷き、資料を閉じた。
「では、なぜですか?」
ディーンは一瞬、質問の意味を掴めなかった。
「何が、でしょうか」
「なぜ、その魔力運動によって水が生じるのですか?」
部屋が静かになった。
ディーンは答えようとして、言葉を止めた。
流向。
密度。
律動。
この組み合わせなら水が現れる。それは何度も実験した。結果を知らない状態から予測し、実際に水が発動することも確認した。
老人は続ける。
「流向がこの状態にあり、密度がこのように分布し、律動がこのように変化する。その結果として水が現れる。そこまでについては、今回の発表から理解できます」
老人は資料の一部を指で押さえた。
「私が聞きたいのは、その先です。なぜ魔力がそのように運動すると、それまで存在していなかった水が現れるのでしょうか」
答えは出なかった。
後方の学生たちも静かになっている。何人かは質問の意味そのものを掴めていないようだったが、別の何人かは資料と魔法陣を交互に見ていた。
何もなかった場所から水が現れる。
魔術を知る者にとっては、あまりにも当たり前の現象だった。
ディーンにも覚えがある。
ずっと昔、同じことを考えた。
薪が燃えるなら、そこには燃える木がある。では、魔術で現れる火は何を燃やしているのか。
水鉄砲なら、水を入れなければ水は出ない。では、魔術で現れる水はどこから来るのか。
忘れていたわけではない。
ただ、調べられることが増え、目の前の問いを追い続けるうちに、最初の疑問を少し遠くへ置いていた。
三要素が分かれば、その疑問へ近づけると思っていた。
実際、近づいた。
だが、そこまでだった。
「……今回の研究では、そこまでは分かりません」
ディーンは答えた。
老人は何も言わず、続きを待っている。
「今回確認したのは、どのような魔力運動を形成した場合に、どのような魔術が発動するのかという対応です。そのため、どのように魔力を動かせば水が発動するかについては、以前より説明できるようになりました」
一度、自分の資料を見る。
「しかし、なぜその魔力運動によって水という現象が生じるのかについては、説明できていません」
老人はわずかに笑った。
「分かりました」
それだけ言って、静かに座った。
*
発表が終わった後も、人々はすぐには帰らなかった。
教授や研究者たちは資料を手にしたまま、小さな集まりを作って話している。発表前より声は低く、誰かが話せば別の誰かが資料を開き、図を指しながら何かを確かめていた。
「もし魔法陣の形状ではなく、内部に形成される運動の方が重要なら……」
「既存の術式から逆解析できる可能性がある」
「まだ基本四属性だ。そこまで言うのは早い」
「だから別の系統で試す必要がある」
「治癒で同じ対応が出るなら話が変わる」
「魔道具の設計にも使えるかもしれない」
そんな声が断片的に聞こえてくる中、ディーンは発表に使った資料をまとめていた。
そこへサフィアが近づいてきた。
「お疲れさまでした」
「どうでした?」
「良かったですよ」
「質問、ほとんど答えられてないです」
「十分答えていました」
「分からないって何回も言いました」
「それも答えです。分からないことを分かったように答えるより、ずっといいでしょう」
少し遅れて、ミレイユもやってきた。
「私、帰ったら試したいことがある」
「何です?」
「教えない」
「なんで?」
「自分の研究だから」
「見たい」
「嫌よ」
その後ろからニコが顔を出した。
「ディーンさん」
「ん?」
「後ろ、面白かったですよ」
「何が?」
「半分くらい、途中から完全に置いていかれてました」
「え」
ディーンが学生たちの方を見ると、何人かはまだ資料を囲んで話していた。
「あの三つ、結局なんだったんだ?」
「魔法陣の種類じゃないの?」
「違うだろ。魔力の……なんかだろ」
「なんかって何だよ」
一方、少し離れたところでは、一人の学生が紙に二つの魔法陣を描いている。
「つまりさ、こっちとこっち、見た目は違うだろ」
「うん」
「でも、中で魔力が同じように動いたら、同じ魔術になるって話じゃないの?」
「……たぶん」
「じゃあ、今まで魔法陣の形を覚えてたのって」
「いや、それは必要だろ」
「そうじゃなくて。形には理由があるってことだよ」
そこで二人とも黙った。
「……これ、結構すごくない?」
「たぶん」
それ以上は、まだ分かっていないようだった。
でも、それで十分だった。
*
最後にハルフェンがやってきた。
「先生」
「なんだ」
「どうでした?」
「穴だらけだ」
「やっぱり」
「当然だ。魔法陣以外の証拠が弱い。術者については君一人に依存している。魔物は観察数が足りん。治癒と召喚はほぼ手付かず。測定精度にも問題がある。三要素が完全である証明もない」
次から次へと出てくる。
ディーンは途中から数えるのをやめた。
「でも」
珍しく、ハルフェンがそこで言葉を切った。
ディーンが顔を上げる。
「続けろ」
それだけだった。
ハルフェンはすでに別の資料へ目を落としている。
だが、ディーンにはそれで十分だった。
*
数日後、研究室へ行くと、ディーンの机に見慣れない紙の束が置かれていた。
どれも他の研究室から届いたものだった。
別の魔法陣を使って三要素を調べた記録。魔道具へ応用できないかという問い合わせ。治癒魔術でも同じ測定を行いたいという申し出。その一方で、三要素説そのものへの反論や測定方法への批判、過去の研究との類似を指摘するものまで混じっている。
「増えた」
ディーンが言った。
横からニコが紙の束を覗き込む。
「何がです?」
「調べること」
「嬉しそうですね」
「嬉しい」
自分たちだけでは思いつかなかった問いがある。自分たちには扱えない魔術を研究している者もいる。間違っているという指摘も届いている。
それなら、それも調べればいい。
一枚ずつ内容を確認しながら分けていると、知らない研究者から届いた記録の一つに目が止まった。
冒頭に、こう書かれている。
『ディーンらの提唱する魔力運動三要素説に基づき――』
ディーンの手が止まった。
もう一度読む。
「ニコ」
「はい」
「名前、使われてる」
「発表しましたからね」
「勝手に?」
「そういうものでしょう」
妙な感じがした。
少し前まで、自分の帳面の中にしか存在しなかった言葉だった。
流向。
密度。
律動。
それを今は、名前も知らない研究者が使って魔力を調べている。
ディーンは自分の帳面を開いた。
『魔力運動三要素説』
その下へ、これまでの研究から言える範囲を考えながら、改めて定義を書き直す。
『魔術発動過程における魔力運動は、空間的経路を規定する流向、局所的集中度を規定する密度、時間的変化を規定する律動の三要素によって記述できる。』
少し考えてから、
『現時点では、基本四属性を中心に確認』
と付け加える。
さらにその下へ、
『魔力運動と発動現象には、再現可能な対応がある』
と記した。
今の研究から書けるのは、そこまでだった。
次に書くべきことは、すでに決まっている。
発表の最後に、あの老教授から投げかけられた問いだった。
『なぜ、その魔力運動で、その現象になる?』
ディーンはしばらくその一文を眺めた。
答えはない。
それでも、以前とは違う。
昔は、魔術で生み出される水がどこから来るのかさえ分からなかった。
今は、どのように魔力を動かせば水が現れるのか、その一部なら記述できる。再現することも、条件が整えば発動前に予測することもできる。
だからこそ、次の問いを切り離せる。
どうすれば水が出るのか。
それと、
なぜ、それで水が出るのか。
似ているようで、同じ問いではなかった。
ディーンは後者を囲んだ。
『なぜ、その魔力運動で、その現象になる?』
答えは、まだない。
だから消さなかった。