研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
発表から一か月もしないうちに、ディーンの机には自分で書いた覚えのない三要素の記録が積み上がり始めた。
最初はラノア魔法大学の中だけだった。魔法陣を研究する者が自分の術式を流向・密度・律動に分けて記録し、魔道具の研究室からは内部を通過する魔力を同じ方法で測った結果が届く。やがて他の研究機関へ発表の写しが渡ると、知らない名前の研究者からも記録や質問が送られてきた。
もちろん、好意的なものばかりではない。
『流向と呼称しているものは、従来の魔力経路と何が異なるのか』
『密度は単なる魔力量の局所的偏在ではないか』
『律動を独立して扱う必要性が不明』
『三要素以外の変数が存在しないことを証明できていない』
最後の一文には、ディーンも同意した。
だから捨てずに保管した。
「反論だけ別にまとめてるんですか?」
ニコが棚を見ながら聞いた。
「うん」
「普通、嫌じゃないですか」
「なんで?」
「自分の研究に、ここがおかしい、あそこがおかしいって書いてあるんですよ」
「だからいるんだろ」
ディーンにはむしろ、賛成だけが送られてくる方が困る。自分たちで見つけられなかった穴を、知らない誰かが勝手に探して送ってくれる。しかも金を払う必要もない。
ニコはしばらく考えてから、「そういう考え方なんですね」と言って、反論の束を日付順に並べ始めた。
発表以前との最大の違いは、ディーン自身が実験しなくても記録が増えるようになったことだった。
それは単に楽になったという意味ではない。
むしろ逆だった。
他人が試すと、ディーンたちが無意識に揃えていた条件が揃わない。
使う魔法陣が違う。術者が違う。魔力槽の構造が違う。測定方法も違えば、何を「同じ」と判断するかさえ違う。そのたびに結果が食い違い、手紙が飛んできた。
最初の半年だけで、三要素説が間違っているのではないかと思わせる結果が何度も届いた。
ある研究室では、ほぼ同じ流向・密度・律動として記録された二つの術式から、異なる魔術が発動した。
報告書を読んだディーンは、その日のうちにハルフェンのところへ持っていった。
「先生」
「読んだ」
「早いですね」
「私にも届いている」
二人で記録を広げた。
一方は水。もう一方は風。
記録上の三要素は、確かによく似ていた。
以前なら、ディーンはすぐに実験室へ向かっただろう。だが発表以来、最初に記録そのものを疑う癖がついていた。
測定箇所。回数。魔力供給量。術式の構造。
順に追っていく。
「ここ」
ディーンが指を止めた。
発動部直前の流向が一括して『収束』と記録されている。
「粗いな」
ハルフェンも同じ場所を見ていた。
問い合わせると、返事が来るまで十日かかった。追加記録を求め、さらに二週間。向こうの研究者も興味を持ったらしく、最終的には最初の三倍近い資料が送られてきた。
詳細に見ると、同じではなかった。
水の方では発動直前に複数の経路がほぼ同時に合流している。風の方では、一部がわずかに遅れて流入していた。密度の分布にも小さな差があり、時間を細かく区切ると律動も一致していない。
『三要素以外の差を確認できず』
と書かれていた報告書の横に、ディーンは、
『三要素を十分に測れていなかった』
と書いた。
それで終わりにはしなかった。
似た報告を集めた。
その後も「同じなのに違う」という記録は何度か現れたが、調べ直すたびに、見落としていた流向か、局所的な密度差か、短時間の律動変化が見つかった。
それでもディーンは、三要素以外は存在しない、と書かなかった。
見つかっていないことと、存在しないことは違う。
それはラノアへ来てから何度も教えられたことだった。
*
十六歳になった頃には、三要素という言葉は大学の中でそれほど珍しいものではなくなっていた。
全員が受け入れたわけではない。そもそも興味のない教授もいるし、「便利な分類法ではあるが、理論と呼ぶには早い」と考える者もいる。それでも魔力の挙動を扱う研究では、比較のために三要素を併記する論文が少しずつ現れた。
ディーンにとって重要だったのは、名前が広まることではなかった。
他人が使えることだった。
自分にしか分からない感覚なら、研究として弱い。
自分がいなくても測れる。
自分が知らない魔術でも記録できる。
そして、記録が十分なら結果を予測できる。
そこまで来て初めて、幼い頃から抱えていた疑問の一つに、少しだけ答えられるようになった。
火と水を使う時、自分は何を変えているのか。
魔力そのものを火や水へ変えているのではない。
少なくとも、そう考える必要はなかった。
「術式って、何なんでしょうね」
ある日、ディーンはハルフェンの研究室でそう言った。
机には三種類の魔法陣が並んでいる。形も、描き方も、成立した地域も違う。それでも細かく測定すると、発動直前に形成される魔力運動は驚くほど近く、出現する水にも大きな差がなかった。
ハルフェンは書類から顔を上げなかった。
「何を今さら」
「いや、今までの意味じゃなくて」
ディーンは一枚を持ち上げた。
「大学では、術式が魔力を変換して属性魔術にするって習いましたよね」
「術式変換説だな」
「でも、こいつら、術式は全然違う」
紙を並べる。
「それなのに最後の魔力の動きは似てて、出るものも同じです」
ハルフェンがようやく顔を上げた。
ディーンは考えながら続ける。
「だったら、術式そのものが水を作ってるんじゃなくて……」
言葉を探した。
「水が出る動きに、魔力を持っていくためのもの?」
ハルフェンはすぐには答えなかった。
「仮説として書け」
「先生はどう思います?」
「私がどう思うかで決めるな」
「参考にはします」
「なら、面白いとは思う」
珍しい答えだった。
ディーンが顔を上げると、ハルフェンはもう別の資料を読んでいる。
「ただし魔法陣だけで術式全体を語るな。詠唱、無詠唱、魔道具、魔物。君自身が広げた話だろう」
「はい」
「全部で確かめろ」
やることが増えた。
だが、その頃には一人で抱える必要はなくなっていた。
*
ミレイユの研究室では、同じ発動結果を持つ魔道具を分解し、内部の構造ではなく魔力の運動を比較した。
「これ作った奴、絶対性格悪いわ」
机いっぱいに広がった部品を前に、ミレイユが言った。
「なんで?」
「ここ。普通なら真っすぐ通すでしょ。わざわざ一周させてる」
「でも、そのおかげで律動が揃ってる」
「そうなのよ。腹立つくらい上手い」
古い魔道具の製作者が三要素など知るはずもない。それでも経験の積み重ねから、安定して同じ魔術を発動する構造へ辿り着いている。
サフィアのところでは、術者を調べた。
詠唱魔術では、言葉を変えると発動しなくなる場合がある。しかし、単に言葉そのものが魔力へ作用していると考えるだけでは説明しにくい例もあった。同じ詠唱でも熟練者と初心者では途中の魔力状態が異なり、逆に異なる言語圏で成立した術式が、発動直前にはよく似た運動へ収束することもあった。
「言葉そのものより、言葉によって術者が何をしているかを見る必要がありますね」
サフィアはそう言った。
ディーンは自分の無詠唱と比べた。
自分は言葉を使わない。
それでも魔術は成立する。
詠唱を覚えるより前から、火を出そうとして何度も失敗し、感覚だけで魔力の動かし方を覚えた。
なら詠唱は、魔術に絶対必要なものではない。
魔法陣も同じだ。
魔道具も同じ。
形も方法も違うのに、結果が同じなら、その直前に形成される魔力運動も同じになる。
ディーンの帳面では、以前の図が少しずつ書き換えられていった。
『魔力 → 術式 → 属性魔術 → 現象』
大学へ入った日に習った図。
それを消しはしなかった。
横に新しい図を書く。
『魔力』
『↓』
『術式?』
『↓』
『流向・密度・律動』
『↓』
『現象』
しばらく見てから、『術式?』の横に書き足す。
『目的の魔力運動を作る方法?』
まだ疑問符は残した。
その下には別の問いがある。
『じゃあ、なんでこの動きで水になる?』
こちらは一年近く経っても、一文字も進んでいなかった。
*
十七歳になる頃には、ディーンが入学した時から使っていた帳面の多くが棚へ移っていた。
背も伸びた。服も、村を出た頃のものとは違う。研究室へ来たばかりの学生に教授と間違われたことも一度あったが、ミレイユに話すとしばらく笑われた。
話し方も変わった。
初対面の研究者へいきなり「それ見せて」と言うことはなくなったし、紹介状を持たずに専門家のところへ押しかけることも減った。
ただ、面白い結果が出た時だけは昔に戻った。
「先生、これ、絶対見た方がいい」
「まずノックしろ」
ハルフェンの叱責も、そこだけは三年前と変わらなかった。
研究そのものは変わった。
三要素で整理した記録は四属性を越え、治癒魔術や魔道具、魔物の特殊な魔術にも少しずつ広がっていた。複雑な魔術ほど測定は難しく、予測精度も落ちる。それでも結果が違う時には、観測できる範囲のどこかに三要素の差が見つかることが多かった。
決定的な反例は、まだない。
それは嬉しいはずだった。
実際、嬉しかった。
けれど、以前のように一つ分かるたびに疑問が減っていく感覚はなかった。
むしろ逆だった。
三要素を使えば、魔術が成立するまでをかなり細かく追える。
この流向。
この密度。
この律動。
だから水が出る。
予測して、実際に水が出る。
別の方法で同じ運動を作っても、水が出る。
そこまで確かめても、最後に必ず同じところで止まる。
なぜ水なのか。
なぜ火なのか。
なぜ傷が塞がるのか。
ハルフェンに聞いても、サフィアに聞いても、ミレイユに聞いても答えはない。文献を探しても、そもそもその問いを扱っているものがほとんどなかった。
三要素説は間違っていない。
少なくとも、今ある証拠はそう示している。
だが、それで魔法が分かったわけではない。
ディーンはそのことを、以前よりはっきり感じるようになっていた。
*
その知らせがラノアへ届いたのは、夏の終わりだった。
最初は噂だった。
アスラ王国の北東部で何かあったらしい。
それだけなら、ディーンは気に留めなかっただろう。魔物の大量発生、戦闘、洪水、山火事。遠方の災害についての噂は、冒険者ギルドにいれば珍しくもない。
だが翌日、大学の研究棟でも同じ話を聞いた。
さらに二日後、魔術ギルド経由で情報が入った。
フィットア領。
広い範囲で異常な魔力現象が発生。
被害規模不明。
原因不明。
領内との連絡が途絶している。
それだけだった。
住民がどうなったのかも分からない。
領都が残っているのかさえ情報が錯綜していた。
ディーンは掲示された文書を二度読んだ。
「行く気?」
後ろから声がして振り返ると、ミレイユが立っていた。
「まだ何が起きたか分からない」
「だから行くんでしょ」
言い返そうとして、やめた。
その通りだった。
ただ、すぐに出発することはできなかった。
フィットアまでは遠い。現地の状況も分からず、道が生きているかさえ不明だった。大学側でも情報収集が始まり、魔術ギルドから追加の知らせを待つことになった。
三日後。
新しい情報が来た。
大規模な爆発だったという話。
地面が光ったという話。
空に巨大な魔力の塊があったという話。
街が消えたという話。
すべて伝聞だった。
互いに食い違っている。
ディーンはそれを全部書いた。
『爆発?』
『光』
『上空の魔力』
『街が消えた?』
最後の一つだけ、二重に線を引いた。
消えた。
焼けたでも、崩れたでもない。
何を見た人間が、その言葉を使ったのか。
翌朝、ディーンはハルフェンの研究室へ行った。
今度はノックした。
「フィットアへ行きます」
ハルフェンは驚かなかった。
「研究か」
「それもあります」
「他は」
ディーンは少し考えた。
「見ないと分からない」
噂を集めても、記録を読んでも、それが何を意味するのか判断できない。三年前なら、分からないものがあれば本を探した。そこに書かれていなければ、知っている人間を探した。
それでも分からないなら。
自分で見る。
そのやり方だけは、村にいた頃から変わっていなかった。
ハルフェンは机の引き出しから一枚の紙を出した。
「道中の魔術ギルド支部で使え。大学の調査目的だと証明できる」
ディーンは受け取った。
「ありがとうございます」
「勘違いするな。調査許可ではない。現地で救援活動の邪魔をするな」
「はい」
「危険だと判断したら戻れ」
「それは――」
「返事」
「……はい」
納得はしていなかったが、返事はした。
ハルフェンはそれ以上何も言わなかった。
研究室を出る直前、後ろから声がした。
「ディーン」
振り返る。
「記録しろ」
「もちろんです」
「違う」
ハルフェンはディーンを見た。
「分からないものを、分かったことにするな」
ディーンは一瞬だけ黙った。
それから頷いた。
「はい」
研究棟を出ると、夏の終わりの風が通りを抜けていた。
フィットアで何が起きたのか、まだ誰も知らない。
爆発なのか。
巨大な魔術なのか。
魔力災害とは、そもそも何なのか。
ディーンにも分からなかった。
だから、見に行くことにした。