研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
ラノアを出て五日目、ディーンは最初の妙な話を聞いた。
フィットア領まではまだ遠い。街道沿いの町で馬を休ませ、魔術ギルドの支部にハルフェンから渡された書類を見せた時だった。受付の男は書類を一通り読んでから、大学からも人を出すのか、と疲れた顔で呟いた。
机にはアスラ王国北東部の地図が広げられている。街道のいくつかには印が付き、救援物資の集積地や通行止めになった道が書き込まれていた。だが肝心のフィットア領内にはほとんど何も書かれていない。
「被害はどのくらいなんですか?」
「分からん。向こうからまともな連絡が来ない。冒険者ギルドも人を出してるが、情報がばらばらだ」
「街が消えたって話は?」
「それもある。吹き飛んだって奴もいれば、地面ごとなくなったって奴もいる。見た本人から直接聞いた話が少ないんだよ」
ディーンは帳面を開いた。ラノアで聞いた話と大差はない。災害の規模が大きいことだけは間違いなさそうだが、何が起きたのかを判断できる情報はなかった。
「空に大きな魔力があったっていうのは?」
「それは何人も言ってるな。災害の前から、フィットアの上空に妙なものが見えてたらしい」
「どのくらい前から?」
「知らん」
「色は?」
「知らん」
「大きさは?」
「だから知らんって」
三つ目で怒られた。
仕方なく、分からないものには分からないと書いた。サフィアなら、伝聞をいくら積み上げても観察にはならないと言うだろう。ディーン自身もその意味はもう分かっている。
礼を言って支部を出ようとしたところで、男が「ああ」と声を上げた。
「変な話なら、もう一つあるぞ」
ディーンは振り返った。
「フィットアにいたって奴が、南の方で見つかったらしい」
帳面へ向いていた目が止まる。
「いつですか?」
「俺も昨日聞いただけだ。詳しくは知らん」
「南ってどこ?」
「待て。確か……」
男は地図を引き寄せ、指で街道をなぞった。ここからさらに南へ二日ほど進んだところに小さな町があり、教会が怪我人や避難民を受け入れている。その中に、災害が起きた日までフィットア領にいたと話す女がいるらしい。
「歩いて来たんですか?」
「だから変な話なんだよ。災害が起きた日に向こうにいたなら、どうやっても時間が合わん」
ディーンは地図を見た。
フィットアから、その町まで。
馬を使っても無理だ。
「その人、まだいます?」
「たぶんな」
ディーンは予定していた道を変えた。
*
教会に着いたのは翌々日の昼だった。
避難民を受け入れていると聞いていたが、実際にはもっと雑然としていた。怪我人、行方不明になった家族を探している者、救援へ向かう途中で休んでいる冒険者。礼拝堂の長椅子まで寝床に使われ、庭には簡素な天幕が並んでいる。
ディーンは大学の書類を見せて事情を説明した。話を聞くだけで、本人が嫌がるならやめる。それを先に伝えると、教会の人間は少しだけ警戒を解いた。
しばらく待たされた後、奥の部屋で一人の女性に会うことができた。三十歳前後だろう。右腕に包帯を巻いていたが、怪我そのものは深くなさそうだった。それよりも、顔に残る疲れの方が目についた。
「ディーンです。ラノア魔法大学から来ました」
「学生?」
「はい」
一瞬、怪しまれた。
仕方がない。十七歳なのはどうしようもない。
「フィットアにいたって聞きました」
女性の表情がわずかに硬くなった。
「いました」
ディーンは村の名前を聞き、地図に印を付けた。領都ロアからは離れているが、間違いなくフィットア領内だった。
「災害が起きた時は、何をしていました?」
「家にいました。夕飯の支度をしてて……外が急に明るくなったんです。昼みたいに。それで、何だろうって窓を見たところまでは覚えてます」
女性はそこで言葉を止めた。
ディーンは続きを急かさなかった。
「その後は?」
「気づいたら、森にいました」
ペンが止まった。
「森?」
「はい」
「そこまで歩いた記憶は?」
「ありません。気を失ってたのかもしれません。私にも分からないんです」
ディーンは少し考えてから、質問を変えた。
「起きた時、災害の前から持っていたものはありました?」
女性が怪訝そうな顔をしたので、身につけていたものが一緒に移動していたか知りたいのだと説明した。
「服は同じでした。靴も。あと、これも」
女性は首元から小さな飾りを出した。
「家に置いていた物は?」
「何も」
「夕飯を作っていたなら、手に何か持ってませんでした?」
「……包丁を使ってたと思います。でも、森では持ってませんでした」
ディーンはそのまま記録した。
衣服。靴。装飾品。
身体に付随していたものは一緒にある。一方で家にあった物や、直前に使っていた可能性のある道具はない。
もちろん、それだけでは何も分からない。
「その森がどこだったか、分かりますか?」
「後で教えてもらいました」
場所を聞き、地図にもう一つ印を付けた。
二つの点は離れていた。
あまりにも離れている。
ディーンは地図を見たまま、「……本当に?」と呟いた。
女性の顔が硬くなった。
「嘘だと思うなら――」
「違います」
すぐに首を振った。
「あなたが嘘をついてるって意味じゃないです。距離が……普通に移動できる距離じゃないから」
また昔の癖が出た。
「すみません」
女性はしばらくディーンを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「私も信じられません」
その言葉で、ディーンは顔を上げた。
聞きたいことはまだあった。家族はどうしたのか。同じ家に誰かいたのか。村の他の人間について何か知らないか。
けれど、それは研究のためだけに聞いていい質問ではない。
ディーンは帳面を閉じた。
「ありがとうございました」
*
教会を出た後、すぐには馬へ戻らなかった。
木陰に座り、今聞いた内容を最初から整理する。証言が正しいと仮定すれば、女性は災害直前までフィットアにいた。光を見た後の記憶が途切れ、次に意識を取り戻した時には遠方の森にいた。衣服や装飾品は一緒にあり、その間の移動は記憶していない。
ディーンは帳面に『転移?』と書いた。
その横に、すぐ『断定不可』と付け加えた。
転移魔術そのものは存在する。召喚魔術と並んで研究されている分野だが、ディーンがこれまで重点的に調べてきた領域ではない。まして、これほどの距離を何の準備もしていない人間が移動したという話を、一人の証言だけで災害と結びつけるわけにはいかなかった。
女性が場所を誤認している可能性もある。災害後の記憶が長く抜け落ちているのかもしれない。誰かが別の転移魔術を使った可能性もあれば、そもそもフィットアの災害とは関係がない可能性もある。
いくらでも疑える。
ただ、一つだけ変わった。
フィットアへ向かう理由が増えた。
*
さらに進むにつれ、似た話が増えていった。
フィットアにいたという人間が、災害の直後、離れた土地で発見されている。西で見つかった者もいれば、南へ飛ばされたという者もいる。もっと遠方で保護されたという話まであったが、そこまでいくと伝聞を重ねすぎていて信用できない。
同じ話が別の町へ伝わっただけの可能性もあるため、ディーンは人数を数えるのをやめた。代わりに、誰が誰から聞いたのかを可能な限り記録した。
三つ目の町では、実際にもう一人と会うことができた。
十歳ほどの少年だった。
母親と市場を歩いていた時に空が光り、次に気づいた時には見知らぬ草原に一人で倒れていたという。
「その時、お母さんとは?」
「手、繋いでた」
「光った後に離した?」
少年は首を振った。
「分かんない」
「起きた時には、一人だった?」
頷く。
ディーンはそれ以上聞かなかった。
少年の服には、片方だけ切れた細い紐が残っていた。何に繋がっていたものなのかは分からないし、災害で切れたとも限らない。記録には『同行者が同一地点へ移動するとは限らない?』と疑問符付きで書いた。
その夜、宿で地図を広げた。
フィットア領内の村。女性が発見された森。少年が見つかった草原。出所をある程度確認できた他の証言も加えると、地図の上にいくつもの点が散らばった。
線で結ぼうとして、やめた。
方向が揃わない。距離も揃わない。
「なんだ、これ」
一人で呟いた。
もし本当に転移なら、それも魔術の一種である以上、魔力が関与しているはずだった。魔力が動くなら、そこには流向があり、密度があり、律動がある。その運動を正確に知ることができれば、少なくともどのような条件で転移が起きるのかは記述できるかもしれない。
だが、そこで妙な引っかかりを覚えた。
人間がここから消えて、遠く離れた場所に現れる。
仮にその時の魔力運動を完全に測定できたとして、それで何が分かるのだろう。
考えかけて、ディーンは帳面を閉じた。
まだ早い。
現場を見ていない。
分からないものを、分かったことにするな。
ハルフェンの言葉が、今は妙に都合よく頭に残っていた。
*
フィットアへ近づくにつれ、街道の様子が変わった。
向かう者より、戻ってくる者の方が多くなる。冒険者、兵士、救援物資を運んでいた商人。皆、疲れていたが、それだけではなかった。何を見たのか説明しにくそうな顔をしている。
「行っても何もないぞ」
休憩所で会った冒険者に言われた。
「何もない?」
「そのままの意味だ。端の方は残ってる場所もある。奥は……見れば分かる」
別の男は地面が抉れたと言い、別の者は更地になったと言った。また別の者は、全部持っていかれた、と表現した。
言葉は揃わない。
それでも、火事や戦闘の跡を話しているようには聞こえなかった。
ディーンは進んだ。
*
フィットア領へ入って最初に気づいたのは、災害の境界がはっきりしていないことだった。
最初は普通の畑があった。収穫されることのない作物が伸び、無人の農家が残っている。少し進むと柵が途中で途切れ、さらに先では林の一部が不自然に欠けていた。
ディーンは馬を降りた。
木々は倒れていない。根元から焼けた跡もなく、強い熱を受けた様子もなかった。ただ、ある地点より先に、木が存在しない。
地面にしゃがみ、土へ触れる。焦げていない。爆風なら、残った木々にも同じ方向へ倒れたり枝が折れたりした痕跡が出るはずだが、それもない。
魔力を探ると、わずかに違和感はあった。
だが、それが災害の残滓なのか、この土地にもともとある魔力なのか判断できない。
帳面を開く。
『樹木――境界付近で消失』
そこまで書いて、手を止めた。
消失と決めるには早い。
線を引いて消し、
『樹木――境界付近より先に存在せず。倒木・焼損痕なし』
と書き直した。
さらに進むと、今度は石を敷いた街道が途中で途切れていた。
石が砕けた跡はない。周囲へ飛び散った様子もなければ、掘り返された跡もない。敷石が続いていたはずの場所だけが、むき出しの土へ変わっている。
ディーンはしばらく境目を調べた。
説明できない。
その事実だけを書いた。
*
夕方、高台へ出た。
そこで初めて、フィットア領の奥を広く見渡すことができた。
馬が足を止めた。
ディーンが手綱を引いたわけではない。
前方を見たまま、動かなくなった。
「……なんだよ、これ」
思わず声が漏れた。
地図では、この先にも村がある。農地があり、道があり、そのさらに向こうには領都ロアがある。そのはずだった。
だが、視界が開けすぎていた。
森が途中で途切れている。畑の区画は途中でなくなり、そこへ続いていたはずの道も見えない。遠くには地形そのものが変わったように見える場所まであった。
巨大な何かが暴れ回った跡とは違う。
建物が壊れれば、木材や石が残る。森を薙ぎ倒せば木が残る。燃やせば灰が残る。どれほど強い魔術で吹き飛ばしたとしても、吹き飛ばされたものはどこかへ行く。
ここには、それが少なすぎた。
ディーンは馬を降り、高台の斜面を歩いて下りた。
少し進んだところに、家が一軒あった。
正確には、家だったものがあった。
半分だけ。
壁の一面と屋根の端が残り、床の上には割れた食器と椅子がある。だが、建物は途中から不自然に途切れていた。崩壊したなら残っているはずの木材も、屋根も、家具も、その周囲にはない。
ディーンは壁へ近づいた。
断面を見る。
木材の一部は割れ、別の部分は引きちぎられたようになっている。何か巨大な力が境目で働いたことだけは分かる。
だが、その先がない。
周囲を探した。
ない。
教会で会った女性を思い出した。災害が起こる直前までフィットアにいて、次に気づいた時には遠く離れた森にいた。
母親と手を繋いでいた少年は、一人で草原に現れた。
ディーンはもう一度、半分になった家を見た。
転移。
道中では、まだ疑問符を付けていた。
今も断定するには証拠が足りない。それでも、少なくとも単なる爆発や破壊だけでは、この光景を説明できなかった。
そして、別の疑問が浮かんだ。
ディーンはこれまで、魔力がどのように動けばどの魔術が成立するのかを調べてきた。流向、密度、律動。その三つを十分な精度で捉えれば、未知の術式でも発動結果を予測できるようになった。異なる方法であっても同じ魔力運動を形成すれば、同じ現象が起こることも確かめてきた。
なら、この災害にも魔力運動があったはずだ。
どこを通り、どれほど集中し、どのように時間変化したのか。それを完全に記録することができれば、この現象がどのような魔術だったのかも、いつか説明できるかもしれない。
そこまで考えた時、ディーンは初めて、その先へ進めなくなった。
仮に全部分かったとして。
この土地を覆った流向を測れたとして、密度も律動も完全に記録できたとして、それでなぜ人間がここから消えて、遠く離れた場所に現れたのかまで分かるのだろうか。
三要素を知れば、どんな魔力運動が転移を起こすのかは分かるかもしれない。
けれど。
なぜ、その魔力運動で人間のいる場所が変わる?
「……あ」
小さく声が出た。
同じだった。
水の時にも、ずっと同じところで止まっていた。
この流向、この密度、この律動なら水が出る。条件を揃えれば再現できるし、発動前に結果を予測することさえできる。
でも、なぜそれで水が出るのかは分からない。
火も同じだった。風も土も、治癒魔術も同じだった。
今までは、それでも研究を進められた。
魔術は使える。予測できる。比較できる。再現できる。
だから、その先にある「なぜ」を分からないまま置いておくことができた。
目の前の光景は、それを許してくれなかった。
人間が消えている。
家が半分なくなっている。
道が途切れ、森が欠け、フィットアという土地に存在していたものが、別の場所へ移された可能性がある。
魔力がどう動けば転移が起こるのか。
それだけでは足りない。
ディーンは家の前にしゃがみ込み、地面へ手を置いた。掌の下には普通の土がある。その少し先には、昨日までなら家の続きがあったはずの空間がある。
幼い頃、焚き火を見て、魔術の火は何を燃やしているのかと考えた。水を出せるようになれば、その水はどこから来たのかが気になった。治癒魔術を知れば、傷はどうして元の形へ戻るのかを知りたくなった。
一つの疑問を追いかけるたび、次の疑問が出てきた。
それでも、分からないものを一つずつ調べていけば、いつか魔法そのものへ辿り着けると思っていた。
三要素を見つけた時は、かなり近づいたと思った。
実際、近づいてはいたのだろう。
ただ、近づいたからこそ、その先にまだ何かがあることが見えてしまった。
ディーンは帳面を開いた。
何を書けばいいのか、しばらく分からなかった。
三要素の記録ではない。
魔力量の推定でもない。
目の前で起きたことさえ、まだ正確には分かっていない。
だから、今分かることだけを書いた。
『これは、壊れたんじゃない』
その一文をしばらく見つめた後、下にもう一つ書き加えた。
『ここにあったものは、どこへ行った?』
ディーンは顔を上げた。
夕暮れの向こうには、かつて人が暮らしていたはずの土地が広がっている。
答えは、まだどこにもなかった。