研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
魔術が使えるようになった翌日、ディーンは母親にひどく叱られた。
「勝手に火を出すんじゃありません!」
「でも何も燃やしてないよ」
「燃やしてからじゃ遅いの!」
「家から離れてたし」
「そういう問題じゃありません!」
もっともな話だった。ディーン自身、家を燃やしたいわけではないので、その日の実験場所は家の裏から川辺へ移された。母親からすれば魔術そのものを禁止したかったのだろうが、ディーンが数日間も一人で練習していたと知ると、完全に禁止して隠れて使われるよりはましだと考え直したらしい。火を使うなら水辺で、大人の目が届く時間にすること。それが条件になった。
ディーンに異論はなかった。使えればどこでもよかった。
昼になると、昨日まで水鉄砲で遊んでいた川辺に座り、小石を一つ拾った。平たくて、掌に収まる程度の石だった。それを地面へ置き、右手を向ける。
「赤き熱よ、我が魔力に従い、ここに小さき火を灯せ――」
炎が生まれた。昨日より少しだけ安定していた。最初に成功したときはそれだけで嬉しくて何度も出していたが、今日は違う。ディーンは炎をじっと見た。
何が燃えているのか。
まず、それを確かめたかった。
試しに炎の中へ枯れ草を入れてみた。すぐに火が移った。慌てて川へ投げる。じゅっと音がして煙が上がった。次に細い枝を差し込む。しばらくすると先端が黒くなり、やがてそこにも火がついた。
普通の火と同じだった。
では、燃やすものがなければどうなるのか。石の上に炎だけを出して待ってみる。石は燃えない。だが炎は消えなかった。ディーンが魔術をやめるまで、同じ場所で揺れていた。消えたあとで石に触ろうとして、熱さに指を引っ込める。
「あっつ!」
指を川につけながら石を見る。少し待ってからもう一度触る。まだ温かい。
炎そのものは消えた。だが、炎があったことまで消えたわけではないらしい。
次にディーンは小さな木片を持ってきた。魔術の火を当て、表面が黒くなったところで魔術を止める。炎は消えた。焦げた木は残った。鼻を近づけると、いつもの焚き火と同じ匂いがした。
ここまでは分かる。
火は普通の火と同じように物を熱くする。木を燃やすこともできる。では、その火そのものは何だったのか。
薪の火なら、薪が減る。魔術の火には減っているものが見当たらない。自分の中から減っているのは魔力なのだろう。昨日、使い続けたあとにひどく眠くなったことを考えれば、それはなんとなく分かる。
ならば魔力が燃えているのだろうか。
ディーンは自分の腹を触った。当然、何も分からなかった。
「……魔力ってどこにあるんだ?」
新しい疑問が増えた。
少し考えて、後回しにした。今の自分には確かめようがない。
その代わり、できることを試した。大きな火と小さな火ではどちらが早く疲れるのか。長く出すのと何度も出すのでは違うのか。石を温めるなら大きな火を短く当てるのと、小さな火を長く当てるのとではどちらがいいのか。
もっとも、時計も温度を測る道具もない。ディーンができるのは数を数えたり、手で触ったり、自分がどれくらい疲れたかを比べたりする程度だった。それでも何度か繰り返すと、なんとなく違いがあるような気がした。
大きな火は疲れる。長く出しても疲れる。何度も失敗しても、少し疲れる。
つまり魔術を使うと魔力が減る。たぶん。
そこまではいい。
問題は、減った魔力がどうなったのかだった。
火になったのなら、火が消えたあと魔力もなくなったことになる。それなら話は単純だ。しかし数日前に見た水魔術を思い出す。あの水は魔術が終わったあとも残っていた。
魔力が火になれば消える。
魔力が水になれば残る。
「……変じゃないか?」
口に出してから、何が変なのか考えた。
魔術なのだから、そういうものなのかもしれない。火と水は違うのだから、結果が違っていても不思議ではない。母や畑のおじさんなら、きっとそう言う。
それでも気になった。
自分でやれば、もう少し分かるかもしれない。
ディーンは立ち上がった。
畑へ向かった。
例の男はすぐに見つかった。今日も作物に水を撒いている。
「おじさん!」
「ん? ああ、お前か」
「この前の水の魔術、もう一回やって」
「なんでだ?」
「覚えたい」
男は露骨に嫌そうな顔をした。
「親に教えてもらえ」
「母さん、水魔術使えない」
「じゃあ先生を探せ」
「この村にいないだろ」
「……お前、妙なところで頭回るな」
「お願い。一回だけ」
男はしばらく渋っていたが、ディーンが帰りそうにないと悟ったらしい。仕事のついでだからな、と念を押して両手を畑へ向けた。
「水よ集え、我が魔力に応じ、その姿をここに――」
水が生まれ、畑へ落ちる。
「もう一回」
「一回って言っただろ」
「途中聞こえなかった」
「嘘つけ」
結局、三回やってもらった。
その夜から、今度は水魔術の練習が始まった。
「水よ集え、我が魔力に応じ、その姿をここに――」
何も出ない。
もう一度。出ない。
火魔術のときと同じだった。言葉を知ったからといって使えるわけではないらしい。
だが、前より苛立ちは少なかった。一度できるようになった経験がある。失敗しても、そのうちできると思えた。
三日目、掌が濡れた。
水滴が一つだけ落ちた。
「……今のか?」
地面を見る。暗くてよく分からない。もう一度試す。今度は何も出ない。
翌日、もう一度。何度も繰り返した末に、今度ははっきりと水が出た。両手ですくえるほどもない。指の隙間から零れてしまう程度の量だった。
それでもディーンは笑った。
「できた」
火のときと同じだった。成功すると、もっとやりたくなる。
大きくしてみる。失敗する。もう一度。今度は少し増える。片手で出せるか試す。詠唱を早くする。手を下に向ける。上に向ける。出した水を器へ入れる。
最後の実験で、ディーンは手を止めた。
木の椀の底に、少量の水が溜まっている。
魔術はもう終わっていた。
水は消えない。
指を入れる。冷たい。舐めてみる。少なくとも泥水ではない。椀を傾ければ普通に流れる。
翌朝まで置いてみることにした。
そして翌朝。
水は残っていた。
多少減っているような気もしたが、椀の底はまだ濡れていた。指につければ、やはり水だった。
ディーンはしばらく椀を見つめたあと、朝食を食べていた母のところへ持っていった。
「母さん」
「なに?」
「これ、昨日俺が出した水」
母の動きが止まった。
「……あなた、水魔術まで覚えたの?」
「うん」
「誰に教わったの?」
「畑のおじさん見て覚えた」
母は額を押さえた。何か言いたそうだったが、ディーンはそれより先に椀を差し出した。
「まだ残ってる」
「水なんだから残るでしょう」
「火は残らなかったよ」
「火なんだから消えるでしょう」
「なんで?」
「……またそれ?」
母は嫌そうな顔をした。
「だって、どっちも魔力で出したんだろ?」
「そうね」
「火を出したら火になる。水を出したら水になる」
「そうね」
「じゃあ、魔力が火とか水になってるんだよな?」
「たぶんね」
「だったら、水になった魔力はここにあるだろ?」
椀を指差す。
「火になった魔力はどこに行ったの?」
母は答えなかった。
ディーンも答えを期待していたわけではなかった。母が魔術に詳しくないことは、もう知っている。
だから椀を持って外へ出た。
水面が揺れる。
昨日、自分の中にあったはずの魔力が、今はここに水として存在している。そう考えると妙な感じがした。
本当にそうなのだろうか。
もし魔力が水そのものになったのなら、この水の中には魔力が残っているのだろうか。なら、この水を使えば魔力に戻せるのだろうか。火になった魔力は消えたのか。それとも、見えなくなっただけなのか。
考えるほど、分からないことが増えていく。
不思議なことに、それが嫌ではなかった。
むしろ逆だった。
一つ分かれば終わると思っていたのに、確かめるたびに次が出てくる。火を出せば水が気になり、水を出せば魔力が気になる。魔力を考えれば、今度は火が消えたあとに残った熱まで気になってくる。
ディーンは椀の水を眺めた。
今日、何を試すかは決まった。
まず、この水を火にかけてみよう。
魔術で作った水だからといって何か違うのか。それとも、普通の川の水とまったく同じなのか。
確かめるには両方を並べればいい。
ディーンは川へ向かった。
その途中で友人たちに見つかり、水遊びに誘われた。
実験は昼過ぎまで延期になった。