研究レポート:六面世界における魔法について   作:えびかま

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序論3

川の水と、魔術で作った水。

 

 並べてみれば何か分かると思っていた。

 

 ディーンは家から持ち出した二つの木椀を地面へ置いた。片方には川で汲んできた水が入っている。もう片方は空だ。どちらがどちらだったか分からなくならないよう、川の水を入れた方の横には小石を置いてある。

 

「水よ集え、我が魔力に応じ、その姿をここに――」

 

 空だった椀の上に水が生まれた。まだ狙った量を正確に出すことはできない。半分ほどは椀の外へこぼれたが、それでも底には十分な量が残った。

 

 ディーンは二つの椀を見比べた。

 

「……同じだな」

 

 どちらも透明だった。

 

 指を入れる。冷たい。もう片方にも入れる。こちらも冷たい。

 

 舐める。

 

「……同じだな」

 

 少なくともディーンの舌では違いが分からない。

 

 今度は地面へ少しずつ垂らした。どちらも土へ染み込んだ。木の板へ垂らしてみても同じように濡れた。葉の上なら丸くなって転がり、布に落とせば染み込んだ。

 

 ここまでは全部同じだった。

 

 ならば火にかける。

 

 問題は鍋が一つしかなかったことだった。

 

「母さん、鍋もう一個ない?」

 

「何に使うの?」

 

「水を火にかける」

 

「一個あるでしょう」

 

「二ついる」

 

「なんで?」

 

「比べるから」

 

「何を?」

 

「水」

 

 母はしばらく息子の顔を見ていた。

 

「……駄目」

 

「なんで!」

 

「鍋は遊び道具じゃありません」

 

「遊びじゃない!」

 

「じゃあ何なの?」

 

 ディーンは口を開いた。

 

 閉じた。

 

 何なのだろう。

 

「……調べる」

 

「何を?」

 

「水」

 

「だから水の何を調べるの?」

 

「魔術で出した水と、川の水が同じか」

 

「同じよ」

 

「なんで分かるの?」

 

「水だから」

 

「だから、それを調べるんだよ」

 

 母は眉間を押さえた。

 

「一個ずつやりなさい」

 

 言われてみればその通りだった。

 

 まず川の水を鍋へ入れた。火をつける。もちろん薪ではない。せっかく自分で火魔術を使えるようになったのだから、そちらを使った。しばらくすると鍋の底から小さな泡が出て、やがて水面全体が激しく揺れ始めた。白い湯気が立つ。

 

 ディーンは数を数えた。

 

「一、二、三、四、五……」

 

 どこから数え始めればいいのか途中で分からなくなった。泡が出たところからなのか、火をつけたところからなのか。そもそも数える速さが毎回同じなのかも怪しい。

 

「……もう一回だな」

 

 川の水を捨て、鍋が冷めるまで待つ。

 

 待てなかったので川へ沈めた。

 

 母に見つかって怒られた。

 

 それから魔術で水を出して、同じように火にかけた。

 

「一、二、三、四……」

 

 沸いた。

 

 違いは分からなかった。

 

 もう一度やった。

 

 分からなかった。

 

 さらにもう一度やろうとしたところで、母から「薪拾いは?」と言われたので中断した。

 

 翌日も試した。今度は量を同じにしようと思ったが、同じ量というものが意外に難しい。椀の縁まで入れればいいと思いつき、両方をいっぱいにした。だが鍋へ移すとき片方を少しこぼした。

 

 やり直した。

 

 次は火の大きさが同じなのか気になった。

 

 やり直した。

 

 次は鍋が最初から少し温かかったことに気づいた。

 

 やり直した。

 

 三日ほど続けて、ディーンは一つのことを理解した。

 

「……面倒くさい」

 

 調べるというのは、思っていたより面倒だった。

 

 ただ二つを比べればいいと思っていた。ところが比べようとすると、同じにしなければならないものが次々に出てくる。水の量。鍋。火の大きさ。鍋の温かさ。数え方。それでも結果は「たぶん同じ」だった。

 

 だから別の方法を考えた。

 

 魔術で作った水を一つの椀へ、川の水をもう一つの椀へ入れ、庭の日が当たる場所に置いた。

 

 翌日。

 

 どちらも減っていた。

 

 二日目。

 

 もっと減った。

 

 三日目。

 

 ほとんどなくなった。

 

 魔術の水だけが突然消えるようなことはなかった。

 

 次は凍らせようと思った。

 

 やり方が分からなかった。

 

 冬まで待つことにした。

 

 次に植物へ与えてみた。畑の端に生えていた同じような草を二本選び、片方には川の水、もう片方には魔術の水をかけた。

 

 翌日、どちらも元気だった。

 

 その翌日も元気だった。

 

 三日目に片方が踏み潰されていた。

 

 犯人はディーン自身だった。

 

「……これは駄目だな」

 

 次に虫へ飲ませようとして、捕まえた虫がそもそも水を飲んでくれなかった。

 

 魚ならどうだろうと思い、魔術で作った水を桶いっぱいにしようとした。

 

 途中で魔力が尽きて寝た。

 

 目を覚ますと桶が倒れていた。

 

 それでも、少しずつ分かることはあった。

 

 魔術で作った水は濡れる。飲める。土へ染み込む。日に当てておけば減る。熱すれば湯気が出る。冷たさも、見た目も、味も、ディーンには川の水との違いが分からない。

 

 ならば同じ水なのだろうか。

 

 そう考えるのが一番簡単だった。

 

 しかし、そうすると最初の疑問へ戻る。

 

 川の水は川から汲んでくる。桶へ入れれば重くなる。桶から捨てれば軽くなる。水はどこかからどこかへ移動する。

 

 魔術の水は違う。

 

 何もなかった場所に現れる。

 

 ディーンは空の木椀を持ち上げた。それから魔術で水を満たし、もう一度持ち上げた。

 

「重い」

 

 当たり前だった。

 

 水が入ったのだから重い。

 

 だが、その重さはどこから来たのだろう。

 

 魔力が水になった。

 

 そう考えれば説明できる。

 

 では、魔力にも重さがあったのだろうか。

 

 ディーンは自分の身体を見下ろした。

 

 魔術を使う前と、使ったあと。

 

 自分は軽くなっているのだろうか。

 

 試しにその場で跳んでみた。

 

 何も分からなかった。

 

 もう一度跳んだ。

 

 やはり分からなかった。

 

「……測れたらいいのに」

 

 村には秤があった。

 

 農作物や肉を量るためのもので、ディーンも何度か見たことがある。あれに自分が乗ればいい。

 

 そう思って、本当に乗ろうとした。

 

「壊れるわ!」

 

 持ち主に追い払われた。

 

「一回だけ!」

 

「駄目だ!」

 

「魔術使う前とあとだけ!」

 

「何の話だ!」

 

「軽くなるか調べたい!」

 

「帰れ!」

 

 帰された。

 

 ディーンは不満だった。

 

 もっと細かく量れる秤があればいい。水がどれくらい重くなったのかも分かる。自分の重さが少し変わったとしても分かるかもしれない。

 

 だが、そんなものは村にはなかった。

 

 そもそも、水の違いを調べる方法もディーンにはほとんど思いつかなかった。見て、触って、舐めて、熱して、日に当てる。その程度だ。

 

 もっと調べる方法があるのかもしれない。

 

 知らないだけで。

 

 そう思ったのは、そのときが初めてだった。

 

 これまでは、分からなければ自分で試せばいいと思っていた。火が気になれば火を出す。水が気になれば水を出す。大きさを変える。触ってみる。比べてみる。

 

 けれど、自分が思いつくことを全部やっても分からないことがある。

 

 だったら、知っている人間に聞けばいい。

 

 母は知らなかった。

 

 畑のおじさんも知らなかった。

 

 では、魔術師なら知っているのだろうか。

 

 ディーンはその日の夕食で母に尋ねた。

 

「母さん」

 

「今度は何?」

 

「魔術に一番詳しい人って誰?」

 

「一番?」

 

「うん」

 

 母は野菜を切る手を止めた。

 

「さあ……魔術師じゃない?」

 

「だから、その魔術師の中で」

 

「そんなの知らないわよ」

 

「村に魔術師はいないの?」

 

「魔術を使える人ならいるでしょう」

 

「そうじゃなくて、魔術のことをいっぱい知ってる人」

 

「ああ」

 

 ようやく意味が伝わったらしい。

 

「それなら、学校とかじゃない?」

 

「学校?」

 

「魔術を教えてくれるところ。大きな町にはあるって聞くわよ」

 

「何を教えてくれるの?」

 

「魔術でしょうね」

 

「火が何を燃やしてるかも?」

 

「さあ」

 

「魔術の水がどこから来るかも?」

 

「知らないわよ」

 

「魔力に重さがあるかも?」

 

「知らないってば」

 

 母は面倒そうに答えたあと、少し考えた。

 

「でも、そういうことを知りたいなら、村の人に聞くよりはいいんじゃない?」

 

 ディーンは黙った。

 

 学校。

 

 魔術を教える場所。

 

 そこには、自分よりたくさん魔術を知っている人間がいるらしい。

 

「遠い?」

 

「何が?」

 

「学校」

 

「大きな町まで行かないとないんじゃない?」

 

「どれくらい?」

 

「あなた一人で行ける距離じゃありません」

 

「ふうん」

 

 それ以上は聞かなかった。

 

 翌日もディーンは川へ行った。

 

 友人たちと水鉄砲で遊び、昼には魚を追いかけ、服を泥だらけにした。帰り道で昨日置いていた木椀を回収し、家に戻ってから火魔術を少し試した。

 

 生活は何も変わらなかった。

 

 ただ、その日から時々、村を通る旅人を見るようになった。

 

 どこから来たのか。

 

 どこへ行くのか。

 

 大きな町には何があるのか。

 

 魔術師はどんなことを知っているのか。

 

 村の外には、自分の知らない魔術がどれくらいあるのか。

 

 聞いてみると、旅人によって答えは違った。遠い町の話をする者もいれば、見たこともない魔物の話をする者もいた。火を雨のように降らせる魔術師を見たという者もいたし、傷を一瞬で塞ぐ魔術を知っているという者もいた。

 

「傷も魔術で治せるの?」

 

「ああ。治癒魔術っていうんだ」

 

「どうやって?」

 

「どうって……魔術でだよ」

 

 またそれだった。

 

 ディーンは少し笑った。

 

 聞きたいことが、また一つ増えた。

 

 火は消える。

 

 水は残る。

 

 そして今度は、傷まで治るらしい。

 

 同じ魔力を使って。

 

 それがどういうことなのか、やはり誰も説明してくれなかった。

 

 ディーンはまだ村を出たことがない。

 

 世界がどれほど広いのかも知らなかった。

 

 ただ、村の外へ行けば答えがあるとは思わなかった。

 

 少なくとも――。

 

 今より多くの、分からないものがある。

 

 それだけは、間違いなさそうだった。

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