研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
川の水と、魔術で作った水。
並べてみれば何か分かると思っていた。
ディーンは家から持ち出した二つの木椀を地面へ置いた。片方には川で汲んできた水が入っている。もう片方は空だ。どちらがどちらだったか分からなくならないよう、川の水を入れた方の横には小石を置いてある。
「水よ集え、我が魔力に応じ、その姿をここに――」
空だった椀の上に水が生まれた。まだ狙った量を正確に出すことはできない。半分ほどは椀の外へこぼれたが、それでも底には十分な量が残った。
ディーンは二つの椀を見比べた。
「……同じだな」
どちらも透明だった。
指を入れる。冷たい。もう片方にも入れる。こちらも冷たい。
舐める。
「……同じだな」
少なくともディーンの舌では違いが分からない。
今度は地面へ少しずつ垂らした。どちらも土へ染み込んだ。木の板へ垂らしてみても同じように濡れた。葉の上なら丸くなって転がり、布に落とせば染み込んだ。
ここまでは全部同じだった。
ならば火にかける。
問題は鍋が一つしかなかったことだった。
「母さん、鍋もう一個ない?」
「何に使うの?」
「水を火にかける」
「一個あるでしょう」
「二ついる」
「なんで?」
「比べるから」
「何を?」
「水」
母はしばらく息子の顔を見ていた。
「……駄目」
「なんで!」
「鍋は遊び道具じゃありません」
「遊びじゃない!」
「じゃあ何なの?」
ディーンは口を開いた。
閉じた。
何なのだろう。
「……調べる」
「何を?」
「水」
「だから水の何を調べるの?」
「魔術で出した水と、川の水が同じか」
「同じよ」
「なんで分かるの?」
「水だから」
「だから、それを調べるんだよ」
母は眉間を押さえた。
「一個ずつやりなさい」
言われてみればその通りだった。
まず川の水を鍋へ入れた。火をつける。もちろん薪ではない。せっかく自分で火魔術を使えるようになったのだから、そちらを使った。しばらくすると鍋の底から小さな泡が出て、やがて水面全体が激しく揺れ始めた。白い湯気が立つ。
ディーンは数を数えた。
「一、二、三、四、五……」
どこから数え始めればいいのか途中で分からなくなった。泡が出たところからなのか、火をつけたところからなのか。そもそも数える速さが毎回同じなのかも怪しい。
「……もう一回だな」
川の水を捨て、鍋が冷めるまで待つ。
待てなかったので川へ沈めた。
母に見つかって怒られた。
それから魔術で水を出して、同じように火にかけた。
「一、二、三、四……」
沸いた。
違いは分からなかった。
もう一度やった。
分からなかった。
さらにもう一度やろうとしたところで、母から「薪拾いは?」と言われたので中断した。
翌日も試した。今度は量を同じにしようと思ったが、同じ量というものが意外に難しい。椀の縁まで入れればいいと思いつき、両方をいっぱいにした。だが鍋へ移すとき片方を少しこぼした。
やり直した。
次は火の大きさが同じなのか気になった。
やり直した。
次は鍋が最初から少し温かかったことに気づいた。
やり直した。
三日ほど続けて、ディーンは一つのことを理解した。
「……面倒くさい」
調べるというのは、思っていたより面倒だった。
ただ二つを比べればいいと思っていた。ところが比べようとすると、同じにしなければならないものが次々に出てくる。水の量。鍋。火の大きさ。鍋の温かさ。数え方。それでも結果は「たぶん同じ」だった。
だから別の方法を考えた。
魔術で作った水を一つの椀へ、川の水をもう一つの椀へ入れ、庭の日が当たる場所に置いた。
翌日。
どちらも減っていた。
二日目。
もっと減った。
三日目。
ほとんどなくなった。
魔術の水だけが突然消えるようなことはなかった。
次は凍らせようと思った。
やり方が分からなかった。
冬まで待つことにした。
次に植物へ与えてみた。畑の端に生えていた同じような草を二本選び、片方には川の水、もう片方には魔術の水をかけた。
翌日、どちらも元気だった。
その翌日も元気だった。
三日目に片方が踏み潰されていた。
犯人はディーン自身だった。
「……これは駄目だな」
次に虫へ飲ませようとして、捕まえた虫がそもそも水を飲んでくれなかった。
魚ならどうだろうと思い、魔術で作った水を桶いっぱいにしようとした。
途中で魔力が尽きて寝た。
目を覚ますと桶が倒れていた。
それでも、少しずつ分かることはあった。
魔術で作った水は濡れる。飲める。土へ染み込む。日に当てておけば減る。熱すれば湯気が出る。冷たさも、見た目も、味も、ディーンには川の水との違いが分からない。
ならば同じ水なのだろうか。
そう考えるのが一番簡単だった。
しかし、そうすると最初の疑問へ戻る。
川の水は川から汲んでくる。桶へ入れれば重くなる。桶から捨てれば軽くなる。水はどこかからどこかへ移動する。
魔術の水は違う。
何もなかった場所に現れる。
ディーンは空の木椀を持ち上げた。それから魔術で水を満たし、もう一度持ち上げた。
「重い」
当たり前だった。
水が入ったのだから重い。
だが、その重さはどこから来たのだろう。
魔力が水になった。
そう考えれば説明できる。
では、魔力にも重さがあったのだろうか。
ディーンは自分の身体を見下ろした。
魔術を使う前と、使ったあと。
自分は軽くなっているのだろうか。
試しにその場で跳んでみた。
何も分からなかった。
もう一度跳んだ。
やはり分からなかった。
「……測れたらいいのに」
村には秤があった。
農作物や肉を量るためのもので、ディーンも何度か見たことがある。あれに自分が乗ればいい。
そう思って、本当に乗ろうとした。
「壊れるわ!」
持ち主に追い払われた。
「一回だけ!」
「駄目だ!」
「魔術使う前とあとだけ!」
「何の話だ!」
「軽くなるか調べたい!」
「帰れ!」
帰された。
ディーンは不満だった。
もっと細かく量れる秤があればいい。水がどれくらい重くなったのかも分かる。自分の重さが少し変わったとしても分かるかもしれない。
だが、そんなものは村にはなかった。
そもそも、水の違いを調べる方法もディーンにはほとんど思いつかなかった。見て、触って、舐めて、熱して、日に当てる。その程度だ。
もっと調べる方法があるのかもしれない。
知らないだけで。
そう思ったのは、そのときが初めてだった。
これまでは、分からなければ自分で試せばいいと思っていた。火が気になれば火を出す。水が気になれば水を出す。大きさを変える。触ってみる。比べてみる。
けれど、自分が思いつくことを全部やっても分からないことがある。
だったら、知っている人間に聞けばいい。
母は知らなかった。
畑のおじさんも知らなかった。
では、魔術師なら知っているのだろうか。
ディーンはその日の夕食で母に尋ねた。
「母さん」
「今度は何?」
「魔術に一番詳しい人って誰?」
「一番?」
「うん」
母は野菜を切る手を止めた。
「さあ……魔術師じゃない?」
「だから、その魔術師の中で」
「そんなの知らないわよ」
「村に魔術師はいないの?」
「魔術を使える人ならいるでしょう」
「そうじゃなくて、魔術のことをいっぱい知ってる人」
「ああ」
ようやく意味が伝わったらしい。
「それなら、学校とかじゃない?」
「学校?」
「魔術を教えてくれるところ。大きな町にはあるって聞くわよ」
「何を教えてくれるの?」
「魔術でしょうね」
「火が何を燃やしてるかも?」
「さあ」
「魔術の水がどこから来るかも?」
「知らないわよ」
「魔力に重さがあるかも?」
「知らないってば」
母は面倒そうに答えたあと、少し考えた。
「でも、そういうことを知りたいなら、村の人に聞くよりはいいんじゃない?」
ディーンは黙った。
学校。
魔術を教える場所。
そこには、自分よりたくさん魔術を知っている人間がいるらしい。
「遠い?」
「何が?」
「学校」
「大きな町まで行かないとないんじゃない?」
「どれくらい?」
「あなた一人で行ける距離じゃありません」
「ふうん」
それ以上は聞かなかった。
翌日もディーンは川へ行った。
友人たちと水鉄砲で遊び、昼には魚を追いかけ、服を泥だらけにした。帰り道で昨日置いていた木椀を回収し、家に戻ってから火魔術を少し試した。
生活は何も変わらなかった。
ただ、その日から時々、村を通る旅人を見るようになった。
どこから来たのか。
どこへ行くのか。
大きな町には何があるのか。
魔術師はどんなことを知っているのか。
村の外には、自分の知らない魔術がどれくらいあるのか。
聞いてみると、旅人によって答えは違った。遠い町の話をする者もいれば、見たこともない魔物の話をする者もいた。火を雨のように降らせる魔術師を見たという者もいたし、傷を一瞬で塞ぐ魔術を知っているという者もいた。
「傷も魔術で治せるの?」
「ああ。治癒魔術っていうんだ」
「どうやって?」
「どうって……魔術でだよ」
またそれだった。
ディーンは少し笑った。
聞きたいことが、また一つ増えた。
火は消える。
水は残る。
そして今度は、傷まで治るらしい。
同じ魔力を使って。
それがどういうことなのか、やはり誰も説明してくれなかった。
ディーンはまだ村を出たことがない。
世界がどれほど広いのかも知らなかった。
ただ、村の外へ行けば答えがあるとは思わなかった。
少なくとも――。
今より多くの、分からないものがある。
それだけは、間違いなさそうだった。