研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
それから、何年かが過ぎた。
ディーンの背は伸びた。川で遊ぶことは減ったが、なくなったわけではない。友人に誘われれば泳ぎにも行ったし、魚を捕まえるために服のまま川へ飛び込んで母親に怒られることもあった。ただ、以前と違って、家へ戻ると別の遊びが待っていた。
家の裏には、いつの間にかディーン専用の場所ができていた。
最初は木椀が二つ置いてあるだけだった。そこへ大きさの違う石、焦げた木片、穴の開いた桶、ひびの入った壺、村の鍛冶屋からもらった金属片、乾燥させた草、用途の分からない棒などが増えていった。母親から見れば大半がゴミだったが、勝手に捨てるとディーンが本気で怒るので、最近では触らないことにしていた。
魔術も増えた。
火と水だけではない。村人が使うところを見たり、旅人に教えてもらったりして、土と風も覚えた。初級程度なら、四つともそれほど苦労せず使える。だからといってディーンが満足することはなかった。
むしろ、使える魔術が増えるほど分からないことも増えた。
水は残る。土も残る。
火は消える。
風も止まる。
土魔術で作った石と、そこらに落ちている石は同じなのか。魔術で起こした風と普通の風は何が違うのか。火を大きくすれば使う魔力も増えるのに、同じ大きさの火でも使い方によって疲れ方が違うのはなぜなのか。
答えが一つ見つかれば、疑問が二つ増えた。
それでも、ディーンは飽きなかった。
むしろその逆だった。
「ディーン! ちょっと来て!」
その日、家の裏で土魔術によって作った石を割っていたディーンは、母の声に顔を上げた。
「今行く!」
「今すぐ!」
声が違った。
ディーンは石を置いた。
家の前へ回ると、数人の村人が道を走っていた。その向こうから男が二人、何かを運んでくる。
人だった。
「何があった?」
「木が倒れた!」
近くにいた男が答えた。
「伐採中に巻き込まれたんだ!」
運ばれてきたのは、ディーンも知っている村の男だった。時々、子供たちに木の実を投げてくる男だ。その左脚が血に濡れていた。
ディーンの足が止まった。
怪我を見るのは初めてではない。転んで膝を擦りむいたこともあるし、友人が木から落ちて腕を折ったこともある。
だが、これは違った。
腿のあたりが大きく裂けていた。
血が流れている。
「布! きれいなやつ!」
「持ってくる!」
「誰か先生を――」
「治癒術師がいる!」
誰かが叫んだ。
「昨日来た商隊にいる! まだ出てないはずだ!」
一人が走っていった。
ディーンは動けなかった。
男の顔は青かった。呼びかけには答えているが、額には汗が浮かんでいる。母たちが布を押し当てる。すぐに赤く染まった。
やがて、一人の女が駆けてきた。
旅装だった。
「どいてください」
村人たちが場所を空ける。女は傷の前へ膝をついた。
「骨は?」
「分からない」
「脚は動かせますか?」
男がわずかに動かした。
「分かりました。押さえていてください」
女が傷へ手をかざした。
ディーンは、その手を見た。
魔力が動いた。
今ではディーンにも、それくらいはなんとなく分かる。
だが、知っている魔術とは感覚が違った。
女が詠唱する。
聞いたことのない言葉だった。
淡い光が傷口を包んだ。
そして――傷が閉じ始めた。
「……え?」
ディーンの口から声が漏れた。
裂けていた皮膚が寄っていく。
ただ押しつけられているのではない。血が止まり、開いていた傷が少しずつ塞がっていく。
先ほどまで赤い肉が見えていた場所が、形を取り戻していく。
完全に元通りになったわけではなかった。女が手を離したあとにも傷痕は残っていたし、男はまだ痛そうにしている。
それでも、明らかに治っていた。
「今日は歩かせないでください。深い傷でしたから、明日もう一度診ます」
女が言った。
周囲から安堵の息が漏れた。
ディーンだけが、傷を見ていた。
何が起きた。
水魔術なら、水が出る。
火魔術なら、火が出る。
土魔術なら、土や石ができる。
今のは。
「ねえ」
女が振り返った。
「はい?」
「今、何したの?」
「治療ですよ」
「それは見れば分かる」
母が後ろからディーンの頭を軽く叩いた。
「すみません。この子、こういう子で」
「いや、大丈夫ですよ」
女は少し笑った。
「治癒魔術です。見たことない?」
「初めて」
「そう」
「もう一回やって」
「駄目です」
即答された。
「なんで?」
「治す傷がありませんから」
「俺の腕切ったら――」
「絶対に駄目です」
母親の声だった。
ディーンは黙った。
女が笑った。
「興味があるの?」
「うん」
「魔術師になりたい?」
「分からない」
ディーンは男の脚を指した。
「なんで、あそこが元に戻ったの?」
「治癒魔術を使ったからです」
「それは分かってる」
またこの会話だ。
「どうやって?」
「どうやって……」
女は少し考えた。
「治癒魔術で身体の傷を治したんです」
「だから、どうやって?」
困った顔をされた。
この顔も、もう何度も見たことがある。
ディーンはしゃがみ、男の脚を少し離れたところから見た。
「さっき、ここが切れてたよな」
「ええ」
「それがくっついた」
「そうですね」
「なんでちゃんとくっつくの?」
女が眉を寄せた。
「ちゃんと?」
「だって、切れてたところが元に戻っただろ」
「治癒魔術ですから」
「例えばさ」
ディーンは自分の左手を出した。
「ここを切る」
右手で手の甲を横切る仕草をする。
「そしたら、ここがくっつくんだよな?」
「傷の程度によりますけど」
「なんで、こっちとくっつかないの?」
右手の指で左手首を指した。
「……はい?」
「傷を治すなら、肉をくっつけるんだろ? なんで元々くっついてたところ同士がくっつくの?」
女が黙った。
ディーンは続けた。
「治癒魔術は、元がどうなってたか知ってるの?」
「それは……」
女は答えなかった。
ディーンは少し考えた。
「じゃあ、指がなくなったら?」
「欠損ですか?」
「うん。切れて、なくなったら」
「治癒魔術では難しいですね。少なくとも私には無理です」
「なんで?」
「なんでと言われても……欠損したものは治せません」
「でも傷は治せる」
「はい」
「ないものは作れない?」
「基本的には」
ディーンはそこで止まった。
何かがおかしい。
「水は作れるのに?」
女が瞬きをした。
「水魔術なら、何もないところから水を出せるだろ」
「……そうですね」
「土も作れる」
「ええ」
「なのに、指は作れない?」
「治癒魔術と攻撃魔術は別系統ですから」
「なんで別だと作れないの?」
「術式が違うからです」
「なんで違うと――」
「ディーン」
母に肩を掴まれた。
「その人も疲れてるの。質問はそれくらいにしなさい」
「でも」
「あとで」
ディーンは不満だったが、治癒術師の女が確かに疲れた顔をしていることには気づいた。
「……分かった」
引き下がった。
だが、その日はずっと気になった。
夜になっても、あの傷が閉じていく光景が頭から離れなかった。
火や水とは違う。
何もないところに何かを出したわけではない。
あったものを動かしただけにも見えない。
壊れたものが、元に戻った。
それも、正しい形に。
翌朝、ディーンは治癒術師を探した。
商隊はまだ村にいた。
女は昨日の男を診たあと、荷物をまとめていた。
「また君?」
「聞きたいことがある」
「昨日たくさん聞いたでしょう」
「増えた」
「増えたの?」
「うん」
女はため息をついたが、追い払わなかった。
「少しだけなら」
ディーンは隣に座った。
「治癒魔術って、誰が作ったの?」
「さあ。ずっと昔からありますから」
「どうやって覚えた?」
「師匠に教わりました」
「師匠は?」
「その師匠からでしょうね」
「一番最初は?」
「知りません」
「治癒魔術を使ってるとき、傷の中がどうなってるか分かる?」
「感覚なら多少は」
「骨と肉を間違えたりしない?」
「しません」
「なんで?」
「そういう魔術だからです」
ディーンは膝を抱えた。
「そればっかりだな」
「何が?」
「みんな、分からないと『そういう魔術だから』って言う」
女が少しだけ笑った。
「仕方ないでしょう。使うのに全部知る必要はないんだから」
「でも、知りたい」
女はディーンを見た。
「どうして?」
聞かれて、ディーンは考えた。
どうしてだろう。
役に立つからではない。
金になるからでもない。
強くなりたいからでもなかった。
ただ、昨日見た傷が頭から離れない。
あれがどうして元に戻ったのか。
知りたい。
「分からないから」
そう答えた。
女はしばらく黙っていた。
「だったら、ここでは難しいかもしれませんね」
「ここ?」
「この村で、という意味です」
「じゃあどこなら分かる?」
「分かるとは言ってません」
「じゃあ、どこなら調べられる?」
女は少し驚いた顔をした。
「……大きな町なら本があります。魔術を教える学校もあります。治癒魔術を専門にしている人だっているでしょう」
「そこに行けば答えがある?」
「ないかもしれません」
「じゃあ意味ないじゃん」
「そうでもありませんよ」
女は荷物の紐を締めた。
「答えが書いてなくても、自分が知らないことを知っている人はいます。自分では思いつかなかった調べ方を知っている人もいます。それでも分からなかったら――」
「自分で調べる?」
「そういうことです」
ディーンは黙った。
それは、少し面白そうだった。
「一番大きいところは?」
「魔術を学ぶなら、ラノア魔法大学が有名ですね」
「ラノア」
知らない名前だった。
「遠い?」
「遠いですよ」
「歩いて行ける?」
「歩いて行くつもりなの?」
「行くなら」
「君、いくつ?」
ディーンは答えた。
女は笑った。
「もう少し大きくなってからにしなさい」
「どれくらい?」
「それはご両親と相談してください」
結局、そこは教えてくれなかった。
商隊が村を出ていくのを、ディーンは道端に座って見送った。
ラノア魔法大学。
名前だけ覚えた。
すぐに行こうとは思わなかった。行き方も知らないし、金が必要なのかも知らない。それに、まだ村で試せることはいくらでもあった。
ただ、一つだけ分かった。
今までディーンは、世界を自分の知っている範囲でしか見ていなかった。
母が使う火魔術。
畑のおじさんが使う水魔術。
村人が使う土魔術。
旅人から聞いた風魔術。
それだけでも分からないことだらけだった。
だが、世界には治癒魔術がある。
なら、他にもあるのだろう。
自分がまだ見たことのない魔術が。
知らない使い方が。
知らない現象が。
知らない問いが。
その日の夕方、ディーンは自分の腕についた古い擦り傷を眺めていた。何年か前、川辺で転んだときについたものだった。
傷は、とっくに治っている。
治癒魔術を使ったわけではない。
時間が経ったから治った。
「……あれ?」
そこで、また一つ気づいた。
魔術がなくても、傷は治る。
なら。
治癒魔術は、身体が普段やっていることを早くしているだけなのだろうか。
それとも、まったく別のことをしているのだろうか。
ディーンは古い傷痕を指でなぞった。
確かめたかった。
だが、どう確かめればいいのかは分からなかった。
以前なら、それでも適当に何かを試していただろう。
今は少し違った。
自分には知らないことがある。
そして、知らないことを調べる方法すら知らないことがある。
村の外には、それを知っている人間がいるかもしれない。
いないかもしれない。
どちらでもよかった。
答えがあるなら、聞けばいい。
なければ、自分で調べればいい。
そのためには、もっと知らなければならない。
ディーンは遠ざかっていった商隊の道を思い出した。
あの道を進めば、村の外へ出る。
その先がどこへ続いているのか、まだ知らない。
ラノアという場所がどれほど遠いのかも知らない。
それでも、その日からディーンにとって村の外は、ただの「遠く」ではなくなった。
知らないものがある場所になった。