研究レポート:六面世界における魔法について   作:えびかま

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序論5

ディーンが初めて一人で村の外へ出ることを許されたのは、治癒魔術を見た日から三年ほど経った頃だった。

 

 もっとも、一人旅というほど大げさなものではない。村から歩いて半日ほどのところにある町まで、荷物を運ぶ商人についていくだけだった。父母からすれば、顔見知りの大人と一緒に隣町へ行かせる程度の話である。

 

 ディーンにとっては違った。

 

「本当に一人で大丈夫?」

 

「一人じゃないだろ。おじさんいるし」

 

「向こうで勝手にいなくならないこと」

 

「分かってる」

 

「知らない人についていかない」

 

「子供じゃないんだから」

 

「私から見れば子供です」

 

「もう魔物くらいなら――」

 

「戦うな」

 

「……はい」

 

 母親に睨まれ、ディーンは荷物を背負った。

 

 家を出る。

 

 何度も見てきた道を歩き、畑を越え、川を渡る。そこまではいつもと同じだった。

 

 違ったのは、その先だった。

 

 村の境界を示すようなものは何もない。ただ道が続いている。それでもディーンには、あるところから急に景色が変わったように感じられた。

 

 知らない道だった。

 

 知らない林があり、知らない小川があり、知らない形の岩がある。

 

 それだけで面白かった。

 

「おじさん、あの山の向こうって何がある?」

 

「別の村」

 

「その向こうは?」

 

「町」

 

「その向こう」

 

「知らん」

 

「行ったことないの?」

 

「ない」

 

「なんで?」

 

「用がないからだよ」

 

 ディーンには、それが少し不思議だった。

 

 何があるか知らないのに、行ってみようとは思わないらしい。

 

 だが、考えてみれば村の人間はみんなそうだった。畑があり、家族がいて、生活がある。必要なものが村にあるなら、わざわざ遠くへ行く理由はない。

 

 自分の方がおかしいのだろう。

 

 それはもう、なんとなく分かっていた。

 

 町へ着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。

 

 ディーンは入口で立ち止まった。

 

「……でかいな」

 

「これで驚いてたら大きな街に行けんぞ」

 

 商人が笑った。

 

 村とは比べものにならない数の建物が並んでいた。道には知らない人間が歩いている。荷車が行き交い、店先には見たことのない品物が並び、金属を叩く音と人の声が混ざっている。

 

 だが、ディーンが最初に探したのは食べ物でも武器でもなかった。

 

「本ってどこに売ってる?」

 

「着いたばかりだぞ」

 

「だから?」

 

「……まあいい。荷を下ろしたら案内してやる」

 

 連れていかれたのは、小さな店だった。

 

 ディーンはそこで初めて、まとまった数の本を見た。

 

 村にも本がないわけではない。家に一冊だけ古い物語があったし、村長の家には何冊か置かれていた。だが、棚を埋めるほど並んでいる光景は初めてだった。

 

 背表紙を読む。

 

 読めないものもある。

 

 歴史。冒険譚。商売。魔物。剣術。

 

 そして。

 

「魔術……」

 

 何冊か並んでいた。

 

 一冊を抜いた。

 

 初級魔術について書かれた本だった。

 

 開く。

 

 火魔術。

 

 知っている。

 

 水魔術。

 

 知っている。

 

 土。風。

 

 どれも使ったことがある。

 

 だが、文字で説明されているのを見るのは初めてだった。

 

 ディーンは夢中で読んだ。

 

 火魔術とは、魔力を火へ変換し、対象を燃焼させる魔術である。

 

 そこで止まった。

 

「……魔力を火に変換」

 

 小さく読む。

 

 次を見る。

 

 水魔術とは、魔力を水へ変換し、生成された水を操作する魔術である。

 

 土魔術も似たような説明だった。

 

 ディーンは少し考えた。

 

 やはりそう書いてある。

 

 昔、母や村人から聞いた話と同じだった。

 

 魔力が火になる。

 

 魔力が水になる。

 

 魔力が土になる。

 

 その説明自体は知っている。

 

 知りたいのは、その先だった。

 

 なぜ同じ魔力が火にも水にもなるのか。

 

 火になった魔力と、水になった魔力では、そのあとが違うのはなぜか。

 

 魔力そのものは何なのか。

 

 ページをめくった。

 

 書いていない。

 

 次。

 

 ない。

 

 さらに次。

 

 詠唱と、魔力の扱い方と、術の特徴。火は攻撃に向く。水は消火や生活にも使える。土は防御や建築に有用。風は目に見えないため扱いが難しい。

 

 どれも間違っているようには思えなかった。

 

 だが、欲しいことが書いていない。

 

「なんだよ」

 

 少し期待していただけに、腹が立った。

 

「何がだい?」

 

 声をかけられ、顔を上げた。

 

 店主らしい老人がこちらを見ていた。

 

「この本、途中までしか書いてない」

 

「途中?」

 

「魔力が火になるって書いてある」

 

「書いてあるな」

 

「なんでなるの?」

 

「……そういう魔術だからだろう」

 

 ディーンは本を閉じた。

 

「またそれか」

 

「何だ?」

 

「いや、いい」

 

 別の本を探した。

 

 少し難しそうなものを見つける。

 

 魔術の基礎理論。

 

 今度こそと思った。

 

 開く。

 

 属性について書いてある。火、水、土、風。それぞれの特徴。相性。術級。初級、中級、上級。

 

 知りたいこととは違う。

 

 さらに探す。

 

 治癒魔術。

 

 手が止まった。

 

 本を開く。

 

 治癒魔術は生命魔術の一種であり、魔力によって対象の自然治癒力を促進し、損傷した肉体を修復する。

 

「自然治癒……」

 

 ディーンはそこだけ何度も読んだ。

 

 以前、自分で考えたことと似ていた。

 

 身体は放っておいても傷を治す。

 

 治癒魔術は、それを早くしている。

 

 なら。

 

 ページをめくる。

 

 欠損した部位の再生は困難。重度の損傷にはより高位の術を要する。毒や病に対しては解毒魔術を用いる。

 

 そこで説明は終わっていた。

 

「……なんでだよ」

 

 自然に治る力を早くする。

 

 それなら、少なくとも少しは分かる。

 

 だが、なぜ魔術を使うと早くなる。

 

 何を早くしている。

 

 傷が浅ければ治るのに、指一本なくなれば治せないのはなぜなのか。

 

 自然に治る範囲だから?

 

 なら高位の治癒魔術では何が違う?

 

「おじさん」

 

「今度は何だい?」

 

「もっと詳しい本ない?」

 

「何について?」

 

「治癒魔術」

 

 老人は棚を見た。

 

「専門書ならあるが、高いぞ」

 

「見せて」

 

「買うのか?」

 

「値段による」

 

 出された本の値段を聞いて、ディーンは黙った。

 

 持ってきた金では到底足りなかった。

 

「……読むだけは?」

 

「駄目だ」

 

「ちょっとだけ」

 

「駄目」

 

「一ページ」

 

「駄目だ」

 

 世の中には、知識を得るためにも金が必要らしい。

 

 ディーンはその日、持っていた金で買える一冊だけを選んだ。

 

 魔術の入門書ではなかった。

 

 魔物について書かれた本だった。

 

 商人のおじさんは首を傾げた。

 

「魔術の本じゃないのか?」

 

「高かった」

 

「それは?」

 

「安かった」

 

「それだけか?」

 

「あと、知らないことが多かった」

 

 魔術の入門書には知っていることが多かった。

 

 魔物の本には、知らないことが多かった。

 

 なら、こちらを買った方が得だと思った。

 

 帰り道、歩きながら読もうとして二度転び、商人に本を取り上げられた。

 

「帰ってから読め!」

 

「返せよ!」

 

「崖から落ちたら俺が母ちゃんに殺される!」

 

 家に帰ったその夜、ディーンは灯りの下で本を開いた。

 

 知らない魔物がたくさん載っていた。

 

 身体の中に魔石を持つもの。

 

 魔力を使うもの。

 

 火を吐くもの。

 

 傷を治すもの。

 

 死ぬと身体の一部が変質するもの。

 

 面白かった。

 

 その中に、一つ妙な記述があった。

 

 ある魔物は、生息する土地によって身体の性質が変わるという。

 

 同じ種類でありながら、寒い地方では毛が厚く、暑い地方では薄い。食べるものによっても違いが出るらしい。

 

 ディーンはその記述を読んで、少し考えた。

 

 人間も同じなのだろうか。

 

 怪我が治るのも、生き物だからなのか。

 

 魔物の治癒と人間の治癒は同じなのか。

 

 魔物が使う魔力と、人間が使う魔力は同じなのか。

 

 また増えた。

 

 ディーンは紙を一枚取り出した。

 

 最近、思いついたことを忘れないように書くようになっていた。

 

 火。

 

 水。

 

 土。

 

 風。

 

 治癒。

 

 魔物。

 

 その下に、今日聞いた言葉を書いた。

 

 自然治癒。

 

 しばらく眺める。

 

 そして、その横に小さく書いた。

 

『本に書いてあることは、本当か?』

 

 翌朝。

 

 ディーンは村の外れにいた。

 

 手には昨日買った本を持っている。

 

 開いているのは、この近辺にも生息すると書かれていた小型の魔物のページだった。

 

「この辺にいるって書いてあるんだよな」

 

 隣にいた友人が嫌そうな顔をした。

 

「だからって探しに行くのか?」

 

「うん」

 

「なんで?」

 

「見たいから」

 

「本に絵あるじゃん」

 

「本が間違ってるかもしれない」

 

「なんで本より自分を信じてるんだよ」

 

 ディーンは少し考えた。

 

「別に自分も信じてない」

 

「じゃあ何を信じるんだよ」

 

「見たもの」

 

「……帰っていい?」

 

「駄目。一人だと危ないって母さんに言われた」

 

「俺を巻き込むなよ!」

 

 二人は森へ入った。

 

 結局、その日は目当ての魔物を見つけられなかった。

 

 代わりに道に迷った。

 

 日が暮れる前には戻れたが、村ではちょっとした騒ぎになっていた。

 

 ディーンは母親にひどく叱られた。

 

 友人の母親にも叱られた。

 

 ついでに友人本人にも殴られた。

 

 それでも、数日後にはまた森へ入った。

 

 今度は村の猟師についていった。

 

 一人で探すより、その方がいいと学んだからだった。

 

 目当ての魔物は見つかった。

 

 本に書いてある特徴の大半は正しかった。

 

 一つだけ、違っていた。

 

 体毛の色だった。

 

 本には灰色と書かれている。

 

 目の前にいるものは、少し茶色い。

 

「おじさん、こいつ茶色いよな?」

 

「そうだな」

 

「本には灰色って書いてある」

 

「場所によって違うんじゃないか?」

 

「なんで?」

 

「知らん」

 

 ディーンは魔物を見た。

 

 それから本を見る。

 

 もう一度、魔物を見る。

 

 本は嘘ではなかった。

 

 だが、全部でもなかった。

 

 そのことが、妙に嬉しかった。

 

 家へ戻ると、例の紙を取り出した。

 

『本に書いてあることは、本当か?』

 

 その下へ書き加える。

 

『本当なこともある。でも、それだけとは限らない。』

 

 少し考えて、さらに書いた。

 

『分からなければ、見る。』

 

 そこで一度ペンを止めた。

 

 今日、自分一人では魔物を見つけられなかったことを思い出す。

 

 猟師は、どこを探せばいいのか知っていた。

 

 なら。

 

『知っている人に聞く。』

 

 さらに一行。

 

『それでも分からなければ、自分で試す。』

 

 ディーンは四行を眺めた。

 

 別に大発見をしたつもりはなかった。

 

 当たり前のことしか書いていない。

 

 本を読む。

 

 人に聞く。

 

 見る。

 

 試す。

 

 それだけだ。

 

 ただ、それまでのディーンは、ほとんど最後の一つしかやってこなかった。

 

 知らないことは、自分で試せばいいと思っていた。

 

 だが世界には、自分が知らないことをすでに調べた人間がいる。

 

 自分にはできないことができる人間もいる。

 

 逆に、本に書かれていることがすべて正しいとも限らない。

 

 だったら、全部使えばいい。

 

 ディーンは紙を折り、本の間へ挟んだ。

 

 その夜、寝床に入ってからも町のことを考えていた。

 

 あれほど本があった。

 

 それでも、小さな町なのだという。

 

 もっと大きな街なら。

 

 もっと本がある。

 

 もっと魔術師がいる。

 

 もっと、自分の知らないものがある。

 

 そして、いつか聞いた名前を思い出した。

 

 ラノア魔法大学。

 

 魔術を学ぶための場所。

 

 あそこなら、どれくらいあるのだろう。

 

 答えではない。

 

 ディーンが欲しくなったのは、もう少し別のものだった。

 

 知らないこと。

 

 調べるための方法。

 

 そして、まだ自分が思いついてすらいない問い。

 

 暗闇の中で、ディーンは目を閉じた。

 

 村の外は、思っていたより広いらしい。

 

 なら、もう少し遠くまで行ってみたかった。

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