研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
ディーンが初めて一人で村の外へ出ることを許されたのは、治癒魔術を見た日から三年ほど経った頃だった。
もっとも、一人旅というほど大げさなものではない。村から歩いて半日ほどのところにある町まで、荷物を運ぶ商人についていくだけだった。父母からすれば、顔見知りの大人と一緒に隣町へ行かせる程度の話である。
ディーンにとっては違った。
「本当に一人で大丈夫?」
「一人じゃないだろ。おじさんいるし」
「向こうで勝手にいなくならないこと」
「分かってる」
「知らない人についていかない」
「子供じゃないんだから」
「私から見れば子供です」
「もう魔物くらいなら――」
「戦うな」
「……はい」
母親に睨まれ、ディーンは荷物を背負った。
家を出る。
何度も見てきた道を歩き、畑を越え、川を渡る。そこまではいつもと同じだった。
違ったのは、その先だった。
村の境界を示すようなものは何もない。ただ道が続いている。それでもディーンには、あるところから急に景色が変わったように感じられた。
知らない道だった。
知らない林があり、知らない小川があり、知らない形の岩がある。
それだけで面白かった。
「おじさん、あの山の向こうって何がある?」
「別の村」
「その向こうは?」
「町」
「その向こう」
「知らん」
「行ったことないの?」
「ない」
「なんで?」
「用がないからだよ」
ディーンには、それが少し不思議だった。
何があるか知らないのに、行ってみようとは思わないらしい。
だが、考えてみれば村の人間はみんなそうだった。畑があり、家族がいて、生活がある。必要なものが村にあるなら、わざわざ遠くへ行く理由はない。
自分の方がおかしいのだろう。
それはもう、なんとなく分かっていた。
町へ着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。
ディーンは入口で立ち止まった。
「……でかいな」
「これで驚いてたら大きな街に行けんぞ」
商人が笑った。
村とは比べものにならない数の建物が並んでいた。道には知らない人間が歩いている。荷車が行き交い、店先には見たことのない品物が並び、金属を叩く音と人の声が混ざっている。
だが、ディーンが最初に探したのは食べ物でも武器でもなかった。
「本ってどこに売ってる?」
「着いたばかりだぞ」
「だから?」
「……まあいい。荷を下ろしたら案内してやる」
連れていかれたのは、小さな店だった。
ディーンはそこで初めて、まとまった数の本を見た。
村にも本がないわけではない。家に一冊だけ古い物語があったし、村長の家には何冊か置かれていた。だが、棚を埋めるほど並んでいる光景は初めてだった。
背表紙を読む。
読めないものもある。
歴史。冒険譚。商売。魔物。剣術。
そして。
「魔術……」
何冊か並んでいた。
一冊を抜いた。
初級魔術について書かれた本だった。
開く。
火魔術。
知っている。
水魔術。
知っている。
土。風。
どれも使ったことがある。
だが、文字で説明されているのを見るのは初めてだった。
ディーンは夢中で読んだ。
火魔術とは、魔力を火へ変換し、対象を燃焼させる魔術である。
そこで止まった。
「……魔力を火に変換」
小さく読む。
次を見る。
水魔術とは、魔力を水へ変換し、生成された水を操作する魔術である。
土魔術も似たような説明だった。
ディーンは少し考えた。
やはりそう書いてある。
昔、母や村人から聞いた話と同じだった。
魔力が火になる。
魔力が水になる。
魔力が土になる。
その説明自体は知っている。
知りたいのは、その先だった。
なぜ同じ魔力が火にも水にもなるのか。
火になった魔力と、水になった魔力では、そのあとが違うのはなぜか。
魔力そのものは何なのか。
ページをめくった。
書いていない。
次。
ない。
さらに次。
詠唱と、魔力の扱い方と、術の特徴。火は攻撃に向く。水は消火や生活にも使える。土は防御や建築に有用。風は目に見えないため扱いが難しい。
どれも間違っているようには思えなかった。
だが、欲しいことが書いていない。
「なんだよ」
少し期待していただけに、腹が立った。
「何がだい?」
声をかけられ、顔を上げた。
店主らしい老人がこちらを見ていた。
「この本、途中までしか書いてない」
「途中?」
「魔力が火になるって書いてある」
「書いてあるな」
「なんでなるの?」
「……そういう魔術だからだろう」
ディーンは本を閉じた。
「またそれか」
「何だ?」
「いや、いい」
別の本を探した。
少し難しそうなものを見つける。
魔術の基礎理論。
今度こそと思った。
開く。
属性について書いてある。火、水、土、風。それぞれの特徴。相性。術級。初級、中級、上級。
知りたいこととは違う。
さらに探す。
治癒魔術。
手が止まった。
本を開く。
治癒魔術は生命魔術の一種であり、魔力によって対象の自然治癒力を促進し、損傷した肉体を修復する。
「自然治癒……」
ディーンはそこだけ何度も読んだ。
以前、自分で考えたことと似ていた。
身体は放っておいても傷を治す。
治癒魔術は、それを早くしている。
なら。
ページをめくる。
欠損した部位の再生は困難。重度の損傷にはより高位の術を要する。毒や病に対しては解毒魔術を用いる。
そこで説明は終わっていた。
「……なんでだよ」
自然に治る力を早くする。
それなら、少なくとも少しは分かる。
だが、なぜ魔術を使うと早くなる。
何を早くしている。
傷が浅ければ治るのに、指一本なくなれば治せないのはなぜなのか。
自然に治る範囲だから?
なら高位の治癒魔術では何が違う?
「おじさん」
「今度は何だい?」
「もっと詳しい本ない?」
「何について?」
「治癒魔術」
老人は棚を見た。
「専門書ならあるが、高いぞ」
「見せて」
「買うのか?」
「値段による」
出された本の値段を聞いて、ディーンは黙った。
持ってきた金では到底足りなかった。
「……読むだけは?」
「駄目だ」
「ちょっとだけ」
「駄目」
「一ページ」
「駄目だ」
世の中には、知識を得るためにも金が必要らしい。
ディーンはその日、持っていた金で買える一冊だけを選んだ。
魔術の入門書ではなかった。
魔物について書かれた本だった。
商人のおじさんは首を傾げた。
「魔術の本じゃないのか?」
「高かった」
「それは?」
「安かった」
「それだけか?」
「あと、知らないことが多かった」
魔術の入門書には知っていることが多かった。
魔物の本には、知らないことが多かった。
なら、こちらを買った方が得だと思った。
帰り道、歩きながら読もうとして二度転び、商人に本を取り上げられた。
「帰ってから読め!」
「返せよ!」
「崖から落ちたら俺が母ちゃんに殺される!」
家に帰ったその夜、ディーンは灯りの下で本を開いた。
知らない魔物がたくさん載っていた。
身体の中に魔石を持つもの。
魔力を使うもの。
火を吐くもの。
傷を治すもの。
死ぬと身体の一部が変質するもの。
面白かった。
その中に、一つ妙な記述があった。
ある魔物は、生息する土地によって身体の性質が変わるという。
同じ種類でありながら、寒い地方では毛が厚く、暑い地方では薄い。食べるものによっても違いが出るらしい。
ディーンはその記述を読んで、少し考えた。
人間も同じなのだろうか。
怪我が治るのも、生き物だからなのか。
魔物の治癒と人間の治癒は同じなのか。
魔物が使う魔力と、人間が使う魔力は同じなのか。
また増えた。
ディーンは紙を一枚取り出した。
最近、思いついたことを忘れないように書くようになっていた。
火。
水。
土。
風。
治癒。
魔物。
その下に、今日聞いた言葉を書いた。
自然治癒。
しばらく眺める。
そして、その横に小さく書いた。
『本に書いてあることは、本当か?』
翌朝。
ディーンは村の外れにいた。
手には昨日買った本を持っている。
開いているのは、この近辺にも生息すると書かれていた小型の魔物のページだった。
「この辺にいるって書いてあるんだよな」
隣にいた友人が嫌そうな顔をした。
「だからって探しに行くのか?」
「うん」
「なんで?」
「見たいから」
「本に絵あるじゃん」
「本が間違ってるかもしれない」
「なんで本より自分を信じてるんだよ」
ディーンは少し考えた。
「別に自分も信じてない」
「じゃあ何を信じるんだよ」
「見たもの」
「……帰っていい?」
「駄目。一人だと危ないって母さんに言われた」
「俺を巻き込むなよ!」
二人は森へ入った。
結局、その日は目当ての魔物を見つけられなかった。
代わりに道に迷った。
日が暮れる前には戻れたが、村ではちょっとした騒ぎになっていた。
ディーンは母親にひどく叱られた。
友人の母親にも叱られた。
ついでに友人本人にも殴られた。
それでも、数日後にはまた森へ入った。
今度は村の猟師についていった。
一人で探すより、その方がいいと学んだからだった。
目当ての魔物は見つかった。
本に書いてある特徴の大半は正しかった。
一つだけ、違っていた。
体毛の色だった。
本には灰色と書かれている。
目の前にいるものは、少し茶色い。
「おじさん、こいつ茶色いよな?」
「そうだな」
「本には灰色って書いてある」
「場所によって違うんじゃないか?」
「なんで?」
「知らん」
ディーンは魔物を見た。
それから本を見る。
もう一度、魔物を見る。
本は嘘ではなかった。
だが、全部でもなかった。
そのことが、妙に嬉しかった。
家へ戻ると、例の紙を取り出した。
『本に書いてあることは、本当か?』
その下へ書き加える。
『本当なこともある。でも、それだけとは限らない。』
少し考えて、さらに書いた。
『分からなければ、見る。』
そこで一度ペンを止めた。
今日、自分一人では魔物を見つけられなかったことを思い出す。
猟師は、どこを探せばいいのか知っていた。
なら。
『知っている人に聞く。』
さらに一行。
『それでも分からなければ、自分で試す。』
ディーンは四行を眺めた。
別に大発見をしたつもりはなかった。
当たり前のことしか書いていない。
本を読む。
人に聞く。
見る。
試す。
それだけだ。
ただ、それまでのディーンは、ほとんど最後の一つしかやってこなかった。
知らないことは、自分で試せばいいと思っていた。
だが世界には、自分が知らないことをすでに調べた人間がいる。
自分にはできないことができる人間もいる。
逆に、本に書かれていることがすべて正しいとも限らない。
だったら、全部使えばいい。
ディーンは紙を折り、本の間へ挟んだ。
その夜、寝床に入ってからも町のことを考えていた。
あれほど本があった。
それでも、小さな町なのだという。
もっと大きな街なら。
もっと本がある。
もっと魔術師がいる。
もっと、自分の知らないものがある。
そして、いつか聞いた名前を思い出した。
ラノア魔法大学。
魔術を学ぶための場所。
あそこなら、どれくらいあるのだろう。
答えではない。
ディーンが欲しくなったのは、もう少し別のものだった。
知らないこと。
調べるための方法。
そして、まだ自分が思いついてすらいない問い。
暗闇の中で、ディーンは目を閉じた。
村の外は、思っていたより広いらしい。
なら、もう少し遠くまで行ってみたかった。