研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
ディーンが詠唱をしなくなったのがいつだったのか、本人にもはっきりとは分からなかった。
最初から、なくそうと思っていたわけではない。
幼い頃、母親の真似をして火を出そうとしていたときから、ディーンは詠唱を少しずつ変えていた。早く唱える。遅く唱える。一部を間違える。途中で止める。声を小さくする。口だけ動かす。そうやって遊んでいるうちに、言葉を多少変えても魔術が成立することに気づいた。
なら、どこまで変えていいのか。
それを確かめるのは自然なことだった。
「赤き熱よ、我が魔力に従い、ここに小さき火を灯せ――」
火が灯る。
「赤き熱よ、我が魔力に従い――」
灯る。
「赤き熱よ――」
灯る。
「熱よ――」
灯る。
「……火」
灯る。
そこまで来れば、次に試すことは一つしかなかった。
ディーンは右手を見た。
火が出るときの感覚は分かっている。
胸の奥というべきなのか、腹の奥というべきなのか、場所として示すのは難しい。身体の中にある何かを動かして、腕を通して、外へ出す。そのとき、ただ魔力を出せばいいわけではない。水を出すときとは違う。土を作るときとも違う。
火を出すときには、火を出すときの感覚がある。
ディーンは黙ったまま、それをやった。
指先に小さな炎が灯った。
「……出るじゃん」
それだけだった。
もっと感動するかと思った。
何年も使ってきた詠唱が、実はなくてもよかったのだ。普通なら大発見なのかもしれない。
だがディーンには、ずっと少しずつ削ってきた最後の一言が消えただけに思えた。
問題は別にあった。
「じゃあ、詠唱って何のためにあるんだ?」
翌日から、今度はそちらを調べ始めた。
詠唱ありと、なし。
同じ大きさの火を作る。
同じくらいの時間維持する。
何度も繰り返す。
水でも試す。土でも試す。風でも試す。
無詠唱だから魔力を使わないわけではない。当然、疲れる。
むしろ最初のうちは、詠唱した方が楽だった。
言葉に合わせて魔力を動かせば、いつもの形になる。黙ってやる場合は、自分で全部合わせなければならない。火を大きくしすぎたり、水が妙な方向へ飛んだり、土の形が崩れたりした。
そこでディーンは、詠唱について少しだけ考えを変えた。
なくてもいい。
だからといって、意味がないわけではない。
詠唱は、魔術を使うための手順を代わりに整えてくれているのかもしれない。
そう紙に書いた。
『詠唱が魔術を起こしているわけではない。たぶん。』
少し考えて、その下へ続ける。
『でも、詠唱するとやりやすい。』
さらに考える。
『なら、詠唱は道具?』
疑問符をつけた。
まだ分からない。
ただ、その頃からディーンは普段の魔術でほとんど詠唱を使わなくなった。
理由は単純だった。
早いからだ。
「ディーン!」
森の中で声が飛んだ。
考え事をしていたディーンは、反射的に横へ跳んだ。
直前まで頭のあった場所を木の棒が通り抜ける。
「危ないだろ!」
「敵が待ってくれると思うか!」
棒を振った男が怒鳴った。
村の猟師だった。
ディーンが魔物を探すために何度も森へついていき、そのうち狩りそのものも教えてもらうようになった相手である。
「今考えてたんだよ」
「戦ってる最中に考えるな!」
「戦ってるときだから考えるんだろ」
「死んでから考えろ!」
「死んだら考えられないだろ!」
「屁理屈言うな!」
再び棒が来た。
ディーンは後ろへ下がった。
距離が開く。
右手を向ける。
地面が盛り上がった。
「おっ――」
猟師の足が取られる。
そこへ風をぶつけた。
「ぐおっ!」
男が尻餅をついた。
「どう?」
「どう、じゃない!」
「勝っただろ」
「俺が魔物なら今ので終わると思うか?」
「なら次に火」
「俺を燃やすな!」
「だから止めたんだよ」
男は立ち上がり、尻についた土を払った。
「お前は本当に……」
呆れながらも、少し笑っていた。
ディーンが猟師に戦い方を教えてくれと頼んだのは、一年ほど前だった。
理由は魔物だった。
本に載っている魔物を自分で見に行くようになり、それまで知らなかったことをいくつも知った。
魔物は、本を読んでいる間は襲ってこない。
実物は襲ってくる。
当たり前だった。
最初の頃は猟師についていけばよかった。だが猟師にも仕事がある。ディーンが「今日はあの魔物を見たい」と言うたびについてきてくれるわけではない。
護衛を雇うには金がいる。
なら、自分で身を守れるようになればいい。
それだけの理由だった。
猟師は最初、魔術が使えるなら十分だと言った。
実際、離れた場所から魔術を撃てるのは強い。
だが森では、離れた場所から始まるとは限らない。
茂みの向こう。
木の上。
背後。
寝ているとき。
気づいたときには、魔物が腕を伸ばせば届くところにいることもある。
そこでディーンは、棒の振り方から教わった。
最初はひどかった。
魔術なら思ったところへ飛ばせるのに、棒は思ったところへ行かない。振れば身体が引っ張られる。足を止めれば姿勢が崩れる。相手が動けば当たらない。
だが、これはこれで面白かった。
身体を動かすことにも、やり方がある。
足の置き方を変えるだけで、次の動きが速くなる。腕だけで振るより身体ごと動かした方が強い。相手の肩を見ると、棒が動く前に少しだけ次の動きが分かる。
知らないことだった。
だから覚えた。
剣の達人になろうとは思わなかった。
猟師も達人ではない。
ただ、生き物を相手にして生き残る方法を知っていた。
「もう一回」
ディーンが棒を拾う。
「今日は終わりだ」
「まだ動ける」
「俺が疲れた」
「じゃあ魔術だけで――」
「帰るぞ」
猟師は歩き出した。
ディーンも後ろをついていく。
「なあ」
「なんだ」
「町の向こうって行ったことある?」
「あるぞ」
「どこまで?」
「若い頃は冒険者をやってたからな。そこそこ遠くまで行った」
ディーンは初めて聞いた。
「なんで言わなかった?」
「聞かれなかったからだ」
「何見た?」
「いろいろ」
「例えば?」
「今日は帰るんじゃなかったのか」
「歩きながら話せるだろ」
猟師は面倒そうに頭を掻いた。
それでも話してくれた。
大きな街。
村の周辺にはいない魔物。
森とは比べものにならないほど広い草原。
雪に覆われた土地。
魔術師。
剣士。
冒険者。
遺跡。
話を聞いているうちに、ディーンは何度も質問した。
魔物はどんな形だった。
どんな魔術を使った。
遺跡は誰が作った。
いつからある。
魔術師は何をしていた。
猟師は答えられるものには答えた。
分からないものには、分からないと言った。
村へ着く頃には、質問の方が残っていた。
「行ってみたいか?」
突然聞かれた。
ディーンは少し考えた。
「うん」
「だろうな」
「なんで分かった?」
「お前を何年見てると思ってる」
猟師は笑った。
「ただな。外はここより危ないぞ」
「知ってる」
「知らんよ」
即座に否定された。
「お前が知ってるのは、この辺の危なさだ。場所が変われば、魔物も変わる。人間も変わる。森の歩き方を知っていても砂漠じゃ役に立たん。魔術が使えても、それだけでどうにかなるとは限らん」
「じゃあ、どうする?」
「覚えろ」
「何を?」
「必要になったものを、その都度だ」
ディーンは少し黙った。
「おじさん、それ得意?」
「何が?」
「分からないときに、分からないって言うの」
「褒めてるのか?」
「うん」
「お前に褒められても嬉しくないな」
家へ帰ると、母が夕食を作っていた。
ディーンは椅子に座った。
「母さん」
「何?」
「村を出たい」
母の手が止まった。
予想していなかったわけではないのだろう。
驚いた顔はしなかった。
「いつ?」
「まだ決めてない」
「どこへ?」
「それも」
「ラノア?」
「いつかは行きたい」
「じゃあ最初は?」
「町。その次は、もっと大きいところ」
「それから?」
「分からない」
母はしばらく黙っていた。
「何をしに行くの?」
ディーンは答えようとして、少し迷った。
魔術を勉強する。
それでも間違いではない。
魔術師になる。
それも違う気がする。
ラノア魔法大学へ行く。
いつかはそうなるかもしれない。
けれど、それだけでもなかった。
「見に行く」
「何を?」
「分からないもの」
母がため息をついた。
「そんな答えだと思った」
「駄目?」
「今すぐは駄目」
「なんで?」
「お金は?」
黙った。
「食事は?」
「狩る」
「毎日?」
「……町では買う」
「そのお金は?」
また黙った。
「寝るところは?」
「野宿」
「雨の日は?」
「土魔術で――」
「人の土地で勝手に家を作らない」
「消せばいいだろ」
「そういう問題じゃありません」
ディーンは腕を組んだ。
魔物への対処ばかり考えていた。
旅をするには、それ以外のことも必要らしい。
「じゃあ、どうしたらいい?」
「自分で考えなさい」
「教えてくれないの?」
「あなた、分からないことはどうするんだった?」
ディーンは母を見た。
笑っている。
「……知ってる人に聞く」
「そう」
「母さん知ってる?」
「少しは」
「じゃあ教えて」
「まず夕飯を食べなさい」
それから数か月、ディーンは旅に必要なことを覚えた。
金の使い方。
宿の取り方。
食料の保存。
火の起こし方。これは魔術があるので困らなかった。
怪我をしたときの処置。
地図の見方。
道を聞くときの聞き方。
危険な場所。
知らない人間を簡単に信用しないこと。
逆に、誰も信用しなければ旅はできないこと。
魔術も練習した。
大きな術を撃つ練習ではない。
早く出す。
狙ったところだけ変える。
動きながら使う。
転びながら使う。
背後へ使う。
片手が塞がっていても使う。
魔力をできるだけ無駄にしない。
最後のものは昔からやっていた。
魔力がなくなると眠くなる。
眠れば実験できない。
だから同じことをするなら、少ない方がいい。
それだけだった。
剣も一本手に入れた。
新品ではない。猟師が昔使っていた短めの剣だった。
「やる」
「いいの?」
「どうせ使ってない」
ディーンは抜いてみた。
重い。
「魔術が使えなくなったときに使え」
「魔力が切れるまで戦わないよ」
「そう思ってても切れるときがある」
「じゃあ逃げる」
「逃げられなかったら?」
「これ使う」
「そういうことだ」
剣を鞘へ戻した。
「ありがとう」
「珍しいな。お前が素直に礼を言うとは」
「返そうか?」
「持ってけ」
そして春。
ディーンは村の入口に立っていた。
荷物は思っていたより多くなった。
着替え。
食料。
水。
火を起こす道具。母が持たせた。魔術が使えなくなることも考えろと言われた。
紙。
筆記具。
本。
短剣。
剣。
金。
それから、何年も書き足してきた紙の束。
火について。
水について。
土について。
風について。
治癒について。
魔物について。
詠唱について。
分かったことより、分からないことの方が多い。
母が荷物を何度も確認した。
「無茶しない」
「うん」
「知らないものを見つけても、すぐ触らない」
「場合による」
「触らない」
「……うん」
「毒かもしれないものを舐めない」
「一回しかやってないだろ」
「一回でも駄目です」
「分かった」
「危なくなったら逃げる」
「分かってる」
「手紙を書く」
「どこから?」
「町に着いたら」
「毎回?」
「できるだけ」
「分かった」
最後に母は黙った。
何か言おうとして、やめた。
代わりにディーンの髪を乱暴に撫でた。
「行ってらっしゃい」
「うん」
ディーンは歩き出した。
何度も通った道だった。
最初に町へ行ったときと同じ道。
畑を越える。
川を渡る。
林が見える。
少し歩いてから、ディーンは振り返った。
母がまだ立っていた。
手を振る。
向こうも振った。
それから前を向いた。
この先に何があるのかは知らない。
ラノアへ行くのがいつになるのかも決めていない。
そもそも、本当にそこへ行くのかさえ、今はまだ分からない。
まず町へ行く。
そこで本を読む。
人に聞く。
面白い話があれば、見に行く。
分からなければ試す。
それだけだった。
ディーンは歩いた。
村が見えなくなった。
それでも足を止めなかった。
彼が初めて村の外で調べるものが何になるのか、この時点では本人にも分かっていなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
分からないものは、村の中よりずっと多かった。