研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
村を出て三日目、ディーンは旅というものが、思っていたよりずっと金のかかる行為だと知った。
最初に減ったのは食料だった。村を出るとき、母親が多すぎるくらい持たせてくれたはずなのに、食べれば当然なくなる。水なら魔術でどうにかできるが、腹を満たすことはできない。次に宿だった。一晩眠るだけなのだから大した額ではないと思っていたが、毎晩となれば違う。野宿をすれば金はかからないものの、雨が降れば濡れるし、荷物を抱えたまま眠るのも落ち着かない。土魔術で屋根を作ってみたこともあるが、横から吹き込む雨までは防げず、翌朝には外套も靴も湿っていた。
そして何より高かったのが、本だった。
「……高い」
「そう言われてもねえ」
店主は困った顔をした。
ディーンの手には治癒魔術について書かれた本があった。以前、商人について訪れた町で見たものより分厚く、身体の部位ごとに術式の違いまで書かれているらしい。欲しかった。かなり欲しかった。
「もう少し安くならない?」
「ならない」
「半分だけ買うとか」
「本を切れっていうのか?」
「前半だけでいい」
「駄目だ」
仕方なく本を棚へ戻し、財布の中身を確認する。買えないことはない。ただ、買えば宿に泊まれる日数が一気に減る。村にいた頃なら本を一冊買うために寝床と食事の心配をする必要などなかった。
「読むだけなら?」
「買ってくれ」
「一日借りるのは?」
「ここは貸本屋じゃない」
「一時間」
「駄目だ」
最後には店から追い出された。
店先で財布を開き、残った硬貨を数える。食事、宿、移動、本。それ以外にも紙やインクがいるし、実験に必要なものが出てくれば買わなければならない。今までは調べたいことがあれば自分で試せばいいと思っていたが、旅に出てしまえば、試すところまで辿り着くにも金がいるらしい。
「……金、いるな」
ディーンは紙を取り出し、『旅には金がいる』と書いた。その下へ『本は特に高い』と付け加え、少し考えてから『どうやって増やす?』と書く。
村にいた頃は家の手伝いをすれば小遣いくらいはもらえた。町なら荷運びでも掃除でも仕事はあるだろう。何日か働けば、さっきの本にも手が届くかもしれない。そんなことを考えながら歩いていると、以前訪れた町でも見た看板が目に入った。
冒険者ギルドだった。
中へ入ると、朝だというのに大勢の人間がいた。剣を背負った男、弓を持った女、鎧姿の大男、杖を脇に置いて食事をしている魔術師。壁には依頼書が並び、荷物の運搬、薬草の採取、護衛、害獣駆除、魔物討伐と、それぞれの仕事内容と報酬が書かれている。
ディーンは一枚ずつ眺めていき、途中で足を止めた。
『赤尾蜥蜴。街道東部の岩場周辺にて目撃。討伐――』
知っている魔物だった。本で読んだことがある。大型の蜥蜴型魔物で、乾燥した岩場を好み、周囲に合わせて体色を変える。そして、ときに火を吐く。
実物は見たことがなかった。
「これ、どこにいる?」
受付の女性が顔を上げた。
「赤尾蜥蜴ですか? 東の岩場ですが……依頼を受けるんですか?」
「いや、見に行きたい」
「見る?」
「火を吐くって本当?」
「報告では、そうですね」
「どうやって?」
「どうやって、と言われましても……」
「魔術なのか分かる?」
「そこまでは」
「詠唱は?」
「魔物が詠唱するとは聞いたことがありませんね」
ディーンはもう一度依頼書を見た。体色を変える仕組みも気になるが、火を吐くという方はもっと気になった。もし魔術なら、なぜ詠唱を必要としないのか。自分が言葉を一つずつ削って無詠唱へ辿り着いた過程と、何か共通するものがあるのだろうか。
「場所、もう少し詳しく教えてもらえる?」
「冒険者でない方を討伐対象のところへ案内することはできません。かなり危険な魔物ですよ」
「じゃあ、誰かについていくのは?」
「その冒険者が了承するなら、こちらから止めることはできませんけど……」
ディーンは周囲を見回した。
少し離れたところで三人の冒険者が赤尾蜥蜴の依頼書を囲んで話している。盾を背負った男と、腰に長剣を差した男、それに杖を持った女だった。
「赤尾蜥蜴を狩りに行くの?」
声をかけると、三人がこちらを見た。
「ああ。そうだけど」
「一緒に行ってもいい?」
「なんで?」
「実物を見たい」
「見世物じゃねえぞ」
「邪魔はしない。必要なら金も払う」
その一言で三人の表情が少し変わった。話し合いの末、戦闘が始まったら指示に従うこと、勝手に対象へ近づかないことを条件に同行を許された。
もちろん、金は取られた。
ギルドを出たあとで財布を見ると、さっきよりさらに軽くなっている。魔物を一種類見るだけでこれだけかかるのなら、世界中の魔物を実際に調べて回る頃には、いったいいくら必要になるのだろう。
「……これ、続けられないな」
別の方法が必要だった。
翌朝、四人は町を出た。
「一応聞いておくけど、お前、戦えるのか?」
道中、盾を背負った男が尋ねてきた。
「少しなら」
「武器は?」
ディーンは腰に下げた剣を示した。
「これと魔術」
「何級だ?」
「分からない」
「分からない?」
「級を意識して使ってないから。火と水と土と風、それと治癒なら使える」
三人の足が少しだけ遅くなった。
「……治癒も?」
「簡単なのだけ。浅い傷なら塞げるけど、深い傷とか折れた骨は無理」
「四属性に治癒って、お前……どこで習った?」
「治癒は前に村へ来た人のを見て、それから教えてもらったり試したりした。四属性はだいたい自分で」
三人が顔を見合わせた。
「まあ……いい。戦闘になったら俺たちより前には出るな。それと、魔術を撃つなら声をかけろ。後ろから焼かれるのは御免だ」
「分かった」
岩場へ着いたのは昼前だった。乾いた地面に大小の岩が転がり、その隙間に低い草が生えている。本に書かれていた生息地の特徴とは一致していたが、肝心の赤尾蜥蜴は見当たらない。
ディーンは歩きながら岩の一つ一つを眺めた。もし本当に周囲と同じ色になるのなら、どの程度まで似せられるのだろう。色だけなのか、模様まで変わるのか。そもそも周囲の色をどうやって認識しているのか。目で見てから変えているなら、視界を塞げばどうなる。
「止まれ!」
鋭い声に、ディーンの足が止まった。
目の前にあった岩が動いた。
岩だと思っていたものの一部が持ち上がり、次の瞬間には大きな口が開いていた。ディーンは反射的に後ろへ跳び、直前まで身体のあった場所で牙が空を噛む。着地と同時に腰の剣へ手を伸ばしながら距離を取り直すと、岩とほとんど見分けのつかなかった表皮が、徐々に灰褐色へ変わっていくのが見えた。
「本当に変わるんだ……」
「観察はあとだ!」
「分かってる!」
答えながらも目は皮膚を追っていたが、赤尾蜥蜴の腹が大きく膨らんだことで意識を切り替えた。火を吐く前兆だと理解した瞬間、ディーンは地面へ左手を向ける。詠唱はしない。魔力を流し込むと同時に土がせり上がり、四人の前に厚い壁を作った。
直後、炎がぶつかった。
熱気が壁の左右を抜けてくる。ディーンは土壁そのものが崩れていないことを確認すると、中央よりやや右に小さな穴を開けた。
「そこから撃てる!」
「分かった!」
杖を持った女は意図を理解すると、すぐに詠唱を始めた。完成した水弾が穴を抜け、赤尾蜥蜴の頭部へ直撃する。魔物が怯んだところでディーンは壁を崩し、盾役と剣士が左右へ分かれた。
赤尾蜥蜴が盾役へ突進した。男が正面から盾で受け止めると、剣士が右側へ回り込む。ディーンも剣を抜いたものの、二人の動きを見てすぐに考えを変えた。自分より明らかに戦い慣れている。ならば、自分まで同じように斬りかかるより、この二人が動きやすくなるよう魔術を使った方がいい。
赤尾蜥蜴が剣士へ向きを変えようとした瞬間、ディーンはその右後肢が着く場所だけを柔らかくした。踏み込んだ脚が予想より深く沈み、巨体が傾く。剣士は足元へ一瞬だけ視線を落としたが、それが誰の仕業なのか確かめようとはしなかった。生まれた隙を逃さず踏み込み、首筋へ刃を走らせる。
浅い。鱗に阻まれている。
赤尾蜥蜴が暴れ、太い尾が横薙ぎに振られた。剣士は攻撃直後で体勢を戻しきれていない。ディーンは咄嗟に風をぶつけ、男の身体を半歩ほど後方へ押した。予期しない力に剣士はわずかによろめいたものの、そのまま勢いに逆らわず後方へ跳ぶ。尾が胸元を掠めて通過すると、すぐに姿勢を立て直した。
「助かった!」
それだけ言って、剣士は再び赤尾蜥蜴へ向き直った。
ディーンも答えなかった。今は説明している場合ではない。
赤尾蜥蜴は今度はディーンへ向きを変えた。足場を崩したのが誰なのか理解しているのかは分からないが、明らかにこちらへ向かってくる。火を撃つ時間はあったものの、火を吐く相手へわざわざ同じものをぶつける理由もない。
ディーンは水を選んだ。
狙ったのは身体ではなく顔だった。頭部を覆う程度の水を勢いよくぶつけると、赤尾蜥蜴は目と鼻を塞がれ、激しく頭を振った。その間にディーンは横へ移動し、盾役が間へ入れる空間を作る。
「そのまま右へ回れ!」
盾役の声に従い、ディーンはさらに距離を取った。男は正面を引き受けながら赤尾蜥蜴の向きを固定し、剣士が再び側面へ回る。先ほどまで三人だった動きの中へ、自分の魔術が一つ混ざったことで、少しずつ戦い方が変わっているのが分かった。
盾役が正面、剣士が右、魔術師は後方。赤尾蜥蜴の意識は盾役へ向いている。
ならば、崩す方向は左がいい。
ディーンは腹の下へ斜めに土を隆起させた。壁を作るほど大きくする必要はない。重心を少しずらせれば十分だった。地面から突き上げられた赤尾蜥蜴の前半身が浮き、盾役は何をされたのか理解するより先に好機と判断したらしく、そのまま盾を押し込んだ。支えを失った巨体が横倒しになる。
「離れて!」
後方から魔術師の声が飛んだ。
三人が一斉に退くと、詠唱を終えた水弾が露出した腹部へ叩き込まれた。赤尾蜥蜴は激しく暴れながら起き上がろうとしたが、ディーンが後肢の周囲を土で固めると、その動きがわずかに遅れる。完全に拘束する必要はない。一瞬あれば、この三人なら十分だった。
剣士が踏み込み、首の下へ刃を深く入れた。盾役も剣を抜いて同じ場所へ続けて突き込む。巨体が大きく痙攣し、やがて動かなくなった。
静かになってから、ディーンはようやく息を吐いた。魔力にはまだ余裕があるが、思っていた以上に身体が強張っている。猟師との訓練では、失敗しても殴られるか転ばされるだけだった。今の牙や尾なら、まともに受ければ骨くらい簡単に折れるだろう。
「おい、大丈夫か?」
剣士が声をかけてきた。
「大丈夫」
「腕、切れてるぞ」
見れば、左腕の服が裂け、浅く血が滲んでいた。いつできた傷なのか分からない。戦っている間は痛みにすら気づかなかった。
「これくらいなら治せる」
傷口へ右手を添え、覚えている感覚を辿って魔力を流す。治癒魔術は他の魔術より難しかった。火や水なら出したものを見て失敗したかどうか分かるが、身体の中で何が起きているのかは見えない。どうして傷が塞がるのかも、まだよく分かっていなかった。それでも浅い傷であれば、教わった術式を思い出しながら魔力を流すことで治すことはできる。
淡い光のあと、出血が止まり、開いていた皮膚がゆっくりと閉じていった。
「……本当に治癒も使えるのね」
魔術師の女が言った。
「だから言っただろ」
「言ったけどね」
女は赤尾蜥蜴とディーンの腕を交互に見てから、少し妙な顔をした。
「それより、あなた。さっき一度も詠唱してなかったわよね?」
「うん」
「土も?」
「うん」
「風も水も?」
「そうだけど」
今度は三人とも黙った。
「……何?」
剣士が頭を掻いた。
「いや。戦ってる最中はそれどころじゃなかったけど、今考えたらおかしいだろ」
「何が?」
「全部だよ」
「詠唱しなくても魔術は出るよ」
「出ねえよ」
「できないの?」
「普通はな」
ディーンは少し考えた。村では自分以外に詠唱を削ろうとする人間がいなかったし、旅に出てからも他人の魔術をじっくり見る機会はまだ少ない。珍しいのだろうとは思っていたが、三人の反応を見る限り、思っていたより珍しいらしい。
「どうやったの?」
魔術師の女が尋ねる。
「最初は普通に詠唱してた。それから、言葉を減らしても出るか試した」
「それで?」
「最後になくなった」
「なくなったって……」
「なくても出たから」
女は何か言おうとして、やめた。
「まあ、それはあとでいい」
「お前が言うのかよ」
盾役が呆れたように笑った。
ディーンとしては無詠唱よりも、目の前に転がっている赤尾蜥蜴の方が気になっていた。
「近づいていい?」
「待て。確認する」
盾役が慎重に剣先で触れ、反応がないことを確かめる。
「よし」
許可が出ると、ディーンはすぐ横へしゃがみ込んだ。先ほどまで岩と同じだった表皮は、今では鈍い赤褐色になっている。鱗を押し、角度を変えて眺め、それから口を開こうとしたところで肩を掴まれた。
「お前、本当に切り替え早いな」
「火が出てたところを見たい」
「逃げないから落ち着け」
「死んでるから?」
「そうだよ」
解体が始まると、ディーンも手伝わせてもらった。目的は喉だった。火を吐く直前、口の奥で何かが動いたように見えた。慎重に切り開いていくと、喉の奥に見慣れない膨らみがある。
「これ、何?」
「知らん」
「持って帰っていい?」
「討伐証明に必要な部位じゃないし、好きにしろ」
ディーンは器官を傷つけないよう切り出した。皮膚も一部もらう。死後の色の変化を調べるなら、時間ごとに記録した方がいいかもしれない。保存方法も考える必要がある。
作業を続けていると、盾役が先ほどの戦いを思い出すように言った。
「しかし、お前、本当に冒険者じゃないんだよな?」
「違うよ」
「その歳で四属性を使えて、治癒も使える。そのうえ無詠唱であれだけ細かく動かせるなら、十分やっていけると思うぞ」
「剣は?」
「下手だな」
「やっぱり?」
「振り方は悪くない。ただ、実戦慣れしてない。さっきも最初に食われかけただろ」
「岩だと思った」
「だからだよ」
剣士が笑った。
「でも、足場を崩したり、風で俺を動かしたりしてくれたのは助かった。ああいうのを咄嗟にやってくれる奴がいると戦いやすい」
魔術師の女も頷く。
「最初の壁もね。私が詠唱している間に遮蔽物を作ってもらえるだけでもかなり違う。それに治癒まで使えるなら、パーティに一人いるだけで助かるわ」
「そうなんだ」
「本人が一番分かってないのね……」
ディーンとしては、猟師に教えられたことを守っただけだった。自分一人で倒せない相手なら、一緒にいる人間が戦いやすくなるようにすればいい。大きな火を出せることより、必要な場所に必要なものを出せる方が役に立つことは多いらしい。
そこで剣士が何気なく言った。
「だったら、お前も冒険者になればいいのに」
「なんで?」
「なんでって、それだけ戦えるなら仕事になるからだよ。討伐だけじゃなく、護衛や採取もある。四属性使えて治癒までできるなら、組みたがる奴もいるだろ」
ディーンの手が止まった。
目の前には、解体途中の赤尾蜥蜴がある。
「この依頼、いくらもらえる?」
「ん?」
「赤尾蜥蜴を倒した報酬」
金額を教えてもらった。
ディーンは少し黙った。
自分が今日、この三人へ払った額よりかなり多い。
「……待って。冒険者になってこの依頼を受けたら、ここに来るのに金払わなくていい?」
「そりゃそうだ」
「赤尾蜥蜴がいる場所も教えてもらえる?」
「依頼書に書いてあるだろ」
「他の魔物も?」
「依頼が出てればな」
「倒したら、こうやって中も見られる?」
「依頼品を傷つけなきゃ、大体は」
「いらない部分は持って帰れる?」
「魔物による。売れる素材ならパーティで相談だな」
「素材、売れるの?」
「だから俺たち解体してるんだよ」
ディーンは赤尾蜥蜴を見た。
魔物について調べるためには、まずどこにいるかを知らなければならない。そこまで行く必要がある。危険なら護衛も必要になる。そのために今日は金を払った。
だが、自分が冒険者なら話が変わる。
ギルドに魔物の情報が集まる。生息地も分かる。依頼を受ければ同じ場所へ向かう仲間も探せる。現物を観察できる。倒した後なら身体の中まで調べられる。素材も手に入る。
しかも、そのために金を払うのではない。
「……金、もらえるのか」
「さっきからそう言ってるだろ」
「本も買える?」
「好きにしろよ」
「宿代にもなる」
「なるな」
「次の町にも行ける」
「そりゃ金があればな」
ディーンはしばらく考え、それから三人を見た。
「俺、冒険者になる」
「お前、今まで冒険者を何だと思ってたんだ?」
「魔物倒したり、護衛したりする人」
「間違ってねえよ」
「でも、こんなに都合がいいと思ってなかった」
「都合がいいって……」
剣士は笑い、盾役は呆れたように息を吐いた。
「まあ、お前ならやっていけるだろ。少なくとも今日の動きができるなら、駆け出しとしては十分すぎる。ただし、一つだけ覚えとけ」
「何?」
「調べるのに夢中になって、魔物の口の前に立つな」
ディーンは少し考えた。
「気をつける」
「絶対やらない、とは言わないんだな」
「できるだけ離れて見る」
「先が思いやられるな」
町へ戻る途中、剣士が掌を切っていることに気づいた。岩場で転んだときについた傷らしい。本人は大したことはないと言ったが、ディーンは歩きながら治癒魔術をかけた。浅い傷なので、さほど時間はかからなかった。
塞がった掌を何度か握ったり開いたりしてから、剣士が言う。
「やっぱり便利だな、お前」
「治癒が?」
「それもあるけど、いろいろだよ。こういう傷でも町で治癒術師に頼めば金がかかるからな」
ディーンは少しだけ考えた。
「これも金になるの?」
「そりゃ腕次第じゃなるだろ」
「そうなんだ」
「お前、本当に何も知らねえな」
「村から出たばっかりだから」
「そういう問題か?」
その言葉が、妙に頭に残った。
町へ戻れば宿代を払い、食事を買い、赤尾蜥蜴の器官を保存するための容器も買った。財布はまた軽くなったが、今日は自分の傷も同行者の傷も治癒魔術で済んでいる。もし自分が治癒を使えなければ、怪我の程度によってはさらに金が必要になっていたのかもしれない。
治癒魔術を覚えたとき、ディーンは傷がどうして元の形へ戻るのかばかり考えていた。魔術そのものが面白かったから、それ以外の価値を考えたことはほとんどない。
けれど、使えない人間にとっては、魔術を使える人間そのものに価値があるらしい。
そのことを頭の隅に置きながら、宿の部屋で机へ向かった。
赤尾蜥蜴について書かれた本を開き、今日見たものと一つずつ比べていく。火を吐くことも、岩場に棲むことも、周囲に合わせて体色を変えることも書かれている。そこまでは実際に見たものと同じだった。
けれど、喉にあった奇妙な器官については何も書かれていない。死んだあと、岩に似せていた皮膚が元の色へ戻ったことも書かれていなかった。
やっぱり、自分で見なければ分からないことはある。
そう思いながらページをめくっていると、少し先に産卵について書かれた箇所があった。
ディーンの指が止まった。
赤尾蜥蜴は一年のうち決まった時期に岩の隙間へ卵を産み、その時期になると雌は普段より水場に近い場所まで移動するらしい。さらに、卵から孵ったばかりの幼体は火を吐かず、ある程度成長してから火を扱うようになるとも書かれている。
今日見た赤尾蜥蜴は一匹だけだった。
卵は見ていない。幼体も見ていない。季節が変わるまでここにいたわけでもない。
それなのに、自分の知らない赤尾蜥蜴のことが目の前の本には書かれている。
誰かが見たのだ。
自分より前に、どこかで赤尾蜥蜴を見た人間がいる。卵を見つけたのかもしれない。幼体を捕まえたのかもしれない。同じ場所へ何度も通って、季節による違いを確かめたのかもしれない。その人間が見つけたことを書き残したから、ディーンは今ここに座ったまま、自分がまだ見たことのない赤尾蜥蜴について知ることができる。
もちろん、書いてあることがすべて正しいとは限らない。
以前、町で買った魔物の本を持って猟師のところへ行ったときもそうだった。本に書かれていた特徴の一つが、実際に確かめてみると少し違っていた。
だから、書いてあるから正しいとは思わない。
けれど、本に価値がないわけでもない。
今日、自分が見つけた喉の器官は本に書かれていなかった。その一方で、本に書かれている卵や幼体のことを、自分は見ていない。今日見た一匹だけをどれだけ詳しく調べても、卵から孵るところは見られない。季節によって棲む場所が変わるかどうかも分からない。
本には、自分ではまだ見ていないものを見た誰かの知識がある。
現物には、本を書いた誰かが見落としたものがあるかもしれない。
どちらか片方だけでは足りないのだ。
ディーンは紙を取り出した。
『調べるのに必要なもの』
その下へ、まず『本』と書いた。
次に『現物』。
それから『詳しい人』。
本になっていないことを知っている人間もいる。今日の三人のように、自分が経験していないことを経験している人間もいる。
少し考えてから、もう一つ加えた。
『金』
今までの三つとは違う。金そのものが何かを教えてくれるわけではない。だが、本を買うにも、遠くへ移動するにも、宿に泊まるにも、人に頼むにも、道具を揃えるにも金がいる。怪我をしたとき、治癒魔術を使えなければ治療にも金がかかる。
金があれば答えが買えるわけではない。
けれど、答えを探せる場所が増える。
ディーンは『金』の文字を丸で囲んだ。
次の紙には、『金を得る方法』と書く。その下へ『冒険者』と書き、今日分かったことを整理していった。
『魔物の情報が集まる。』
『現地まで行く理由ができる。』
『仲間を探せる。』
『倒した魔物を調べられる。』
『素材を持ち帰れることがある。』
『報酬が出る。』
そこまで書いたところで、岩場で言われた言葉を思い出した。
四属性を使える。
治癒も使える。
それなら仕事になる。
ディーンは少し迷ってから、その下へもう一つ書いた。
『魔術そのものも役に立つ。』
今は、それ以上のことは分からなかった。治癒魔術で金を取ろうとも思わないし、魔術を使ってどう稼ぐかを考えているわけでもない。ただ、今まで自分が面白がって覚えてきたものが、外の世界では別の価値を持つらしい。
それは覚えておいてもよさそうだった。
「……かなりいいな」
改めて『冒険者』の文字を見る。
問題もある。
今日の赤尾蜥蜴程度であれば三人の助けもあって戦えたが、もっと強い魔物ならそうはいかない。行きたい場所が危険であればあるほど、生きて帰るための力が必要になる。
強くなりたいと思ったことは、これまであまりなかった。強さそのものに興味がないわけではない。猟師から戦い方を習うのも面白かったし、身体を思った通りに動かせるようになるのは気持ちがいい。それでも、誰かに勝ちたいとか、名を上げたいとか、そういうことを考えたことはなかった。
だが、強ければ行ける場所が増える。
近づけるものが増える。
危険なものを、もっと近くで見られる。
そして、生きて帰って次を調べられる。
それだけで、十分だった。
ディーンは『冒険者』の横に、小さく一文を書き足した。
『もっと戦えるようになる。』
翌朝、冒険者ギルドの扉を開けると、昨日と同じ受付の女性がこちらに気づいた。
「あら。赤尾蜥蜴は見られましたか?」
「見られた。火も吐いたし、死んだら皮膚の色も変わった。喉に変な器官もあった」
「それは……よかったですね?」
「うん。それで、冒険者になりたい」
あまりに話が飛んだせいか、受付の女性は目を瞬いた。
「どうして急に?」
ディーンは昨日から考えていたことを、そのまま答えた。
「調べたいものを見に行くのに、金を払うより、金をもらえる方がいいから」
「……はい?」
「登録、ここでできる?」
受付の女性はしばらくディーンを見つめていたが、やがて何かを諦めたように息を吐き、机の下から一枚の書類を取り出した。