研究レポート:六面世界における魔法について 作:えびかま
買ったばかりの治癒魔術の本を読み始めてから、ディーンは三日ほど寝不足になった。
もちろん、まったく眠らなかったわけではない。眠くなれば寝る。ただ、冒険者の仕事を終えて宿へ戻り、食事を済ませて本を開くと、気づけばかなり遅い時間になっている。翌朝には依頼があるから起きる。それを繰り返しているうちに、昼を過ぎたあたりから欠伸が出るようになった。
本は高かったが、高いだけのことはあった。
村へ来た治癒術師から教わったのは、浅い傷を塞ぐための基本的な術式と、魔力を流すときの感覚くらいだった。それだけでもディーンは随分試したが、深い傷や骨折となると分からないことが多い。
買った本には、その先が書かれていた。
切創、刺創、骨折、火傷。傷の種類によって術式をどう変えるか。どの程度の怪我ならどの階級の治癒魔術が必要になるか。治癒を行う前に何を確認するべきか。術者の力量を超える傷へ無理に魔術を使った場合、かえって状態を悪くする可能性があることまで書かれている。
著者の名は、アルベルト・セイン。
ディーンにとっては、まだ本の表紙に書かれている名前でしかなかった。
ある夜、そのアルベルトが記した一文の上で、ディーンの指が止まった。
『治癒魔術とは、術者の魔力を用いることで肉体が本来有する治癒の働きを促し、損傷した部位の修復を助ける魔術である』
ディーンはそこをもう一度読んだ。
さらにもう一度読む。
「……まあ、そうだよな」
これは理解できる。
小さな切り傷なら、何もしなくてもいずれ塞がる。骨も折れ方が悪くなければ、時間をかければつながる。治癒魔術を使えば、それがずっと早く起こる。
ディーン自身が使える初歩的な治癒魔術もそうだった。傷口へ魔力を流せば、血が止まり、開いていた皮膚が閉じていく。身体が元々やっていることを、魔術で早くしている。そう考えれば、一応は納得できる。
ただ、それでも「どうやって早くしているのか」は分からない。
そこは後で調べようと思い、ページの端に印をつけた。
問題が起きたのは、さらに読み進めてからだった。
上位の治癒魔術について書かれた章だった。
上級、聖級と階級が上がるにつれ、より深刻な損傷を治療できるようになる。そこまではよかった。
王級治癒魔術。
その説明を読んで、ディーンの指が止まった。
条件次第では、失われた身体の一部すら再生できる。
「……ん?」
もう一度読む。
意味は変わらなかった。
欠損した指や腕など、本来であれば自然には回復しない部位を再生できる術が存在する。
ディーンは本から顔を上げ、自分の左手を見た。
五本の指がある。
そのうち一本がなくなったところを想像した。
切り傷は塞がる。骨折も治る。だが、なくなった指は、放っておいても生えてこない。十日待っても、一年待っても同じだろう。
「……自然治癒じゃないじゃん」
本を戻って、最初の説明を確認する。
『肉体が本来有する治癒の働きを促し――』
再び王級治癒魔術のページへ戻る。
『欠損した部位の再生――』
交互に読む。
「おかしいだろ」
自然に起こることを早めるなら分かる。一年かかることを一日にする。十日かかることを一刻で終わらせる。どうやっているのかは分からないが、少なくとも元々起こる現象を早めている、という説明はできる。
だが、何年待っても起こらないことを起こせるなら、それは単に早くしているだけではない。
ディーンは紙を引き寄せた。
『普通の傷 → 放っておいても治る』
『骨折 → 時間があれば治る』
『なくなった腕 → 生えない』
その横に、
『王級なら生える?』
と書く。
しばらく考えた。
そもそも、腕を生やすとはどういうことなのだろう。
肉だけが盛り上がれば腕になるわけではない。中には骨がある。筋がある。血が通っている。指が五本あり、それぞれが曲がる。
失われた腕を元通りにするなら、それら全部を作らなければならない。
では、その材料はどこから来る。
水魔術を覚えた頃に考えたことを思い出した。
何もないところへ水が現れる。
土魔術でも、そこになかった土や石が現れることがある。
それと同じなのだろうか。
魔力から腕を作っている?
「……いや」
それだけでは足りない。
仮に何かから肉や骨を作れるとしても、なぜそれが元の腕と同じ形になる。
指の長さは。
骨の形は。
血の通り道は。
本人の右腕と左腕でさえ、完全に同じではないはずだ。
「何作るか、どうやって分かるんだ?」
紙へ書く。
『王級治癒魔術は、なくなった部分をどうやって知る?』
そこまで書いたところで、ディーンは随分長い間考え込んだ。
そして、何気なく次のページをめくった。
神級治癒魔術。
ほとんど伝説に近い術として扱われていた。使える者は極めて少なく、実際に目にすることはまずない。詳しい術式についても本には記されていなかった。
それでも、その効果について短い記述があった。
死亡してから極めて短い時間であり、肉体の損傷が一定の条件を満たす場合、死者を蘇生させることすら可能とされる。
ディーンは動かなくなった。
「…………死んだ人?」
読み間違えたかと思った。
もう一度読む。
やはり同じだった。
死者を蘇生させる。
アルベルト自身も、確認された例は極めて少ないと記している。それでも、治癒魔術の最上位として記載されていた。
ディーンは最初のページへ戻った。
『肉体が本来有する治癒の働きを促し――』
神級治癒魔術のページへ戻る。
『死者を蘇生させる――』
「……死んだ人の自然治癒って何?」
誰も答えなかった。
宿の部屋にはディーンしかいない。
ディーンは椅子へ深く座り直した。
死ぬということについて、詳しいことは知らない。心臓が止まる。息をしなくなる。動かなくなる。身体が酷く壊れれば人は死ぬ。
だが、死亡した直後なら戻せるという。
では、死んだ直後と、しばらく経った後では何が違うのだろう。
身体そのものは、そこにある。
それなのに、時間が経つと戻せなくなる。
何がなくなる。
何が変わる。
そもそも「生きている」と「死んでいる」は、何が違う。
分からない。
だが一つだけ、かなり確かなことがある。
最初に書いてある説明だけでは足りない。
ディーンは紙へ大きく書いた。
『治癒魔術=自然治癒を早くする?』
少し迷ってから、その横に、
『違うかもしれない。』
と付け足した。
さらに下へ書く。
『下級 傷』
『上級・聖級 大きな傷、骨など』
『王級 欠損も戻る』
『神級 死んだ直後なら戻せる?』
階級が上がるほど、単に治す速度が上がっているだけには見えない。どこかで、やっていることそのものが変わっているのか。それとも、最初から全部同じことをしていて、初歩の治癒魔術ではできる範囲が狭いだけなのか。
ディーンは最後に一つ書いた。
『どこからが「治す」じゃない?』
翌日、身体について書かれた本を買った。
さらに魔力について書かれた本も探した。
読んだ。
分かることは増えた。
骨がどう並んでいるか。筋がどこについているか。血が身体の中を通っていること。身体の部位によって治りやすさが違うこと。治癒魔術にも得意不得意があること。
どれも知らなかった。
だから、本は役に立った。
しかし、肝心なところになると答えがない。
『治癒を促進する』
『損傷した肉体を修復する』
『高位の治癒魔術では、より完全な修復が可能となる』
「その修復が何なのか知りたいんだけどな」
ディーンは本を閉じた。
王級治癒魔術を自分で試すことはできない。神級など、使える人間がどこにいるのかすら分からない。
なら、本を書いた人間に聞くしかない。
表紙を見た。
アルベルト・セイン。
「……この人に聞けばいいのか」
翌朝、本屋へ行った。
「アルベルト・セインって生きてる?」
本を開いて名前を指差すと、店主のガストンは露骨に嫌そうな顔をした。
「今度は何だ」
「この本書いた人」
「見りゃ分かる」
「生きてる?」
「たぶんな」
「どこにいる?」
「知らん」
「本売ってるのに?」
「本を売ってるからって、書いた奴全員と知り合いなわけじゃねえ」
「調べられない?」
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
「本屋」
「だったら本を買え」
それ以上は教えてもらえなかった。
次にギルドへ行った。
「ミレナ、この人どこにいる?」
受付に本を置くと、ミレナは書類から顔を上げた。
「今度は何ですか?」
「聞きたいことがある」
「アルベルト・セイン……確か治癒術師ですよね」
「知ってる?」
「名前だけなら。以前、この町の治癒院にいた方だったと思います」
「今は?」
「そこまでは分かりません」
「治癒院に行けば分かる?」
「聞いてみては?」
「行ってくる」
「今日の依頼は?」
ディーンは立ち止まった。
ミレナがじっとこちらを見ている。
「……先にやる」
「成長しましたね」
「前に失敗したから」
「それを成長と言うんですよ」
ディーンは薬草採取の依頼を終えてから、治癒院へ向かった。
そこで、アルベルトが数年前に別の町へ移ったことを知った。
場所を聞いた。
少し遠かった。
ディーンは宿へ戻って地図を広げた。歩けば数日かかる。食事がいる。宿にも泊まる。
だが、金はある。
冒険者になってから貯めた分があるし、排水路を作った報酬も残っている。途中の町で依頼を受けながら進めば、減り方も抑えられる。
問題はなかった。
ディーンは荷物をまとめた。
数日後、アルベルトが住んでいるという町へ着いた。
村とは比べものにならないほど大きな町だった。通りには店が並び、馬車が行き交い、人の数も多い。冒険者ギルドも、これまで利用していた町のものよりずっと大きかった。
聞き込みをすると、アルベルトの居場所は思っていたより簡単に見つかった。
町の中心から少し離れた場所に、大きな治癒院があった。
ディーンは中へ入った。
「アルベルト・セインに会いたい」
受付にいた女性が顔を上げた。
「アルベルト先生に、ですか?」
「うん」
「ご予約は?」
「してない」
「では、紹介状はお持ちですか?」
「何それ?」
女性が少し困った顔をした。
「先生に診察をお願いするのでしたら、こちらで受付をしていただけます。ただ、個人的にお会いになるのでしたら、事前のお約束か、どなたかからのご紹介が必要です」
「怪我はしてない」
「では、どのようなご用件でしょうか?」
「治癒魔術について聞きたい」
「先生は診療のほかにもお仕事がありますので、そのようなご相談を突然お受けすることはできません」
「すぐ終わる」
「そういう問題ではありません」
「本は買った」
「はい?」
「この人が書いた本。読んだ。でも書いてあることだけじゃ分からない」
「それは……ありがとうございます」
「だから聞きたい」
「お気持ちは分かりますが」
「金ならある」
女性が黙った。
ディーンは財布へ手を伸ばした。
「話聞くのにいくらいる?」
「お金の問題ではありません」
「でも治療なら金払えば会えるんだろ?」
「診察は患者を治療するためのものです」
「じゃあ質問するには?」
「ですから、事前にお約束を――」
「どうやって?」
そこで会話が止まった。
女性はしばらくディーンを見ていた。
「……先生とお知り合いの方から紹介していただくのが、一番確実かと」
「知り合い、いない」
「でしたら、お手紙を出されては?」
「返事来る?」
「それは先生次第です」
ディーンは本を見た。
ここまで来た。
金も払える。
本人も、この建物のどこかにいるかもしれない。
それでも会えない。
妙な感じだった。
「今日いる?」
「お答えできません」
「いるんだ」
「そういう意味ではありません」
これ以上話しても無理そうだった。
「分かった」
ディーンは治癒院を出た。
通りへ出てから振り返る。
建物は目の前にある。
村からここまで来るより、入口からその向こうにいる一人の人間へ辿り着く方が難しいらしい。
「……金だけじゃ駄目なのか」
宿へ戻ろうとして、やめた。
せっかくここまで来たのだ。本人に会えないから帰るというのも、もったいない。
近くの薬屋へ入り、アルベルトの名前を出した。
「ああ、有名な先生だよ」
「会いたい」
「患者か?」
「違う。治癒魔術について聞きたい」
「そりゃ難しいんじゃないか」
「紹介してくれる人探してる」
「俺は無理だな」
「誰か知らない?」
店主は少し考えたあと、顎を掻いた。
「本人じゃないが、昔アルベルト先生に習ってた治癒術師なら知ってるぞ。ユリウス・ハインって男だ」
「どこ?」
教えられた場所は、町の外れにある小さな治療所だった。
ディーンが扉を開けると、薬草と何か苦い薬の匂いがした。中には寝台が二つあり、奥の机では三十歳ほどの男が書き物をしている。
「ユリウス・ハイン?」
男は書き物をしていた手を止め、顔を上げた。
「そうだが」
「アルベルト・セインに習ってた?」
「……君は?」
「ディーン」
「そうか。それで?」
「聞きたいことある」
「私は仕事中なんだが」
ディーンは治療所の中を見回した。
二つある寝台には、どちらにも誰もいない。
「今、誰もいないけど」
ユリウスの眉がわずかに動いた。
「患者がいなければ暇だと思っているのか?」
「違うの?」
「帰ってくれ」
思っていたのと違った。
ユリウスは本当に書き物へ戻ろうとした。
「ちょっと待って」
「待たない。用があるなら、せめて何の用かくらい最初に言え」
「治癒魔術」
ユリウスの手が止まった。
「……治癒魔術の、何だ」
ディーンは持ってきた本を机へ置いた。
「これ」
表紙を見たユリウスの目が少し細くなった。
「アルベルト先生の本か」
「最初は本人に聞こうと思った。でも会えなかった」
「当然だろうな」
「なんで?」
「今のやり取りで分からないなら、私にはどうしようもない」
「でも聞きたいことある」
「だから何をだ」
ディーンは本を開き、最初の説明を指差した。
「ここ。治癒魔術は、身体が自分で治るのを早くするって書いてある」
「それが?」
「でも、こっち」
ページをめくる。
「王級なら、なくなった腕も戻せるって書いてある」
「書いてあるな」
「腕は自然には生えないだろ」
ユリウスは答えなかった。
「じゃあ、何を早くしてる?」
机へ戻りかけていたユリウスの視線が、本へ落ちた。
ディーンはさらにページをめくった。
「神級なら、死んだ直後の人も戻せるって書いてある」
「そう伝えられている」
「死んだ人の自然治癒って何?」
今度こそ、ユリウスは完全に手を止めた。
しばらく、何も言わなかった。
やがて椅子へ座り直す。
「……そこに座れ」
先ほどまで帰れと言っていた男が、向かいの椅子を顎で示した。
ディーンは座った。
「分かる?」
「まだ質問をするのか」
「うん」
「……まあ、いい」
ユリウスは本を自分の方へ引き寄せた。
「少なくとも、私は答えられない」
「分からないの?」
「ああ」
「じゃあ、この説明間違ってる?」
「そこまで簡単な話ではない。低位の治癒魔術については、自然治癒の促進と考えて不都合のないことが多い。傷は元々塞がるし、骨も癒合する。それを魔術によって早めていると考えれば、一応は説明できる」
「でも腕は生えない」
「そうだ」
「死んだ人も勝手には生き返らない」
「そうだな」
ユリウスはもう一度、王級治癒魔術の記述を読んだ。
「……妙なところに気づいたな」
「妙?」
「普通、この本を読む人間が気にするのは、どうすれば上位の治癒魔術を使えるかとか、どの程度の傷まで治せるかとか、そういうところだ」
「でも説明合ってないだろ」
「だから妙なんだよ」
「王級は何してる?」
「知らない」
「神級は?」
「もっと知らない」
「アルベルト先生なら分かる?」
ユリウスが顔を上げた。
「今度は先生を付けたな」
「受付の人がそう呼んでた」
「そこは覚えるのか」
「会いたいから」
「先生なら私より遥かに詳しい。だが、何でも知っているわけじゃない。王級や神級ともなれば、実際に扱える人間自体がほとんどいないからな」
「じゃあ会いたい」
「勝手に会いに行けばいい」
「行った。会えなかった」
「だろうな」
「あなたなら会える?」
「会える」
「紹介して」
「嫌だ」
あまりに早く返ってきたので、ディーンは一瞬黙った。
「なんで?」
「なんで私が、今日初めて会った、礼儀も知らない子供を先生に紹介しなきゃならないんだ」
「でも質問は――」
「質問は面白い」
ユリウスはそこで言葉を切った。
「君が信用できるかどうかとは別の話だ」
「信用?」
「私が先生に君を紹介したら、先生は私の顔を立てて時間を作るかもしれない。その時間を使わせる相手が、扉を開けるなり名乗りもせず、『これ何?』『なんで?』と質問を始める子供だと分かっていて、紹介できると思うか?」
「質問は同じだろ」
「質問の中身だけで人間同士の話が全部決まるなら、世の中は随分楽だろうな」
ディーンにはよく分からなかった。
だが、ユリウスが紹介する気がないことだけは分かった。
「じゃあ、どうしたら紹介してくれる?」
ユリウスは答えなかった。
「何すればいい?」
「……君は諦めないな」
「会いたいから」
「なら、まずその聞き方をどうにかしろ」
「聞き方?」
「人のところへ突然押しかけない。まず名乗る。用件を伝える。忙しい相手なら先に約束を取る。会ってもらったら相手に合わせた言葉を使う。それくらいはしろ」
ディーンは紙を出そうとした。
「待て」
「何?」
「今ここで礼儀作法の授業をするつもりはない」
「じゃあ、どこで覚える?」
「知らん。親に聞くなり、本を読むなり、人を見て覚えるなり好きにしろ」
「あなたは教えてくれない?」
「なぜ私が?」
「知ってるから」
ユリウスはしばらくディーンを見たあと、大きく息を吐いた。
「君はそういうところだぞ」
「どこ?」
「もういい」
ユリウスは本をディーンへ返した。
「それから、紹介というのは名前を教えることとは違う。紹介する側も相手に信用を使うんだ。私が先生に君を紹介するなら、少なくとも『この子なら会っても大丈夫です』と言えるくらいには君を知らなきゃならない」
「どうしたらそうなる?」
「だから、それを一から私に聞くな」
「分からないから聞いてる」
「少しは自分で考えろ」
追い返されそうになっている。
それでも、最初とは少し違った。
今度は理由が分かる。
ディーンは紙を取り出し、短く書いた。
『名乗る』
『用件』
『約束』
『言葉遣い』
ユリウスがそれを横から見ていた。
「……本当に書くのか」
「忘れるから」
「なら一つ足しておけ」
「何?」
「相手の時間を勝手に自分のものだと思わない」
ディーンは顔を上げた。
「時間?」
「君が知りたいことがあるからといって、相手が答える義務はない。先生には先生の仕事がある。私にもある」
机の上には、ディーンが入ってきたときから書きかけの書類が残っていた。
初めて、それに目が向いた。
「……これ書いてた?」
「そうだ」
「俺が来たから止まった?」
「そうだ」
ディーンは少し考えてから、紙へ書いた。
『相手の時間』
そこで筆を止める。
「これ覚えたら紹介してくれる?」
「まだ言うか」
「駄目?」
「今は駄目だ」
「じゃあ、いつなら?」
「知らん」
「また来ていい?」
「患者がいるときは帰れ」
「いなかったら?」
「……用件を言え」
「治癒魔術」
「それはもう聞いた」
「他にも分からないこと出るかもしれない」
ユリウスは額を押さえた。
「好きにしろ。ただし次に来るなら、扉を開けていきなり私の名前を呼ぶところから始めるな」
「分かった」
ディーンは立ち上がった。
扉へ向かい、手をかける。
そこで止まった。
少し考える。
「……時間取って、ありがとう」
ユリウスが顔を上げた。
「それは誰に教わった?」
「今」
「そうか」
ディーンは治療所を出た。
宿へ戻る途中、頭の中には治癒魔術とは別の問題が増えていた。
金があれば旅ができる。
本を買える。
宿に泊まれる。
調べたい魔物のいる場所まで行ける。
だが、金を持っていても、アルベルト先生には会えなかった。
ユリウスには会えた。
質問もできた。
しかし、そのユリウスからアルベルト先生へは、簡単には進めなかった。
宿へ戻ったディーンは、以前書いた紙を机へ広げた。
『調べるのに必要なもの』
『本』
『現物』
『詳しい人』
『金』
しばらく考え、『詳しい人』から線を一本伸ばした。
『詳しい人を知っている人』
さらに書く。
『会ってもらう方法』
その下には、ユリウスの治療所で書いた言葉を写した。
『名乗る』
『用件』
『約束』
『言葉遣い』
『相手の時間』
最後に少し迷ってから、
『信用?』
と書いた。
信用が何なのかは、まだよく分からない。
金のように数えられるものでもなさそうだった。
今日会ったばかりだから紹介できない、とユリウスは言った。
なら、何度か会えばいいのか。
礼儀正しくすればいいのか。
質問が面白ければいいのか。
それとも、まったく別の何かがいるのか。
分からない。
ただ、必要らしい。
魔術を使うために詠唱を覚えたことがある。
魔物を見るために戦い方を覚えた。
本を買うために金の稼ぎ方を覚えた。
知らないことを知っている人間へ近づくためには、また別のものを覚えなければならない。
「……これも調べないと駄目か」
面倒だった。
魔物なら、どこに棲むかを調べればいい。
本なら、どこで売っているかを探せばいい。
魔術なら、条件を変えて試せばいい。
人間は、もう少し複雑らしい。
ディーンはその紙を捨てず、治癒魔術の本の横へ置いた。
そして、もう一枚の紙を見る。
『治癒魔術=自然治癒を早くする?』
『違うかもしれない。』
『王級 なくなった部分も戻る』
『神級 死んだ直後なら戻せる?』
今日、ユリウスにも答えは分からなかった。
だが、それは無駄ではなかった。
自分が文章を読み違えただけではない。治癒術師であるユリウスも、その二つを同じ説明だけで片づけることはできなかった。
なら、まだ先がある。
もっと詳しい人間に聞く。
実際の術について調べる。
いつか自分で試せるところまで行く。
そのために礼儀がいるなら、覚えればいい。
約束の取り方がいるなら、それも覚える。
信用というものが必要なら、それが何なのかも知ればいい。
ディーンは治癒魔術の本を開いた。
王級治癒魔術のページには、さっきまでとは違う印象があった。
傷を治す魔術の延長として読むと、おかしい。
ならば、自分が「治す」という一つの言葉にまとめていたものの方が間違っているのかもしれない。
答えはまだない。
アルベルト先生にも、まだ会えていない。
ディーンはそのページの端に、小さく印をつけた。
結局その夜も、寝るのは遅くなった。