人の身体というものは、どうにも手がかかる。
眠らなければならないし、食事も必要になる。
髪は寝ている間にも勝手に絡まり、少し歩けば靴下がずれ、適当に服を着れば縫い目が気になる。
そして、何より。
「……起きたくありません」
ミレニアムの学生寮。
天童ケイは、自分で口にした言葉に少なからず驚いていた。
意識はもう、十分にはっきりしている。
時計も確認した。
今日は休日で、朝食まではまだ少し時間がある。今起きて身支度を済ませれば、余裕をもって約束の場所へ向かえるだろう。
そこまでは理解している。
それなのに、毛布から腕を出す気になれない。
肩までかかっている布は軽く、内側には自分の体温が残っている。
足を少し動かすと、まだ温まっていない場所に触れた。
そのひんやりした感触が一瞬だけ心地よくて、けれどすぐに、元いた温かな場所へ戻したくなる。
ケイは毛布の端を指でつまんだ。
柔らかい。
昨夜も柔らかかったはずなのに、今朝は昨夜より、ずっと手放しがたい。
「……これは」
以前、モモイが起床を渋っていたときには、もっと早く寝れば済む話だと思っていた。
その認識には、修正が必要かもしれない。
ただし本人には絶対に言わない。
そんなことを考えていると、扉の向こうから軽い足音が聞こえてきた。
ととと、と近づいて、一度止まる。
それから、控えめに二回のノック。
「ケイ。起きていますか?」
アリスだった。
「起きています」
「入ってもいいですか?」
「どうぞ」
扉が開く。
アリスはベッドの上を見て、それから机の時計を見て、もう一度ケイを見た。
「ケイも、おふとんに捕まってしまったんですね」
「人聞きの悪いことを言わないでください。起きる前に、少し考え事をしていただけです」
「なるほど。おふとんの中で作戦会議です」
「……そういうことで構いません」
アリスは大真面目にうなずくと、窓辺まで歩いてカーテンを開けた。
朝の光が差し込む。
ケイは反射的に目を細めた。
明るい、ということは知っている。
まぶしい、という言葉の意味も知っていた。
けれど、まぶしさに自分のまぶたが勝手に動くのは、いまだに少し不思議だった。
光はカーテンの縁を透かし、机の上のコップを通り抜け、床に薄い模様を作っていた。
宙に浮かぶ小さな埃まで、いちいちよく見える。
掃除が必要だ、と思う。
その一方で、もう少し眺めていたい、とも思った。
「今日はいいお天気です」
「見れば分かります」
「はい。ケイも見てください」
アリスが笑う。
ケイは言い返しかけて、やめた。
毛布を押しのけ、床に足を下ろす。
足の裏に触れた冷たさに、思わず背筋が伸びた。
「……床まで、私を起こそうとしなくてもいいでしょうに」
アリスが小さく笑った。
ケイはその声を聞きながら、もう一度だけ、朝日の落ちている場所を見た。
◇ ◇ ◇
寮の談話室には、すでに三人が集まっていた。
ミドリが皿を並べ、ユズが人数分の飲み物を用意し、モモイがトースターを見張っている。
見張っている、はずだった。
「あっ」
モモイの短い声とともに、こんがりという表現では少し足りないパンが跳ね上がった。
「……お姉ちゃん」
「まだ大丈夫! このくらいなら、ほら、香ばしいって言える範囲だよ!」
「その判断を食べる側に押しつけないでください」
ケイが言うと、モモイは振り返った。
「おはよう、ケイ!」
「おはようございます。挨拶でごまかせると思いましたか?」
「思ってないよ。ちょっとしか」
ミドリが苦笑しながら、焦げた二枚を別の皿へ移す。
「それは私とお姉ちゃんで食べるから。ケイのは、次に焼くね」
「少し焦げた部分を落とせばいいでしょう。私も食べます」
「え、いいの?」
「わざわざ騒ぐほどのことではありません」
そう言って椅子を引いたところで、ケイは手を止めた。
パンの匂いがした。
焼けた小麦の匂い。
少し強すぎる焦げの匂い。
そこに、ミドリが開けたバターの包みから、柔らかな香りが重なった。
朝食は必要だから食べる。
そう思ってここへ来たはずなのに、今は、必要かどうかなど関係なく食べたかった。
ケイは自分の腹に視線を落とした。
困ったことに、腹の方でも小さく返事をした。
モモイが口を開くより早く、ケイは言った。
「何も聞こえていませんね?」
「まだ何も言ってないじゃん!」
アリスが隣に座り、いちごジャムの瓶を持ち上げた。
「ケイにも、これをおすすめします。甘くておいしいです」
「まずはバターだけで食べてみます」
「分かりました。ジャムは待機してもらいます」
待機、という言葉とともに、瓶が二人の間へ置かれた。
ケイはまだ温かいパンにバターをのせる。
四角かった塊の角が崩れ、表面をつやつやと濡らしていった。
ひと口、かじる。
軽い音がした。
外側は薄く硬く、内側は思ったより柔らかい。
噛むと、バターの塩気が広がった。
少し遅れて、小麦の甘みが追いかけてくる。
焦げたところは苦い。
けれど、そのすぐ隣の、バターが多く染みたところはおいしかった。
「…………」
「ケイ、どうですか?」
アリスが顔をのぞき込んでくる。
ケイは飲み込んでから答えた。
「……もう少し、焼き時間は短い方がいいと思います」
「そっかぁ」
「ですが」
パンの端をもう一度かじる。
「この、端の方は嫌いではありません」
モモイがぱっと顔を明るくした。
「でしょ!」
「あなたの失敗を全面的に肯定したわけではありませんよ」
隣でアリスも、同じようにパンの耳をかじっていた。
「アリスは、真ん中の柔らかいところが好きです」
「そうですか」
「ケイとは違いますね」
「……ええ」
ケイは、自分の手にあるパンを見た。
同じ皿から取ったものを、同じテーブルで食べている。
それでも、先に食べたい場所が違う。
ケイは皿の向きを変えて、まだ残っている角を自分の方へ向けた。
「ジャムも、少しだけもらえますか」
「はい!」
アリスが待機中の瓶を、嬉しそうに前へ押し出した。
◇ ◇ ◇
午前中。
ミレニアムを訪れた先生は、ケイとアリスの買い物に付き合うことになった。
買うものは、ごく普通の日用品だった。
タオル。
石鹸。
それから、ケイが自分で使うためのマグカップ。
「借りたものでも、用は足りていたのですが」
店の棚を見上げながら、ケイは言った。
「いつまでも借りているのも落ち着きませんから」
「自分のものを選ぶのも楽しいよ」
「選択肢が多すぎるのは、必ずしも楽しいことではありません」
そう言いながら、ケイはすでに三つ目のマグカップを手に取っていた。
白いもの。
青いもの。
持ち手が少し大きいもの。
写真で見たときには、どれもそれほど違わなかった。
けれど、実際に持つと違う。
指の収まり方が違う。
重さが違う。
表面がつるつるしたものもあれば、指先にかすかなざらつきが残るものもある。
ケイは薄い黄色のカップを手に取った。
黄色、というよりは、少しだけ牛乳を混ぜたような色だった。
棚の奥では地味に見えたのに、通路側へ出すと、縁がやわらかく明るくなった。
ケイは、もう一度棚へ戻す。
そして、また光の下へ持ってくる。
「……同じ色なのに」
"場所で見え方が変わるね"
先生の言葉に、ケイはうなずかなかった。
そんなことは知っている、とも言わなかった。
代わりに、カップを少し傾ける。
今度は持ち手の内側に、小さな影ができた。
「それにしますか?」
アリスに聞かれて、ケイは一度、ほかの棚へ目を向けた。
もっと軽いものもある。
安いものもある。
容量の大きいものもある。
それでも、手に持ったカップを戻す気にはならなかった。
「……これにします」
"理由を聞いても?"
「持ちやすいので」
先生がうなずく。
ケイは、少し間を置いて付け足した。
「それと、この色が好きです」
口にしてみると、不思議なほど簡単だった。
先生は"いいね"とだけ言った。
アリスは、自分が買うわけでもないのに、嬉しそうにカップを見ていた。
その後のタオル選びは、思いのほか難航した。
同じように見えても、触ると違うのだ。
ふわふわしすぎるもの。
少し硬いもの。
厚いもの。
軽いもの。
ケイは見本の端を指で押し、離し、もう一度押した。
「ケイ」
「何ですか」
「それは、もう四回目です」
「確かめているだけです」
五回目に触ったタオルを、ケイは買うことにした。
◇ ◇ ◇
昼前になって、空の色が変わった。
さっきまで明るかった道に、薄い影がかかる。
先生が鞄から傘を出しかけた、そのときだった。
ぽつ、とケイの手の甲に何かが当たった。
小さな水滴。
ケイは足を止める。
もう一滴。
今度は指の付け根だった。
「雨ですね」
"そこの軒下に入ろう"
三人が店先のひさしの下へ移ると、すぐに雨脚が強くなった。
乾いていた歩道に、濃い色の点が増えていく。
点と点がつながり、やがて道全体の色が変わった。
ケイは、無意識に息を吸った。
匂いが違う。
土なのか、舗装なのか、植え込みの葉なのか。
ひとつだけではない匂いが、冷たい空気と一緒に届く。
店の中から漏れてくる焼き菓子の香りまで、さっきよりはっきりしている気がした。
「……雨が降ると、こんな匂いになるんですね」
アリスが横に並んだ。
「嫌な匂いですか?」
「いいえ」
ケイは、もう一度、浅く息を吸う。
「嫌ではありません。うまく説明できませんが」
雨はひさしを細かく叩いていた。
頭のすぐ上では、ぱたぱたと軽い音がする。
道路に落ちる音はそれより低く、側溝へ流れ込む水は、途切れずにさらさら鳴っている。
一台の車が通り過ぎると、たまった水を踏む音が、近づいて、膨らんで、遠ざかった。
ケイは目を閉じた。
「ケイ?」
アリスの声が、すぐ左から届いた。
「少し、静かにしてください」
「……はい」
珍しく、アリスは何も付け足さなかった。
雨音の向こうで、どこかの扉が開く。
誰かが小走りに駆けていく。
店内で食器が触れ合う。
音を聞くこと自体が、初めてなのではない。
けれど今は、その音のする場所に、自分の足で立っていた。
靴の先に、跳ねた雨がついている。
袖口に触れる空気が冷たい。
隣では、アリスが動かずに待っている。
ケイは目を開けた。
先生も、傘を開かずに持ったままだった。
「……行かないんですか?」
"もう少し、ここにいたそうだったから"
「そんなことは」
言いかけて、ケイはひさしの端を見た。
水滴が集まり、膨らみ、落ちる。
すぐに次の一滴ができる。
ケイは買い物袋を持ち直した。
「……あと少しだけなら」
先生は、黙って傘を鞄へ戻した。
◇ ◇ ◇
雨が弱まるのを待つ間に、三人はその店で昼食を取ることにした。
小さなベーカリーだった。
扉を開けると、ベルが鳴った。
店の温かな空気が頬に触れ、外で冷えていたことに、そこで初めて気づいた。
棚には、何種類ものパンが並んでいる。
丸いもの。
細長いもの。
表面に粉がかかったもの。
チーズが焼けて、端だけ濃い色になっているもの。
ケイはトレーを持ったまま、動かなくなった。
"気になるものはあった?"
「あります」
"どれ?
「……複数」
先生が笑った。
ケイはその顔を見て、少しだけ眉を寄せる。
「先に言っておきますが、食べきれないほど買うつもりはありません」
"うん"
「ただ、食べてみなければ分からないことが多すぎます」
チーズのパンは気になる。
でも、隣のきのこのパンも気になる。
甘いものをひとつ選ぶとしたら、果物ののったものか、それとも、焼き目のついたカスタードか。
ケイは真剣だった。
アリスも真剣に隣の棚を見ている。
ただしこちらは、すでにトレーへいちごのデニッシュをのせていた。
「……朝食を食べたばかりなのに」
ケイが小さく言う。
「匂いを嗅いでいると、また食べたくなります」
「パン屋さんは強敵です」
「そういう意味では、同意します」
結局、ケイはチーズときのこのパンをひとつ、そして小さなレモンタルトを選んだ。
窓際の席へ座る。
店員が温め直してくれたパンは、紙越しでも温かかった。
ひと口かじると、溶けたチーズが少しだけ伸びた。
慌てて切ろうとして、うまくいかない。
「……食べにくいですね」
「でも、おいしそうです」
「食べやすさとおいしさは、別の問題のようです」
きのこには、噛むたびに違う歯応えがあった。
チーズの塩気が強いところもあれば、パンの甘みが戻ってくるところもある。
朝のトーストとも違う。
同じ「パン」という言葉でまとめられているのが、少し雑に思えてきた。
続いて、レモンタルトへフォークを入れる。
表面のクリームは簡単に切れたのに、下の生地は、ほろりと端から崩れた。
ケイは落ちた欠片をきちんと拾ってから、口へ運んだ。
「……っ」
思わず目を細める。
"酸っぱかった?"
「分かっていても、驚くものなんですね」
先生の問いに答えながら、ケイはもうひと口分を切り分けた。
最初は酸っぱい。
すぐに甘くなり、そのあと、舌の上にバターの香りが残る。
今度は紅茶をひと口飲んだ。
温かさが口の中を通り、喉へ落ちる。
もう一度タルトを見ると、先ほどより魅力的に見えた。
ケイは眉間に薄くしわを寄せた。
「……困りました」
"どうしたの?"
「おいしいです」
先生は一瞬、返事に迷った顔をした。
"それは、困ること?"
「ええ。これがおいしいとなると、選ばなかった方も気になります」
アリスが自分のデニッシュを見た。
それから、まだ手をつけていない部分を小さく分ける。
「では、アリスの分もどうぞ」
「あなたが食べたくて買ったのでしょう」
「ケイにも食べてみてほしいです」
差し出された皿を、ケイは見た。
鮮やかないちごの赤。
光っている薄い蜜。
重なった生地の、細かな断面。
ケイは自分のタルトをひと口分切り分け、アリスの皿へ置いた。
「それなら、こちらも」
「交換イベントです!」
「普通に交換と言ってください」
デニッシュは、タルトよりも軽い音を立てた。
いちごは甘いだけではなかった。
生地の欠片が唇について、ケイは紙ナプキンを取る。
その間にも、アリスはレモンタルトを食べ、ケイとよく似た顔で目を細めていた。
「……酸っぱいです」
「だから、その顔になるんですね」
「でも、おいしいです」
「ええ」
二人のやり取りを、先生が笑いながら見ていた。
やがて皿が空になったころ、ケイは窓の外へ目を向けた。
雨はもう、ほとんど止んでいた。
ガラスについていた水滴のひとつが、ゆっくりと下へ滑る。
向こう側の街並みが、その一滴の中で小さく歪んだ。
「次は、何にしようかな」
アリスが棚を見ながらつぶやいた。
「まだ食べるつもりですか?」
「いいえ。次に来たときです」
ケイは少し黙った。
それから、自分も棚を見た。
今日、選ばなかったパンが並んでいる。
「……そうですね」
もう、お腹はいっぱいだった。
それでも、残念な気持ちはさっきより小さかった。
「次に来たときに、決めます」
◇ ◇ ◇
帰り道は、行きとは別の道に見えた。
濡れた舗装に空が映っている。
植え込みの葉先に水滴が残り、風が吹くたび、まとめて落ちる。
ケイは水たまりを避けながら歩いた。
ひとつ、大きなものを越えようとして、歩幅を広げる。
着地した足がわずかに滑り、隣からアリスの手が伸びた。
「大丈夫ですか?」
「……ええ。ありがとうございます」
アリスの手は温かかった。
握られた指に、ちゃんと力がかかっている。
支えられた、ということが、腕から肩まで伝わってきた。
ケイは姿勢を直した。
もう手を離してもよかった。
けれど、アリスがそのまま歩き始めたので、ケイもそのまま歩いた。
「歩きにくくありませんか?」
「ケイは歩きにくいですか?」
「私は……別に」
「では、大丈夫です」
アリスの歩幅は、いつもより少し小さかった。
ケイはそれに気づいたけれど、何も言わなかった。
ゲーム開発部の部室に近づくころには、二人の手は自然と離れていた。
扉の向こうから、声が聞こえる。
「今のは絶対バグだって!」
「お姉ちゃん、それ昨日も言ってた」
「あ、あの……そこ、ジャンプじゃなくて、しゃがむところで……」
ケイは扉の前で止まった。
先生が不思議そうに顔を見る。
ケイは小さく息をついて、扉を開けた。
「帰ってきた瞬間から、ずいぶん賑やかですね」
「あっ、おかえり!」
モモイが真っ先に振り返った。
ミドリが席を立ち、ユズが画面を止める。
「雨、大丈夫だった?」
「濡れなかった?」
「……ほとんど問題ありません。それから、お土産があります」
ケイが袋を持ち上げると、モモイが歓声を上げた。
「パン!」
「食べる前に、机の上を片付けてください」
「はいはい」
「返事は一回で十分です」
袋を開けると、焼いたチーズと砂糖の匂いが部室へ広がった。
ケイは買ったばかりのカップを洗い、ユズの淹れてくれたお茶を受け取った。
薄い黄色の表面が、店で見たときより少し落ち着いた色に見える。
両手で包むと、じわじわ温かくなった。
「あ、そのカップ、かわいい」
「そうでしょうか」
ミドリの言葉に、ケイはカップを少し持ち上げた。
「うん。ケイが選んだの?」
「ええ」
「いいね。部室に置いておいたら?」
ケイは棚を見た。
形も色もばらばらなカップの間に、ひとつ分の隙間があった。
「……使った人が、きちんと洗うなら」
「ケイのなんだから、勝手に使わないよ」
そう言ってミドリが笑う。
ケイはカップを見下ろして、縁へそっと口をつけた。
その後、先生はシャーレへ戻り、ケイはいつの間にかゲームのコントローラーを握らされていた。
「だから、私は買い物の片付けが」
「一回だけ! 一回だけだから!」
モモイの言う「一回だけ」が信用できないことは、すでによく知っている。
それでも、隣にアリスが座ったので、ケイはコントローラーを置かなかった。
画面の中を、二人のキャラクターが走る。
「ケイ、右です!」
「見えています」
「うしろからも来ます!」
「そちらはあなたが対処してください!」
「分かりました!」
ボタンを押す指に力が入る。
振動が手のひらへ伝わる。
勢いよく身を乗り出したせいで、隣のアリスと肩が触れた。
最後の敵が倒れる。
画面に勝利の文字が浮かんだ。
「やりました、ケイ!」
アリスが片手を上げる。
ケイは一瞬だけ迷って、それから自分の手を上げた。
ぱん、と、思ったより大きな音がした。
手のひらが少しだけ痛い。
「……力が強いです」
「す、すみません」
「いえ」
ケイは手を一度握り、開いた。
「もう一回くらいなら、大丈夫です」
「ゲーム? それともハイタッチ?」
モモイが即座に聞いた。
「ゲームに決まっているでしょう!」
笑い声が重なった。
その中に、自分の笑う声も混じっていた。
ケイは少し驚いたが、誰もそれを指摘しなかったので、何も言わず次のステージを選んだ。
◇ ◇ ◇
夕方になると、足が重くなった。
痛いほどではない。
ただ、階段を上がるときに、昼間よりも少しだけ力が必要だった。
寮へ戻ったケイは、買い物袋を机の上へ置き、椅子に座った。
楽しかった。
そのことと、疲れたということは、同時に起こるらしい。
「……忙しい身体ですね」
誰もいない部屋でつぶやく。
ひと息ついてから、ケイは入浴の支度を始めた。
買ってきた石鹸の包みを開ける。
淡い柑橘の香りがした。
店で確かめたときには、こちらの方が好みだった。
ほかのものより少し控えめで、ずっと嗅いでいても邪魔にならない気がしたからだ。
泡立ててみると、香りはまた変わった。
温かい湯と一緒になると、包みを開けたときより柔らかい。
湯船へ入ると、自然に長い息が出た。
「……はぁ」
誰かに聞かれたら、妙な声を出したと思われるだろうか。
けれど、出てしまったものは仕方がない。
足の先に残っていた疲れが、少しずつほどけていく。
手を動かせば湯が揺れ、その揺れが浴槽の縁へ届いて戻ってくる。
ケイは指を開いたり、閉じたりした。
昼間、アリスの手を握っていた指だった。
買い物袋の持ち手の跡は、もう消えている。
ハイタッチの小さな痛みも残っていない。
それでも、どう触れたのかは覚えていた。
湯から上がり、新しいタオルで顔を拭く。
ケイは、そこで動きを止めた。
「…………」
柔らかい。
店で指先に触れたときとは違う。
顔を包まれると、思っていた以上によく分かる。
ケイはタオルを少し離した。
そして、誰も見ていないことを確かめる必要もないのに、なんとなく周りを見てから、もう一度顔を埋めた。
◇ ◇ ◇
夜。
ケイは机に小さなノートを開いていた。
日用品を買ったついでに、文具の棚で選んだものだ。
端末を使えば済む。
記録の検索も、編集も、そちらの方が簡単だ。
それでも、このノートを手に取ったとき、紙の手触りが気になった。
試し書き用の紙へペンを走らせると、指先にわずかな抵抗があった。
それが、悪くなかった。
最初のページへ、ケイは日付を書いた。
その下で、ペンが止まる。
何を書こう。
身体の状態。
食べたもの。
行った場所。
どれも書ける。
けれど、それだけでは、今日のことを書いた気にならなかった。
ケイは少し考えてから、一行目を書いた。
――朝の毛布は、思っていたより出にくい。
二行目。
――パンは、端の方がおいしかった。
そこまで書いて、少し付け足す。
――アリスは真ん中が好きらしい。
読み返していると、扉がノックされた。
「ケイ、まだ起きていますか?」
「起きていますよ」
顔を出したアリスは、もう寝る支度を済ませていた。
「何を書いているんですか?」
「今日のことです」
「冒険の記録ですね」
「買い物に行っただけでしょう」
アリスは机のそばまで来たけれど、勝手にのぞき込もうとはしなかった。
「楽しかったですか?」
ケイはペン先を紙から離した。
朝の光。
温かいパン。
ひさしを叩く雨。
濡れた道に映った空。
誰かと触れた手のひら。
答えるまで、少し時間がかかった。
「……ええ」
アリスが笑った。
ケイはその顔を見て、言葉を付け足す。
「ただ、気になるものが多すぎます。いちいち立ち止まっていたら、一日では足りません」
「では、続きは明日です」
「簡単に言いますね」
「明日もお休みですから」
ケイはノートへ目を戻した。
今日のことは、まだ三行しか書けていない。
残りのページは、ほとんど白いままだった。
「アリス」
「はい」
「明日の朝も、パンにしませんか」
「今日と同じですか?」
「ええ。今日と同じものを」
まだ食べたことのないものは、たくさんある。
知らない味も、知らない香りも、きっと数えきれない。
それでもケイは、明日の朝、もう一度あのパンを食べたかった。
温かいうちにバターを塗って、端からかじる。
隣ではアリスが、いちごジャムの瓶を開けている。
その光景は、簡単に思い浮かべられた。
「分かりました。アリスも、同じパンがいいです」
「それと、焼く係はモモイ以外で」
「難易度が下がりました」
「そもそも朝食に難易度を設定しないでください」
アリスが笑う。
ケイも、少しだけ口元を緩めた。
「それでは、おやすみなさい、ケイ」
「ええ。おやすみなさい」
扉が閉まる。
廊下を歩いていく足音が、だんだん遠くなる。
ケイはその音が聞こえなくなるまで待ってから、ノートへもう一行を書いた。
――明日の朝も、同じパンを食べる。
それで今日は、ひとまず十分な気がした。
ペンを置いて、灯りを消す。
ベッドに入ると、毛布は朝ほど温かくなかった。
けれど、しばらくすれば温まることを、ケイはもう知っていた。
手を頬の近くへ持ってくる。
石鹸の香りが、ほんの少しだけ残っていた。
目を閉じる。
眠ってしまえば、この一日は終わる。
さっきまではそれが、少し惜しいような気もしていた。
今は、明日の朝が待ち遠しかった。
まぶしい、と目を細めて。
毛布から出るのを、ほんの少し渋って。
扉の向こうから近づいてくる足音を聞く。
きっと、そんな朝になる。
ケイは毛布の中で、静かに寝返りを打った。
明日のパンには。
今日より少し、バターを多く塗ってみよう。