夢のつづきに朝が来る   作:桂木ヤコ

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1.なんでも無い日を、はじめて

 

 人の身体というものは、どうにも手がかかる。

 

 眠らなければならないし、食事も必要になる。

 

 髪は寝ている間にも勝手に絡まり、少し歩けば靴下がずれ、適当に服を着れば縫い目が気になる。

 

 そして、何より。

 

「……起きたくありません」

 

 ミレニアムの学生寮。

 

 天童ケイは、自分で口にした言葉に少なからず驚いていた。

 

 意識はもう、十分にはっきりしている。

 

 時計も確認した。

 

 今日は休日で、朝食まではまだ少し時間がある。今起きて身支度を済ませれば、余裕をもって約束の場所へ向かえるだろう。

 

 そこまでは理解している。

 

 それなのに、毛布から腕を出す気になれない。

 

 肩までかかっている布は軽く、内側には自分の体温が残っている。

 

 足を少し動かすと、まだ温まっていない場所に触れた。

 

 そのひんやりした感触が一瞬だけ心地よくて、けれどすぐに、元いた温かな場所へ戻したくなる。

 

 ケイは毛布の端を指でつまんだ。

 

 柔らかい。

 

 昨夜も柔らかかったはずなのに、今朝は昨夜より、ずっと手放しがたい。

 

「……これは」

 

 以前、モモイが起床を渋っていたときには、もっと早く寝れば済む話だと思っていた。

 

 その認識には、修正が必要かもしれない。

 

 ただし本人には絶対に言わない。

 

 そんなことを考えていると、扉の向こうから軽い足音が聞こえてきた。

 

 ととと、と近づいて、一度止まる。

 

 それから、控えめに二回のノック。

 

「ケイ。起きていますか?」

 

 アリスだった。

 

「起きています」

 

「入ってもいいですか?」

 

「どうぞ」

 

 扉が開く。

 

 アリスはベッドの上を見て、それから机の時計を見て、もう一度ケイを見た。

 

「ケイも、おふとんに捕まってしまったんですね」

 

「人聞きの悪いことを言わないでください。起きる前に、少し考え事をしていただけです」

 

「なるほど。おふとんの中で作戦会議です」

 

「……そういうことで構いません」

 

 アリスは大真面目にうなずくと、窓辺まで歩いてカーテンを開けた。

 

 朝の光が差し込む。

 

 ケイは反射的に目を細めた。

 

 明るい、ということは知っている。

 

 まぶしい、という言葉の意味も知っていた。

 

 けれど、まぶしさに自分のまぶたが勝手に動くのは、いまだに少し不思議だった。

 

 光はカーテンの縁を透かし、机の上のコップを通り抜け、床に薄い模様を作っていた。

 

 宙に浮かぶ小さな埃まで、いちいちよく見える。

 

 掃除が必要だ、と思う。

 

 その一方で、もう少し眺めていたい、とも思った。

 

「今日はいいお天気です」

 

「見れば分かります」

 

「はい。ケイも見てください」

 

 アリスが笑う。

 

 ケイは言い返しかけて、やめた。

 

 毛布を押しのけ、床に足を下ろす。

 

 足の裏に触れた冷たさに、思わず背筋が伸びた。

 

「……床まで、私を起こそうとしなくてもいいでしょうに」

 

 アリスが小さく笑った。

 

 ケイはその声を聞きながら、もう一度だけ、朝日の落ちている場所を見た。

 

◇ ◇ ◇

 

 寮の談話室には、すでに三人が集まっていた。

 

 ミドリが皿を並べ、ユズが人数分の飲み物を用意し、モモイがトースターを見張っている。

 

 見張っている、はずだった。

 

「あっ」

 

 モモイの短い声とともに、こんがりという表現では少し足りないパンが跳ね上がった。

 

「……お姉ちゃん」

 

「まだ大丈夫! このくらいなら、ほら、香ばしいって言える範囲だよ!」

 

「その判断を食べる側に押しつけないでください」

 

 ケイが言うと、モモイは振り返った。

 

「おはよう、ケイ!」

 

「おはようございます。挨拶でごまかせると思いましたか?」

 

「思ってないよ。ちょっとしか」

 

 ミドリが苦笑しながら、焦げた二枚を別の皿へ移す。

 

「それは私とお姉ちゃんで食べるから。ケイのは、次に焼くね」

 

「少し焦げた部分を落とせばいいでしょう。私も食べます」

 

「え、いいの?」

 

「わざわざ騒ぐほどのことではありません」

 

 そう言って椅子を引いたところで、ケイは手を止めた。

 

 パンの匂いがした。

 

 焼けた小麦の匂い。

 

 少し強すぎる焦げの匂い。

 

 そこに、ミドリが開けたバターの包みから、柔らかな香りが重なった。

 

 朝食は必要だから食べる。

 

 そう思ってここへ来たはずなのに、今は、必要かどうかなど関係なく食べたかった。

 

 ケイは自分の腹に視線を落とした。

 

 困ったことに、腹の方でも小さく返事をした。

 

 モモイが口を開くより早く、ケイは言った。

 

「何も聞こえていませんね?」

 

「まだ何も言ってないじゃん!」

 

 アリスが隣に座り、いちごジャムの瓶を持ち上げた。

 

「ケイにも、これをおすすめします。甘くておいしいです」

 

「まずはバターだけで食べてみます」

 

「分かりました。ジャムは待機してもらいます」

 

 待機、という言葉とともに、瓶が二人の間へ置かれた。

 

 ケイはまだ温かいパンにバターをのせる。

 

 四角かった塊の角が崩れ、表面をつやつやと濡らしていった。

 

 ひと口、かじる。

 

 軽い音がした。

 

 外側は薄く硬く、内側は思ったより柔らかい。

 

 噛むと、バターの塩気が広がった。

 

 少し遅れて、小麦の甘みが追いかけてくる。

 

 焦げたところは苦い。

 

 けれど、そのすぐ隣の、バターが多く染みたところはおいしかった。

 

「…………」

 

「ケイ、どうですか?」

 

 アリスが顔をのぞき込んでくる。

 

 ケイは飲み込んでから答えた。

 

「……もう少し、焼き時間は短い方がいいと思います」

 

「そっかぁ」

 

「ですが」

 

 パンの端をもう一度かじる。

 

「この、端の方は嫌いではありません」

 

 モモイがぱっと顔を明るくした。

 

「でしょ!」

 

「あなたの失敗を全面的に肯定したわけではありませんよ」

 

 隣でアリスも、同じようにパンの耳をかじっていた。

 

「アリスは、真ん中の柔らかいところが好きです」

 

「そうですか」

 

「ケイとは違いますね」

 

「……ええ」

 

 ケイは、自分の手にあるパンを見た。

 

 同じ皿から取ったものを、同じテーブルで食べている。

 

 それでも、先に食べたい場所が違う。

 

 ケイは皿の向きを変えて、まだ残っている角を自分の方へ向けた。

 

「ジャムも、少しだけもらえますか」

 

「はい!」

 

 アリスが待機中の瓶を、嬉しそうに前へ押し出した。

 

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◇ ◇ ◇

 

 午前中。

 

 ミレニアムを訪れた先生は、ケイとアリスの買い物に付き合うことになった。

 

 買うものは、ごく普通の日用品だった。

 

 タオル。

 

 石鹸。

 

 それから、ケイが自分で使うためのマグカップ。

 

「借りたものでも、用は足りていたのですが」

 

 店の棚を見上げながら、ケイは言った。

 

「いつまでも借りているのも落ち着きませんから」

 

「自分のものを選ぶのも楽しいよ」

 

「選択肢が多すぎるのは、必ずしも楽しいことではありません」

 

 そう言いながら、ケイはすでに三つ目のマグカップを手に取っていた。

 

 白いもの。

 

 青いもの。

 

 持ち手が少し大きいもの。

 

 写真で見たときには、どれもそれほど違わなかった。

 

 けれど、実際に持つと違う。

 

 指の収まり方が違う。

 

 重さが違う。

 

 表面がつるつるしたものもあれば、指先にかすかなざらつきが残るものもある。

 

 ケイは薄い黄色のカップを手に取った。

 

 黄色、というよりは、少しだけ牛乳を混ぜたような色だった。

 

 棚の奥では地味に見えたのに、通路側へ出すと、縁がやわらかく明るくなった。

 

 ケイは、もう一度棚へ戻す。

 

 そして、また光の下へ持ってくる。

 

「……同じ色なのに」

 

"場所で見え方が変わるね"

 

 先生の言葉に、ケイはうなずかなかった。

 

 そんなことは知っている、とも言わなかった。

 

 代わりに、カップを少し傾ける。

 

 今度は持ち手の内側に、小さな影ができた。

 

「それにしますか?」

 

 アリスに聞かれて、ケイは一度、ほかの棚へ目を向けた。

 

 もっと軽いものもある。

 

 安いものもある。

 

 容量の大きいものもある。

 

 それでも、手に持ったカップを戻す気にはならなかった。

 

「……これにします」

 

"理由を聞いても?"

 

「持ちやすいので」

 

 先生がうなずく。

 

 ケイは、少し間を置いて付け足した。

 

「それと、この色が好きです」

 

 口にしてみると、不思議なほど簡単だった。

 

 先生は"いいね"とだけ言った。

 

 アリスは、自分が買うわけでもないのに、嬉しそうにカップを見ていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 その後のタオル選びは、思いのほか難航した。

 

 同じように見えても、触ると違うのだ。

 

 ふわふわしすぎるもの。

 

 少し硬いもの。

 

 厚いもの。

 

 軽いもの。

 

 ケイは見本の端を指で押し、離し、もう一度押した。

 

「ケイ」

 

「何ですか」

 

「それは、もう四回目です」

 

「確かめているだけです」

 

 五回目に触ったタオルを、ケイは買うことにした。

 

◇ ◇ ◇

 

 昼前になって、空の色が変わった。

 

 さっきまで明るかった道に、薄い影がかかる。

 

 先生が鞄から傘を出しかけた、そのときだった。

 

 ぽつ、とケイの手の甲に何かが当たった。

 

 小さな水滴。

 

 ケイは足を止める。

 

 もう一滴。

 

 今度は指の付け根だった。

 

「雨ですね」

 

"そこの軒下に入ろう"

 

 三人が店先のひさしの下へ移ると、すぐに雨脚が強くなった。

 

 乾いていた歩道に、濃い色の点が増えていく。

 

 点と点がつながり、やがて道全体の色が変わった。

 

 ケイは、無意識に息を吸った。

 

 匂いが違う。

 

 土なのか、舗装なのか、植え込みの葉なのか。

 

 ひとつだけではない匂いが、冷たい空気と一緒に届く。

 

 店の中から漏れてくる焼き菓子の香りまで、さっきよりはっきりしている気がした。

 

「……雨が降ると、こんな匂いになるんですね」

 

 アリスが横に並んだ。

 

「嫌な匂いですか?」

 

「いいえ」

 

 ケイは、もう一度、浅く息を吸う。

 

「嫌ではありません。うまく説明できませんが」

 

 雨はひさしを細かく叩いていた。

 

 頭のすぐ上では、ぱたぱたと軽い音がする。

 

 道路に落ちる音はそれより低く、側溝へ流れ込む水は、途切れずにさらさら鳴っている。

 

 一台の車が通り過ぎると、たまった水を踏む音が、近づいて、膨らんで、遠ざかった。

 

 ケイは目を閉じた。

 

「ケイ?」

 

 アリスの声が、すぐ左から届いた。

 

「少し、静かにしてください」

 

「……はい」

 

 珍しく、アリスは何も付け足さなかった。

 

 雨音の向こうで、どこかの扉が開く。

 

 誰かが小走りに駆けていく。

 

 店内で食器が触れ合う。

 

 音を聞くこと自体が、初めてなのではない。

 

 けれど今は、その音のする場所に、自分の足で立っていた。

 

 靴の先に、跳ねた雨がついている。

 

 袖口に触れる空気が冷たい。

 

 隣では、アリスが動かずに待っている。

 

 ケイは目を開けた。

 

 先生も、傘を開かずに持ったままだった。

 

「……行かないんですか?」

 

"もう少し、ここにいたそうだったから"

 

「そんなことは」

 

 言いかけて、ケイはひさしの端を見た。

 

 水滴が集まり、膨らみ、落ちる。

 

 すぐに次の一滴ができる。

 

 ケイは買い物袋を持ち直した。

 

「……あと少しだけなら」

 

 先生は、黙って傘を鞄へ戻した。

 

◇ ◇ ◇

 

 雨が弱まるのを待つ間に、三人はその店で昼食を取ることにした。

 

 小さなベーカリーだった。

 

 扉を開けると、ベルが鳴った。

 

 店の温かな空気が頬に触れ、外で冷えていたことに、そこで初めて気づいた。

 

 棚には、何種類ものパンが並んでいる。

 

 丸いもの。

 

 細長いもの。

 

 表面に粉がかかったもの。

 

 チーズが焼けて、端だけ濃い色になっているもの。

 

 ケイはトレーを持ったまま、動かなくなった。

 

"気になるものはあった?"

 

「あります」

 

"どれ?

 

「……複数」

 

 先生が笑った。

 

 ケイはその顔を見て、少しだけ眉を寄せる。

 

「先に言っておきますが、食べきれないほど買うつもりはありません」

 

"うん"

 

「ただ、食べてみなければ分からないことが多すぎます」

 

 チーズのパンは気になる。

 

 でも、隣のきのこのパンも気になる。

 

 甘いものをひとつ選ぶとしたら、果物ののったものか、それとも、焼き目のついたカスタードか。

 

 ケイは真剣だった。

 

 アリスも真剣に隣の棚を見ている。

 

 ただしこちらは、すでにトレーへいちごのデニッシュをのせていた。

 

「……朝食を食べたばかりなのに」

 

 ケイが小さく言う。

 

「匂いを嗅いでいると、また食べたくなります」

 

「パン屋さんは強敵です」

 

「そういう意味では、同意します」

 

 結局、ケイはチーズときのこのパンをひとつ、そして小さなレモンタルトを選んだ。

 

 窓際の席へ座る。

 

 店員が温め直してくれたパンは、紙越しでも温かかった。

 

 ひと口かじると、溶けたチーズが少しだけ伸びた。

 

 慌てて切ろうとして、うまくいかない。

 

「……食べにくいですね」

 

「でも、おいしそうです」

 

「食べやすさとおいしさは、別の問題のようです」

 

 きのこには、噛むたびに違う歯応えがあった。

 

 チーズの塩気が強いところもあれば、パンの甘みが戻ってくるところもある。

 

 朝のトーストとも違う。

 

 同じ「パン」という言葉でまとめられているのが、少し雑に思えてきた。

 

 続いて、レモンタルトへフォークを入れる。

 

 表面のクリームは簡単に切れたのに、下の生地は、ほろりと端から崩れた。

 

 ケイは落ちた欠片をきちんと拾ってから、口へ運んだ。

 

「……っ」

 

 思わず目を細める。

 

"酸っぱかった?"

 

「分かっていても、驚くものなんですね」

 

 先生の問いに答えながら、ケイはもうひと口分を切り分けた。

 

 最初は酸っぱい。

 

 すぐに甘くなり、そのあと、舌の上にバターの香りが残る。

 

 今度は紅茶をひと口飲んだ。

 

 温かさが口の中を通り、喉へ落ちる。

 

 もう一度タルトを見ると、先ほどより魅力的に見えた。

 

 ケイは眉間に薄くしわを寄せた。

 

「……困りました」

 

"どうしたの?"

 

「おいしいです」

 

 先生は一瞬、返事に迷った顔をした。

 

"それは、困ること?"

 

「ええ。これがおいしいとなると、選ばなかった方も気になります」

 

 アリスが自分のデニッシュを見た。

 

 それから、まだ手をつけていない部分を小さく分ける。

 

「では、アリスの分もどうぞ」

 

「あなたが食べたくて買ったのでしょう」

 

「ケイにも食べてみてほしいです」

 

 差し出された皿を、ケイは見た。

 

 鮮やかないちごの赤。

 

 光っている薄い蜜。

 

 重なった生地の、細かな断面。

 

 ケイは自分のタルトをひと口分切り分け、アリスの皿へ置いた。

 

「それなら、こちらも」

 

「交換イベントです!」

 

「普通に交換と言ってください」

 

【挿絵表示】

 

 

 デニッシュは、タルトよりも軽い音を立てた。

 

 いちごは甘いだけではなかった。

 

 生地の欠片が唇について、ケイは紙ナプキンを取る。

 

 その間にも、アリスはレモンタルトを食べ、ケイとよく似た顔で目を細めていた。

 

「……酸っぱいです」

 

「だから、その顔になるんですね」

 

「でも、おいしいです」

 

「ええ」

 

 二人のやり取りを、先生が笑いながら見ていた。

 

 やがて皿が空になったころ、ケイは窓の外へ目を向けた。

 

 雨はもう、ほとんど止んでいた。

 

 ガラスについていた水滴のひとつが、ゆっくりと下へ滑る。

 

 向こう側の街並みが、その一滴の中で小さく歪んだ。

 

「次は、何にしようかな」

 

 アリスが棚を見ながらつぶやいた。

 

「まだ食べるつもりですか?」

 

「いいえ。次に来たときです」

 

 ケイは少し黙った。

 

 それから、自分も棚を見た。

 

 今日、選ばなかったパンが並んでいる。

 

「……そうですね」

 

 もう、お腹はいっぱいだった。

 

 それでも、残念な気持ちはさっきより小さかった。

 

「次に来たときに、決めます」

 

◇ ◇ ◇

 

 帰り道は、行きとは別の道に見えた。

 

 濡れた舗装に空が映っている。

 

 植え込みの葉先に水滴が残り、風が吹くたび、まとめて落ちる。

 

 ケイは水たまりを避けながら歩いた。

 

 ひとつ、大きなものを越えようとして、歩幅を広げる。

 

 着地した足がわずかに滑り、隣からアリスの手が伸びた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「……ええ。ありがとうございます」

 

 アリスの手は温かかった。

 

 握られた指に、ちゃんと力がかかっている。

 

 支えられた、ということが、腕から肩まで伝わってきた。

 

 ケイは姿勢を直した。

 

 もう手を離してもよかった。

 

 けれど、アリスがそのまま歩き始めたので、ケイもそのまま歩いた。

 

「歩きにくくありませんか?」

 

「ケイは歩きにくいですか?」

 

「私は……別に」

 

「では、大丈夫です」

 

 アリスの歩幅は、いつもより少し小さかった。

 

 ケイはそれに気づいたけれど、何も言わなかった。

 

 ゲーム開発部の部室に近づくころには、二人の手は自然と離れていた。

 

 扉の向こうから、声が聞こえる。

 

「今のは絶対バグだって!」

 

「お姉ちゃん、それ昨日も言ってた」

 

「あ、あの……そこ、ジャンプじゃなくて、しゃがむところで……」

 

 ケイは扉の前で止まった。

 

 先生が不思議そうに顔を見る。

 

 ケイは小さく息をついて、扉を開けた。

 

「帰ってきた瞬間から、ずいぶん賑やかですね」

 

「あっ、おかえり!」

 

 モモイが真っ先に振り返った。

 

 ミドリが席を立ち、ユズが画面を止める。

 

「雨、大丈夫だった?」

 

「濡れなかった?」

 

「……ほとんど問題ありません。それから、お土産があります」

 

 ケイが袋を持ち上げると、モモイが歓声を上げた。

 

「パン!」

 

「食べる前に、机の上を片付けてください」

 

「はいはい」

 

「返事は一回で十分です」

 

 袋を開けると、焼いたチーズと砂糖の匂いが部室へ広がった。

 

 ケイは買ったばかりのカップを洗い、ユズの淹れてくれたお茶を受け取った。

 

 薄い黄色の表面が、店で見たときより少し落ち着いた色に見える。

 

 両手で包むと、じわじわ温かくなった。

 

「あ、そのカップ、かわいい」

 

「そうでしょうか」

 

 ミドリの言葉に、ケイはカップを少し持ち上げた。

 

「うん。ケイが選んだの?」

 

「ええ」

 

「いいね。部室に置いておいたら?」

 

 ケイは棚を見た。

 

 形も色もばらばらなカップの間に、ひとつ分の隙間があった。

 

「……使った人が、きちんと洗うなら」

 

「ケイのなんだから、勝手に使わないよ」

 

 そう言ってミドリが笑う。

 

 ケイはカップを見下ろして、縁へそっと口をつけた。

 

 その後、先生はシャーレへ戻り、ケイはいつの間にかゲームのコントローラーを握らされていた。

 

「だから、私は買い物の片付けが」

 

「一回だけ! 一回だけだから!」

 

 モモイの言う「一回だけ」が信用できないことは、すでによく知っている。

 

 それでも、隣にアリスが座ったので、ケイはコントローラーを置かなかった。

 

 画面の中を、二人のキャラクターが走る。

 

「ケイ、右です!」

 

「見えています」

 

「うしろからも来ます!」

 

「そちらはあなたが対処してください!」

 

「分かりました!」

 

 ボタンを押す指に力が入る。

 

 振動が手のひらへ伝わる。

 

 勢いよく身を乗り出したせいで、隣のアリスと肩が触れた。

 

 最後の敵が倒れる。

 

 画面に勝利の文字が浮かんだ。

 

「やりました、ケイ!」

 

 アリスが片手を上げる。

 

 ケイは一瞬だけ迷って、それから自分の手を上げた。

 

 ぱん、と、思ったより大きな音がした。

 

 手のひらが少しだけ痛い。

 

「……力が強いです」

 

「す、すみません」

 

「いえ」

 

 ケイは手を一度握り、開いた。

 

「もう一回くらいなら、大丈夫です」

 

「ゲーム? それともハイタッチ?」

 

 モモイが即座に聞いた。

 

「ゲームに決まっているでしょう!」

 

 笑い声が重なった。

 

 その中に、自分の笑う声も混じっていた。

 

 ケイは少し驚いたが、誰もそれを指摘しなかったので、何も言わず次のステージを選んだ。

 

 

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◇ ◇ ◇

 

 夕方になると、足が重くなった。

 

 痛いほどではない。

 

 ただ、階段を上がるときに、昼間よりも少しだけ力が必要だった。

 

 寮へ戻ったケイは、買い物袋を机の上へ置き、椅子に座った。

 

 楽しかった。

 

 そのことと、疲れたということは、同時に起こるらしい。

 

「……忙しい身体ですね」

 

 誰もいない部屋でつぶやく。

 

 ひと息ついてから、ケイは入浴の支度を始めた。

 

 買ってきた石鹸の包みを開ける。

 

 淡い柑橘の香りがした。

 

 店で確かめたときには、こちらの方が好みだった。

 

 ほかのものより少し控えめで、ずっと嗅いでいても邪魔にならない気がしたからだ。

 

 泡立ててみると、香りはまた変わった。

 

 温かい湯と一緒になると、包みを開けたときより柔らかい。

 

 湯船へ入ると、自然に長い息が出た。

 

「……はぁ」

 

 誰かに聞かれたら、妙な声を出したと思われるだろうか。

 

 けれど、出てしまったものは仕方がない。

 

 足の先に残っていた疲れが、少しずつほどけていく。

 

 手を動かせば湯が揺れ、その揺れが浴槽の縁へ届いて戻ってくる。

 

 ケイは指を開いたり、閉じたりした。

 

 昼間、アリスの手を握っていた指だった。

 

 買い物袋の持ち手の跡は、もう消えている。

 

 ハイタッチの小さな痛みも残っていない。

 

 それでも、どう触れたのかは覚えていた。

 

 湯から上がり、新しいタオルで顔を拭く。

 

 ケイは、そこで動きを止めた。

 

「…………」

 

 柔らかい。

 

 店で指先に触れたときとは違う。

 

 顔を包まれると、思っていた以上によく分かる。

 

 ケイはタオルを少し離した。

 

 そして、誰も見ていないことを確かめる必要もないのに、なんとなく周りを見てから、もう一度顔を埋めた。

 

◇ ◇ ◇

 

 夜。

 

 ケイは机に小さなノートを開いていた。

 

 日用品を買ったついでに、文具の棚で選んだものだ。

 

 端末を使えば済む。

 

 記録の検索も、編集も、そちらの方が簡単だ。

 

 それでも、このノートを手に取ったとき、紙の手触りが気になった。

 

 試し書き用の紙へペンを走らせると、指先にわずかな抵抗があった。

 

 それが、悪くなかった。

 

 最初のページへ、ケイは日付を書いた。

 

 その下で、ペンが止まる。

 

 何を書こう。

 

 身体の状態。

 

 食べたもの。

 

 行った場所。

 

 どれも書ける。

 

 けれど、それだけでは、今日のことを書いた気にならなかった。

 

 ケイは少し考えてから、一行目を書いた。

 

 ――朝の毛布は、思っていたより出にくい。

 

 二行目。

 

 ――パンは、端の方がおいしかった。

 

 そこまで書いて、少し付け足す。

 

 ――アリスは真ん中が好きらしい。

 

 読み返していると、扉がノックされた。

 

「ケイ、まだ起きていますか?」

 

「起きていますよ」

 

 顔を出したアリスは、もう寝る支度を済ませていた。

 

「何を書いているんですか?」

 

「今日のことです」

 

「冒険の記録ですね」

 

「買い物に行っただけでしょう」

 

 アリスは机のそばまで来たけれど、勝手にのぞき込もうとはしなかった。

 

「楽しかったですか?」

 

 ケイはペン先を紙から離した。

 

 朝の光。

 

 温かいパン。

 

 ひさしを叩く雨。

 

 濡れた道に映った空。

 

 誰かと触れた手のひら。

 

 答えるまで、少し時間がかかった。

 

「……ええ」

 

 アリスが笑った。

 

 ケイはその顔を見て、言葉を付け足す。

 

「ただ、気になるものが多すぎます。いちいち立ち止まっていたら、一日では足りません」

 

「では、続きは明日です」

 

「簡単に言いますね」

 

「明日もお休みですから」

 

 ケイはノートへ目を戻した。

 

 今日のことは、まだ三行しか書けていない。

 

 残りのページは、ほとんど白いままだった。

 

「アリス」

 

「はい」

 

「明日の朝も、パンにしませんか」

 

「今日と同じですか?」

 

「ええ。今日と同じものを」

 

 まだ食べたことのないものは、たくさんある。

 

 知らない味も、知らない香りも、きっと数えきれない。

 

 それでもケイは、明日の朝、もう一度あのパンを食べたかった。

 

 温かいうちにバターを塗って、端からかじる。

 

 隣ではアリスが、いちごジャムの瓶を開けている。

 

 その光景は、簡単に思い浮かべられた。

 

「分かりました。アリスも、同じパンがいいです」

 

「それと、焼く係はモモイ以外で」

 

「難易度が下がりました」

 

「そもそも朝食に難易度を設定しないでください」

 

 アリスが笑う。

 

 ケイも、少しだけ口元を緩めた。

 

「それでは、おやすみなさい、ケイ」

 

「ええ。おやすみなさい」

 

 扉が閉まる。

 

 廊下を歩いていく足音が、だんだん遠くなる。

 

 ケイはその音が聞こえなくなるまで待ってから、ノートへもう一行を書いた。

 

 ――明日の朝も、同じパンを食べる。

 

 それで今日は、ひとまず十分な気がした。

 

 ペンを置いて、灯りを消す。

 

 ベッドに入ると、毛布は朝ほど温かくなかった。

 

 けれど、しばらくすれば温まることを、ケイはもう知っていた。

 

 手を頬の近くへ持ってくる。

 

 石鹸の香りが、ほんの少しだけ残っていた。

 

 目を閉じる。

 

 眠ってしまえば、この一日は終わる。

 

 さっきまではそれが、少し惜しいような気もしていた。

 

 今は、明日の朝が待ち遠しかった。

 

 まぶしい、と目を細めて。

 

 毛布から出るのを、ほんの少し渋って。

 

 扉の向こうから近づいてくる足音を聞く。

 

 きっと、そんな朝になる。

 

 ケイは毛布の中で、静かに寝返りを打った。

 

 明日のパンには。

 

 今日より少し、バターを多く塗ってみよう。

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